ホテル・ラ・ソルーナ~大切なきみが、明日を歩けるように~

 どうしてこんなにも好きなんだろうと思う。どうしてこうも会いたくてたまらないのだろうと思う。

 毎週火曜日、二十時が待ち遠しくてたまらない。それなのに、店のドアベルを鳴らして顔を覗かせる彼女の姿を見れば、毎回、泣きそうになる。

 碧くん、と僕を呼ぶその声を聞くだけで、僕の心は温かく優しい気持ちで満たされるのだ。

 驚くほど小顔で、陶器のように滑らかで白い肌。その中心でひときわ存在感を放つのは、夜露を湛《たた》えたかのように丸く、どこか寂しげに潤んだ大きな瞳だ。まるみをおびた額に、ふんわりとした平行眉の下で、その黒目がちで純粋な瞳に見つめられると、僕は全身に電流が流れて吸い込まれてしまいそうになる。

 小さく形の良い鼻と、まるで生まれつき果実の雫で染まったかのような、つやつやとした美しい桜色の唇。彼女が笑うとその口元が優しくきゅっと上がって、少女のような無垢な愛らしさが小さな顔いっぱいに広がる。

 こんなに全力で走ったのは一体いつぶりだろうか。肩を上下させ息を弾ませながら、僕は再びレストランフェリーチェの前に辿り着いた。だけど、さっきまで確かにあった小さな人影は、店先の外灯の下にはもう影も形もなかった。

「……いるわけないか」

 静まり返った路地をぐるりと一周見渡しながら僕はどこか安堵していて、それでいてひどく落胆もしていて、言い表せないあべこべの感情を大きな息にして吐き出した。

 そうだ。やっぱり、ただの勘違いに過ぎなかったんだ。あのシルエットがハナさんなわけがない。違い過ぎる。そう自分に言い聞かせ、店に背を向けて駅へ戻ろうと一歩を踏み出した、次の瞬間だった。

 ――ジャリッ。

 背後から砂利を踏みしめるような小さな音が、静寂の路地に小さく響いた。心臓が跳ね上がり、弾かれたように振り返る。

 外灯の光が届かない店の暗い軒下の隙間に、小さな人影が膝を抱き締め、顔を埋めるようにしてしゃがみ込んでいた。僕はそっと息を呑み込み、目を細めた。見間違いようのない、その小さく頼りない質量と姿に確信した瞬間、僕の胸は締め付けられるように激しく焦がされた。

 秋の冷たい夜風が吹き抜け、錆び付いた看板をカタカタと揺らす。僕は高鳴る胸を必死に押さえ付けながら、壊れ物に触れるかのように暗闇に向かってそっと声を掛けた。

「ハナさん……?」

 すると、その小さなシルエットはピクッと肩を小さく弾ませた。そして、何かに怯えるかのように、あるいは奇跡を信じるかのように、ゆっくりと顔を上げた。

 軒下の深い暗闇の中でもはっきりと分かってしまう。毎週火曜の夜に僕を翻弄しているつやつやとした桜色の唇が、確かにわななきながら動いた。

「……碧くん?」

 僕の名前を呼ぶ、鈴を転がすような愛おしい声。暗がりに涙の膜を張ったようにくるくると輝く大きな瞳。けれど、次の瞬間、外灯の鈍いオレンジ色の光がその顔を正面から捉えた。僕はあまりの衝撃に一瞬言葉を失い、大きく目を丸くしてしまった。

「……え、待っ……えぇっ」

 そこに居たのは、ハナさんに違いはなかったけれど、まるで別人になった彼女だった。

「きっ、切った?」

 あわあわしながら、僕は彼女のもとへと駆け寄った。ハナさんは冷え切ったアスファルトからすくっと立ち上がった。薄い外灯の光に照らされたハナさんの髪の毛はバッサリと短く、耳のラインでぱっつりと切り揃えられ、ショートヘアに変わっていた。

「あ……うん、切った」

 へへっ、と恥ずかしそうに華奢な肩をすくませながら、ハナさんは短くなった髪の毛先を細い指で梳くようにジェスチャーしてみせた。

 彼女の夫が、絶対に切るな、と呪いをかけるように縛り付けていた、胸の下まで長かった艶々の黒髪。それが今はもう跡形もない。夜も更けゆく冷たい空気の中で、ハナさんの首筋は驚くほど白く、そして痛々しいほど細く剥き出しになっていた。

