ということで、文化祭だ。
一日目が始まる前からまぁ大変だった。
白いシャツに黒いベストと蝶ネクタイ、そこにスラックスというバーテン服を身にまとい、いつもは自然に流されているだけの髪をオールバックにきっちりとまとめた翔が現れた途端、教室が揺れるほどの悲鳴と歓声が上がった。
そこからはクラス内で撮影会だ。恐怖を感じるほどの女子たちの熱量に、笑顔でこたえられる翔は本当にすごい。
盛り上がるバーテン組の陽キャ男子と、女子たちから完全に蚊帳の外に出された俺たち地味メンは、粛々と開店準備をすすめた。
そのおかげか、開店直後は割とスムーズだったと思う。
それでもすぐに「ヤバいぞ」という噂が回ったんだろう。
一日目は一般公開がないから客は在校生だけのはずなのに、気が付けば待ち時間が1時間を超える事態に。用意したドリンクの在庫が早々に底をつきかけ、裏方の俺たちは近所のスーパーへ走った。
どうしてそんなことになったのかというと、とにかくリピート客が多かったのだ。
店内の安全と、翔の写真が流出するのをなるべく防ぐために、ダーツで高い得点をとれば翔と一緒に写真が撮れるが、他では一切撮影禁止というルールにしたのだが、そのせいでダーツに何度も挑戦する女子が続出。行列は絶えることがなく、一ゲーム一ドリンク制だから裏方も大忙し。
教室内には隠し撮りを阻止せんとするクラスの女子たちの怒声と、ゲームであと一点足りなかった女子の泣き叫ぶ声が響き渡り、これぞ阿鼻叫喚。
もうドリンクなんて誰も求めてない。ってか、何回も来てる子たちは飲みすぎでもうお腹ちゃぷちゃぷなんじゃないだろうか。
でも、ここは学生主体のホワイト運営。ちゃんと翔のシフトは決められている。
「諏訪野くんのシフト交代まであと5分です! 今並んでも諏訪野くんと写真は撮れません!!」
限定商品の行列に並んだ時みたいな掛け声だが効果は抜群で、行列は一気に捌けた。
なんというか、他のバーテン役の人たちがちょっと気の毒だが、世の中は世知辛いものだ。
「明希、おつかれ! 待たせてごめん」
「翔こそ、おつかれ」
翔の今日のシフトはもう終わりだということで、黒いベストと蝶ネクタイをとり、シャツとスラックスだけになったが、それでも十分色気たっぷりだ。
この後は少し休憩時間をとってから、今度は部活の方の売り子をしに行くらしい。俺はまたクラスの裏方だ。
明日も今日と同じシフト構成ではあるが、この調子では明日はもっと大変だろう。
そう思って一日目にあらかた見たいところは回っておいてよかった。
二日目、クラスの状況は一日目とさほど変わらず。前日の反省を生かしてドリンクを多めに用意しておいたし、混乱はほとんどなかった。教室は相変わらず阿鼻叫喚だったけど。
シフト交代もスムーズで、ほぼ予定通り翔と二人で休憩に入れたのだが、そこで捕まった。
学校の女子たちは暗黙のルールというか不可侵協定とでもいうのか、用事がない限り翔に自分から声をかけに行くことはない。
でも外部の子たちは違う。教室を出るなりあっという間に翔は囲まれてしまった。
「きゃーっ、近くで見てもめっちゃかっこいいんだけど~!」
「私たち隣の女子高から来てて~。 案内してほしぃなぁ」
「え~~私たちと回ろうよ~!」
