放課後の図書室。
窓の外では、夕陽が本棚の影を長く伸ばしていた。
橙色の光が床の木目を照らし、静かな埃の粒が、光の筋の中でゆっくり舞っている。

(この時間が一番好きだ)

放課後のざわめきが遠ざかり、残されたのは紙の匂いと時計の針の音。
誰かがページをめくる音が、世界の呼吸みたいに一定のリズムで流れていた。

柊は、返却カウンターの上に並べられた本の山に目を止めた。
その中に、見覚えのある背表紙を見つけて、思わず小さく笑う。

「この本、やっと戻ってきたんだね」

声をかけられた律が、顔を上げた。
黒髪が夕陽を受けて金色に縁取られ、無表情の奥にわずかな驚きが浮かぶ。

「……あ、それ、先輩が予約一番でしたね」

相変わらず淡々とした声。
けれど、言葉の端にほんの少しだけ柔らかさが混じっている気がして、柊は首を傾げる。

「僕が予約してたの、覚えてくれていたの?」

「い、いえ……システムにあったんで……」

口調はいつも通り、そっけない。
でも、彼の耳の先がわずかに赤くなっているのを、柊は見逃さなかった。

(あ、やっぱり覚えてたんだ)

律は、こういう小さなことを覚えているタイプだ。
無関心そうに見えて、実は人のことをよく見ている。

柊は、ふっと笑って言った。

「黒田くん、案外優しいよね」

「そうですか?」

彼は視線を落とし、手元のスタンプを押す仕草をわざとゆっくりにする。

コツン、と木製の台にスタンプが落ちる音が響く。
まるでそれが、この沈黙を埋めるための合図のようだった。

(ほんとに、真面目だなぁ……)

柊は頬杖をつきながら、ぼんやりと律の横顔を眺めた。
まっすぐな鼻筋、細い指、少し睫毛の長い目元。
近くで見ると、やっぱり整っている。
それなのに、本人はまったく気づいていない様子で。

「……そんなに見ないでください」

律がぼそりと呟いた。
いつの間にか、視線がぶつかっていたらしい。
柊は目を瞬かせて、少し慌てて笑う。

「ごめんごめん。つい、見惚れちゃって」

「見惚れるって……」

律の声がわずかに低くなる。
けれど、それは怒りではなく、むしろ戸惑いの響きを含んでいた。

「だって、可愛いんだもん」

その一言に、律の動きが止まった。
ページを閉じる音が、やけに大きく響く。
彼の指先が、ほんの少し震えていた。

(あ、冗談のつもりだったのに)

柊は内心で苦笑する。
けれど、律の表情は意外なほど真剣だった。

「……先輩、それは反則です」

低く、掠れた声。
照れとも、警告ともつかないその響きに、柊の胸が小さく鳴った。

(やっぱり、黒田くんって不器用だな)

無表情に見えて、全部顔に出る。
そういうところが、可愛い。

柊はわざと肩をすくめて微笑んだ。

「反則って、どんなルール?」

「……知らないほうがいいですよ」

そう言って、律はそっと本を差し出した。
その仕草がどこかぎこちなくて、でも優しかった。
触れた指先が、ほんの一瞬、重なる。
その瞬間、心臓の音がどちらのものか分からなくなった。

(ねぇ、君は気づいてる?僕、こうして話してる時間が、結構好きなんだ)

けれど、その言葉は喉の奥で溶けて、空気になった。
静けさの中で、時計の針がひとつ、音を刻む。

律は小さく咳払いをして、いつもの冷静な表情に戻る。

「……貸出、処理しました。二週間以内に返却お願いします」

「はーい」

柊は受け取った本を胸に抱き、笑顔を浮かべた。

「ねぇ、今度はおすすめ教えてよ。黒田くんの選ぶ本、外れなさそうだし」

「そんなに読書家でもないですよ」

「ううん、黒田くんがすすめる本に興味がある」

律は一瞬だけ、視線を落とした。
それから、小さく息を吐く。

「……先輩は、本当に人たらしですね」

「え、それ褒めてる?」

「どうでしょう」

彼は口元をわずかに緩めた。
その笑みが、初めて見る種類のものだった。