僕とドライフラワー姫との再会は、翌日、四月六日の火曜日。二十時を回って間もなくのことだった。
今夜も予約の団体客で満席に近いイタリアンレストラン・フェリーチェの店内は、オーダーの声が飛び交い、お客様は会話を弾ませながら料理と酒に舌鼓を打ち、心地よい熱気に満ちていた。
カラン、とまるでオオルリの小気味よい鳴き声のようにドアベルが鳴り渡り、ドアが遠慮がちにゆっくりと開く。
「いらっしゃ……えっ」
エントランスに向かった僕は、その小動物のような姿を見た瞬間、危うく声を裏返しそうになった。
「こんばんは」
木陰からリスが様子を窺うかのように、ドアからひょっこりと顔を覗かせたのは、涼し気な淡い空色のワンピースに身を包んだドライフラワー姫だった。
「また来ちゃった。わぁ、今夜も混んでますね。入れますか?」
ふふっと肩をすくめさせてはにかむ彼女は、昨日の倍、驚くほど可愛らしく見えた。まるで白い小花が春のそよ風に揺れるように微笑んだと思えば、人懐こく小首をこてんと傾げて見せる。その仕草ひとつひとつが計算などではなく、本能的に愛らしく、僕の心臓は蝋燭の火がぽっと灯るように暖かくなった。
「いらっしゃいませ。今夜はおひとりさまですか?」
僕が問いかけると、彼女は胸の下まで長い黒髪をさらさらと肩からこぼれ落とした。そして、何がそんなに可笑しいのか、悪戯を思いついた子供みたいにクスクスと華奢な肩を揺らして笑う。
「そ。おひとりさまです」
その少女のような無垢な無邪気さに、またもや顔がカァッと熱くなる。ロングエプロンの下で手をぎゅっと握り締め、赤面しそうになるのをどうにかこうにか全力で堪えた。
どうしてだろう。彼女の言葉ひとつ、仕草ひとつに僕の心のセンサーが過剰なほどに反応してしまう。無性に、理屈抜きで、彼女の存在自体に激しく惹き付けられていた。
「席、ありますか?」
「あ、はい。あいにくテーブル席が全て埋まっていまして、カウンター席でしたらすぐにご案内できるのですが……」
「お願いします」
彼女は二つ返事でぺこりとお辞儀をした。そして、そのまま僕のパーソナルスペースを軽々と飛び越えるようにしてぐっと距離を詰めると、上目遣いに顔を覗き込んできた。心臓が飛び跳ねる。ふわりと彼女の身体から甘く爽やかな、まるで赤ちゃんのような香りが漂う。あまりの近さに心臓が耳の奥でバクバクと暴れ始めた。
「恋に落ちちゃったの」
「えっ!」
耳元で囁かれた突飛なひと言に、僕はぎょっとして思わず一歩後ずさった。そんな僕の過剰なリアクションを見て、彼女は悪戯が大成功した子供のように、瞳をキラキラと輝かせて、カラカラと声を立てて楽しそうに笑った。
「忘れられなくて。眠れないくらい、好きになっちゃったの」
「え……え、ええっ?」
完全にパニックになりつつある僕をさらに翻弄でもするかのように、彼女はひそひそと小声になり僕の耳に囁いた。
「昨日食べた、いちごとレッドキウイのサラダ」
「――えっ、あ、ああ! なんだ、そういうことですか」
「だから、今夜も食べに来たの」
なるほど、そういう意味か。真相を理解した途端、自分の自意識過剰さが急激に恥ずかしくなり、僕はあたふたしながら顔を背けて、彼女を席へと案内した。バカか、僕は。本当に呆れてしまう。恥ずかしいったらない。いや、こう見えても僕はわりとモテたほうだ。彼女だっていたし、童貞でもない。恋愛経験ゼロの中学生じゃあるまいし。何を勝手に勘違いして、期待したんだろう。
いや、でも、恋に落ちちゃったの、なんて。あんな整った顔で、あんなに人懐こく魅力的に微笑みながら言われたら、誰だって勘違いしてしまうと思う。昌也だってきっと勘違いすると思う。彼女の奔放な可愛らしさに、僕は完全に振り回されていた。
出張のサラリーマンや、ひとりでゆっくりしたい女性客に人気のオープンキッチンのカウンター席。その一番奥の席に彼女を案内し、ひと呼吸置いてからお水を持って注文を伺いに行った。
「本当に美味しすぎて。昨日、大声で叫びそうになったの。でも、昨日はあの人のせいで途中から味気なくなっちゃって。台無し。だから、今日は絶対一人で食べようって、リベンジしに来たの」
そう言って、彼女は季節のフルーツサラダとペスカトーレ、それから赤のグラスワインを注文した。
「リベンジ、いいですね。しかも、今日ラッキーですよ」
「えっ、なになに?」
「本日のフルーツサラダに使用しているいちご、埼玉県産のあまりんなんです。なかなか仕入れにくくて。すごく甘くておいしいんですよ」
「楽しみ!」
「メニューお下げしますね」
一礼してメニューを下げようとした時だった。彼女がメニューの反対側を細く綺麗な指先で摘まんで引っ張った。
「あ、追加のご注文ですか?」
尋ねた僕に、雨雲が太陽を隠すように、彼女は弾けるような笑顔をふっと陰らせた。黒々と潤んだ瞳に、まるで迷子になった子供がすがるような寂しさを滲ませて、秘密をこぼすように小さく掠れた声で囁いた。
「忘れられなかったの」
「……え?」
彼女がこぼしたそのひと言は、昨日食べたサラダのことではないのだと、直感的に理解した。
心臓に冷たくて鋭い矢が深く突き刺さったような、強烈な衝撃が走る。彼女の瞳の最深部に底知れない孤独と、逃げ場のない苦しさが見え隠れしている気がして、僕は一瞬、逃げ出したいような恐怖によく似た感覚に支配された。この人に深く関わると、きっともう逃れられなくなる。そう直感した。
