そのせいではないけれど、そのあとすぐに俺は秋口のインフルエンザという季節外れの流行に乗った。

 高熱で弱った俺の体と心は、明希と俺の間にある線をまざまざと突きつけてくる。
 でも、それはよく考えなくても当然のことだった。
 俺は一年の頃から明希を見続けていたけど、明希からしてみれば俺との関係はほんの半年程度。
 同じ温度なわけがないじゃないか。

 それでも、俺は悲しいと思った。悔しいと思った。
 あの日、もっと踏み込めばよかったと後悔した。

 自棄になってなんていないよ。でも、遠慮もしない。このまま踏み込まずにいても終わってしまう関係なら、むしろ踏み抜いてやる。

 そんなことしたら、逃げられるかも?
 まさか、逃がすはずがない。

 だから、俺から移ったであろうインフルエンザで休んでいる明希の家に乗り込んでやろうと決めた。
 家を知らないのにどうするのかって?
 いくらクラスメイトでも今時住所なんて超個人情報を先生が教えてくれるわけもないもんね。
 でも、大丈夫。明希の家は三星くんが知ってる。
 だって、学校では一切親しい様子がないのに、同じ弁当を持ってくるほどに近しい仲。ということは、二人は学校に来る前に接触できる関係だ。
 色々な可能性はあるけど、ライトな想定をすれば、”ご近所さん”というのがまぁ妥当なところでしょ。
 だから、三星くんの後についてけばいいってわけ。もちろん、こっそりとね。

 ここで働いた俺の妙な自信は、三星くんが古ぼけたアパートに入っていったことで確信に変わった。
 以前、明希の家に行きたいと言ったら、人を呼べるような家じゃないって断られたことがある。聞けば、インターホンもないようなボロアパートだと言っていた。
 三星くんが入っていったアパートはまさにそれ。
 俺に気が付かないまま、二階の奥から二つ目の部屋に三星くんが入っていったのを確認してから、俺は白い塗装が剥げて錆びた鉄板がむき出しになっているアパートの階段に足を乗せた。
 さすがに抜けたりはしないと思うけど、耐震性とか大丈夫なんだろうかと不安になる。
 なるべく音をたてないように登り切り、三星くんが入っていった部屋のドアの前に立つ。
 三星くんの住む部屋はわかった。
 問題は、明希が住んでいる部屋がどこかということ。
 とりあえずは、とまず三星くんが入っていた部屋の右隣のドアを叩いた。

「はぁい」

 のそのそと出てきたのは、予想外にも若い女性だった。
 ぼさぼさの髪から覗く額には冷却シートが貼られ、襟口がだるだるのTシャツからはうっかり下着が見えそう。
 マジで、防犯的にどうなんだろう。せめてチェーンをかけて開けたほうがいいんじゃ……と心配になりながらも若干引いていると、俺を見上げたその女性はクマが深く刻まれた目を突然輝かせた。

「もしかして、明希くんのお友達?!」
「えっ、あっ、はい。えっと、」
「明希くんの家はこっちだよ!」

 そう指をさしたのは、三星くんが入っていった部屋だった。
 あぁ、やっぱりそうなのか。
 フフフッと何やら楽し気に笑みをこぼす女性に礼を言って、再び三星くんが入っていった部屋のドアの前に立った。

 《《ココ》》にいるんじゃないかって予想はしてたのに、つい避けてしまったのは怖気づいたからだ。
 どんな事情があるのかはともあれ、明希にとって三星くんとの関係は”知られたくない”ものだ。それを無理やり暴こうとしている俺を、明希は許してくれるだろうか。
 なんてここまで来ておいて、今更でしかないのにね。
 ひどくうるさい心臓の音を少しでも落ち着けようと一つ深呼吸をして、覚悟を込めてドアを三度叩いた。

「はいは~い」

 めんどくさそうな、でも聞いたことのある声。
 開いたドアの向こうから出てきた彼は、俺に気づいた途端に眼鏡の奥にある大きな瞳を丸めた。
 でも、それは一瞬で。すぐにいつもの鋭さを俺に向け、静かにドアを閉じた。

「こんにちは、三星くん」
「何の用ですか」

 相変わらず、凍えてしまいそうなほど冷たい声。それでも、いつもより声が潜められているのは、ドアの中にいる人に聞こえないようにするためかな。

「明希に会いに来た」
「誰ですか? そんな人うちにはいません」

 やっぱり一筋縄ではいかないか、と思わずふっと笑ったら、さらに三星くんの瞳に鋭さが増す。
 彼は今、突然現れた侵略者ともいえる俺から明希を守ろうとしている。
 三星くんにとっても、明希は大切な存在なんだろう。
 胸がチクリと痛んだのは、悔しいからかな、寂しいからかな。

 俺は、どっちにその感情を抱いている?
 そんな疑問も今は後回し。

「お隣さんが、明希の家はここだって教えてくれたよ」

 盛大な舌打ちを打った三星くんは、苛立ちをにじませながら、まるでこれまで付けていた仮面を剥がすようにくしゃりと前髪をかきあげた。

「こっちが”本当の三星くん”なんだね」

 話しかけるたびに睨まれていたから実は気が強いんだろうなとは思っていたけど、人畜無害そうな教室での雰囲気とあまりに違う態度に思わず声が弾む。

「はぁ? 意味わかんない。ってかなんでうち知ってんの? まさか俺の後付けた?」

 肯定の代わりににっこりと微笑めば、察した三星くんは思いっきり顔を顰めた。

「ストーカなの!? キモッ、こわっ」

 笑顔の俺にこんな悪態をつかれたのも初めてで。ぞわわと背筋を震わせるような仕草をした三星くんに心が浮き立つ俺は実はマゾなんだろうか。
 でも、今日の目当ては三星くんではないのだから、このやり取りを楽しんでいる場合じゃない。

「ほかに手段が思いつかなくって。早く明希と話したかったから」
「……俺が会わせないって言ったらどうするつもり?」

 つまり、この部屋の中に明希がいるのは確定でいいのかな? それなら、もうあと一押し。

「うーん、押し入るか、大声出すか」
「マジ迷惑」

 そんなこと俺だってしたくない。
 明日になれば学校で会うじゃんって言われればそうなんだけど、それじゃあきっと線は越えられない。だから、

「どうしても、今日話したいんだ」

 作った笑顔を消して、表情にも声にも精一杯の真剣さを宿した。

「ふ~ん、こっちが”本当の諏訪野”、ね」

 なんて見事な意趣返し。その仮面の下に隠れていたのはとんでもない狼だ。
 三星くんは舌を巻く俺に半眼を向けたまま少し逡巡したあと、わざとらしく大きなため息をついた。

「一つだけ言っとく。明希ちゃんを泣かせたら許さないから」

 そこでふと気がついた。
 これまで三星くんが俺に向けていた嫌悪の理由はきっと、急激に明希と距離を詰めた俺への不信感。
 もしかしたら、三星くんにとって俺は侵略者じゃなくて、簒奪者なのかも。
 まぁそれもまた追々、だね。
 今はとにかく明希と話をするのが先。
 俺に背を向けて玄関扉を開いた三星くんに続いて部屋に入る。

「孝太郎、誰だった?」

 その途端に聞こえてきた元気そうな声に、俺はほっと息を吐いた。

「明希ちゃんにお客さーん」
「はっ?」

 三星くんが通り過ぎた部屋の前に立って、また打ち鳴り始めた心臓の音をかき消すようにドアを叩く。

「明希? 具合どう?」

 絞りだした声が少し震えてしまったのは、仕方がないことだと思うでしょ?