放課後の図書室。
窓の外には西日が傾き、淡い橙色の光が棚の隙間を縫うように差し込んでいた。
本の紙の香りと、微かに揺れるカーテン。
ページをめくる音と、時計の針の音。
世界の中で、ふたりの呼吸だけが静かに重なっている。

柊は返却カウンターに文庫本をそっと置いた。

「……この前の続き、読みました?」

律が、少し低めの声で問いかける。
周囲に人がいないのを確認して、ほんの少しだけ声を落とす。
その距離感が、なんだか特別に感じられた。

柊は口元に柔らかな笑みを浮かべた。

「うん、読んだ。やっぱり主人公報われなかった」

「だから俺、あの作家苦手なんですよ」

「へぇ、そういうとこ、ちゃんと気にするんだ」

「ちゃんとって何ですか」

「だって、律ってもっと淡々としてるのかと思ってたから」

「……そんなに冷たい人間じゃないですよ」

律の頬が、照明の光を受けてほんのり朱に染まる。
柊は、その変化が少しおかしくて、小さく笑った。
彼の笑い声は、静かな空気の中でやわらかく弾ける。

「律のそういう反応、好きだな」

「……反応って、何の話ですか」

「なんか、見てると気分が良くなる」

「それ、からかってます?」

「からかってないよ。素直に言っただけ」

「……そういう言葉、簡単に言わないほうがいいですよ」

律は目線を逸らしているのに、声だけが妙に低い。
その響きに、柊の心臓が跳ねた。

「先輩、この本も好きそうです」

律が差し出したのは、海辺の風景が描かれた表紙の小説。

「少し切ないけど、最後が穏やかで、読むと救われます」

「自分からおすすめしてくれるなんて、珍しいね」

「……まあ、今日は気分がいいんで」

「気分がいい?」

「はい。今日も先輩に会えたから」

柊のまつげが、わずかに揺れた。

目を伏せたとき、胸の奥に小さな灯りがともる。

(……そんなこと、何の気なしに言うんだ)

「たまには俺のセンスも信じてくださいよ」

「信じてるよ。律、ほんと本の選び方うまいし」

「ほんとってつけるの、ダメですよ」

「どうして?」

「それ言われると、何か勘違いしそうになるんで」

(勘違い、か……)

柊は心の中で呟いた。
もし、それが本当の気持ちだったら――なんて、考えかけて首を振る。
そんなこと、思うわけがない。
後輩にそんな目で見られても、困るだけだ。
……なのに、どうして頬がこんなに熱いんだろう。

律はふいに、小さく息を吸った。

「先輩」

「ん?」

「俺、金曜日って結構好きなんです」

「どうして?」

「……先輩が必ず来るから」

その言葉は、図書室の静けさの中で、妙に鮮やかに響いた。
柊の胸の奥で、何かがゆっくりと動き出す。

「そんなの、たまたまだよ」

「たまたまでも、俺には特別です」

言ってから、律は照れたように目を逸らす。
本を並べる手元が、ほんの少し震えていた。

「図書室、金曜だけ空気が違うんですよ。……先輩がいると落ち着くんです」

「僕がいるから?」

「そうです。先輩って、静かだけど空気を柔らかくする人なんで」

「そんな風に言われたの初めて」

「俺が最初でいいです」

その言葉の端に、少しだけ照れと誇らしさが混ざっていた。
柊はそっと目を細める。

(この人、ほんとに真っ直ぐだな)

けれどその真っ直ぐさが、どうしようもなく心を揺らす。
自分の心が少しずつ色を帯びていくのが、怖くもあり、嬉しくもあった。

「ねえ、律」

「はい?」

「報われない話って、嫌い?」

「苦手です。でも、先輩が読むなら……隣で一緒に読んでもいいです」

「それって、慰めてくれるってこと?」

「違います。ただ、先輩がページをめくる音、好きなんで」

(……そんなこと、真顔で言わないでよ)

柊の頬に、ゆっくりと赤みが広がっていく。
図書室の光が、その色をやわらかく包み込む。
柊は慌てて、ポケットからハンカチを取り出した。

「……ちょっと、暑いな」

そう言って、頬を拭うふりをする。

律が首をかしげた。

「どうしたんですか、先輩」

「ん、なんでもない。ただ……ちょっと暑くなって」

視線を逸らしながら、柊は曖昧に笑う。

律は小さく笑って、少しだけ身を乗り出した。

「先輩、いつもハンカチ持ち歩いてるんですか?」

「うん、まあ……クセみたいなもんかな」

「へえ。やっぱり、そうなんですね……」

律の声はどこか柔らかくて、
柊はその響きに、ますます顔を上げられなくなった。

金曜日の図書室は、今日も静かだった。
けれど、ふたりの距離だけは確かに、先週よりも近づいていた。