戸惑い言葉を失い、しどろもどろな僕を見かねたのか、彼女はまた何事もなかったかのように「なぁんてね」と急にいたずらっ子のような表情に戻り、百八十度話題を逸らした。
「あのあとね、私、タクシーなんて使わずに、あの人が嫌がる電車で帰ってやったの。小さな反発。ちょっとだけ爽快だった」
そう言って不敵に、そして、どこか誇らしげに彼女はふふっと笑う。コロコロと表情を変え、万華鏡のように話題をすり替える、あまりにもつかみどころのない彼女に僕の心はすでに振り回されっぱなしだった。
その後、彼女は運ばれて来た季節のフルーツサラダとペスカトーレを今度は本当に心から美味しそうに無我夢中でぺろりと平らげ、満足そうな足取りで夜の恵比寿の街へと溶け込むように帰って行った。
その去り際の後ろ姿さえ、僕の目にはどうしようもなく可憐で小さな花束のように眩しく映って、仕方なかった。
それからだった。毎週火曜日の決まって二十時になると、彼女は決まってひとりで店に姿を現すようになった。
すっかりお気に入りになったカウンターの一番奥の席に腰を下ろすと、彼女はあのモラハラ夫の前で見せていた怯えるような様子など嘘のように、オーナーや僕たちと楽しそうに会話を弾ませていた。そして、運ばれて来た料理をそれはそれは美味しそうに頬を膨らませて、まるでハムスターのようにもりもりと平らげるのだった。
その無防備で愛らしい食べっぷりを見ているだけで、僕の胸は言葉にならない愛おしさでいっぱいになって爆発しそうになった。
「あの人、毎週火曜日は出張だって言って家を空けるの。たった一泊なのにね、これ見よがしに大きなスーツケースを引いて行くんだから。でも、私、全部知ってるの。あの人、毎週火曜の夜は“愛しのエリー”に会いに行ってることくらい、全部お見通しなんだから」
ペスカトーレのムール貝の身を器用に外しながら、彼女は悪戯っぽく片目をつむってみせた。夫の疑惑を悲しむわけでも怒るわけでもなく、むしろ毎週火曜日の夜に手に入る自由を心から祝福し謳歌しているような口ぶりだった。
「愛しのエリー?」
「そ。マイラブ、スイートなエリ―にね。毎週月曜日の夜になると、あの人のスマホからサザンの愛しのエリーが流れるの。すると、あの人、書斎に籠るんだけどね。リビングまで聴こえてくるの。優しくてあまーい話し声がね。エリーにはそんな声で囁くんだぁーって思うと、もー可笑しくて」
また、彼女は可憐な見かけによらず、驚くほどお酒に強かった。特に重めの赤ワインが好きで「グラスだと物足りないの」といつもデキャンタで注文する。そして、ガラスのデキャンタが底をつきかけてくる頃になってようやくほんのりと頬を桜色に染め、ほろ酔い加減でぺちゃくちゃと多弁になるのだった。
「あの……差し支えなければ、お名前を伺ってもいいですか?」
彼女が火曜日の常連客になって一月ほど経ち、季節も薫風香る五月も半ばの頃だった。ある火曜日の夜、デキャンタの二本目が空く頃合いを見計らって、
「常連さんの名前くらい知っておきたいなと思って。あ、でも、嫌なら全然構わないので、良かったら教えてください」
と切り出したのは昌也だった。
すると、彼女はそれまでの饒舌さが嘘のように一瞬だけ戸惑う表情を見せ、黒曜石のような黒目を左右に泳がせた。けれどすぐに胸の下まである美しい黒髪を、細い人差し指でハラリと肩の後ろへ流し、
「どうしよっかな」
私の名前は高額なのよ、と少女のように意味深にはにかんでみせた。
「私ね、名も知らない花なの」
「え?」
昌也が首を傾げながら黒縁伊達メガネを中指でくいっと上げ、僕はグラスを磨く手を止めて興味を示せば、僕たちの後方でパスタを茹でているオーナーも振り返り、彼女の名前に興味を示した。
「名前の名に、知らないで名知。名も知らないハナで、名知ハナ」
名知ハナ。
それは彼女の瑞々しい透明感に相反するような、ミステリアスで謎めいた印象を僕の心に猛烈に残した。
「素敵なお名前ですね。ハナさん、と呼んでも良いですか? それとも名知さんの方がいいですか?」
昌也の問いに、彼女は「前者で」と一切の躊躇も迷いもなく、即答した。
「ハナさんは、この近くにお住まいなんですか? 恵比寿とか、渋谷あたりとか」
昌也がカウンター越しに注文の伝票チェックをしながら、何気なく問いかける。すると、ハナさんは小さく首を振った。
「ここからはちょっと離れてるかな。でもね、火曜日はあの人が家を空けるから、夕方くらいからこの辺りをのんびり散歩するのが好きなの。渋谷から宮益坂を上って、青山通りをふらふらね。あの辺りって、春になると並木道がすごく綺麗でしょ」
その言葉に、僕と昌也は思わず顔を見合わせ、「青山通りですか?」と声を揃えてしまった。
「あ、うん。そうだけど……どうかしたの?」
ハナさんが不思議そうに小首をかしげると、黒髪が艶々と揺れた。
「いや、僕たち、その青山通りの大学生で。青学の二年生なんです」
「へえー! 青学なんだ!」
ハナさんはパッと顔を輝かせ、もしかしたらすれ違っていたのかもしれないね、なんて楽しそうに両手を合わせた。