「ちょっと! 抜け駆けしないでよ!」
一気にファンに囲まれるアイドルってこういう感じか。なんて早々に輪からはじき出された俺は暢気に感想を挟んでしまったが、翔はあからさまに困った顔をしている。「友達と回るから」と断っているが、女の子たちが諦める様子はない。
さすがにここで翔を売り渡すのは友人としてはいただけない。それに、翔は俺と一緒に回りたいと言ってくれていたのだ。
正直なところ、別に俺と回る必要なんてないのでは、とまだ思ってはいる。ここにいる女の子たちと回った方が楽しいんじゃないか、とも。
でも、翔は俺と一緒に回るのを楽しみにしていると言ってくれた。
それを、俺は嬉しいと思った。
だから俺は声を上げる。
「翔! 行くぞ!」
自分でも想定以上に大きく響いた声は周囲の時間を一瞬止めるには有効だった。
その隙にまるでお姫様をさらう悪役のように俺は翔の手を引き、その場を脱する。
連れ去るのに必死で目的地なんて持たないまま、とにかく人が少ない方を目指して歩いていく。
ようやく人がほとんどいないところまできて足を止めると、俺は大きく息を吐きだした。
俺は基本的に目立ちたくないし、注目を浴びるなんてもってのほかだ。もめ事を起こすことなく、地味に平穏に過ごしたい。
これまでそういうふうに生きてきた。
だから人前で大きな声を上げるなんてことは初めてで、慣れないことをしたせいで心臓がバクバクしている。おまけに、必死に歩いてきたからか冷や汗なのか、とにかく汗だくだ。
「明希……」
そこでようやく翔の手首を掴んだままだったことに気が付いた。その手が汗でびちょびちょなことも。
「わ、悪い」
慌てて手を離す。それなのに翔は俺のびちょびちょな手を握り返した。
「なっ、」
「明希、ありがとね」
「べ、別に礼を言われるようなことはしてないけど、えっと、手が…」
「いや、本当に助かったし」
「女子は集団になると怖いよなぁ」
あはは、と笑いながらその場のなぜか生暖かいような、甘ったるいような空気を吹き飛ばすように握られた手を上下に振る。
前に俺の家に来た時もそうだったけど、なぜわざわざ俺が汗だくのタイミングで触れてくるのか。いや、汗だくでなければいいというわけでもないけれど。
「しょ、翔、手を……」
「ん? あぁごめんね」
その軽い謝罪が口先だけである証拠に、翔は手を放そうとしない。
それどころか、ついには両手で俺の手を包んだ。
「それに、嬉しかった。あんなふうに連れ出してくれると思わなかったから」
最近翔から度々感じるようになったはちみつのような甘さ。しかも他には類をみないほど極上の。
そんなものを差し出されたら、甘いものを食べ慣れない俺はいとも簡単にとろりと脳内を溶かされてしまう。
何か言わないと、そう思うのに、意味もなくはくはくと空気を吐き出すことしかできなかった。
「明希、俺は……」
「はいストーップ!」
そんな甘い空気と俺の手を握る翔の手を叩き落としたのは、孝太郎の手刀だった。
その後ろでのんちゃんがむふふっと、口に手を当てながらもこらえきれない笑いを漏らしている。
「ど、どこから見て……」
「王子様奪還のとこからよ~」
最初からじゃねーか。頭を抱える俺に、舌打ちをする孝太郎……あれ? 今、舌打ちしたのは孝太郎だよな?
