高校3年、春。
「進路希望調査票の提出期限は今月末だからなー、忘れないように」
紙ぺら1枚で決まる人生の、なんと重いことか。
この紙に残りの人生数十年を託すには、
あまりに荷が重くないだろうか。
きっとあいつにそう言ったら、
考えすぎだって笑われる。
いっそ笑って欲しい。
笑って、大丈夫だよって。
そう言って欲しい。
。。。
桜も葉桜になりかけた頃。
僕たちはいつもどおりの帰り道を歩いていた。
夕日に照らされたこいつの横顔は、
いつ見ても綺麗だ。
本人に伝えたことは無いけれど。
弓道部所属、学校イチの美男子。
高身長のモテ男。
ハイスペックすぎやしないかと、
だいたいどれも平均点な僕は考えてしまう。
「進路かぁ……、游汰は第一志望前と一緒?」
「そのつもり。でも、ちょっと悩んでる」
「他の大学?」
「というより、専門と」
僕の発言に、紅季ははたと足を止めた。
「紅季?」
振り返った先に居た恋人——紅季は目を丸くしていて、
絵に描いたような驚きぶりだった。
表情筋が柔らかくて、感情が隠せない。
そんなところも可愛いと思ってしまう僕は、
相当紅季に惚れているらしい。
「お前の口から専門って言葉が出るとは思わなかった」
「前に話してた国立大だけかと思ってたの?」
「うん。なんか、イメージ湧かなくて」
「大学も総合的な勉強ができて良いけど、
専門にも興味はあるよ。だから、決めかねてる」
結局は国立大を受験する事になるだろうけれど、
候補の一つには入れてみようと思っている。
多分、紅季もそうするだろうから。
前に同じ大学を受けよう、なんて話をしていたくらいだし。
というより同じ進路じゃないと、別れることにもなりかねない。
遠距離恋愛は、なんとなく、嫌だ。
幼馴染で、マンションの部屋が隣同士で、幼稚園から今日まで一緒で。
部活は違うけれど、それでも、
僕はこれからも、紅季と同じ時間を過ごしたい。
そんな関係が崩れるなんて、きっと僕は耐えられない。
女々しい自分に腹が立つ。
けど、こればかりはどうしようもない。
これが僕の本心だから。
発言に嘘はつけても、心に嘘はつけない。
「紅季は?」
彼の言葉が気になって、僕より少し上にある彼の顔を覗き込む。
バッと顔を逸らす彼に若干の不信感を覚える。
「何?」
「あのさ……、無意識に可愛い事しないでって」
「可愛い、事?」
「俺、游汰の上目遣いに弱いの。前に言っただろ」
「前に……、あ、」
言われて思い出す。
紅季の部屋で新作のゲームをしていた時、
キャラクターの操作を急に止めた紅季の顔を覗き込んだ。
その瞬間にキスされて、二人してゲームオーバーになって……。
あの時間も、キスの感触も、同時に思い出してしまった。
顔に熱が集まるのが自分でも分かる。
「游汰、顔赤いよ」
「夕日のせいだよ」
「はいはい、夕日のせいな」
「茶化さないでよ!」
楽しそうに笑うこいつの表情も堪らなく好きだけれど、
今は素直にそう思えない。
進路の話、多分はぐらかしたよな。
紅季が僕の少し先を歩き出す。
隣に並んでも彼の感情を読み取る事は出来なかった。
こんなにやきもきしているのは、
もしかして自分だけなんだろうか。
紅季は、先の事、考えてるのかな。
不安ばかりが頭を過る。
この先も、ずっと隣に。
そう思ってるのは、僕だけなの?