ハナさんは青学のクラシカルなデザインの校舎や青山通りの並木道の話をしながら、生き生きと瞳を煌めかせていた。そんなふうに会話が弾んでいた真っ最中、ハナさんがカウンター越しに身を乗り出すようにしてふと僕の顔を覗き込み、
「きみの名前は?」
と尋ねてきた。
僕が答えるよりも早く、隣で伝票整理をしていた昌也が、ニタニタしながら会話に割り込んできた。
「ああ、こいつ、青学の碧くんなんですよ」
「青学のアオくん? なにそれ」
ハナさんは可笑しそうに、目尻を下げて聞き返した。
「いや、こいつ、この容姿なんでけっこう女子から人気あって。この店にも時々、こいつ目当てに早稲田とか明大とか、お茶の水の子たちとか来るんですよ。あ、こいつの名前、碧都なんで。その女子たちから、青学の碧くんって呼ばれてて」
全く要らない情報を盛大にばらまきやがって、と僕が昌也の脇腹を肘で小突くと、ハナさんは可笑しそうにくくくっと華奢な肩を震わせて笑った。
「モテるんだ、青学のアオくん。字は? どう書くの? 青学の青と一緒?」
「いや、王に石に白の、エメラルドの碧に都で碧都です。しゃれてますよねー。俺なんてどこにでもゴロゴロ転がってるような漢字ですよ?」
ひとしきり会話を盛り上げておきながら、昌也はエントランスの方を見て「あ、レジ行って来ます」と言い残し、会計対応のためにバタバタとカウンターを飛び出して行ってしまった。
あれほど盛り上がっていた会話がぷつりと途切れ、気まずいような、気恥ずかしいような空気が包み込む。ふたりきりになったカウンターの片隅で、ハナさんはデキャンタの残っていた赤ワインをグラスに注ぎ、
「青学の、碧くん」
ほろ酔いのとろんとした甘ったるい目で僕をじっと見つめてきた。
「フルネーム、聞いてもいい?」
「……高輪、です。高輪碧都です」
答えると、ハナさんはじっと何かを見定めるかのように僕の目を見つめた。そして、蚊が鳴くような、よほど耳を澄ませていなければ聞き逃してしまうような頼りない声で、ぽろりと呟いた。
「綺麗な名前だね」
そして、どこか寂しそうに微笑んだ。
「碧くんの碧って、とっても綺麗な色だよね。私、好きだなあ。澄んだ、深い青緑色。単なる青じゃなくて、何層にも重なるような奥行きのある、青緑色。私の大好きな湖と同じ色だね。碧くんの名前」
晴れるわけではなく、かと言って雨が降るわけでもない。曇り空のように曖昧な微笑み方が、僕には妙に気掛かりだった。なぜだか、今、ここで、僕が声を掛けなければ目の前にいる彼女はこのまま白く煙って、真冬の吐息のようにそのまま透けて消えてしまうんじゃないか。そんな根拠のない、けれど恐ろしいほどの予感に襲われて、僕はとっさに彼女の名前を口にしていた。
「ハナさん」
僕の声に、ハナさんはハッとした様子で我に返ったようだった。それまでの寂しげな表情を隠すようにぱあっと眩しいほどの笑顔になると、
「ごめん、ごめん。酔っ払いの戯言だよ」
そう言って、グラスに残っていた赤ワインをくーっと一気に、その小さな体に流し込んだ。
それからもハナさんは、毎週火曜日の二十時になると決まって店を訪れた。そして、決まってカウンターの一番奥の席に座り、閉店時間になるまで僕たちにぺちゃくちゃと、胸の奥にある澱をすべて吐き出すかのようにしゃべり倒しては、最後にはまたいつもの愛らしい笑顔を浮かべて、夜の恵比寿の街へ溶け込むように帰って行くのだった。
僕も昌也もオーナーも、常連客となったドライフラワー姫が訪れる火曜の二十時が楽しみになって、待ち望むようになっていた。
桜の季節はあっという間に瑞々しい新緑の季節に移ろい、気付けば燦燦と降り注ぐ日差しが肌を焦がす夏になっていた。ハナさんが大好きな季節のフルーツサラダのメインも、いちごから無花果へ、無花果から葡萄やザクロへと移り変わっていく。気付けばあれほど厳しかった夏の暑さも徐々に和らぎ、街を吹き抜ける風もほんのりと冷たさを帯びる秋になろうとしていた。
そんな季節の変わり目の、ある火曜日の夜のことだ。
いつもなら扉の鳴り鈴がコマドリのように美しく響くはずの二十時を過ぎても、ハナさんは現れなかった。いつもならそろそろあの扉からひょっこりと小さな顔を覗かせて、ワンピースの裾をひらりと揺らしながら現れる頃なのに。
時計の針が二十一時に届いても、ハナさんの座るべきカウンターの特等席はぽっかりと空いたまま、結局、その夜、ハナさんが食事をしにやって来ることはなかった。
あの日以来、雨が降ろうが、台風が上陸しようが、雷が轟こうが、毎週欠かさず食事をしに来店してくれていたのに。
「ハナさん、来なかったね。体調でも崩したかな。今日は良いピオーネが手に入ったから、食べて欲しかったんだけどね。残念」
閉店直後、片付け作業に取り掛かりながら、オーナーが寂しそうに何度か入り口のドアへと視線を送っていた。すべての片付けを終えて、僕と昌也が店の裏口から出た時にはすでに二十三時近くになっていた。恵比寿の細い路地には、昼間の熱をすっかり失った秋の気配が満ちている。
「どーしちゃったんですかねえー。青学の碧くんの、愛しのドライフラワー姫さまは」
隣を歩く昌也が、からかうように僕の肩をどんと小突いて、ニタニタと顔を覗き込んできた。
「ずーっと待ち焦がれてたのに、残念だったなー」