聞こえてきた位置が違ったように感じて顔を上げると、不機嫌そうな孝太郎と、いつもの笑顔の翔。
うん、孝太郎だな。
「学校では話しかけたらダメなんじゃなかった?」
「俺はチカンに無理やり手を握られてるクラスメイトを助けだけですぅ」
「チカンとは聞き捨てならないな。合意のもとだし。ね、明希?」
「性犯罪者は大抵そう言うんだよねぇ」
合意はしてないが、チカンもされてない。何なんだろうか、この無駄なやり取りは。
でも、あのなんとも言えない空気に困っていたのは確かだ。
汗は止まったけど、まだ少しだけ心臓は早く動いている気がする。
だから、ここは素直に孝太郎に感謝かな。
翔がさっき何を言いかけたのか。それだけは少し、気になったけれど。
一日目が始まる前からまぁ大変だった。
白いシャツに黒いベストと蝶ネクタイ、そこにスラックスというバーテン服を身にまとい、いつもは自然に流されているだけの髪をオールバックにきっちりとまとめた翔が現れた途端、教室が揺れるほどの悲鳴と歓声が上がった。
そこからはクラス内で撮影会だ。恐怖を感じるほどの女子たちの熱量に、笑顔でこたえられる翔は本当にすごい。
盛り上がるバーテン組の陽キャ男子と、女子たちから完全に蚊帳の外に出された俺たち地味メンは、粛々と開店準備をすすめた。
そのおかげか、開店直後は割とスムーズだったと思う。
それでもすぐに「ヤバいぞ」という噂が回ったんだろう。
一日目は一般公開がないから客は在校生だけのはずなのに、気が付けば待ち時間が1時間を超える事態に。用意したドリンクの在庫が早々に底をつきかけ、裏方の俺たちは近所のスーパーへ走った。
どうしてそんなことになったのかというと、とにかくリピート客が多かったのだ。
店内の安全と、翔の写真が流出するのをなるべく防ぐために、ダーツで高い得点をとれば翔と一緒に写真が撮れるが、他では一切撮影禁止というルールにしたのだが、そのせいでダーツに何度も挑戦する女子が続出。行列は絶えることがなく、一ゲーム一ドリンク制だから裏方も大忙し。
教室内には隠し撮りを阻止せんとするクラスの女子たちの怒声と、ゲームであと一点足りなかった女子の泣き叫ぶ声が響き渡り、これぞ阿鼻叫喚。
もうドリンクなんて誰も求めてない。ってか、何回も来てる子たちは飲みすぎでもうお腹ちゃぷちゃぷなんじゃないだろうか。
でも、ここは学生主体のホワイト運営。ちゃんと翔のシフトは決められている。
「諏訪野くんのシフト交代まであと5分です! 今並んでも諏訪野くんと写真は撮れません!!」
限定商品の行列に並んだ時みたいな掛け声だが効果は抜群で、行列は一気に捌けた。
なんというか、他のバーテン役の人たちがちょっと気の毒だが、世の中は世知辛いものだ。
「明希、おつかれ! 待たせてごめん」
「翔こそ、おつかれ」
翔の今日のシフトはもう終わりだということで、黒いベストと蝶ネクタイをとり、シャツとスラックスだけになったが、それでも十分色気たっぷりだ。
この後は少し休憩時間をとってから、今度は部活の方の売り子をしに行くらしい。俺はまたクラスの裏方だ。
明日も今日と同じシフト構成ではあるが、この調子では明日はもっと大変だろう。
そう思って一日目にあらかた見たいところは回っておいてよかった。
二日目、クラスの状況は一日目とさほど変わらず。前日の反省を生かしてドリンクを多めに用意しておいたし、混乱はほとんどなかった。教室は相変わらず阿鼻叫喚だったけど。
シフト交代もスムーズで、ほぼ予定通り翔と二人で休憩に入れたのだが、そこで捕まった。
学校の女子たちは暗黙のルールというか不可侵協定とでもいうのか、用事がない限り翔に自分から声をかけに行くことはない。
でも外部の子たちは違う。教室を出るなりあっという間に翔は囲まれてしまった。
「きゃーっ、近くで見てもめっちゃかっこいいんだけど~!」
「私たち隣の女子高から来てて~。 案内してほしぃなぁ」
「え~~私たちと回ろうよ~!」
「ちょっと! 抜け駆けしないでよ!」