「マチルダショート」

「……え?」

「これ、マチルダショートっていうんだって」

 ハナさんはふふっとやわらかく笑って、短い襟足に触れながら少しうつむき加減になった。

 そうなんだ、また思い切ったね、とか、似合ってますよ、だとか。何か気の利いた言葉を返したかったのに、あまりの衝撃に頭の芯が痺れてしまっていた僕は、金魚のように口をパクパクさせるのが精一杯だった。

 その髪型は小顔の彼女をさらに小顔に見せるような、丸みのある可愛らしいショートヘアだった。前髪は眉毛の上でパッツリと切り揃えられていて、なんだか幼く見える。そして、何度ブリーチを重ねたのだろう。外灯の鈍い光を浴びてそれはそれは綺麗に、くすんだ灰色とベージュが混ざり合ったグレージュ色の髪の毛が、夜風に弾むように揺れている。

 服装もいつものガーリーな雰囲気とはまるで違っていた。脚の細さを際立たせるようなピタリとタイトなジーンズに、真っ白なスニーカー、そして、トップスはシンプルな白いブラウス。その強烈なギャップが、僕の脳裏を激しく殴りつける。

 先に沈黙を破ったのは、ハナさんだった。

「ほ、ほら! マリーアントワネットだって、最後には国に反逆したでしょ!」

「……え……マリー……?」

「そう、マリーアントワネットよ! 彼女にできたのなら、私にだって……できるんじゃないかと……思ったの」

 最初はいつものように、僕をからかう悪戯っぽい口調だった。でも、ハナさんは次第に声を掠れさせていき、まるで自分の発言に怯えるかのようにごにょごにょと語尾を濁すと、最後は借りてきた猫のように小さくなってうつむいてしまった。

「何か言って……そんなに似合わない?」

 僕が何も言えずにいると、ハナさんは不機嫌になり下唇をつんと前に突き出し、頬をぷっと膨らませた。そして、大きく潤んだ目でじっとりと僕を責めるように下から睨み上げてくる。

 むうっとしていて、最上級に不機嫌そうだ。それなのに、僕はと言えば、ハナさんの年上とは到底思えないほどの愛らしさに息を呑み、胸がいっぱいで声を出せずに悶絶していた。

 どうして、こんなにも。たった一人の、この女性にばかり、心が千切れそうになるほど惹かれてしまうのだろう。

 女なら、街中のどこにでも五万といるのに。大学にはもっと若くて可愛い子も、同じ二十歳とは思えないほど大人びて色気のある美人な子だっている。

 どうして僕は、この女性がいいのだろう。どうしてこの女性じゃなきゃダメなんだろう。どうして僕は、こんなにもこの人が欲しくてたまらないんだろう。どうしてこんなにも狂おしいほどに愛しくて、たまらなくなるのだろう。

 人妻だとか、モラハラ夫がいるとか。そんな道徳的なブレーキは、毎回、彼女を前にした瞬間にひと粒の灰となって吹き飛んでしまう。

「おかしいな……美容師さんは大絶賛してくれたのに。すーっごく似合うって言ってくれたんだけどな……」

 ふんわりと丸みを帯びた短い襟足を細い指で撫でながら、ハナさんはアヒルのように唇をつんと尖らせる。

 本当に酷い人だ。僕の心をもて遊ぶどころか、もて遊ぶことさえ飛び越えて、こうして至近距離からダイレクトに、僕の心を根こそぎ奪っていくんだから。

「それはやばいでしょ」

 無意識について出た本音に「あっ」と慌てて右手で口元を押さえると、ハナさんもまた「えっ」と声を漏らして弾かれたように顔を上げた。その整った愛らしい顔が、みるみるうちに不機嫌に歪んでいく。そんな様子さえ愛おしく思えて、僕は取り繕うことさえせず、じっと見守った。

 ハナさんは桜色の唇をきゅっと結び、胸元で小さな拳を握りしめると、わっと噛みつくように声を大きくした。

「碧くん、酷い! いくら似合わないからって、そんな言い方しなくてもいいじゃない!」
  
 あ、これは本気で怒ったな。

「ノンデリ! だから彼女もできないのよ!」

 ああ、困ったな。

 憤慨して頬を膨らませるその仕草も、不機嫌な言動も、その全てが暴力的なまでに愛しくて仕方ない。僕の心臓はさっきからずっと休むことなく、狂ったような音を立てて脈打っている。