。。。
あの帰り道以降。
「游汰」
「ごめん、ちょっと席外す」
「ゆー、」
「先生に用あるから、先行くね」
なんとなく気がかりで、
紅季と上手く話せないでいる。
紅季は紅季で、
委員会や所属している弓道部の最後の試合があり、
何かと忙しそうだ。
そうやって接しているうちに、
お互い少しづつ一緒に居る時間が減っていった。
「最近一緒に居ないな」
「誰と?」
「いや、誰とじゃなくて。世戸と江上」
「あぁ……、うん」
「え、何。お前ら喧嘩別れでもしたの?」
「そんなワケないよ、ないけど……」
「あーね。 何かはあったわけだ」
2年連続で同じクラスになった坂口に紅季との関係を突かれ、
はぁ、とため息が零れる。
坂口は僕たちが付き合ってる事を知っている。
自分もどうやら同性に片思い中らしく、
付き合っている事がバレた時には
羨ましそうにされた。
それ以降、僕たち二人に関する相談は坂口ともう一人にするようになった。
「それ、俺も不思議だったんだよねぇ。
なーんか距離なぁい?」
背後から首に絡みつくような抱きしめ方をしないでほしい。
言っても治らないからそのままにしている。
「んー、ゆーちゃん、相変わらず抱き心地最高。それに、いいにおい」
「嗅がないで変態……」
もう一人こと由良も、同性同士で付き合っている。
しかも家庭教師の大学生。
最初に聞いた時は耳を疑った。
どこぞの恋愛漫画のようだが、これが事実なのだから驚きだ。
「変態でいいよー。それで? こうちゃんと何があったの?」
放課後の教室に残っているのは僕たちだけだ。
今なら、相談してもいいかな。
「実は……」
事の顛末を2人に話すと、
二人ともきょとんとした表情を見せた。
何か変な事でも言っただろうか。
そんな覚えはないのだけれど。
「もしかしてゆーちゃん、こうちゃんに聞いてないの?」
「聞いてない? 進路を?」
「うん。俺と由良は聞いたけど、いやまさか知らないとは」
「ねえ……」
口ごもる二人に不信感が募る。
二人には話していて僕には内緒にしている事があるのも、
面白くない。
僕はどんな些細な事でも話しているのに。
「二人には言えて僕には言えない事なんだ」
「あ、ごめん江上、多分そういう事じゃないんだけど、
あいつも悩んでるみたいだったから」
「決まるまでは言わないでおこうとしてるんじゃないかなぁ」
悩み事なら尚の事、真っ先に僕に相談して欲しかった。
今更気を使うような仲じゃない。
「面白くないな……」
「ゆーちゃん、顔怖いよ。緩めて緩めてー」
ふにふにと僕の頬をつまんでは伸ばす由良の手も払えない。
それくらい、僕に余裕なんて無かった。
「ゆーら? 俺の游汰で遊ばないでよ」
「こうちゃん! 待ってたよぉ」
「俺にまで抱き着くなよ」
息苦しさから解放されたかと思えば、
原因を作っていた人物は別の止まり木を見つけたらしい。
僕はあまり会いたくなかったけれど、
なぜか二人は安堵にも似た表情を浮かべていた。
「よ、世戸。部活終わったん? 早くない?」
「ミーティングだけだったからな。游汰、今日は一緒に、」
「ごめん、僕用事ある」
「え、游汰?」
紅季と同じ空間に居ることが耐えられなくて、
僕は教室を飛び出した。
めちゃくちゃな事をしている自覚はある。
でも、僕に隠し事をしていた事実を知った今、
あのままあの空間に居たら
間違いなく八つ当たりしていた。
そんな事したくない。
別に、進路が決まってから話したっていい。
それから、僕たちの今後の相談をしたって遅くはない。
でも、だって。
春の空気が頬に触れる。
紅季が僕に触れる柔らかさに似ていて、
無性に寂しくなってしまった。
あんな振る舞いをしておきながら、なんて身勝手なんだ。
