渋谷の喧騒を抜け、宮益坂から青山通りへと上っていくと、街の空気が少しずつ落ち着いたものへと変わっていく。
四月初旬の澄んだ朝の光が、青山学院大学の正門へと続く並木道を真っ直ぐに照らしていた。その奥に見えるクラシカルな校舎の背景には、吸い込まれそうなほどに深い春の青空が広がっている。
僕は青学の教育学科の二年生になった。新年度の前期を迎えたばかりのキャンパス周辺は、新生活に胸を膨らませる初々しい新入生たちの高揚感や、春季休業明けに久しぶりに再会した在学生たちの笑い声で活気づいていた。
「おはよー、碧都」
背後から駆け寄って来た昌也が、大きなあくびを噛み殺しながら僕の隣に並んだ。
「おはよ。 あれ? 昌也も今日一限目からだったっけ?」
「そそ。ぐはー、だるいわー。今朝さ、青学入って初めて講義サボろうかって五十回くらい考えたのに……お前はなんでそんな朝から爽やかなんだよ」
「はぁ?」
「うわっ。そんなキラキラした目で世界を見るんじゃねえ。眩しいわ」
「なんだよそれ」
思わず吹き出しそうになった。昨夜、バイト終わりにオーナーが連れて行ってくれた落ち着いた雰囲気のお洒落なバーで、調子に乗ってウォッカを煽っていた昌也の姿が脳裏をよぎる。案の定、絶賛二日酔いらしい。
「だから僕もオーナーも止めたのに、ウオッカはやめとけって。それを無視して六杯も飲んだのは昌也だからな。その後もチャンポンしてただろ」
「あー、言うな、頭に響く……」
天を仰いでこめかみを押さえる昌也は、生まれも育ちも東京の生粋の都会っ子だ。すらりとした長身で顔立ちも整っていて、何気なく羽織ったジャケットの着こなしもどこかスタイリッシュ。それでいて全く気取らないし、気さくでめちゃくちゃ付き合いやすい。何より初対面から不思議と気が合った。
黒縁の伊達メガネが昌也のトレードマークなのだが、以前その理由を聞いてみたら「知的に見えればモテるんじゃないかと思ってさ」と大真面目に答えた。そんな飾らなくてどこか飄々とした性格が、地方出身の僕には妙に居心地が良かった。
「昌也、今日も夕方からシフト入ってるよな?」
「ああ、うん、入ってる」
「今日、平日のわりにディナーの予約けっこうキツキツに入ってた気がする。そんな二日酔いで大丈夫か?」
「や、まじでそれ。まあ……バイトまでには復活する予定なんで」
昌也は自信なさげに情けない声を上げて肩を落とした。僕たちの頭上を覆う瑞々しい若葉の隙間から、春の日差しがきらきらとこぼれ落ち、アスファルトの上にやわらかな光の模様を描き出していた。すぐ近くを走る国道の激しい騒音さえも、この春の穏やかな陽光にしっとりと溶けていくようだ。
通り沿いのカフェからは、香ばしく焙煎された珈琲の香りがふわりと漂ってくる。都会の高層ビル群の合間に、まるで奇跡のように静かで爽やかな時間が流れていた。
午後の講義を終えて、まだ少し硬さの残る春の風を浴びながら、僕は足早に渋谷駅へと向かった。
山手線に揺られて一駅。恵比寿駅の改札を抜けて緩やかな坂道を上っていくと、午後四時のやわらかな春の陽光に照らされた恵比寿ガーデンプレイスのレンガ色の街並みが現れる。その喧騒から一本外れた静かな路地に入れば、バイト先のイタリアンレストラン・フェリーチェがこぢんまりと佇んでいる。
「おはようございます」
「おー、碧都。昨日はお疲れ」
「昨日はごちそうさまでした」
「どういたしまして。それより、早く来てくれて助かったー」
扉を開けるとオーナーシェフの宗吾さんがテキパキと仕込みの手を動かしながら、弾かれたように顔を上げて苦笑いした。その様子だけで言いたいことが手に取るように分かる。どうやら今夜は忙しくなるらしい。時々こういう平日の夜がある。特にイベントがあるわけでもないのに、やたらと予約が入る平日だ。
「や、なんか、感じたんですよ。今日はやばそうだなって」
「や、まさにそれですよ。碧都の勘はすごいねー」
厨房の中はすでにただならぬ慌ただしさが漂い、まだオープン前のがらんとした店内には食欲をそそるスパイスの良い香りが充満していた。
「来て早々で悪いんだけどさ」
とオーナーが申し訳なさそうに肩をすくめる。
「さっきイレギュラーで、もう一組六名の団体の予約が入ったんだよね。だからもう飛び入りのお客さん来ても、空きのテーブル席一組しか入れない感じ。で、悪いんだけど、着替えたらすぐホール出られる?」
「オッケーです! すぐ着替えて来ますね」
「助かるよ、まじで」
店の奥にあるひどく狭い更衣室。僕は制服の黒のスラックスに白のワイシャツに着替え、黒いロングエプロンを腰の位置できゅっと結び、ホールに出た。
ディナー営業のオープン時間は十七時。まだ客の居ない静かな店内には、トマトソースが煮込まれる甘酸っぱい香りと、ガーリックをオリーブオイルで炒める香ばしい香りが厨房から漂っている。今夜のディナーのコースのパスタはアマトリチャーナか、ポモドーロ。きっとそのどちらかだ。くー、美味しそうだなあ、と心の中で唸ってごくっと生唾を飲み込む。