「なっ! ばか、なに言ってんだよ、からかうなよ」
ギクリと心臓が跳ね上がりしどろもどろになる僕を見て、昌也はダミーのメガネの奥で目を細め「わっかりやすぅー」と可笑しそうに声を立てて笑った。
「まあまあ、碧都の気持ち、分からんくもないけど。あの可愛さであのギャップは、確かにヤバい。同年代の女子にはない色気もありーの、可愛さありーの、でも芯がブレてない感じとかね。刺さるよな」
けれど、裏口を出た細い路地を抜けて正面の少し広い通りに出たところで、昌也はふっと笑みを消した。そして、歩調を緩めて僕の肩を優しく弾くように叩いた。
「でもな、碧都」
その声はいつになく真面目で、どこか僕を案じているような重みを含んでいた。
「あの人、既婚者よ。人妻。分かる? しかも、あのモラハラ不倫夫の奥さんなわけ……あんまり、深く首突っ込まないほうがいいぞ」
「いや……別に、僕はそんなつもりじゃ」
僕は視線を泳がせながら、唇をつんと尖らせ、小さな声でまるで言い訳のように呟いた。
昌也の言っていることは、ぐうの音も出ないほど正論だった。学生の僕が、どれだけ彼女の愛らしさに惹かれ、その傷付いた姿に胸を痛めたところで、彼女は他人の妻なのだ。一線を越えていい相手ではないことくらい、学生の僕がいちばんよく分かっている。
分かっている、はずなのに。
「僕はただ――」
その時だった。
店の正面の通りへ出た時、昌也が何かに気付いたように、店先の薄暗い街灯の下
を見つめて、ぴたりと足を止めた。黒縁メガネの奥の目を糸のように細め、怪訝そうに首を傾げる。
「はぁぁ? もうじき日付変わるんですけど」
その視線の先、レストランフェリーチェのドアの前に、ぽつんとちんまりとした人影が佇んでいる……ように見える。目を凝らす昌也の横で、僕もじっと目を凝らした。
その小柄なシルエットは、閉店して明かりが消えた店内を、ドアのガラスに顔を近付けるようにして覗き込んでいるようだった。
「あの、もう閉店……」
声を掛けようと一歩踏み出した僕の腕を、昌也が強い力でぐいっと引き戻した。振り返ると、昌也は固い表情で小さく首を振った。
「バカ、いいって、子供じゃあるまいし。放っておけって。こんな時間に、酔っ払いに決まってるって」
「そうかな……でもなんか」
「いいって。酔っ払いに関わってたら、終電になっちゃうって。明日も講義あるし、帰るぞ」
「え、でも……」
「いいから行くぞ」
昌也に半ば引きずられるようにして、僕はしぶしぶと歩き出した。足に錘が付いているように重く感じる。なぜか閉店した店内を覗き込む小柄なシルエットが妙に気掛かりで、心臓がざわざわと騒ぎ立てる。僕は何度も首をねじ切りそうになりながら振り返り、夜の闇に溶けていくそのシルエットを見つめ続けた。
なぜだろう。言葉にする根拠なんてなにもないのに、僕はなぜかさっきのシルエットの正体を知っている気がしてならなかった。ある直感が頭にこびりついて離れず、隣を歩く昌也の声が右から左へと虚しく通り過ぎていく。
「だからさ……碧都? なあ、聞いてるか? おいって」
「あ、うん……」
「全然聞いてねえじゃん」
昌也に背中をどんと強く小突かれて、ようやくハッと我に返った。気付けば、目の前には見慣れた二十三時過ぎの人もまばらな恵比寿駅のロータリーが
広がっていた。昌也が呆れたといわんばかりの面持ちで僕の顔を覗き込んでいる。
「なんだよ……そんなにショックだったのか。ハナさんが来なかったのが」
「いや……違くてさ……」
「だめだって。やめとけ。あれは深みにハマるとまじでしんどくなるぞ」
「いや、だから、そうじゃなくてさ」
「モラハラ、束縛、不倫。それだけのことされてるのに別れないとかさ、なんか絶対訳アリに決まってるって。触らぬ神に祟りなしだって。な」
いや、違うんだ、昌也。僕がいま怯えているのはそんなことじゃない。うまく説明できないんだけれど、ハナさんが、今にも消えてしまいそうで、もう会えなくなってしまうような気がして、ただ漠然と怖いんだ。
「……ごめん、昌也」
僕は立ち止まり、昌也に向かって短命に頭を下げた。その瞬間、胸の奥でカチリと引き返す覚悟が固まる音がした。
「先に帰って。また明日……お疲れ!」
「は? おい、どこ行くんだよ! 碧都!」
背後から聞こえる昌也の引き止める声を置き去りにして、僕は振り返ることもせず、ただ真っ直ぐに来た道を全力で引き返した。
夜も更ける恵比寿ガーデンプレイスの石畳を、息を切らして駆け抜ける。秋の冷たい風が容赦なく頬を叩く。全力で走っているつもりなのに、足はちっとも軽くならないし重くなる一方だった。細い路地へと力任せに飛び込む。
不思議と確信があった。あの小柄なシルエットは、ハナさんだと。もし、もう誰もいなければそれはそれでいい。単なる僕の勘違いだったとしても構わない。でも、もし、本当にあれがハナさんだったとしたなら、彼女の中で何かがあったんじゃないかと思う。
あのシルエットがハナさんだという前提で考えれば、確実に違和感があった。あの一瞬、街灯のぼんやりとした明かりの下で見たのは、ハナさんにしてはあまりにもボーイッシュなシルエットだった。
胸を焦がすような予感に突き動かされながら恵比寿の街を駆け抜ける僕の上空には、刃物のように鋭く欠けた月が、朝霧のような夜の帳の中にぼんやりと浮かんでいた。