本心に従うなら、会いたい。
会いたいけれど、どんな顔をして会えばいい。
ここ最近、まともに会話なんかしていないのに。
。。。
気付くと、僕は真っ暗な部屋でベッドにうずくまっていた。
もう何時間こうしていたのだろう。
妹に呼ばれたような気はするが、
夢か現か定かではない。
スマホの時計を見ると、もうとっくに20時を回っていた。
自分の服がワイシャツのままな事から察するに、
どうやら帰宅してそのまま眠ってしまっていたらしい。
今までこんな事なかったのに。
悩み事を抱えすぎると、
人は思いもよらない行動に出るらしい。
僕にとっては今の状況がそれだ。
いい加減起きてシャワーを浴びよう。
そう思い立ち上がると同時にスマホに着信が入った。
「こうき……」
画面に表示された名前を見てためらう。
何を言われるのだろう。
最近冷たくしてしまっている事に対する叱責だろうか。
紅季に限ってそんな事はしないと分かっている。
けれど、今の精神状況では良い方向のイメージが湧かない。
どうしよう。
悩んでいるうちに、着信は切れてしまった。
安堵したのも束の間。
紅季からメッセージが届いた。
『何してるの』
『話したい』
『会いたい』
『游汰の声が聴きたい』
僕だって会いたいよ、話したいよ。
でも、今の僕には今までどおりが分からない。
画面を凝視したまま動けなくなってしまう。
僕はいつからこんなに臆病になってしまったのだろう。
紅季の事が大好きで、大好きだからこの先が怖くて。
一歩踏み出せない自分に嫌気がさす。
自分を奮い立たせるきっかけがほしい。
なにか。
手の中が震える。
紅季からのメッセージだった。
『もし大丈夫なら通話したい』
ああ、もう。
本当に、僕の行動全部、紅季に左右されてる。
今だって、紅季がきっかけをくれたから通話をかけようと画面を操作している。
僕には彼が必要なんだって、
つくづく思い知らされる。
願わくば、それは紅季も一緒がいい。
『やっと通話つながった』
「ごめん、寝てたみたい」
『珍しい。游汰の寝顔見たかったな』
「見せないよ、だめ」
『だめいいな、可愛い』
「なにそれ」
真っ黒な霧が晴れていく。
充足感で満たされる。
なんだ、普通に話せる。
きっとそれは紅季がいつもどおりだからだろうけれど。
そのいつもどおりが、今の僕には有難かった。
『今日、さ。坂口達と俺の進路の話してたんだろ?』
一気に心が冷えていくのを感じる。
ほんの少しだけ忘れていたのに、
またふつうふつと黒い感情が湧いてくる。
その話だけは振ってほしくなかった。
僕は、電話越しに聞こえるかどうか分からないような声量で答えた。
「うん、話してた、というか、聞いた」
『そうだよな……、ちなみにどこまで聞いた?』
「どこまで?」
二人からは「進路で悩んでいる」という事のみ聞いている。
どこをどう悩んでいるのかは聞いていない。
『どの大学に行くとか、そういう話は?』
「聞いてない」
電話越しに溜息が聴こえてくる。
安心しているように聞こえたその溜息で、
僕の中で何かがぷつりと切れた。
『あっぶな……』
「僕には聞かせたくないことなの」
『游汰?』
「僕は何もかも相談してたのに?」
『落ち着いて、ゆーた』
「落ち着いてるよ」
真っ赤な嘘だ。
何も落ち着いてなんかない。
むしろ逆。
自分でも感じたことが無いもやもやに苛まれている。
多分、ただの嫉妬心が抉れたのだろう。
そしてどうやら、僕の口は閉じ方を忘れてしまったらしい。
紅季を責めるような言葉が溢れて止まらない。
「坂口と由良には進路の相談してたんでしょ。
僕には何も言わないで」
『それは、』
「僕じゃ頼りない? 紅季の相談相手になれない?