カトラリーのセッティング、メニューの差し替え、レジの確認。指先を忙しなく動かしていると、十六時半を過ぎた頃、ようやく昌也が出勤してきた。
「お、復活したのか?」
ホールから声を掛けると、昌也は右の口角を上げニタリとドヤ顔して見せた。その右手には、しっかりとエナジードリンク缶が握られている。なるほど。まだ抜けていないということか。僕はこっそり苦笑いしながら、ワイングラスを磨くためにパントリーへ向かった。専用のクロスで丁寧に磨き上げる。曇りひとつないガラスの向こう側に、夕暮れ時の恵比寿の街が透けて見える。
「碧都ー! オープンするぞー!」
カチッ、と昌也がスイッチを入れる合図とともに、店の外灯に温かみのあるオレンジ色の明かりがぽうっと灯った。
「うん、いま行くよ」
僕は返事をして、トーションを手に背筋を伸ばして再びホールへ向かった。
オープンと同時に、待ちかねたように予約の客が数組滑り込むように入って来る。
「いらっしゃいませ。恐れ入りますが、ご予約のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
僕と昌也は目配せを交わしながら、それぞれのテーブルへご案内し、注文を取りに忙しなく動き回った。時計の針が十八時を指し、店内の活気が一段と高まってきた頃だった。リン、と入り口のドアベルがカナリヤのように繊細に鳴った。
「いらっしゃいませ。恐れ入りますが、ご予約のお名前を……」
僕は洗い場に下げてきたグラスを置いて、足早にエントランスへと歩み寄った。その瞬間、僕の世界の時間が、唐突に止まった。
「……えっ。ここ、予約制ですか?」
そこに立っていたのは、驚くほど色白で透明感を纏った、小柄で華奢な女性だった。
春の宵に、そこだけ白い花が咲いたかのような瑞々しさを纏っている。守ってあげたくなるような頼りなげななで肩に、細い手首。豪華な花束の隙間でささやかに息づく、かすみ草のような――。
「おい、予約制なのか確認もせずに連れて来たのか、きみは」
その可憐な空気を鋭利に切り裂いたのは、彼女の隣に立つ男の、低く傲慢な声だった。いかにも高級そうなスーツを完璧に着こなし、眉間に不機嫌なしわを刻んだこの男が女性の夫であることはすぐに理解した。呆れ果てたように額に当てた左手の薬指にマリッジリングが輝いていた。
「本当にきみは……」
男は女性を冷徹な視線で見下すと、舌打ち交じりに顎をしゃくった。
「呆れて言葉が見つからないよ」
「……ごめんなさい」
女性は怯えたように肩をすくめ、男に小さく頭を下げた。男の顔色を窺いながらも、消え入りそうなその鈴を転がすような優しい声が、僕の胸の奥にすとんと落ちた。
「あ、いいえ。本日はご予約のお客様が多かったので、こちらの手違いでご確認させていただきました。申し訳ございません。二名様ですね。お席、すぐにご案内できますよ。どうぞ」
僕が下手に出て営業用の笑顔で対応すると、男は「どうも」と不機嫌そうに大きなため息を吐き出した。女性は弾かれたように顔を上げ、
「ありがとうございます」
と、ほっと胸を撫で下ろす仕草をした。そして、僕に小さく微笑みを向ける。その微笑みといえば、まるで壊れそうなガラス細工のように繊細なもので、口元に笑みがこぼれているのに、今にも泣き出しそうな何かを必死に堪えているような、芯の強い瞳だった。
驚くほどに一瞬だった。理屈でも何でもなく、僕はその一瞬で、どうしようもなく、心を奪われていた。
「あ……いいえ。窓際のお席になります。こちらへどうぞ」
僕は自分の声が震えるのを必死にコントロールしながら、二人を店の最奥へと先導した。どこか昭和レトロや異国の古い街並みを思わせるノスタルジックな路地の景色が人気の窓際のテーブル席へと案内する間、女性は背の高い夫の一歩後ろを、足枷を填められた囚人のように、終始うつむき加減でついて来た。
「まったく、きみが珍しくどうしても行きたいとしつこいものだから来てみれば、ずいぶん安っぽい店だな。店内もごちゃごちゃと混雑してるし」
なに言ってるんだよ、ここの料理はリーズナブルだけど本格的で人気なんだぞ、と言い返してやりたいところをぐっと堪える。
「だから俺は神楽坂あたりに行こうと言ったんだ」
ぶっきらぼうに椅子を引き、メニューを開きながら、男はさも当然のように人目も憚らず、ねちねちと嫌味たっぷりの口調を女性に浴びせかけた。
「ごめんなさい、あなた。でも、私ね……」
「きみは本当に要領が悪いんだから。俺の言う通りにして、俺の言うことを素直に聞いていればいいんだ。結局、何もできないんだから」
なんだ、こいつ。自分の奥さんに向かって言う言葉か? なんでそんな偉そうなんだ? なに様だよ、確かに僕なんて足元にも及ばないほど大人で、同性から見ても憧れてしまいそうなほどかっこいいけど。
男の言葉の暴力を前に、彼女は言い返すわけでもなく、ただ小さな声で「ごめんなさい」と繰り返す。
「お水、失礼いたします」
ピッチャーを持つ手が、怒りなのか苛立ちなのか判別できない感情で震えた。