「碧くんなんかもう知らない!」

 ふん、と鼻を鳴らしてぷいっとそっぽを向いてしまったハナさんがこれまた可愛くて、僕はこっそり、小さく笑ってしまった。本当に僕より十二も年上なんだろうか。
本当に既婚者なんだろうか。こんなに感情豊かで表情がころころ変わって、無邪気で、でも小悪魔みたいな瞬間もあって。

「いや、違くて、やばいって言ったのはその……」

 どう伝えたらこの胸の爆発を正しく解体できるのか分からずに言葉に詰まった。そんな僕をハナさんがキッと睨んできた。目が合った瞬間に僕はとっさに「うっ」と胸を押さえた。誇張でも冗談でもなく、ハナさんの可愛らしさに、心臓が止まるんじゃないかと心配になるほどツンと痛くて苦しくなったからだ。

「控えめに言って……」

「なに……?」

 じとっとした鋭い目つきのまま、ハナさんが睨んでくる。そんな鋭ささえ愛おしくてたまらない気持ちになる僕は重症だなと思う。僕は敗北を認めるように笑って、降参した。

「吐きそうなほど、てか、超絶……可愛いです」

 白旗を揚げたものの、口にした台詞の破壊力に自分自身が耐えきれなくなり、僕はかあっと沸騰するように熱くなった顔を両手で覆い隠した。顔の毛穴という毛穴から、まるで水蒸気が噴き出しているような気分だ。そのまま指の隙間から、体中の熱を全て吐き出すように深く息を漏らす。

「……ありがとう」

 ぽそっと、消え入りそうな声が聞こえた。両手を顔から退けると、ハナさんは肩をすくめさせ、張り詰めていた糸が切れたように安堵の表情を浮かべ、ほうっと息を吐き出した。

 そして、短くなったグレージュの毛先に躊躇しながら触れ、どこか遠くを見るように、寂しげに微笑んだ。

「私ね、謀反を起こしてやったの。寝首を掻いてやろうと思って。夫婦なのに、おかしな話なんだけど……私なりの宣戦布告なの」

 そう言って、ふふふっと自嘲気味に笑ったハナさんの横顔は確かに笑っているのに、今にも決壊してしまいそうなほど繊細に唇を震わせていた。

「あの人が執着している長い髪の毛をばっさり切って、髪色も変えたら、真っ新に生まれ変われるんじゃないかと思ったの」

「……ハナさん?」

「人生をやり直せるんじゃないかと思って。でも……髪の毛が短くなっても、私の目に映り込む風景も、何よりも私自身が何も変わっていなくて。やっぱり私は……欠陥品のままで……だから、この髪型を見ればあの人はきっとまた私を笑うのよ、きっと」

 きっと、僕には想像もできないほどの勇気を持っての行動だったのだろうと思う。あの絹糸のような美しく長い黒髪を切り落とすということは、きっと、かなりの覚悟がいったに違いない。

「そんなことを考えていたら、どうしても今日はお店に行く気になれなくて、ずっと、青山通りをふらふら歩いていたんだけれど、今夜の三日月がすごく優しい色に見えたの」

 うつむいたその姿はまるで、風が吹けば今にもはらはらとほどけて飛んでいってしまいそうな、たんぽぽの綿毛のように儚く見えて、胸がきゅうっと締め付けられた。

「月を眺めていたら、どうしてなのか、すごく……」

 言葉を詰まらせながら、ハナさんはふるふるっと細い首を左右に振ると、意を決したように真っすぐに顔を上げた。

「違うの。言い訳なんてどうでも良くて……ただ会いたくなったの」

 ハナさんの黒く揺れる大きな瞳と視線がぶつかった瞬間、僕の心臓にまるで鋭い刃物で一突きされたような痛みが走った。

 外灯のオレンジ色の光を浴びて、綺麗な瞳いっぱいに透明な膜を張り、それが頬を伝い落ちてしまわぬようにと必死に堪えているハナさんは、いじらしく健気だった。

「ただ会いたくなったの。どうしようもなく、碧くんに……会いたかったの」

 その震える声が静かな路地に小さく響いた瞬間、僕の中で理性を繋ぎとめていた最後の鎖がガシャガシャと音を立てて、一気に崩壊してしまった。

 誰かにこれほどまでに心を根こそぎ奪われるなんて、僕の人生にはあり得ないことだと思っていた。

 単なる好意や愛情といった、言葉で割り切れるような簡単な感情ではない。その存在のすべてを理解したい、自分だけの世界に留めておきたいという抑えがたい欲求に近い感情だと思う。たとえそれが常識外れであって、世間から後ろ指を指され、白い目で見られることになっても構わない。誰かに理解してもらおうなんて思わないし、してもらいたいとさえ思わない。