今夜も予約の団体客で満席に近いイタリアンレストラン・フェリーチェの店内は、オーダーの声が飛び交い、お客様は会話を弾ませながら料理と酒に舌鼓を打ち、心地よい熱気に満ちていた。
カラン、とまるでオオルリの小気味よい鳴き声のようにドアベルが鳴り渡り、ドアが遠慮がちにゆっくりと開く。
「いらっしゃ……えっ」
エントランスに向かった僕は、その小動物のような姿を見た瞬間、危うく声を裏返しそうになった。
「こんばんは」
木陰からリスが様子を窺うかのように、ドアからひょっこりと顔を覗かせたのは、涼し気な淡い空色のワンピースに身を包んだドライフラワー姫だった。
「また来ちゃった。わぁ、今夜も混んでますね。入れますか?」
ふふっと肩をすくめさせてはにかむ彼女は、昨日の倍、驚くほど可愛らしく見えた。まるで白い小花が春のそよ風に揺れるように微笑んだと思えば、人懐こく小首をこてんと傾げて見せる。その仕草ひとつひとつが計算などではなく、本能的に愛らしく、僕の心臓は蝋燭の火がぽっと灯るように暖かくなった。
「いらっしゃいませ。今夜はおひとりさまですか?」
僕が問いかけると、彼女は胸の下まで長い黒髪をさらさらと肩からこぼれ落とした。そして、何がそんなに可笑しいのか、悪戯を思いついた子供みたいにクスクスと華奢な肩を揺らして笑う。
「そ。おひとりさまです」
その少女のような無垢な無邪気さに、またもや顔がカァッと熱くなる。ロングエプロンの下で手をぎゅっと握り締め、赤面しそうになるのをどうにかこうにか全力で堪えた。
どうしてだろう。彼女の言葉ひとつ、仕草ひとつに僕の心のセンサーが過剰なほどに反応してしまう。無性に、理屈抜きで、彼女の存在自体に激しく惹き付けられていた。
「席、ありますか?」
「あ、はい。あいにくテーブル席が全て埋まっていまして、カウンター席でしたらすぐにご案内できるのですが……」
「お願いします」
彼女は二つ返事でぺこりとお辞儀をした。そして、そのまま僕のパーソナルスペースを軽々と飛び越えるようにしてぐっと距離を詰めると、上目遣いに顔を覗き込んできた。心臓が飛び跳ねる。ふわりと彼女の身体から甘く爽やかな、まるで赤ちゃんのような香りが漂う。あまりの近さに心臓が耳の奥でバクバクと暴れ始めた。
「恋に落ちちゃったの」
「えっ!」
耳元で囁かれた突飛なひと言に、僕はぎょっとして思わず一歩後ずさった。そんな僕の過剰なリアクションを見て、彼女は悪戯が大成功した子供のように、瞳をキラキラと輝かせて、カラカラと声を立てて楽しそうに笑った。
「忘れられなくて。眠れないくらい、好きになっちゃったの」
「え……え、ええっ?」
完全にパニックになりつつある僕をさらに翻弄でもするかのように、彼女はひそひそと小声になり僕の耳に囁いた。
「昨日食べた、いちごとレッドキウイのサラダ」
「――えっ、あ、ああ! なんだ、そういうことですか」
「だから、今夜も食べに来たの」
なるほど、そういう意味か。真相を理解した途端、自分の自意識過剰さが急激に恥ずかしくなり、僕はあたふたしながら顔を背けて、彼女を席へと案内した。バカか、僕は。本当に呆れてしまう。恥ずかしいったらない。いや、こう見えても僕はわりとモテたほうだ。彼女だっていたし、童貞でもない。恋愛経験ゼロの中学生じゃあるまいし。何を勝手に勘違いして、期待したんだろう。
いや、でも、恋に落ちちゃったの、なんて。あんな整った顔で、あんなに人懐こく魅力的に微笑みながら言われたら、誰だって勘違いしてしまうと思う。昌也だってきっと勘違いすると思う。彼女の奔放な可愛らしさに、僕は完全に振り回されていた。
出張のサラリーマンや、ひとりでゆっくりしたい女性客に人気のオープンキッチンのカウンター席。その一番奥の席に彼女を案内し、ひと呼吸置いてからお水を持って注文を伺いに行った。
「本当に美味しすぎて。昨日、大声で叫びそうになったの。でも、昨日はあの人のせいで途中から味気なくなっちゃって。台無し。だから、今日は絶対一人で食べようって、リベンジしに来たの」
そう言って、彼女は季節のフルーツサラダとペスカトーレ、それから赤のグラスワインを注文した。
「リベンジ、いいですね。しかも、今日ラッキーですよ」
「えっ、なになに?」
「本日のフルーツサラダに使用しているいちご、埼玉県産のあまりんなんです。なかなか仕入れにくくて。すごく甘くておいしいんですよ」
「楽しみ!」
「メニューお下げしますね」
一礼してメニューを下げようとした時だった。彼女がメニューの反対側を細く綺麗な指先で摘まんで引っ張った。
「あ、追加のご注文ですか?」
尋ねた僕に、雨雲が太陽を隠すように、彼女は弾けるような笑顔をふっと陰らせた。黒々と潤んだ瞳に、まるで迷子になった子供がすがるような寂しさを滲ませて、秘密をこぼすように小さく掠れた声で囁いた。
「忘れられなかったの」
「……え?」
彼女がこぼしたそのひと言は、昨日食べたサラダのことではないのだと、直感的に理解した。
心臓に冷たくて鋭い矢が深く突き刺さったような、強烈な衝撃が走る。彼女の瞳の最深部に底知れない孤独と、逃げ場のない苦しさが見え隠れしている気がして、僕は一瞬、逃げ出したいような恐怖によく似た感覚に支配された。この人に深く関わると、きっともう逃れられなくなる。そう直感した。