夫がワインリストに傲慢な目を落とした一瞬、女性がふと顔を上げ、僕と目が合った。彼女は悲しそうな瞳をくるくると揺らしながら、僕に向かってほんの少しだけ、ダークブラウン色の眉を八の字にしてささやかに微笑んだ。
きっと、その瞬間が、僕と彼女の全ての始まりだった。
注文を取りに行った昌也がコースを勧めると男は単品で注文を希望してきた。白ワインに季節のフルーツと生ハムの盛り合わせ、真鯛のカルパッチョ、カプレーゼ。宗吾さんが前日から幾つもの行程を繰り返し何時間もじっくり煮込んだトリッパのトマト煮込み、パスタはジェノベーゼ。全て男が選んだ料理で、女性の権限はひとつもなかった。女性が来たいと言って来店した、とさっきも話していたのに。
料理が進むにつれて、男の傲慢さはさらにその醜悪さを増していった。
僕や昌也が前菜の皿を運んだり、パスタをサーブしたりするたびに、男はいちいち女性の仕草やフォークの持ち方に不快そうに舌打ちをした。
「左手の添え方がなってないんだよ。何度も教えただろ。育ちが悪いのがバレバレ。だから俺は大切な食事会にもきみを連れて行きたくないんだ」
周囲のテーブルにも聞こえるようなわざとらしい冷ややかな声に、突き放すようなとげとげしい口調。男が吐き出す陰湿な言葉の暴力に、彼女は居心地悪そうに小さな体をますます縮こませている。
そんな中、唯一、女性が自ら注文した一皿を僕がテーブルに運んだ時のことだ。
「お待たせいたしました。季節のフルーツサラダです。本日は福岡県産の白いちご、淡雪とレッドキウイのサラダです」
クレソンやレタスの上に、春が旬のいちごと甘みの強いレッドキウイ、モッツァレラチーズと数種類のナッツが美しく盛られた一皿を見て、彼女の瞳がくるんと光り輝いた。
「わぁ」
喜びで表情を動かした拍子に、センターパートに分けられた美しい黒髪がハラリとその華奢な肩からこぼれ落ちる。胸の下まで届くその髪は店内の温かいオレンジ色の照明を浴びて、天使の輪がつやつやと輝いていた。
「えっ、おいしいっ……! インスタで見て、ずっと食べてみたかったの、ここの季節のフルーツサラダ。季節ごとに果物が変わるんだって。夏はイチジクとか、秋は柿とか葡萄のサラダなんだって」
少女のようにはしゃいで不機嫌な男に無邪気に語りかけるその様子は、あまりにも無垢で可憐だった。けれど、男は皿を一瞥すると、箸にも棒にも掛からないといった様子で、これ見よがしに大きなため息を吐き出した。
「どうせそんなことだろうと思ったよ。くだらない情報ばかり取り入れて。専業主婦はお気楽なものだな。夫が必死に稼いだ金で悠々自適に暮らして……いい気なものだ。きみは家の中でただ息をしているだけで飯が食えるんだもんな。本当に羨ましいよ」
「ちが……そういう意味じゃ」
「いいから早く食べなさい。あ、太らない程度にな。僕の稼ぎを無駄に消費する上に、見栄えまで悪くなったら目も当てられないだろ。きみは何もできないけど、その容姿だけはいいんだから」
そう言うと男は長い腕をすっと伸ばし、女性の髪の毛を一束人差し指と中指で挟むと掬うように愛でた。
「この髪の毛もだ。何度も言っているけど、絶対に切るなよ。染めるのもだめだ。この髪の毛は手入れをして、美しく保っておくんだ。容姿だけは女でいるようにしなさい」
男の言葉はねっとりとした執着と不快な毒を孕んで、少しずつ確実に、深く女性の尊厳を削り取っていくようだった。
「まったく、女の機能も果たせないなんてな」
男の指先からつるりと髪の毛がこぼれ落ちる。その瞬間、女性の顔からすっと血の気が引いたのを僕は見逃さなかった。女性の目がゆらゆらと泳ぐ。ひどく狼狽した様子で、遮るように、縋りつくような震える声を絞り出した。
「分かっています。分かったから、お願いだから」
まるでそれ以上は言わないで、と懇願しているように見えた。女性は完全に心を閉ざすように視線を落とし、華奢な両肩をすくめるとただただ小さくなっていった。そんな女性に男は何か言葉を掛けるわけでもなく、どこか小馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らした。彼女は何かを言い返したそうに口を軽く開きかけ、でも言葉を喉の奥へ押し戻し、ただ力なくうつむいてフォークを動かす。
「空いたお皿、お下げします」
僕や昌也がテーブルへ行くたびに、女性は男の目を盗むようにして僕たちにそっと目を合わせたり、小さく会釈をしてくれた。
「お待たせいたしました。トリッパのトマト煮込みでございます」
昌也が空いた食器を下げ、絶妙なタイミングで僕が料理を運んで行った時だった。男がスーツのジャケットの内ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出した。画面を確認した男の表情が一瞬でおべっか使いの部下のそれへと変わる。
男はエヘンとひとつ咳ばらいをして、通話ボタンをスライドさせた。