僕じゃ役不足だった?」
『そうじゃない。だから落ち着けって』
「じゃあなんで隠し事なんかしたの」
『游汰!』
喉の奥がひゅっと引き攣る。
今、僕はなんの話をしているんだ。
指先が冷たい。
手が小さく震えて、あやうくスマホを落としかけた。
怒られた、紅季に。
「こ、き……、ぼく、いま」
『なあ、游汰』
「う、うん」
『ちょっと、会って話そう。外出れる?』
「うん。大、丈夫」
僕がそれだけ答えると、ぷつりと通話が切れる。
言いたい事だけつらつら言ってのける僕に呆れただろうか。
怖い。
会いたくない。
会いたい。
相反する気持ちが体内を駆け巡る。
でも、話さないと。
いつかはちゃんと、
面と向かって話をするべき内容だ。
そのタイミングが、今。
先延ばしにしても仕方がない。
紅季に選んでもらったお気に入りのパーカーを羽織って、
僕は彼の元へ向かった。
ドアを開けたらばったり出くわすかと思っていたがそうではなく、
紅季は既にマンションの出入り口で僕を待っていた。
足音に気付いて振り向いた彼は、
今まで見たことが無いほど真剣な眼差しをしていた。
「学校ぶり」
「う、うん。そうだね」
「とりあえず、裏の公園行くか」
紅季の目を見ることができない。
どんな気持ちで、僕を外に誘ったの。
彼から何も感じ取る事ができなくて、
ただ後ろをついて歩くことしかできない。
二人でベンチに腰掛け、
濃紺の空を眺める。
冷えた風が僕たちの間を通り抜けては、
細くて頼りない音色を奏でていく。
「さっきの話の続き、しようか」
「うん」
あれだけやりたい放題、言いたい放題したんだ。
怒られるのは覚悟している。
きゅっと目をつぶり俯く僕の頭を、
紅季は優しく撫でた。
「え……?」
「やっとこっち見た」
僕が捉えた紅季の表情は、
いつもどおり柔らかくて。
だからこそ、拍子抜けしてしまった。
呆れて物も言えないようであれば、
こんなに優しい表情なんて出来ないだろう。
「紅、季……?」
「えっと、まず……、
坂口と由良にだけ進路の相談してごめん。
実は俺、スポーツ推薦貰えることになって」
「スポーツ推薦!? すごいね、紅季」
「ありがと。
実は俺、その大学受けようと思うんだ」
「え……?」
それは、つまり。
「でもそれを受けると、
俺は游汰と同じ大学には行けなくなる」
やっぱり、そういうことだ。
「これを知ったら、
俺と同じ大学を受けるって言うだろ?」
「うん……?」
それの何が問題なのだろう。
いつでも一緒に居たい。
そんな幼稚な願いだが、僕にとっては最重要事項だ。
「游汰の学力なら、狙ってる国立大だってほぼ確実じゃん。
俺が推薦貰える大学は、游汰がやりたい分野とはちょっと違うというか……」
話の内容が見えない。
何が言いたいのだろうか、紅季は。
「游汰がやりたい事あるのは知ってるし、
それが、狙ってる大学ならちゃんと学べる事も知ってる。
だから……」
あ、分かった。
やっと話が見えてきた。
紅季の瞳が宙で泳ぐ。
切り出し方に困っているのか。
それなら、僕から言ってしまおう。
「これを機に別れよう」
「は……?」
瞳の揺らぎが僕を見据えてぴたりと止まる。
口をあんぐりと開けたままのその姿は、
なんというか、ひょうきんで面白い。
その顔をしたまま固まらないでほしい。
せっかくのイケメンが台無しだ。
でも、どうして固まっているのだろう。
僕は何か間違ったことを言ったのか。
「なに、言って……。え……?