 いま目の前にいる女性は既婚者であり、本来ならばこの想いを封じ込めるべき相手であることは理解していた。でも、理性では理解していても、心の奥底に存在する感情が、本能が、魂が、それを真っ向から拒んだ瞬間だった。

 言葉では説明できない、それは互いの存在が深い湖の底で響き合うような、あらがいようのない感覚だった。

 声を押し殺し、小さな体を震わせて泣きじゃくるハナさんを目の当たりにした時、僕はこのひとの孤独や痛みを全て共有し、守り抜きたいと強く願った。その思いに突き動かされるように、ハナさんの細い腕をそっと手繰り寄せ、力強く抱きしめた。

 驚いた。腕の中に感じる彼女の存在は想像していたものより遥かに儚く、怖くなるほど繊細だった。その脆さに触れた瞬間、僕の胸を鷲づかみにされるような切なさがこみ上げた。

「えっ……あっ、ごめん、碧くん……今の、忘れて」 

 ハナさんが我に返ったように呟き、まだ震えている両手で僕の胸を押し離そうとする。その瞬間、僕の感情は激しく波打った。今ここで離してしまえば、もう二度とハナさんのことを救えないような気がした。

「嫌です……絶対に嫌です!」

 僕はとっさにハナさんを抱き締めた。ハナさんという一人の存在を確かめたくて、ハナさんの全てを受け止める覚悟で、でも、小さなハナさんが潰れてしまわないように細心の注意を払って、力いっぱい抱き締めた。

「忘れたくないです。忘れません、絶対に。忘れません」

 僕の声が静寂の中に溶け込むように響き渡った時、ハナさんの全身から強張りが消えていくのが分かった。間もなく、ハナさんは僕の腕の中で声を押し殺すようにして大粒の涙を溢れさせ、震える両腕を僕の背中へと回してきた。まるで荒波の中で唯一の拠り所を見つけたかのように、全霊を込めて僕の背中にしがみついてきた。

 背中の布地を強く握り締めるその指先から、彼女がずっと抱えてきた不安と、僕に訴えようとする切実さがダイレクトに伝わってくる。ハナさんは僕の胸に顔を埋め、何度も僕の背に指先を立てるようにして泣き続けた。

「僕も、ハナさんに会いたくてたまらなかったんです」

 僕はハナさんの細い腕をそっと、けれど決して解けないように強く掴んで、歩き出した。ハナさんは拒むこともせず、すすり泣きながら、ただ静かに着いて来た。

 二十三時を過ぎた恵比寿駅のホーム。冷たい蛍光灯の明かりに照らされながら、僕たちは滑り込んできた山手線に乗り込んだ。

 車両内には、酒の匂いを纏ったサラリーマンや、遊び疲れた顔の若者たちがまばらに座っている。そんな日常のノイズの中で、僕たちだけが世界の果てへ向かう逃亡者のように、しっかりと手を繋ぎ合っていた。

 吊革を掴む若者たちの目が僕たちの年の差や、ハナさんの綺麗な髪色に向いているような気がしたけれど、そんなことはもうどうでも良かった。

 一駅だけの短すぎる旅路。電車が渋谷駅に滑り込み、ドアが開くと同時に、都会特有の夜の生暖かさと喧騒が僕たちを包み込んだ。改札を抜け、深夜の渋谷の街を、僕はハナさんを隠すようにして少しだけ足早に歩いた。

 宮益坂を上ると喧騒が少しずつ遠のいていく。僕が生活している狭い1DKのアパートへ続く坂道を上る間、ハナさんは何を言うわけでもなく艶々の唇をきゅっと結んで、繋いだ僕の手の感触や温もりを確かめるように、何度もぎゅうっと握り返して来た。

「僕の部屋、角部屋なんです」

 部屋の暗証番号を入力してドアを開けると、ハナさんは一切の迷いなく入って来た。狭い玄関に二人分の靴が並ぶ。部屋の明かりを点けようと、僕が壁のスイッチに手を伸ばした次の瞬間だった。