「お疲れさまです、専務。ええ、はい……ああ、今は妻と食事に。あー、いやいや、違いますよ。愛妻家だなんて、そんな。たまには妻孝行をしないと……えっ、はい、もちろんです! 恵比寿にいますのでタクシーですぐに向かいます」
どうやら上司からの突発的な飲み会の誘いの連絡のようだった。きっとこんなことはもう日常茶飯事で慣れっこなのだろう。男の対応の仕方も、女性の平然とした様子も見事なものだった。
「辻村専務からだった」
男は通話を終えると、まだ料理が残っているにも拘わらず、さっさと席を立った。
「食べずに行くの? まだ手を付けていない料理もあるのに」
「急な呼び出しなんだ、そんな時間はないよ、仕方ないだろ。今日は遅くなるから先に寝ていなさい」
「はい」
男は目の前でうつむく女性の表情を確かめるわけでもなく、機嫌を取ろうとするわけでもなく、可憐な顔立ちに目を留めることさえしない。ただ、それがいつものルーティンでもあるかのように、黒革の財布からゴールドのクレジットカードを一枚引き抜くと、テーブルの上に放るように置いた。
「これで支払いなさい。帰りはタクシーを利用すること。いいね。電車でなんか帰るんじゃない。誰が見てるか分からないんだから。恥ずかしくない素行を心掛けるように」
「……はい」
女性の返事を聞く前に、男は振り返ることもせずに足早に店を出て行った。
高級店とは言い難いけれど、ノスタルジックな夜景が見える人気席。二人掛けの席にぽつんとひとり残された女性。その小さな肩はひどく頼りなさげで、見ているだけで胸が締め付けられた。
けれど、女性は男が去ったあと悲しげな素振りなど一切見せず、残された料理をゆっくりと、けれどどこか噛み締めるようにして、ひとりでぺろりと平らげたのだった。そのコンパクトな体のどこに入っていったのだろうと感心してしまうほど、追加で注文したデザートまできれいに平らげたのだ。
「お会計、お願いします」
「ありがとうございました」
食事を終え、女性が伝票を持ってレジへとやって来た。
「ごめんなさい、お見苦しいところをお見せしちゃって。あの人、失礼なことばかり言って、本当にすみませんでした。プライドが高いの。恥ずかしい」
申し訳なさそうに、ふんわりとした平行眉を八の字にして謝る女性。間近で見るとその容姿はやはり驚くほど整っているのだった。
特別大きな目ではないのに形の綺麗な末広がりの二重まぶたに、潤んだ瞳は黒々と黒曜石のように深く、小ぶりなのに筋が通った鼻、下唇がぽってりとした桜色の小さな唇。
そして、女性がうつむいたり顔を上げたりするたびに細い首筋に沿って流れる、あの艶々としたストレートの長い黒髪が、いっそう色白の女性の儚さを際立たせていた。
その少女のような無垢さを残した可愛らしい顔立ちを前にして、僕のありきたりな日常に彼女という存在が鮮烈な楔として打ち込まれた。全身に強烈な電流が一気に流れ、僕は信じられないことを考えた。
このひとが欲しい。喉から手が出るほど、このひとが欲しくてたまらない。僕だけのものにしたい。ごくっと唾を呑み込む。
「あの……?」
覗き込むように小さな顔をこてんと傾げてきた女性に、赤面しそうになるのを必死に堪えながら僕は慌てて首を振った。
「いっ、いいえ! 全然、大丈夫ですよ。あ、お支払いはクレジットカードでよろしいですか?」
女性が伝票と一緒に持っているゴールドカードを見て、レジの画面を操作しようとした次の瞬間だった。
「いいえ、現金で」
女性は小さなバッグから、使い込まれた自分の財布を取り出した。
「ふふ。あの人のカードで払うと思ったでしょう?」
女性はいたずらっぽく、ころころと鈴を転がすように無邪気に笑った。
「そんなことしないの、私。だって悔しいでしょ?」
「えっ」
「私なりの小さな抵抗なの。自分のお金で払います。私ね、こう見えてへそくりあるの、たくさん。あんな人に頼らなくたって、これくらい払えるのよ。そんなことも知らないで、いい気味」
男の支配に甘んじているように見えて、女性の瞳の奥には、決して折れない気高い芯が確かに息づいていた。そのあまりの愛らしさと凛とした強さに、僕の心臓は完全に跳ね上がってしまっていた。
「では……一万円お預かりいたします」
受け取った一万円札の端に残っていた温もりが、僕の指先から胸へとじわじわと伝わっていくようだった。
「またのご来店を、心よりお待ちしております」
二千円と小銭を返して深く一礼すると、女性もまた「ごちそうさまでした」とぺこんと一礼し返してきて、恵比寿の夜の街へと軽やかに消えて行った。
「……なあ、碧都」
女性の姿が夜の恵比寿に溶けて見えなくなったのを見計らって、隣でドリンクの片づけをしていた昌也が、声をひそめて呟くように言った。
「あれってさ、モラハラだよな。完全に」
「うん……初めて見た」
「笑うとめっちゃ可愛らしいひとなのにな。あの旦那といると見てるこっちまで息が詰まりそうなくらい、窮屈そうだったな」
そんな女性を、昌也はまるでドライフラワーみたいだと言った。綺麗な姿のまま自由を奪われて全てを支配されて、まるでドライフラワーみたいだ、と。