戸惑い言葉を失い、しどろもどろな僕を見かねたのか、彼女はまた何事もなかったかのように「なぁんてね」と急にいたずらっ子のような表情に戻り、百八十度話題を逸らした。
「あのあとね、私、タクシーなんて使わずに、あの人が嫌がる電車で帰ってやったの。小さな反発。ちょっとだけ爽快だった」
そう言って不敵に、そして、どこか誇らしげに彼女はふふっと笑う。コロコロと表情を変え、万華鏡のように話題をすり替える、あまりにもつかみどころのない彼女に僕の心はすでに振り回されっぱなしだった。
その後、彼女は運ばれて来た季節のフルーツサラダとペスカトーレを今度は本当に心から美味しそうに無我夢中でぺろりと平らげ、満足そうな足取りで夜の恵比寿の街へと溶け込むように帰って行った。
その去り際の後ろ姿さえ、僕の目にはどうしようもなく可憐で小さな花束のように眩しく映って、仕方なかった。
それからだった。毎週火曜日の決まって二十時になると、彼女は決まってひとりで店に姿を現すようになった。
すっかりお気に入りになったカウンターの一番奥の席に腰を下ろすと、彼女はあのモラハラ夫の前で見せていた怯えるような様子など嘘のように、オーナーや僕たちと楽しそうに会話を弾ませていた。そして、運ばれて来た料理をそれはそれは美味しそうに頬を膨らませて、まるでハムスターのようにもりもりと平らげるのだった。
その無防備で愛らしい食べっぷりを見ているだけで、僕の胸は言葉にならない愛おしさでいっぱいになって爆発しそうになった。
「あの人、毎週火曜日は出張だって言って家を空けるの。たった一泊なのにね、これ見よがしに大きなスーツケースを引いて行くんだから。でも、私、全部知ってるの。あの人、毎週火曜の夜は“愛しのエリー”に会いに行ってることくらい、全部お見通しなんだから」
ペスカトーレのムール貝の身を器用に外しながら、彼女は悪戯っぽく片目をつむってみせた。夫の疑惑を悲しむわけでも怒るわけでもなく、むしろ毎週火曜日の夜に手に入る自由を心から祝福し謳歌しているような口ぶりだった。
「愛しのエリー?」
「そ。マイラブ、スイートなエリ―にね。毎週月曜日の夜になると、あの人のスマホからサザンの愛しのエリーが流れるの。すると、あの人、書斎に籠るんだけどね。リビングまで聴こえてくるの。優しくてあまーい話し声がね。エリーにはそんな声で囁くんだぁーって思うと、もー可笑しくて」
また、彼女は可憐な見かけによらず、驚くほどお酒に強かった。特に重めの赤ワインが好きで「グラスだと物足りないの」といつもデキャンタで注文する。そして、ガラスのデキャンタが底をつきかけてくる頃になってようやくほんのりと頬を桜色に染め、ほろ酔い加減でぺちゃくちゃと多弁になるのだった。
「あの……差し支えなければ、お名前を伺ってもいいですか?」
彼女が火曜日の常連客になって一月ほど経ち、季節も薫風香る五月も半ばの頃だった。ある火曜日の夜、デキャンタの二本目が空く頃合いを見計らって、
「常連さんの名前くらい知っておきたいなと思って。あ、でも、嫌なら全然構わないので、良かったら教えてください」
と切り出したのは昌也だった。
すると、彼女はそれまでの饒舌さが嘘のように一瞬だけ戸惑う表情を見せ、黒曜石のような黒目を左右に泳がせた。けれどすぐに胸の下まである美しい黒髪を、細い人差し指でハラリと肩の後ろへ流し、
「どうしよっかな」
私の名前は高額なのよ、と少女のように意味深にはにかんでみせた。
「私ね、名も知らない花なの」
「え?」
昌也が首を傾げながら黒縁伊達メガネを中指でくいっと上げ、僕はグラスを磨く手を止めて興味を示せば、僕たちの後方でパスタを茹でているオーナーも振り返り、彼女の名前に興味を示した。
「名前の名に、知らないで名知。名も知らないハナで、名知ハナ」
名知ハナ。
それは彼女の瑞々しい透明感に相反するような、ミステリアスで謎めいた印象を僕の心に猛烈に残した。
「素敵なお名前ですね。ハナさん、と呼んでも良いですか? それとも名知さんの方がいいですか?」
昌也の問いに、彼女は「前者で」と一切の躊躇も迷いもなく、即答した。
「ハナさんは、この近くにお住まいなんですか? 恵比寿とか、渋谷あたりとか」
昌也がカウンター越しに注文の伝票チェックをしながら、何気なく問いかける。すると、ハナさんは小さく首を振った。
「ここからはちょっと離れてるかな。でもね、火曜日はあの人が家を空けるから、夕方くらいからこの辺りをのんびり散歩するのが好きなの。渋谷から宮益坂を上って、青山通りをふらふらね。あの辺りって、春になると並木道がすごく綺麗でしょ」
その言葉に、僕と昌也は思わず顔を見合わせ、「青山通りですか?」と声を揃えてしまった。
「あ、うん。そうだけど……どうかしたの?」
ハナさんが不思議そうに小首をかしげると、黒髪が艶々と揺れた。
「いや、僕たち、その青山通りの大学生で。青学の二年生なんです」
「へえー! 青学なんだ!」
ハナさんはパッと顔を輝かせ、もしかしたらすれ違っていたのかもしれないね、なんて楽しそうに両手を合わせた。