「点けないで」

 その声に、伸ばした手を反射的に引っ込め振り返ると、ハナさんは暗闇の中で僕の服の裾をきゅっと握り締めていた。

「明かりを点けると、見たくないものまで全部見えちゃうでしょ。夢から覚めて、現実に戻らなきゃいけなくなるでしょ……夜は判断が鈍るっていうじゃない。鈍るくらいがちょうどいいの。朝日が昇るまでこのままがいい」

 その消え入りそうな掠れた声は、僕の胸の奥を激しく締め付けた。

「分かりました。でも、今夜は月明かりが綺麗だし、カーテン開けてもいいですか? 月明りくらいなら大丈夫ですか?」

 ハナさんは暗闇の中で小さく頷いた。部屋のカーテンを開けると、窓の外から都会の僅かな夜光と、雲の隙間からこぼれた淡い月明かりが静かに部屋へと入り込んできた。その青白い月明かりの中に、ハナさんのショートヘアの輪郭と細いシルエットが、まるでガラス細工のように儚く浮かび上がる。

「あの、碧くん……何か着替えるもの、ある? 貸して欲しいんだけど」

「あ、そうですよね! 気がきかなくてごめんなさい」

 少し気恥ずかしそうにうつむくハナさんに、僕は洗濯したばかりのシンプルなTシャツを差し出した。ハナさんはそれを受け取ると、月明かりの陰で静かに、身にまとっていた白いブラウスと細身のジーンズを脱ぎ、僕のTシャツに袖を通した。

「碧くんの匂いがする」

 そう言って、ハナさんはクスクスと楽しそうに笑った。ぶかぶかのLサイズのTシャツは、小柄な彼女の太ももまでをすっぽりと覆い、まるでワンピースのようになっていた。

「疲れちゃった。横になりたい」

 部屋の隅にある、シングルベッドをハナさんが指さす。

「あ、こんなとこでよければ。狭くてごめんなさい」

 今朝シーツを交換しておいて良かった、と心の中で朝の自分に拍手を送りながら、シーツのしわを整えると、

「久し振りに泣いたら、なんだかすごく、疲れちゃった」

 ハナさんは小さく首を振って、吸い込まれるようにベッドの端に浅く腰掛けた。そして、そのままゆっくりと横たわり、壁側にころんと寝返りを打った。僕も部屋着に着替え、彼女の隣に寝ころび、ふたりでタオルケットに潜り込んだ。

 シングルベッドは大柄な僕と小柄なハナさんが横並びになると、寝返りさえ打てないほどに狭かった。お互いの肩と腕がぴったりと密着し、少しでも動けばベッドから転がり落ちてしまいそうになる。

「本当に狭いね」

 タオルケットの中で、ハナさんが身動きの取れない自分たちの状況が可笑しくなったのか、クスクスと喉を鳴らして笑い出した。

「すみません。中学までは可愛かったんですけど。高二の夏にはこの身長になっちゃったんで。無駄に成長してすみません」

 僕が恐縮して縮こまると、余計にバランスが崩れてベッドの端に追いやられる。それを見ていたハナさんは、今度は声を立ててケラケラと笑った。

「無駄って! ほら、もっとこっちにおいで、本当に落っこっちゃう」

「いや、でも」

「部屋に女を連れ込んでおいて今さら純情ぶらない」

 腹、くくりなさい、そう言って、ハナさんは僕の胸元に潜り込むようにして、自ら小さく体を丸めた。僕もおずおずとその華奢な背中に腕を回し、小さな身体を自分の一部にするようにそっと抱き締めた。たまらず、うわ、と声が洩れそうになった。小さくて華奢で、それなのにふわふわとやわらかな感触とぬくもりに、全身が湯舟に浸かった瞬間のように安心感に包まれた。ハナさんの短くなった髪の毛から、美容院のカラーリング剤の残り香とシャンプーの匂いに夜風の冷たさが混ざった香りがした。

 密着した二人の境界線が溶けていくようなその狭さが、今は何よりも愛おしくて、救いだった。深い静寂に包まれた部屋で、ハナさんは僕の胸に顔を埋めながら、独り言をこぼすようにぽつりとつぶやいた。