その日以来、僕と昌也の間で密かに、女性のことをドライフラワー姫と呼ぶようになった。そのドライフラワー姫と僕の再会の時はまたすぐにやってきた。
四月初旬の澄んだ朝の光が、青山学院大学の正門へと続く並木道を真っ直ぐに照らしていた。その奥に見えるクラシカルな校舎の背景には、吸い込まれそうなほどに深い春の青空が広がっている。
僕は青学の教育学科の二年生になった。新年度の前期を迎えたばかりのキャンパス周辺は、新生活に胸を膨らませる初々しい新入生たちの高揚感や、春季休業明けに久しぶりに再会した在学生たちの笑い声で活気づいていた。
「おはよー、碧都」
背後から駆け寄って来た昌也が、大きなあくびを噛み殺しながら僕の隣に並んだ。
「おはよ。 あれ? 昌也も今日一限目からだったっけ?」
「そそ。ぐはー、だるいわー。今朝さ、青学入って初めて講義サボろうかって五十回くらい考えたのに……お前はなんでそんな朝から爽やかなんだよ」
「はぁ?」
「うわっ。そんなキラキラした目で世界を見るんじゃねえ。眩しいわ」
「なんだよそれ」
思わず吹き出しそうになった。昨夜、バイト終わりにオーナーが連れて行ってくれた落ち着いた雰囲気のお洒落なバーで、調子に乗ってウォッカを煽っていた昌也の姿が脳裏をよぎる。案の定、絶賛二日酔いらしい。
「だから僕もオーナーも止めたのに、ウオッカはやめとけって。それを無視して六杯も飲んだのは昌也だからな。その後もチャンポンしてただろ」
「あー、言うな、頭に響く……」
天を仰いでこめかみを押さえる昌也は、生まれも育ちも東京の生粋の都会っ子だ。すらりとした長身で顔立ちも整っていて、何気なく羽織ったジャケットの着こなしもどこかスタイリッシュ。それでいて全く気取らないし、気さくでめちゃくちゃ付き合いやすい。何より初対面から不思議と気が合った。
黒縁の伊達メガネが昌也のトレードマークなのだが、以前その理由を聞いてみたら「知的に見えればモテるんじゃないかと思ってさ」と大真面目に答えた。そんな飾らなくてどこか飄々とした性格が、地方出身の僕には妙に居心地が良かった。
「昌也、今日も夕方からシフト入ってるよな?」
「ああ、うん、入ってる」
「今日、平日のわりにディナーの予約けっこうキツキツに入ってた気がする。そんな二日酔いで大丈夫か?」
「や、まじでそれ。まあ……バイトまでには復活する予定なんで」
昌也は自信なさげに情けない声を上げて肩を落とした。僕たちの頭上を覆う瑞々しい若葉の隙間から、春の日差しがきらきらとこぼれ落ち、アスファルトの上にやわらかな光の模様を描き出していた。すぐ近くを走る国道の激しい騒音さえも、この春の穏やかな陽光にしっとりと溶けていくようだ。
通り沿いのカフェからは、香ばしく焙煎された珈琲の香りがふわりと漂ってくる。都会の高層ビル群の合間に、まるで奇跡のように静かで爽やかな時間が流れていた。
午後の講義を終えて、まだ少し硬さの残る春の風を浴びながら、僕は足早に渋谷駅へと向かった。
山手線に揺られて一駅。恵比寿駅の改札を抜けて緩やかな坂道を上っていくと、午後四時のやわらかな春の陽光に照らされた恵比寿ガーデンプレイスのレンガ色の街並みが現れる。その喧騒から一本外れた静かな路地に入れば、バイト先のイタリアンレストラン・フェリーチェがこぢんまりと佇んでいる。
「おはようございます」
「おー、碧都。昨日はお疲れ」
「昨日はごちそうさまでした」
「どういたしまして。それより、早く来てくれて助かったー」
扉を開けるとオーナーシェフの宗吾さんがテキパキと仕込みの手を動かしながら、弾かれたように顔を上げて苦笑いした。その様子だけで言いたいことが手に取るように分かる。どうやら今夜は忙しくなるらしい。時々こういう平日の夜がある。特にイベントがあるわけでもないのに、やたらと予約が入る平日だ。
「や、なんか、感じたんですよ。今日はやばそうだなって」
「や、まさにそれですよ。碧都の勘はすごいねー」
厨房の中はすでにただならぬ慌ただしさが漂い、まだオープン前のがらんとした店内には食欲をそそるスパイスの良い香りが充満していた。
「来て早々で悪いんだけどさ」
とオーナーが申し訳なさそうに肩をすくめる。
「さっきイレギュラーで、もう一組六名の団体の予約が入ったんだよね。だからもう飛び入りのお客さん来ても、空きのテーブル席一組しか入れない感じ。で、悪いんだけど、着替えたらすぐホール出られる?」
「オッケーです! すぐ着替えて来ますね」
「助かるよ、まじで」
店の奥にあるひどく狭い更衣室。僕は制服の黒のスラックスに白のワイシャツに着替え、黒いロングエプロンを腰の位置できゅっと結び、ホールに出た。
ディナー営業のオープン時間は十七時。まだ客の居ない静かな店内には、トマトソースが煮込まれる甘酸っぱい香りと、ガーリックをオリーブオイルで炒める香ばしい香りが厨房から漂っている。今夜のディナーのコースのパスタはアマトリチャーナか、ポモドーロ。きっとそのどちらかだ。くー、美味しそうだなあ、と心の中で唸ってごくっと生唾を飲み込む。
