放課後の図書室は、今日も静かだった。
窓から差し込むオレンジ色の光が、積み上げられた本の背表紙をゆっくりと撫でていく。
紙と木の匂い。ページをめくる音だけが響く。
この時間帯の空気が、柊は好きだった。静かで、少し切なくて。

白川柊は、読み終えた文庫をそっと閉じた。

(もう終わっちゃったか……)

手の中に残る紙の温もりを確かめるように、親指で背表紙をなぞる。

視線の先、カウンターの奥では黒田律が黙々と整理作業をしていた。
整然と積まれていく本。指先の動きが静かで、無駄がない。

(いつも思うけど……仕事が丁寧だよな)

そう思いながら、柊は気づけば目でその横顔を追っていた。

きちんと揃った黒髪。
睫毛の影。
無表情のようでいて、少し集中すると口元がわずかに引き締まる。
年下なのに、どこか大人びて見えるその姿に、胸の奥がちくりとした。

「ねえ、黒田くん」

呼びかけると、律がすぐに顔を上げた。
まっすぐな瞳。

「はい、なんでしょうか、白川先輩」

少し硬い声。
でもその響きが、やけに真面目で、どこかくすぐったい。

「おすすめの本、ある?」

「おすすめ、ですか」

律は小さく呟いて、棚の方へ歩く。
手を伸ばし、数冊の背表紙を指でなぞりながら、目線を動かした。

(探してくれてる……)

柊はその背中を見つめながら、胸のあたりが少し温かくなる。

律はしばらくして、一冊の本を取り出した。

「これ、どうですか。言葉がきれいで、静かな話です」

「静かな話……?」

受け取った本の表紙に目を落とす。淡い青のカバー。
手に取った瞬間、ページの匂いがふっと立ち上がる。

「へぇ……いいね。こういうの、好きかも」

自然と口角が上がる。

律は少しだけ頷いた。

「白川先輩の雰囲気に、合うと思って」

(僕の……雰囲気?)

胸がどきりと跳ねる。
そんな風に言われたのは、初めてかもしれない。

そのとき、突然、後ろから元気な声が響いた。

「おーい、柊ー!こんなとこにいたのか!」

「また図書室?本当好きだなー!」

突然の声に、柊は顔を上げた。
振り返ると、教室でも騒がしいコンビ――赤羽と青木がドアのところで手を振っている。
その瞬間、カウンターの向こうにいた律が小さく肩をすくめたのが見えた。

「赤羽くん、青木くん……また二人でセット行動?」

柊は苦笑する。

「そりゃそうだろ。俺と青木は運命共同体だからな!」

赤羽がどや顔で胸を叩く。

「は?聞いてねぇけど」

青木が即ツッコミ。

「勝手に俺を巻き込むな」

「青木、ひどすぎん!?」

柊は思わず吹き出した。

「仲いいね、ほんと」

「仲良くねぇし!」

「ねーよ!」

二人の声が見事にハモって、また柊が笑う。

「もう、図書室で騒がないでよ。司書さんに怒られるって」

「へーい、すんませーん、柊先生」

赤羽がぺこりと頭を下げるが、反省の色はゼロだ。

「で、なにしてたんだよ?……って、あれ、1年の黒田じゃん」

青木が律に目を向ける。

「二人で本選びとか、そういう仲〜?」

「ち、違うから!」

柊が慌てて否定する。

「へぇ〜違うんだ〜?でも距離、近くね?」

赤羽がニヤリと笑って、わざとらしく柊と律の間を覗き込む。

「ちょ、やめてよ……!」

柊が手を振るが、顔がほんのり赤い。

律はというと、無表情のまま静かに本を抱え直した。

「……仕事中なんで」

低い声で淡々と返すが、その耳の先がうっすら赤いのを、柊は見逃さなかった。

(……律くん、ちょっと照れてる?)

