五日間の出席停止期間を終え、少しだけ冷たさを増した空気をまとって久々に入った教室は、当たり前だけど特に代り映えもなく。
 廊下側の席には教科書片手に予習に精を出す人がいて、前方には友人たちと集まって会話に花を咲かせてる人がいて、窓際の席では黒縁眼鏡の地味なやつが本を読んでいる。
 そんないつも通りの教室の中で、いつもの通り輝きを放っていたイケメンは、俺に気づくなり手を挙げた。

「明希、おはよ」
「ん、おはよ」

 それまで話していたクラスメートたちの輪から離れ、翔は俺のもとへとやってくる。これも、いつもと変わらない光景。
 でも、何か違う。

「無事学校来れてよかった」

 俺を見つめる瞳はいつもと変わらず美しい青みを帯びた薄灰色なのに、なぜか昨日と同じはちみつ色が混ざっているように見える。その甘さにそわそわとしてしまう俺は翔を真っすぐに見られない。
 ぎこちなく視線を下に向けた俺にかまうことなく翔は俺の前の席に腰を掛けた。

「そうそう、昨日借りた本なんだけどさ」

 唐突な爆弾投下に俺は盛大にむせこんだ。

「えっ、大丈夫?!」
「あ、あぁ……」

 大丈夫、ギリ生きてる。

 昨日、再び例のアレを手に取った翔は「借りていってもいい?」と言い出した。
 もちろん、それは俺のものではないと声高に主張したが、当然、それならば誰のものなのか、という話になる。
 例のソレを俺のところに持ってきたのは孝太郎だが、もともとはのんちゃんのものだ。
 だから、お隣さんのだと答えると、なら帰るときについでに借りていいか聞いてくると言うではないか。
 驚く俺に、さっきちょっとしゃべったから大丈夫だと翔は言ったが、そのレベル感で本、しかもBL本を貸してくれなどと言いに家を再度訪ねるなんて、コミュ強にもほどがあるだろ。もし、そんなふうに訪ねてこられたら、俺なら正直ドン引きだし、警戒する。
 でも、のんちゃんは喜びそうだな…?いや、喜んでしまう!
 これ以上妄想の餌を与えてはならないという恐怖にも似た不安しかなかいのに、俺はまだ隔離期間だからついてくこともできない。
 そんな俺の焦りなど翔は気にも留めず、あっという間に「じゃ、また明日~」とさわやかに部屋を出て行ってしまった。
 その後、漏れ聞こえてきた声から推察するに、翔は俺と別れた後、本当にのんちゃんの部屋を訪ねたようだった。

「本当に借りていったのか…・・・」
「うん、おもしろくて一気に読んじゃった。明希は読んだ?」
「読んでないけど……」
「そうなんだ、もったいない」

 別に俺はBLというジャンルを軽んじてるとか、疎んじているというわけではない。BLの世界には名作と呼ばれるものがあることも知っているし、それこそ泣けるような話があることも知っている。でも、わざわざ読みたいと思わないのが正直なところ。
 なんせリアルなBLが身近すぎる。うっかり想像なんてしちゃった日には二度と父親たちを直視できる気がしない。

「明希、聞いてる?」

 思わず遠くに行きかけていた意識をイケてるボイスに呼び戻されると、視界に飛び込んで来たのは首をかしげて下から俺をうかがうイケメン。時に過ぎた美しさは視界への暴力になると思う。
 あまりのまぶしさに体をのけぞらせると、翔は心配そうに整った眉を八の字に下げた。

「明希、どうしたの? さっきからなんか変だよ」

 変なのはお前だ! と叫びたい。さっきから、なんか、なんか、甘いんだよ!
 でも、それを指摘する度胸は俺にはない。気のせい、気のせいだ、と頭の中で唱える。

「……久しぶりに学校来たから緊張してるのかも」
「なにそれ」

 おかしそうに、ははっと笑い飛ばすコミュ強イケメンはきっと対人関係に緊張なんてしたことないんだろう。

「でさ、明希は今日、バイト?」
「いや、今日まで休みもらってるけど」
「よかった! 本の続き借りたいから、今日も明希の家いってもいい?」

 ほんと、コミュ強って怖い。


「ねぇ、ちょっと」

 その後、呆然としつつもちゃんと一時間目の授業を終え、気分を入れ替えようと教室を出ると、廊下のわきで孝太郎に小声で声をかけられた。なお、孝太郎に校内で話しかけられるのは、入学してからこれが初めてである。

「びっくりした、なに?」
「なに? じゃないよ。ちょっと来て」

 そのまま人気のないところまでつれていかれると、孝太郎は地味な黒縁眼鏡の奥にあるころんとした目をきつく吊り上げた。

「さっき、諏訪野がまたうちに来るとかって聞こえたけど本気?!」
「聞こえてたのか……」

 あからさまにゲッという顔をした俺に孝太郎はさらに目を吊り上げる。

「止めてよ! 断ってよ! 嫌だって言ってよ!」
「いやぁでも、またのんちゃんに本借りたいって言ってたし……」

 孝太郎と一緒に住んでいることもばれてしまったし、うちがとんでもなくボロアパートなことも知られてしまったし、俺としてはもう特に拒否る理由もないんだよなぁ。

「おまえも腐男子仲間できていいんじゃね」
「はぁ?! そんなんいらないし!!」

 孝太郎のあまりの剣幕に思わず顔がひくりとひきつる。俺には散々薦めてくるから、語れる仲間が欲しいのかと思ってたのに、違うのか。
 それに、共通の趣味をきっかけにして話をすれば、きっと孝太郎だって翔の良さがわかるだろうし、翔だって孝太郎との距離を縮められる。そうだ、いいことじゃないか。
 そう思った時、急に腹の中のものが一回転したような不快感を覚えて、俺はぐっとみぞおちあたりを握りこんだ。もしかして、今朝食べたパンの消費期限が切れていたのだろうか。

「とにかく! ちゃんと断ってよね!」

 俺に向かってビシリと指を突きつけて去っていく孝太郎の後姿を見送る。
 少ししてから俺も教室に戻ると、孝太郎は何事もなかったように窓際の席で本を読んでいて、翔は他の友人たちと楽しげに話していた。
 まだもやつく腹をさすりながら、今日は新しいパンを買ってから帰ろうと俺は心に決めた。