カトラリーのセッティング、メニューの差し替え、レジの確認。指先を忙しなく動かしていると、十六時半を過ぎた頃、ようやく昌也が出勤してきた。
「お、復活したのか?」
ホールから声を掛けると、昌也は右の口角を上げニタリとドヤ顔して見せた。その右手には、しっかりとエナジードリンク缶が握られている。なるほど。まだ抜けていないということか。僕はこっそり苦笑いしながら、ワイングラスを磨くためにパントリーへ向かった。専用のクロスで丁寧に磨き上げる。曇りひとつないガラスの向こう側に、夕暮れ時の恵比寿の街が透けて見える。
「碧都ー! オープンするぞー!」
カチッ、と昌也がスイッチを入れる合図とともに、店の外灯に温かみのあるオレンジ色の明かりがぽうっと灯った。
「うん、いま行くよ」
僕は返事をして、トーションを手に背筋を伸ばして再びホールへ向かった。
オープンと同時に、待ちかねたように予約の客が数組滑り込むように入って来る。
「いらっしゃいませ。恐れ入りますが、ご予約のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
僕と昌也は目配せを交わしながら、それぞれのテーブルへご案内し、注文を取りに忙しなく動き回った。時計の針が十八時を指し、店内の活気が一段と高まってきた頃だった。リン、と入り口のドアベルがカナリヤのように繊細に鳴った。
「いらっしゃいませ。恐れ入りますが、ご予約のお名前を……」
僕は洗い場に下げてきたグラスを置いて、足早にエントランスへと歩み寄った。その瞬間、僕の世界の時間が、唐突に止まった。
「……えっ。ここ、予約制ですか?」
そこに立っていたのは、驚くほど色白で透明感を纏った、小柄で華奢な女性だった。
春の宵に、そこだけ白い花が咲いたかのような瑞々しさを纏っている。守ってあげたくなるような頼りなげななで肩に、細い手首。豪華な花束の隙間でささやかに息づく、かすみ草のような――。
「おい、予約制なのか確認もせずに連れて来たのか、きみは」
その可憐な空気を鋭利に切り裂いたのは、彼女の隣に立つ男の、低く傲慢な声だった。いかにも高級そうなスーツを完璧に着こなし、眉間に不機嫌なしわを刻んだこの男が女性の夫であることはすぐに理解した。呆れ果てたように額に当てた左手の薬指にマリッジリングが輝いていた。
「本当にきみは……」
男は女性を冷徹な視線で見下すと、舌打ち交じりに顎をしゃくった。
「呆れて言葉が見つからないよ」
「……ごめんなさい」
女性は怯えたように肩をすくめ、男に小さく頭を下げた。男の顔色を窺いながらも、消え入りそうなその鈴を転がすような優しい声が、僕の胸の奥にすとんと落ちた。
「あ、いいえ。本日はご予約のお客様が多かったので、こちらの手違いでご確認させていただきました。申し訳ございません。二名様ですね。お席、すぐにご案内できますよ。どうぞ」
僕が下手に出て営業用の笑顔で対応すると、男は「どうも」と不機嫌そうに大きなため息を吐き出した。女性は弾かれたように顔を上げ、
「ありがとうございます」
と、ほっと胸を撫で下ろす仕草をした。そして、僕に小さく微笑みを向ける。その微笑みといえば、まるで壊れそうなガラス細工のように繊細なもので、口元に笑みがこぼれているのに、今にも泣き出しそうな何かを必死に堪えているような、芯の強い瞳だった。
驚くほどに一瞬だった。理屈でも何でもなく、僕はその一瞬で、どうしようもなく、心を奪われていた。
「あ……いいえ。窓際のお席になります。こちらへどうぞ」
僕は自分の声が震えるのを必死にコントロールしながら、二人を店の最奥へと先導した。どこか昭和レトロや異国の古い街並みを思わせるノスタルジックな路地の景色が人気の窓際のテーブル席へと案内する間、女性は背の高い夫の一歩後ろを、足枷を填められた囚人のように、終始うつむき加減でついて来た。
「まったく、きみが珍しくどうしても行きたいとしつこいものだから来てみれば、ずいぶん安っぽい店だな。店内もごちゃごちゃと混雑してるし」
なに言ってるんだよ、ここの料理はリーズナブルだけど本格的で人気なんだぞ、と言い返してやりたいところをぐっと堪える。
「だから俺は神楽坂あたりに行こうと言ったんだ」
ぶっきらぼうに椅子を引き、メニューを開きながら、男はさも当然のように人目も憚らず、ねちねちと嫌味たっぷりの口調を女性に浴びせかけた。
「ごめんなさい、あなた。でも、私ね……」
「きみは本当に要領が悪いんだから。俺の言う通りにして、俺の言うことを素直に聞いていればいいんだ。結局、何もできないんだから」
なんだ、こいつ。自分の奥さんに向かって言う言葉か? なんでそんな偉そうなんだ? なに様だよ、確かに僕なんて足元にも及ばないほど大人で、同性から見ても憧れてしまいそうなほどかっこいいけど。
男の言葉の暴力を前に、彼女は言い返すわけでもなく、ただ小さな声で「ごめんなさい」と繰り返す。
「お水、失礼いたします」
ピッチャーを持つ手が、怒りなのか苛立ちなのか判別できない感情で震えた。
