意地悪な後輩と、金曜日の図書室で

放課後の教室。
夕陽が西の窓から差し込んで、埃の粒が光の中をゆっくり舞っていた。
机の上には、昨夜読み終えたばかりの文庫本が置かれていた。
ページを閉じた瞬間に感じたあの熱が、まだ胸の奥に残っている気がする。

(……いい話だったな。最後、ずるいよ……あんな言葉)

柊は指先でそっと表紙を撫でた。
ページの角に触れるたび、昨日の夜の静けさが思い出される。
枕元の灯りの下で、ひとり涙した時間。
本を閉じたあと、しばらく呼吸もできなかった。

(……あれを読んだ後で、すぐに眠れる人いるのかな)

小さく笑って、息を吐く。
心の奥に残った余韻を振りほどくように、本を抱えて立ち上がった。

(返さなきゃ。律、今日もカウンターにいるかな)

そんなことを考えた自分に、思わず苦笑する。
別に、わざわざ意識するほどのことでもないのに。
でも――あの静かな声を思い出すと、不思議と図書室への足取りが軽くなる。

図書室のカウンターで、律が本の整理をしていた。
制服の袖から伸びる指が、滑らかにページを撫でていく。
整った横顔に、窓からの光が淡く落ちる。
夕陽の色が、彼の睫毛に金を落としていた。

(……ほんと、絵になるな)

そんなことを思ってしまって、慌てて視線を逸らした。
でも、その瞬間、律が顔を上げる。
目が合って――心臓が、どくりと跳ねた。

「……あ、それ、返却ですか?」

低くて穏やかな声。
静かな空気に溶けて、胸の奥にまで響いた。

「うん。昨日、読み終わったんだ」

柊は明るく言いながらも、心の中はざわついていた。
律は「そうですか」と小さく呟き、手を止めた。
カウンターの上に積まれていた整理中の本を、そっと脇に寄せる。
その仕草がどこまでも丁寧で、静かな動作のひとつひとつに、彼らしい落ち着きが滲んでいた。
それから、律はゆっくりと柊の方へ視線を戻す。
その穏やかな眼差しに、柊の胸の鼓動がまた一拍、強く鳴った。

「どうでした?」

ただそれだけの問いなのに、心を覗かれたような気がして、柊は少し言葉に詰まる。
迷いながらも、正直に口にした。

「……最後の一行で、泣いた」

律の指が止まった。
ページを撫でていた動作も止まり、静寂が落ちる。

柊が顔を上げると、律がゆっくりとこちらを見ていた。
その瞳が、どこか嬉しそうに揺れている。

「柊先輩の……泣き顔、見たかったです」

心臓が一瞬で跳ね上がる。
空気が変わった。
図書室の時計の音が、やけに大きく響く。

「な、何言ってるの……」

声が震える。
頬が熱くなって、目を合わせられない。

律は少しだけ笑って、まっすぐに言った。

「だって、想像できないんです。柊先輩が泣くところ」

その穏やかな声の奥に、ほんの少しだけ親しさが混じっている。
柊は思わず小さく息を呑む。

「そりゃ……人前では泣かないから」

「じゃあ、俺だけに見せてください」

――息が止まった。

(……今、なんて?)

柊の手から文庫本が滑りかけた瞬間、律の手が伸びた。
二人の指先が触れる。
ほんの一瞬。
それだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。

律の指が柊の手を支える。
その手の温もりが伝わってくる。

「……ごめんなさい。落ちそうだったので」

律がそう言って手を離す。
でも、その一瞬がやけに長く感じた。

「……律って、意外とそういうこと言うんだな」

照れ隠しのように笑うと、律は首を傾げた。

「意外、ですか?」

「うん。もっとクールで、他人に興味なさそうだと思ってた」

「それ、よく言われます。でも――」

律は少しだけ前に出る。
その距離が縮まって、息の音が近くなった。
胸が苦しいほど高鳴る。

「柊先輩が相手だと、自然に話せるんです」

その言葉が落ちた瞬間、時間が止まったように感じた。
心のどこかが、やさしく揺れる。

(……ずるい。そんな顔、そんな声)

窓の外の風がカーテンを揺らし、夕陽が二人を包む。
光が柔らかく混ざり合って、世界が少し霞んで見えた。

柊は笑うように、でも少しだけ震える声で言った。

「……そんなこと言われたら、また泣きそうになるじゃないか」

律は目を細めて、優しく笑う。

「じゃあ、今度こそ見せてくださいね。柊先輩の涙」

少し悪戯っぽいその言葉が、まっすぐ胸に届いた。
柊は思わず息を呑み、そして小さく笑う。

「……じゃあ、今度、この本、借りてみてよ。結構いい話だからさ、おすすめするよ。……泣いた仲間、欲しいし」

律は目を細めて、小さく息をこぼした。

「泣かせるんですか?俺を?」

「うん。思いっきり、泣かせてやる」

「それなら、覚悟しておきます」

そう言って笑う律の声は、驚くほど優しくて。

柊の胸の奥が、少しだけ温かくなる。
律は、ふっと笑った。

「じゃあ、次は俺のおすすめですね」

唐突な言葉に、柊は瞬きをした。

「おすすめ?」

「はい。泣いた本の後には、笑えるやつを読まなきゃ。バランス取らないと」

その言い方が、やけに真面目で。
でも、どこか優しくて。
柊は思わず吹き出してしまった。

「何それ」

呆れたように言いながらも、頬が少し熱くなる。
律のその言葉が冗談なのか本気なのか、わからなかった。
けれど、どちらにしても――嫌じゃなかった。

「次は、先輩のこと、泣かせませんから」

その声が、どこまでも優しくて。
柊の胸の奥で、また静かに何かが鳴った。

思わず変な声が出た。
恥ずかしくて、でもおかしくて、笑いを堪えきれない。

律はそんな柊を見て、静かに笑った。
いつもの冷静さより、ほんの少しだけ楽しそうな表情で。

「冗談じゃないですよ。本気です」

「……そういうセリフ、さらっと言えるのずるい」

「ずるいですか?」

「……ずるいよ、年下のくせに。泣き顔見たいとか、泣かせないとか……どっちなのさ」

「年下だから、素直なんです」

(……何それ)

そんなこと言われたら、もう反応できない。

柊は視線を逸らして、返却カードを渡そうとした。
けれど、その瞬間――指先が、触れた。

ほんの一瞬なのに、鼓動が跳ねる。
離そうとしたのに、律が少しだけそのままにしていた。

「……律」

名前を呼ぶと、律の指がわずかに動いた。
その目が、まっすぐに柊を見つめている。

「俺、先輩のそういう顔……好きです」

「……っ、律、そういうこと言うなって……!」

「だって、本当のことですよ」

律は静かに笑った。
まるでからかうようで、でもどこか優しい。

柊は頬を赤くしたまま、ぷいと顔を背ける。

「……もう知らない」

「じゃあ、次の本の感想も楽しみにしてますね」

「な、なんで当然みたいに……!」

「返却日って、案外いい日だなって思って」

その言葉に、柊は一瞬だけ目を見開く。
そして、小さく笑ってしまった。

「……ほんと、ずるいな」

窓の外では、夕陽が静かに沈んでいく。
二人の影が重なって、ひとつに溶けた。