ハナさんは青学のクラシカルなデザインの校舎や青山通りの並木道の話をしながら、生き生きと瞳を煌めかせていた。そんなふうに会話が弾んでいた真っ最中、ハナさんがカウンター越しに身を乗り出すようにしてふと僕の顔を覗き込み、
「きみの名前は?」
と尋ねてきた。
僕が答えるよりも早く、隣で伝票整理をしていた昌也が、ニタニタしながら会話に割り込んできた。
「ああ、こいつ、青学の碧くんなんですよ」
「青学のアオくん? なにそれ」
ハナさんは可笑しそうに、目尻を下げて聞き返した。
「いや、こいつ、この容姿なんでけっこう女子から人気あって。この店にも時々、こいつ目当てに早稲田とか明大とか、お茶の水の子たちとか来るんですよ。あ、こいつの名前、碧都なんで。その女子たちから、青学の碧くんって呼ばれてて」
全く要らない情報を盛大にばらまきやがって、と僕が昌也の脇腹を肘で小突くと、ハナさんは可笑しそうにくくくっと華奢な肩を震わせて笑った。
「モテるんだ、青学のアオくん。字は? どう書くの? 青学の青と一緒?」
「いや、王に石に白の、エメラルドの碧に都で碧都です。しゃれてますよねー。俺なんてどこにでもゴロゴロ転がってるような漢字ですよ?」
ひとしきり会話を盛り上げておきながら、昌也はエントランスの方を見て「あ、レジ行って来ます」と言い残し、会計対応のためにバタバタとカウンターを飛び出して行ってしまった。
あれほど盛り上がっていた会話がぷつりと途切れ、気まずいような、気恥ずかしいような空気が包み込む。ふたりきりになったカウンターの片隅で、ハナさんはデキャンタの残っていた赤ワインをグラスに注ぎ、
「青学の、碧くん」
ほろ酔いのとろんとした甘ったるい目で僕をじっと見つめてきた。
「フルネーム、聞いてもいい?」
「……高輪、です。高輪碧都です」
答えると、ハナさんはじっと何かを見定めるかのように僕の目を見つめた。そして、蚊が鳴くような、よほど耳を澄ませていなければ聞き逃してしまうような頼りない声で、ぽろりと呟いた。
「綺麗な名前だね」
そして、どこか寂しそうに微笑んだ。
「碧くんの碧って、とっても綺麗な色だよね。私、好きだなあ。澄んだ、深い青緑色。単なる青じゃなくて、何層にも重なるような奥行きのある、青緑色。私の大好きな湖と同じ色だね。碧くんの名前」
晴れるわけではなく、かと言って雨が降るわけでもない。曇り空のように曖昧な微笑み方が、僕には妙に気掛かりだった。なぜだか、今、ここで、僕が声を掛けなければ目の前にいる彼女はこのまま白く煙って、真冬の吐息のようにそのまま透けて消えてしまうんじゃないか。そんな根拠のない、けれど恐ろしいほどの予感に襲われて、僕はとっさに彼女の名前を口にしていた。
「ハナさん」
僕の声に、ハナさんはハッとした様子で我に返ったようだった。それまでの寂しげな表情を隠すようにぱあっと眩しいほどの笑顔になると、
「ごめん、ごめん。酔っ払いの戯言だよ」
そう言って、グラスに残っていた赤ワインをくーっと一気に、その小さな体に流し込んだ。
それからもハナさんは、毎週火曜日の二十時になると決まって店を訪れた。そして、決まってカウンターの一番奥の席に座り、閉店時間になるまで僕たちにぺちゃくちゃと、胸の奥にある澱をすべて吐き出すかのようにしゃべり倒しては、最後にはまたいつもの愛らしい笑顔を浮かべて、夜の恵比寿の街へ溶け込むように帰って行くのだった。
僕も昌也もオーナーも、常連客となったドライフラワー姫が訪れる火曜の二十時が楽しみになって、待ち望むようになっていた。
桜の季節はあっという間に瑞々しい新緑の季節に移ろい、気付けば燦燦と降り注ぐ日差しが肌を焦がす夏になっていた。ハナさんが大好きな季節のフルーツサラダのメインも、いちごから無花果へ、無花果から葡萄やザクロへと移り変わっていく。気付けばあれほど厳しかった夏の暑さも徐々に和らぎ、街を吹き抜ける風もほんのりと冷たさを帯びる秋になろうとしていた。
そんな季節の変わり目の、ある火曜日の夜のことだ。
いつもなら扉の鳴り鈴がコマドリのように美しく響くはずの二十時を過ぎても、ハナさんは現れなかった。いつもならそろそろあの扉からひょっこりと小さな顔を覗かせて、ワンピースの裾をひらりと揺らしながら現れる頃なのに。
時計の針が二十一時に届いても、ハナさんの座るべきカウンターの特等席はぽっかりと空いたまま、結局、その夜、ハナさんが食事をしにやって来ることはなかった。
あの日以来、雨が降ろうが、台風が上陸しようが、雷が轟こうが、毎週欠かさず食事をしに来店してくれていたのに。
「ハナさん、来なかったね。体調でも崩したかな。今日は良いピオーネが手に入ったから、食べて欲しかったんだけどね。残念」
閉店直後、片付け作業に取り掛かりながら、オーナーが寂しそうに何度か入り口のドアへと視線を送っていた。すべての片付けを終えて、僕と昌也が店の裏口から出た時にはすでに二十三時近くになっていた。恵比寿の細い路地には、昼間の熱をすっかり失った秋の気配が満ちている。
「どーしちゃったんですかねえー。青学の碧くんの、愛しのドライフラワー姫さまは」
隣を歩く昌也が、からかうように僕の肩をどんと小突いて、ニタニタと顔を覗き込んできた。
「ずーっと待ち焦がれてたのに、残念だったなー」
「なっ! ばか、なに言ってんだよ、からかうなよ」