夫がワインリストに傲慢な目を落とした一瞬、女性がふと顔を上げ、僕と目が合った。彼女は悲しそうな瞳をくるくると揺らしながら、僕に向かってほんの少しだけ、ダークブラウン色の眉を八の字にしてささやかに微笑んだ。
きっと、その瞬間が、僕と彼女の全ての始まりだった。
注文を取りに行った昌也がコースを勧めると男は単品で注文を希望してきた。白ワインに季節のフルーツと生ハムの盛り合わせ、真鯛のカルパッチョ、カプレーゼ。宗吾さんが前日から幾つもの行程を繰り返し何時間もじっくり煮込んだトリッパのトマト煮込み、パスタはジェノベーゼ。全て男が選んだ料理で、女性の権限はひとつもなかった。女性が来たいと言って来店した、とさっきも話していたのに。
料理が進むにつれて、男の傲慢さはさらにその醜悪さを増していった。
僕や昌也が前菜の皿を運んだり、パスタをサーブしたりするたびに、男はいちいち女性の仕草やフォークの持ち方に不快そうに舌打ちをした。
「左手の添え方がなってないんだよ。何度も教えただろ。育ちが悪いのがバレバレ。だから俺は大切な食事会にもきみを連れて行きたくないんだ」
周囲のテーブルにも聞こえるようなわざとらしい冷ややかな声に、突き放すようなとげとげしい口調。男が吐き出す陰湿な言葉の暴力に、彼女は居心地悪そうに小さな体をますます縮こませている。
そんな中、唯一、女性が自ら注文した一皿を僕がテーブルに運んだ時のことだ。
「お待たせいたしました。季節のフルーツサラダです。本日は福岡県産の白いちご、淡雪とレッドキウイのサラダです」
クレソンやレタスの上に、春が旬のいちごと甘みの強いレッドキウイ、モッツァレラチーズと数種類のナッツが美しく盛られた一皿を見て、彼女の瞳がくるんと光り輝いた。
「わぁ」
喜びで表情を動かした拍子に、センターパートに分けられた美しい黒髪がハラリとその華奢な肩からこぼれ落ちる。胸の下まで届くその髪は店内の温かいオレンジ色の照明を浴びて、天使の輪がつやつやと輝いていた。
「えっ、おいしいっ……! インスタで見て、ずっと食べてみたかったの、ここの季節のフルーツサラダ。季節ごとに果物が変わるんだって。夏はイチジクとか、秋は柿とか葡萄のサラダなんだって」
少女のようにはしゃいで不機嫌な男に無邪気に語りかけるその様子は、あまりにも無垢で可憐だった。けれど、男は皿を一瞥すると、箸にも棒にも掛からないといった様子で、これ見よがしに大きなため息を吐き出した。
「どうせそんなことだろうと思ったよ。くだらない情報ばかり取り入れて。専業主婦はお気楽なものだな。夫が必死に稼いだ金で悠々自適に暮らして……いい気なものだ。きみは家の中でただ息をしているだけで飯が食えるんだもんな。本当に羨ましいよ」
「ちが……そういう意味じゃ」
「いいから早く食べなさい。あ、太らない程度にな。僕の稼ぎを無駄に消費する上に、見栄えまで悪くなったら目も当てられないだろ。きみは何もできないけど、その容姿だけはいいんだから」
そう言うと男は長い腕をすっと伸ばし、女性の髪の毛を一束人差し指と中指で挟むと掬うように愛でた。
「この髪の毛もだ。何度も言っているけど、絶対に切るなよ。染めるのもだめだ。この髪の毛は手入れをして、美しく保っておくんだ。容姿だけは女でいるようにしなさい」
男の言葉はねっとりとした執着と不快な毒を孕んで、少しずつ確実に、深く女性の尊厳を削り取っていくようだった。
「まったく、女の機能も果たせないなんてな」
男の指先からつるりと髪の毛がこぼれ落ちる。その瞬間、女性の顔からすっと血の気が引いたのを僕は見逃さなかった。女性の目がゆらゆらと泳ぐ。ひどく狼狽した様子で、遮るように、縋りつくような震える声を絞り出した。
「分かっています。分かったから、お願いだから」
まるでそれ以上は言わないで、と懇願しているように見えた。女性は完全に心を閉ざすように視線を落とし、華奢な両肩をすくめるとただただ小さくなっていった。そんな女性に男は何か言葉を掛けるわけでもなく、どこか小馬鹿にしたようにフンと鼻を鳴らした。彼女は何かを言い返したそうに口を軽く開きかけ、でも言葉を喉の奥へ押し戻し、ただ力なくうつむいてフォークを動かす。
「空いたお皿、お下げします」
僕や昌也がテーブルへ行くたびに、女性は男の目を盗むようにして僕たちにそっと目を合わせたり、小さく会釈をしてくれた。
「お待たせいたしました。トリッパのトマト煮込みでございます」
昌也が空いた食器を下げ、絶妙なタイミングで僕が料理を運んで行った時だった。男がスーツのジャケットの内ポケットに手を突っ込んでスマホを取り出した。画面を確認した男の表情が一瞬でおべっか使いの部下のそれへと変わる。
男はエヘンとひとつ咳ばらいをして、通話ボタンをスライドさせた。
「お疲れさまです、専務。ええ、はい……ああ、今は妻と食事に。あー、いやいや、違いますよ。愛妻家だなんて、そんな。たまには妻孝行をしないと……えっ、はい、もちろんです! 恵比寿にいますのでタクシーですぐに向かいます」