游汰、俺と、別れたいの……?」
「え……?」
こて、と首をかしげる僕に、紅季は続けた。
「なんで、そんな話になるんだよ。
というか逆に、いつ俺が別れたいなんて言った?」
「え……、違う、の?」
「違うに決まってるだろ!」
思考が追いつかない。
そこまで言い出しにくいことなんて、
これくらいだと思っていた。
でもどうやら、声を荒げるくらいには違ったらしい。
「じゃ、じゃあ、僕に相談できないような悩み事って、何?」
はあ、と盛大に溜息を吐く。
なんの溜息なのかは分からないが、
とりあえず呆れられてはなさそうだ。
「游汰の学力と興味を無駄にしないためにも、
大学は別にしよう、って。
それを言いたかった」
「へ……?」
まさか自分まで、ひょうきんな驚き顔をするとは思わなかった。
それどころか、素っ頓狂な声まで零れてしまった。
それこそ、真っ先に僕に言うべきところじゃないのか。
どうして坂口と由良を挟んだ。
「游汰、絶対こっちに来るって言うから、
どうしたら自分の興味がある方に進んでくれるかな、って。
その相談を坂口と由良にしてた。
游汰に話さなかったのは、
俺の中で、伝え方を決めてから、言いたかった、から……」
語尾が萎んでいく。
こんなにしゅんと小さくなる紅季は初めて見た。
隣で縮こまる彼の頭を、
今度は僕が撫でる。
指通りのいいさらさらとした感触。
いつぶりだろう、僕から紅季に触れたのは。
「ゆう、た……?」
「僕の事、たくさん考えてくれてありがとう。
ちょっと、安心してる」
「安心?」
「うん。
正直、進路の話をはぐらかされたあの時から、
面白くはなかったから」
「はぐらかした? 俺が?」
「前に、帰り道、進路の話をしながら帰ったの、覚えてる?」
夕日がひと際綺麗に見えたあの日。
あの後から、僕は意識的に紅季を避け続けた。
紅季は先の事を考えていないものだと思っていたから。
だから適当に話を逸らしたんだと、僕はそう感じていた。
「あの日、僕の問いに答えなかったよね。
上目遣いの話で、無かったことにした」
「あぁ……」
僕を捉えていたはずの瞳が再び宙を舞う。
図星か。
本当に、分かりやすい。
「あの日に言われたんだ。
スポーツ推薦の話。
それより前に、同じ大学目指そうって言ってたし、
俺もそのつもりだったから……。
どう、誤魔化そうかと」
「ちゃんと言ってくれれば良かったのに」
「それぞれの先の事を考えたら、な」
先の事。
それを聞いてはっとした。
そうだ。
結局は、遠距離恋愛になりかねない事が確定した。
それだけは避けたいと、そう思っていたのに。
「あのさ、その大学って、どの辺なの」
「游汰が狙ってる大学の真反対。
というか、だいぶ外れにある大学だから」
「遠い……」
「んー……、そうだな。
なかなか頻繁には会いずらいかも」
「そう、なんだ……」
「それに俺、大学からは家出ようと思ってる。
近くに住んだ方が何かと便利だし。
マンションからだと、電車で通うにはちょっと遠くて」
僕は家から通おうと思っていたから、
遠距離ほどではないにしろ、離れている時間は長くなる。
それなら、僕も紅季と同じ大学を受けたい。
それで、僕も家を出よう。
たくさん悩ませたところ申し訳ないけれど、でも。
「それで、提案なんだけど」
きゅ、と僕の手を握っては真っすぐこちらに視線を向けてくる。
入り口で待っていた時と同じような、
意を決した、真剣な瞳で。
「高校卒業したら、一緒に住まない?」
「一緒に、住む……?」
「これも由良達に相談した結果だし、
なんなら由良の伝手なんだけど」
聞けば、僕が志望している大学と、
紅季が推薦を貰った大学の丁度中間に
同性のパートナーが住みやすい環境が整ったアパートがあるらしい。
そこが来年春にひと部屋空くため、
どうせなら一緒に住んだらどうだ、と言われたそうだ。
「なんで、由良がそんな事知って……」
「由良の家庭教師というか、彼氏いるだろ?
あの人が住んでるアパートなんだって。
管理会社も大家さんも親切で頼れるから、
初めての同棲には丁度いいんじゃないかって」
「棚からぼたもち……」
「そんな感じ。
それなら、お互いのやりたい事に向き合えるし、
離れていた分の埋め合わせもしやすいと思うんだ」
僕の手を握る力がぐっと強まる。
本気、なんだ。
紅季が、僕との未来を考えてくれている。
その事実が何よりも嬉しい。
「そ、っか。紅季も僕たちの先の事、
ちゃんと考えてくれてたんだ」
「え? それはもちろん。
まさか、本当に別れると思ってたのか?