「私ね、福島で生まれ育ったの」

「……え」

 胸元から聞こえたその声に驚いて、僕はタオルケットを少しめくり上げた。

「嘘……僕も福島出身ですよ」

「ええっ、本当に? どこ? 福島のどのあたり?」

 ハナさんは弾かれたように顔を上げ、暗闇の中でくるくると大粒の瞳を宝石のように輝かせた。

「会津です。会津若松」

「白虎隊のとこだ。私はねえ、うーん、分かるかなあ………昭和村っていう、すごく山奥の田舎なんだけど」

「ああ、行ったことはないけど、場所は分かりますよ。奥会津ですよね。わりと近いですよね、会津と」

「凄いね! こんな偶然あるんだね」

 大都会のど真ん中で、まさか同じ故郷の空気を吸って育った男女が巡り逢うなんて。めずらしい事じゃないかもしれないけれど、僕には奇跡のように思えた。驚きとそれ以上の親近感がこみ上げ、僕たちの間にあった多少のぎこちなさが一気に払拭されたのを感じた。

「なーんかこう、ピピっと感じたのよねえ。初めて会った瞬間に。あ、私、この子となにかあるんだ、って。女の勘て当たるのよ」

 ハナさんはまるで少女に戻ったような屈託のない笑顔を見せた後、再び僕の胸にそっと頭を預けて、自身の生い立ちを降り出したばかりの雨のように語り始めた。

「私ね、両親がいないの。三歳の時、両親が交通事故で他界してから、おじいちゃんとおばあちゃんに育ててもらったの。二人は昭和村でかすみ草を育てて、出荷しながら、私を学校に通わせてくれたんだけど、たくさん苦労をかけちゃった」

「かすみ草……?」

「そ、かすみ草農家なの。私はいつもおじいちゃんたちのお手伝いをしながら、真っ白なかすみ草畑を駆け回っているような子だったの。かすみ草、大好きなの、私。すごいのよ、かすみ草畑。まるで雪が降り積もったみたいに真っ白で綺麗なの」

 ハナさんの実家がかすみ草農家だと知って、妙に納得した。ハナさんを初めて見た瞬間から、いつも思っていた。まるでかすみ草のような清く可憐な女性だと。彼女の原風景には故郷の白い花畑が広がっていたのだろう。

「高校を卒業した後、私はおじいちゃんたちの反対を押し切るようにして、昭和村を飛び出して、東京の大企業に就職したの。早く自立して、二人を安心させたくて。そこで、あの人と知り合ったの。同期入社だった」

 ハナさんの身体が微かに強張る。僕は彼女の背中を安心させるように優しくゆっくりと擦り続けた。

「あの人ね……最初からあんなふうじゃなかったの。あんな傲慢で理不尽な人じゃなかった。本当に」

 それは意外な言葉だった。

「あの頃は、誰よりも仕事に一生懸命でひたむきで、真っ直ぐで、部署が違う私にも凄く優しくて親切で。だから、好きになって、結婚した……でもね、変わっちゃった。結婚して、半年経った頃からかな」

 ハナさんは一度言葉を区切り、僕のTシャツの胸元をむしるようにぎゅっと握り締めた。

「あの人が、変わってしまったのはきっと……確実に、私のせいなんだと思う。私が……」

 ハナさんはそれ以上、理由を語ろうとはしなかった。そして僕も、何も聞かなかった。ただ、暗闇の中で抱きしめた彼女の全身から、言葉に出来ないほどの深い絶望が伝わってきた。

「……ごめん。なんでもない」

 ハナさんは自嘲気味に呟くと、僕の胸に救いを求めるようにしっかりと顔を埋め直した。

 僕たちはそれ以上の言葉を交わさなかった。キスをすることも、それ以上の関係に進むこともなく、ただお互いの鼓動と体温だけを重ね合わせていた。ハナさんが僕に身体の関係を望んでいないことは、なんとなく分かっていた。そして、不思議な事に、好きな人とどうこうしたいわけでもなく、僕もまたそれだけで満たされているのだった。

 ハナさんの小さな呼吸が、次第に深く、穏やかなものへと変わっていく。僕は彼女のつむじにそっと顎を乗せ、完全に眠りに就くまで、その小さな背中を何度も優しく擦り続けた。

 窓の外では、夜の渋谷のざわめきが遠くで静かに鳴り響いている。どうか、この夜が明けなければいい。このまま彼女を僕の腕の中に閉じ込めたまま、世界が終わってしまえばいいのに。そう願いながら、僕もまた、生まれて初めて知る深い安らぎの中で、ゆっくりと意識を失っていった。