そんな考えが浮かんで、自分まで変に意識してしまう。

「おお、黒田、照れてんのか〜?」

「やめろ赤羽。そういうの図書室で言うな」

「いや、ほら、青春だなーって。なあ、柊」

「僕を巻き込まないで!」

柊の抗議に、二人は楽しそうに笑う。

「やっぱ柊ってそういうの弱いよな」

青木がニヤニヤと肩を小突く。

「顔、赤いぞ?」

「赤くない!」

「はいはい、バレバレ〜」

「ほんとに違うから!」

声が少し大きくなり、近くの席の子がちらりとこちらを見た。

「ほらな、迷惑だぞ」

「ごめんごめん」

赤羽が軽く頭を下げる。

「……で、何?購買?」

「そう。金曜夕方限定、コロッケパンの争奪戦」

「またそれ?」

「当たり前。勝負の時間だ!」

「バカだなぁ……」

「お、じゃあ柊も来る?」

「いい。僕、ここで本読む」

「だろうな〜。おまえが購買走ってるとこ、想像できねぇし」

「たしかに」

青木が同意して笑う。

「本棚に挟まれている方が似合う」

「なんだそれ、僕を文庫扱いしないで」

「柊文庫、限定発行だな」

「いやそれ、どんなラインナップ!?」

「恋愛も友情も全部網羅してそう」

「やめてよ、変なジャンル混ぜないで!」

赤羽と青木がケラケラ笑いながら退散していく。

「じゃ、俺ら先行くなー。コロッケパン勝ったら報告するわ!」

「どうでもいい報告いらないって!」

最後まで赤羽が振り返って手を振りながら叫ぶ。

「がんばれよー、柊ー!」

「……なにを?」

柊はぽつりと呟く。
その声は自分でもわかるくらい照れていた。

律が、その横顔を見ながら小さく笑う。

「……にぎやかな人たちですね」

「うん。あの二人がいないと、教室、静かすぎるから」

「そうですか」

律の声が、ほんの少し柔らかかった。

柊は気づかないふりをして、目を伏せた。

(……がんばれって、なんの話だよ……)

そう思いながら、頬の熱を誤魔化すように息を吐く。

「……柊って、呼ばれてましたね」

不意に律が言った。

「え?」

唐突な言葉に、柊は瞬きをした。

「さっきの人たちが、柊って」

律の指先が、本の角を軽く押さえる。

「俺も、そう呼んでいいですか」

「……僕を?」

「白川先輩って呼ぶの、少し距離がある気がして。……嫌じゃなければ」

淡々とした声の中に、わずかな熱。

柊は一瞬、言葉を失った。

(黒田くんが……僕を名前で?)

その響きだけで、心臓が変に意識してしまう。

「……じゃあ、呼んでみて?」

自分でも驚くくらい、柔らかい声が出た。

律はほんの少しだけ息を吸い込む。

「……柊先輩」

名前を呼ばれた瞬間、胸の奥に小さな衝撃が走る。
優しいのに、確かに届く声。
その響きが、静かな空間に溶けていく。

「……うん、いい感じ」

無理やり笑ってみせると、頬が少し熱かった。

律はそんな柊をまっすぐ見つめ、ふっと目を細めた。

「じゃあ、俺のことは——律で」

「律くん、ね」

「くん付けも、悪くないですけど」

唇の端が、かすかに上がる。

「……律で、いいですよ」

その瞬間、夕陽の光が二人を包んだ。
カウンター越しの空気が、ほんの少しだけ近づいたように感じる。

(なんだろう、この感じ……)

胸の鼓動が、ゆっくりと速くなる。
たぶん、彼の目をまっすぐ見すぎたせい。
いや、違う。
呼び方が変わっただけなのに、世界の温度が一度上がったような気がした。

柊は目をそらすように、本を抱きしめた。

「……じゃあ、律」

その名を呼んだ声が、思っていたよりずっと静かに震えていた。

律は何も言わず、少しだけ微笑む。
その笑みが、窓の光に溶けていく。

放課後の図書室。
静寂の中で、確かに何かが始まりかけていた。