俺がそんな薄情な奴だとでも?」
「んー、ほっぺむにむにしないでよ」
紅季の手を払えない。
払えない、というより、払いたくない。
ずっと触れていてほしい。
そんな甘い考えを浮かばせるくらいには、
僕の思考回路は蕩けている。
「もうこれだけ一緒に居るのに、
今更別れられるわけないだろ。
俺の隣は、これからもずっと游汰だけだし、
游汰も俺だけ。分かった?」
「うん、分かった」
緩み切った頬を、今度は自分でむにむにとマッサージにも似た
動きで誤魔化す。
少し上から長めの溜息が聞こえてきたかと思えば、
今度は思い切り抱きしめられる。
「こ、き? どうしたの?」
「もー! あんま外で可愛い事するなよ」
「かわ、いい……」
「うん、可愛い。
俺と選んだパーカー着てるのも可愛い。
なあ、游汰」
「うん?」
「俺の部屋来て」
耳に吹きかけられる息がくすぐったい。
かあっと熱くなっていくのが自分でも分かった。
「で、でも、おばさんたち居る」
「今更游汰が遊びに来たくらいで、なんとも思わないよ。
幼馴染の特権。ここで使わない手は無いだろ?」
に、っと口角を上げた紅季が色っぽくて、
僕は素直に頷く事しか出来なかった。
。。。
「ちょ、待って紅季っ」
「やだ」
「やだじゃなくて、だめだから!
おばさんたち居る時はしないって約束だろ?」
「無理。俺の服着て、同じ匂いさせてる游汰が悪い」
「シャワーと服借りたんだから、当たり前だろ? だめだよ、紅季」
首元で聞こえる舌打ちに背筋が凍る。
本当に機嫌が悪くなってる。
でも、ダメなものはダメだ。
せめて、事に及ぶなら誰も居ないタイミングにしてほしい。
「じゃあ、これだけさせて」
鎖骨のあたりに軽くキスを落として、
名残惜しそうに離れていく。
紅季の部屋に入った途端にベッドに押し倒されて、今これ。
あまりに性急過ぎる行動についていけなくて、
つい拒否してしまった。
ちらりと表情を伺うも、
長い前髪に隠れて何も分からない。
「ゆーた……」
「え、わ……っ、重いよ、紅季」
ずしりと全体重がかけられる。
仮にも、運動部の紅季と帰宅部の僕だ。
体格差を考えて欲しい。
重苦しい事この上ない。
けれど今は、
紅季に包まれているこの状況が
たまらなく愛おしい。
「俺の事、なんで避けてたの」
「え……?」
緩く抱きしめられたかと思えば、
か細くて弱々しい声が聞こえてきた。
今にも泣きだしそうなほどだ。
「あれは……、
なんとなく、気まずくて」
「気まずい?」
「うん。進路の話はぐらかされたから、
あ、先の事考えてないんだ、どうでもいいんだって思っちゃって。
そうしたら、なんか、上手く話せなくなった」
「そんなわけないのに……」
抱きしめ直したかと思えば、そのままごろんと横になる。
ようやく息苦しさから解き放たれた。
そう安堵したのも束の間。
僕の頭は紅季に抱えられてしまった。
これでは紅季の顔が見えない。
もぞもぞと動いてみても、緩める様子はない。
諦めて好きにさせよう。
僕はそのまま、紅季の鼓動を感じることにした。
「なあ、游汰」
「うん?」
「進路、決まった?」
「今その話するの」
「だって、続きさせてくれないから」
むくれているのか、これは。
ぷくっと膨れた頬をした紅季が目に浮かぶ。
思わず笑うと、紅季はくすぐったそうに身をよじった。
「なんで笑ってるの」
「いやだって、むくれてるから」
「むくれてないし」
「そっか。むくれてないか」
「今度はそっちが話逸らすじゃん」
更にむくれた。
やっぱり、ちゃんと紅季の顔を見ながら話をしたい。
ぐ、と小さく胸元を押す。
応えるように緩んだ腕の中に身をおさめ、
僕は紅季の瞳を見据えた。
「国立大、受けるよ」