ギクリと心臓が跳ね上がりしどろもどろになる僕を見て、昌也はダミーのメガネの奥で目を細め「わっかりやすぅー」と可笑しそうに声を立てて笑った。
「まあまあ、碧都の気持ち、分からんくもないけど。あの可愛さであのギャップは、確かにヤバい。同年代の女子にはない色気もありーの、可愛さありーの、でも芯がブレてない感じとかね。刺さるよな」
けれど、裏口を出た細い路地を抜けて正面の少し広い通りに出たところで、昌也はふっと笑みを消した。そして、歩調を緩めて僕の肩を優しく弾くように叩いた。
「でもな、碧都」
その声はいつになく真面目で、どこか僕を案じているような重みを含んでいた。
「あの人、既婚者よ。人妻。分かる? しかも、あのモラハラ不倫夫の奥さんなわけ……あんまり、深く首突っ込まないほうがいいぞ」
「いや……別に、僕はそんなつもりじゃ」
僕は視線を泳がせながら、唇をつんと尖らせ、小さな声でまるで言い訳のように呟いた。
昌也の言っていることは、ぐうの音も出ないほど正論だった。学生の僕が、どれだけ彼女の愛らしさに惹かれ、その傷付いた姿に胸を痛めたところで、彼女は他人の妻なのだ。一線を越えていい相手ではないことくらい、学生の僕がいちばんよく分かっている。
分かっている、はずなのに。
「僕はただ――」
その時だった。
店の正面の通りへ出た時、昌也が何かに気付いたように、店先の薄暗い街灯の下
を見つめて、ぴたりと足を止めた。黒縁メガネの奥の目を糸のように細め、怪訝そうに首を傾げる。
「はぁぁ? もうじき日付変わるんですけど」
その視線の先、レストランフェリーチェのドアの前に、ぽつんとちんまりとした人影が佇んでいる……ように見える。目を凝らす昌也の横で、僕もじっと目を凝らした。
その小柄なシルエットは、閉店して明かりが消えた店内を、ドアのガラスに顔を近付けるようにして覗き込んでいるようだった。
「あの、もう閉店……」
声を掛けようと一歩踏み出した僕の腕を、昌也が強い力でぐいっと引き戻した。振り返ると、昌也は固い表情で小さく首を振った。
「バカ、いいって、子供じゃあるまいし。放っておけって。こんな時間に、酔っ払いに決まってるって」
「そうかな……でもなんか」
「いいって。酔っ払いに関わってたら、終電になっちゃうって。明日も講義あるし、帰るぞ」
「え、でも……」
「いいから行くぞ」
昌也に半ば引きずられるようにして、僕はしぶしぶと歩き出した。足に錘が付いているように重く感じる。なぜか閉店した店内を覗き込む小柄なシルエットが妙に気掛かりで、心臓がざわざわと騒ぎ立てる。僕は何度も首をねじ切りそうになりながら振り返り、夜の闇に溶けていくそのシルエットを見つめ続けた。
なぜだろう。言葉にする根拠なんてなにもないのに、僕はなぜかさっきのシルエットの正体を知っている気がしてならなかった。ある直感が頭にこびりついて離れず、隣を歩く昌也の声が右から左へと虚しく通り過ぎていく。
「だからさ……碧都? なあ、聞いてるか? おいって」
「あ、うん……」
「全然聞いてねえじゃん」
昌也に背中をどんと強く小突かれて、ようやくハッと我に返った。気付けば、目の前には見慣れた二十三時過ぎの人もまばらな恵比寿駅のロータリーが
広がっていた。昌也が呆れたといわんばかりの面持ちで僕の顔を覗き込んでいる。
「なんだよ……そんなにショックだったのか。ハナさんが来なかったのが」
「いや……違くてさ……」
「だめだって。やめとけ。あれは深みにハマるとまじでしんどくなるぞ」
「いや、だから、そうじゃなくてさ」
「モラハラ、束縛、不倫。それだけのことされてるのに別れないとかさ、なんか絶対訳アリに決まってるって。触らぬ神に祟りなしだって。な」
いや、違うんだ、昌也。僕がいま怯えているのはそんなことじゃない。うまく説明できないんだけれど、ハナさんが、今にも消えてしまいそうで、もう会えなくなってしまうような気がして、ただ漠然と怖いんだ。
「……ごめん、昌也」
僕は立ち止まり、昌也に向かって短命に頭を下げた。その瞬間、胸の奥でカチリと引き返す覚悟が固まる音がした。
「先に帰って。また明日……お疲れ!」
「は? おい、どこ行くんだよ! 碧都!」
背後から聞こえる昌也の引き止める声を置き去りにして、僕は振り返ることもせず、ただ真っ直ぐに来た道を全力で引き返した。
夜も更ける恵比寿ガーデンプレイスの石畳を、息を切らして駆け抜ける。秋の冷たい風が容赦なく頬を叩く。全力で走っているつもりなのに、足はちっとも軽くならないし重くなる一方だった。細い路地へと力任せに飛び込む。
不思議と確信があった。あの小柄なシルエットは、ハナさんだと。もし、もう誰もいなければそれはそれでいい。単なる僕の勘違いだったとしても構わない。でも、もし、本当にあれがハナさんだったとしたなら、彼女の中で何かがあったんじゃないかと思う。
あのシルエットがハナさんだという前提で考えれば、確実に違和感があった。あの一瞬、街灯のぼんやりとした明かりの下で見たのは、ハナさんにしてはあまりにもボーイッシュなシルエットだった。
胸を焦がすような予感に突き動かされながら恵比寿の街を駆け抜ける僕の上空には、刃物のように鋭く欠けた月が、朝霧のような夜の帳の中にぼんやりと浮かんでいた。