一気にファンに囲まれるアイドルってこういう感じか。なんて早々に輪からはじき出された俺は暢気に感想を挟んでしまったが、翔はあからさまに困った顔をしている。「友達と回るから」と断っているが、女の子たちが諦める様子はない。
さすがにここで翔を売り渡すのは友人としてはいただけない。それに、翔は俺と一緒に回りたいと言ってくれていたのだ。
正直なところ、別に俺と回る必要なんてないのでは、とまだ思ってはいる。ここにいる女の子たちと回った方が楽しいんじゃないか、とも。
でも、翔は俺と一緒に回るのを楽しみにしていると言ってくれた。
それを、俺は嬉しいと思った。
だから俺は声を上げる。
「翔! 行くぞ!」
自分でも想定以上に大きく響いた声は周囲の時間を一瞬止めるには有効だった。
その隙にまるでお姫様をさらう悪役のように俺は翔の手を引き、その場を脱する。
連れ去るのに必死で目的地なんて持たないまま、とにかく人が少ない方を目指して歩いていく。
ようやく人がほとんどいないところまできて足を止めると、俺は大きく息を吐きだした。
俺は基本的に目立ちたくないし、注目を浴びるなんてもってのほかだ。もめ事を起こすことなく、地味に平穏に過ごしたい。
これまでそういうふうに生きてきた。
だから人前で大きな声を上げるなんてことは初めてで、慣れないことをしたせいで心臓がバクバクしている。おまけに、必死に歩いてきたからか冷や汗なのか、とにかく汗だくだ。
「明希……」
そこでようやく翔の手首を掴んだままだったことに気が付いた。その手が汗でびちょびちょなことも。
「わ、悪い」
慌てて手を離す。それなのに翔は俺のびちょびちょな手を握り返した。
「なっ、」
「明希、ありがとね」
「べ、別に礼を言われるようなことはしてないけど、えっと、手が…」
「いや、本当に助かったし」
「女子は集団になると怖いよなぁ」
あはは、と笑いながらその場のなぜか生暖かいような、甘ったるいような空気を吹き飛ばすように握られた手を上下に振る。
前に俺の家に来た時もそうだったけど、なぜわざわざ俺が汗だくのタイミングで触れてくるのか。いや、汗だくでなければいいというわけでもないけれど。
「しょ、翔、手を……」
「ん? あぁごめんね」
その軽い謝罪が口先だけである証拠に、翔は手を放そうとしない。
それどころか、ついには両手で俺の手を包んだ。
「それに、嬉しかった。あんなふうに連れ出してくれると思わなかったから」
最近翔から度々感じるようになったはちみつのような甘さ。しかも他には類をみないほど極上の。
そんなものを差し出されたら、甘いものを食べ慣れない俺はいとも簡単にとろりと脳内を溶かされてしまう。
何か言わないと、そう思うのに、意味もなくはくはくと空気を吐き出すことしかできなかった。
「明希、俺は……」
「はいストーップ!」
そんな甘い空気と俺の手を握る翔の手を叩き落としたのは、孝太郎の手刀だった。
その後ろでのんちゃんがむふふっと、口に手を当てながらもこらえきれない笑いを漏らしている。
「ど、どこから見て……」
「王子様奪還のとこからよ~」
最初からじゃねーか。頭を抱える俺に、舌打ちをする孝太郎……あれ? 今、舌打ちしたのは孝太郎だよな?
聞こえてきた位置が違ったように感じて顔を上げると、不機嫌そうな孝太郎と、いつもの笑顔の翔。
うん、孝太郎だな。
「学校では話しかけたらダメなんじゃなかった?」
「俺はチカンに無理やり手を握られてるクラスメイトを助けだけですぅ」
「チカンとは聞き捨てならないな。合意のもとだし。ね、明希?」
「性犯罪者は大抵そう言うんだよねぇ」
合意はしてないが、チカンもされてない。何なんだろうか、この無駄なやり取りは。
でも、あのなんとも言えない空気に困っていたのは確かだ。
汗は止まったけど、まだ少しだけ心臓は早く動いている気がする。
だから、ここは素直に孝太郎に感謝かな。
翔がさっき何を言いかけたのか。それだけは少し、気になったけれど。