「ん、分かった。そう言ってもらえて、安心した」
「本当は、紅季と同じ大学が良かった」
「うん、ごめんな」
「でも、ここまで僕に寄り添ってくれるなら、
僕も、紅季の気持ちに応えたい」
「游汰……」
「寂しくない、不安なんかないって言ったら嘘になる。
きっと大学にはもっと素敵な出会いがあって、
価値観も変わっていくだろうから」
「うん」
「そんな中でも、僕の事を好きでいてくれるだろうなって、
今なら思えるんだ」
「游汰だけだよ」
「その言葉、忘れないでね」
「うん、もちろん」
幸せそうに目を細める紅季が愛おしい。
僕から軽くキスをすると、紅季も同じようなキスを返してくれる。
それがくすぐったくて、心地よくて。
どんな言葉よりも安心できる。
こういう時間を、この先も少しづつ積み重ねていきたい。
あたたかな微睡みの中で、僕はそう願った。
紅季もそうなら、嬉しい。
「面接練習面倒だな……」
「だから、それは今する話なの……?」
。。。
side:坂口・由良
なかなか江上を追おうとしない世戸を無理矢理送り出し、
俺達二人も帰路についた。
「まったく、世話の焼ける二人だな」
「まぁねぇ。でも、やっぱふたりは一緒にいないと、でしょ?」
「そうだな」
二人が付き合っていると知った日。
あの日は、俺が彼女にフラれた日でもあった。
「私の事、好きじゃないでしょ」
ストレートで分かりやすい意思確認。
彼女に思わず「ご名答」とそのまま伝えてしまった。
それが良くなかったのか、
そもそも俺が女性と付き合ったのがまずかったのか。
おそらく両方だが、結局そのまま別れてしまった。
ほら、やっぱり。
俺に女性との恋愛は向いてない。
分かっていた事なのに、
人肌が恋しくなるとすぐにこうだ。
ほんと、学ばないな俺って。
「りょーちゃん? どうしたの?」
「え!? あぁいや、なんでもない」
頬をつつかれ、気が付けば手まで握られ。
そこまでされて、自分が上の空だったことにようやく気が付いた。
こういうスキンシップをさらっとやってのけるあたり、
本当に人懐っこいヤツだと思う。
この手腕で、いったい何人落とされたことか。
これで本人は無自覚なのだからタチが悪い。
「あれ? 汐音と了くん?」
振り向くとそこには、モデルかと思うほど顔立ちが整った男性が立っていた。
白シャツに大きめのカーディガン、ブラウンのスラックス。
由良の家に来る日の決まったスタイルだ。
「こんにちは、向伊さん」
「晴ちゃん!」
猛ダッシュで駆け寄ったかと思えば、
大型犬よろしく抱きしめて擦り寄る由良。
羨ましい。
そうやって触れる相手が、俺なら良かったのに。
「晴ちゃん、迎えに来てくれたの?」
「たまたまだよ。姿が見えたから、声をかけただけ。
お邪魔しちゃったかな、了くん」
「まさか、そんなわけないですよ。
じゃあ、俺こっちだから。またな、由良」
「またねーりょーちゃん!」
二人と別れて、今日一番の溜息をつく。
あの一言は明らかにマウントだ。
俺はどうやら、家庭教師で由良の彼氏こと向伊さんに
目の敵にされているらしい。
でも、そうか。
マウントを取るような相手は俺しかいない。
世戸には江上がいて、由良には向伊さんが居るのだから。
4人のうち1人なのは、俺だけだ。
心配しなくても盗らない。
盗れるわけがない。
由良のあんな幸せそうな表情、
向伊さんと居る時しかしないから。
俺じゃきっと、無理だ。
「不毛すぎるだろ……」
俺はいつまで、叶いっこない片思いを続ければいいのだろう。
いつになったら、由良の事を諦められるんだろう。
少なくとも、後1年は諦められそうにない。
「寒いな……」
誰に聞かれるでもない独り言は、
薄く星が光る空に溶けていった。
end.