どうやら上司からの突発的な飲み会の誘いの連絡のようだった。きっとこんなことはもう日常茶飯事で慣れっこなのだろう。男の対応の仕方も、女性の平然とした様子も見事なものだった。
「辻村専務からだった」
男は通話を終えると、まだ料理が残っているにも拘わらず、さっさと席を立った。
「食べずに行くの? まだ手を付けていない料理もあるのに」
「急な呼び出しなんだ、そんな時間はないよ、仕方ないだろ。今日は遅くなるから先に寝ていなさい」
「はい」
男は目の前でうつむく女性の表情を確かめるわけでもなく、機嫌を取ろうとするわけでもなく、可憐な顔立ちに目を留めることさえしない。ただ、それがいつものルーティンでもあるかのように、黒革の財布からゴールドのクレジットカードを一枚引き抜くと、テーブルの上に放るように置いた。
「これで支払いなさい。帰りはタクシーを利用すること。いいね。電車でなんか帰るんじゃない。誰が見てるか分からないんだから。恥ずかしくない素行を心掛けるように」
「……はい」
女性の返事を聞く前に、男は振り返ることもせずに足早に店を出て行った。
高級店とは言い難いけれど、ノスタルジックな夜景が見える人気席。二人掛けの席にぽつんとひとり残された女性。その小さな肩はひどく頼りなさげで、見ているだけで胸が締め付けられた。
けれど、女性は男が去ったあと悲しげな素振りなど一切見せず、残された料理をゆっくりと、けれどどこか噛み締めるようにして、ひとりでぺろりと平らげたのだった。そのコンパクトな体のどこに入っていったのだろうと感心してしまうほど、追加で注文したデザートまできれいに平らげたのだ。
「お会計、お願いします」
「ありがとうございました」
食事を終え、女性が伝票を持ってレジへとやって来た。
「ごめんなさい、お見苦しいところをお見せしちゃって。あの人、失礼なことばかり言って、本当にすみませんでした。プライドが高いの。恥ずかしい」
申し訳なさそうに、ふんわりとした平行眉を八の字にして謝る女性。間近で見るとその容姿はやはり驚くほど整っているのだった。
特別大きな目ではないのに形の綺麗な末広がりの二重まぶたに、潤んだ瞳は黒々と黒曜石のように深く、小ぶりなのに筋が通った鼻、下唇がぽってりとした桜色の小さな唇。
そして、女性がうつむいたり顔を上げたりするたびに細い首筋に沿って流れる、あの艶々としたストレートの長い黒髪が、いっそう色白の女性の儚さを際立たせていた。
その少女のような無垢さを残した可愛らしい顔立ちを前にして、僕のありきたりな日常に彼女という存在が鮮烈な楔として打ち込まれた。全身に強烈な電流が一気に流れ、僕は信じられないことを考えた。
このひとが欲しい。喉から手が出るほど、このひとが欲しくてたまらない。僕だけのものにしたい。ごくっと唾を呑み込む。
「あの……?」
覗き込むように小さな顔をこてんと傾げてきた女性に、赤面しそうになるのを必死に堪えながら僕は慌てて首を振った。
「いっ、いいえ! 全然、大丈夫ですよ。あ、お支払いはクレジットカードでよろしいですか?」
女性が伝票と一緒に持っているゴールドカードを見て、レジの画面を操作しようとした次の瞬間だった。
「いいえ、現金で」
女性は小さなバッグから、使い込まれた自分の財布を取り出した。
「ふふ。あの人のカードで払うと思ったでしょう?」
女性はいたずらっぽく、ころころと鈴を転がすように無邪気に笑った。
「そんなことしないの、私。だって悔しいでしょ?」
「えっ」
「私なりの小さな抵抗なの。自分のお金で払います。私ね、こう見えてへそくりあるの、たくさん。あんな人に頼らなくたって、これくらい払えるのよ。そんなことも知らないで、いい気味」
男の支配に甘んじているように見えて、女性の瞳の奥には、決して折れない気高い芯が確かに息づいていた。そのあまりの愛らしさと凛とした強さに、僕の心臓は完全に跳ね上がってしまっていた。
「では……一万円お預かりいたします」
受け取った一万円札の端に残っていた温もりが、僕の指先から胸へとじわじわと伝わっていくようだった。
「またのご来店を、心よりお待ちしております」
二千円と小銭を返して深く一礼すると、女性もまた「ごちそうさまでした」とぺこんと一礼し返してきて、恵比寿の夜の街へと軽やかに消えて行った。
「……なあ、碧都」
女性の姿が夜の恵比寿に溶けて見えなくなったのを見計らって、隣でドリンクの片づけをしていた昌也が、声をひそめて呟くように言った。
「あれってさ、モラハラだよな。完全に」
「うん……初めて見た」
「笑うとめっちゃ可愛らしいひとなのにな。あの旦那といると見てるこっちまで息が詰まりそうなくらい、窮屈そうだったな」
そんな女性を、昌也はまるでドライフラワーみたいだと言った。綺麗な姿のまま自由を奪われて全てを支配されて、まるでドライフラワーみたいだ、と。
その日以来、僕と昌也の間で密かに、女性のことをドライフラワー姫と呼ぶようになった。そのドライフラワー姫と僕の再会の時はまたすぐにやってきた。

