ホテル・ラ・ソルーナ~大切なきみが、明日を歩けるように~

 五月八日、金曜日。今夜は新月だ。

 雲ひとつない快晴の夜だというのに、渋谷の片隅から見上げた上空は星さえも眠りについたような、深い藍色のキャンバスのようだ。天気予報によればこれから雨が降るらしい。それでも眠らない街は今夜も街灯やネオンで煌々としている。だけど、あのホテルのお抱え運転手が言うには、この煌びやかで眠らない街、東京をも、新月の夜闇は呑み込むように隠してしまうのだそうだ。

 そのDMに気付いたのは四日前、五月四日、火曜日の二十時、いつものようにエックスにポストをした直後だった。DMは一週間前に届いていた。

 毎週火曜日、決まった時間に投稿する僕の後悔と懺悔のポストを面白がる都市伝説好きたちの冷やかしや、面白半分、興味本位だけの無責任な通知が並ぶ中で、そのアカウントの人からのDMだけは何かが違っているような気がして、開いてみることにした。

 ――察していただけると幸いです

 chihaya.k.baseball というアカウント名からのメッセージだった。

 ――記憶を消さない選択とはどういうことですか?
  ホテルに行くと一体何の選択をしなければいけないんですか?

 僕は勉強が飛び抜けてできるわけじゃないけど、できる方だと思う。小学生の頃からそれなりに成績も良かった。これでも教師という夢を志して大学に通っている現役大学生だ。勘だっていいほうだとは思う。まず、察して欲しいなんていうあえて核心をぼかすような書き方をされた時点で、ピンとくるものがあった。

 このDMの送り主もあの奇妙なホテルから招待状をもらったのだ。きっと。そして、二カ月前の僕と同じように、何よりも大切な最愛のひとを自死というあまりにも悲痛で不条理な失い方をしたのではないだろうか。

 僕がそうだったのだから、痛いほどによく分かる。

「ち、はや……」

 この人は目の前に転がった奇妙なチャンスを信じるべきか、ばかばかしいと切り捨てるべきか、引き裂かれるような葛藤の中で片っ端から情報収集していたに違いない。そうして、暗闇を手探りで進むうちに、僕のエックスに辿り着いたのだ。

 よく分かる。もう一度、会いたいのだ。

 この世から永遠に失われてしまった最愛のひとに、もう一度だけでいい、例えそれが幻だろうと構わないから……会いたくてたまらないのだ。会いたくて会いたくて、胸が張り裂けるほどに会いたいからこそ、狂いそうなほど必死なのだと思う。だから、他人に知られてはならないあのホテルの秘密を抱え、察して欲しいという縋るような書き方をしたのだ。

 結論から言うと、僕は二カ月前の新月の夜、彼女に会った。無論、もう生きてはいない彼女と、だ。夢なんかじゃない。真冬の湖でひっそりと息を止めた、僕の最愛のひとと確かに再会を果たしたのだ。

 なんて言ったところで誰も信じてはくれないだろうし、DMの送り主もやっぱり胡散臭い都市伝説に過ぎなかったか、と思ってしまうんじゃないだろうか。仮にもし信じてくれたとしても、たった一度のチャンスを僕の返事によって左右してしまう可能性だってある。でも、僕は返信することにした。あえて招待状という言葉を使って。

 ――招待状を受け取り、私のところへ辿り着いたのでしょうか
  あなたもきっと大切な人の処遇を判断することになるのでしょう
  私は手放すことができず、結果、後悔しています
  あなたは後悔しない選択ができるように祈っています
  これ以上のことは言えませんが、もし再会して戻って来た時、記憶が残っていた    らその時はもう一度DMをいただけると幸いです

 重い祈りを込めて送信ボタンを押した。すると一分も経たないうちに画面が震えて新たなDMが届いた。

 あなたは、亡き大切な人に会えたことを後悔していますか? と。

 ええ、そうですね、後悔していますよ、なんてそんな安易な言葉で返して良いような問いではないと直感的に思った。かといって後悔していないと返せばそれは嘘になる。どちらとも言えない、なんてそんな無責任な切り抜け方をするのはもっといけないような気がした。

 僕が紡ぐ言葉ひとつがこの人の人生を左右してしまう気がして、胸がいっぱいになって、ただじっと液晶画面を見つめ、下唇を噛んだ。

 後悔している。

 亡き最愛のひとに会いに行ったことに、気が狂いそうなほど後悔している。あんなに焦がれていたはずなのに、こうなった今は、いっそ会わなければよかったとさえ思う。

 まるで人ひとりを自分のこの手で殺めてしまったような、おぞましい罪を犯して逃亡し続けているような、そんな泥濘のような感覚を背負ったまま、もう二ヶ月が経とうとしている。

 もういっそのこと本当に殺人鬼にでもなれたら刑務所に入れるし、目に見える形で罪を償うことができるのに。

 僕はあの夜、最愛のひとの魂に最も残酷な処遇を下した。それなのに。こうして現実の世界で何不自由なくのうのうと生きている。

 彼女と過ごしたあの八時間の記憶を消して、彼女の魂を次の来世へと正しく還すか。あるいは彼女との最期の記憶を全て抱き締めたまま現実に戻る代償として、彼女の魂を消滅させるか。それがホテル・ラ・ソルーナの提示したルールだった。

 僕は後者を選んだ。と、いうことは彼女が別の誰かとして生まれ変わることさえ永久に叶わなくなってしまったということだ。苦渋の決断をした時、こうなることも最悪の結末になることも分かっているつもりだった。

 それでもどうしても僕には彼女と過ごした最後の八時間を手放すことができなかった。たった八時間の記憶も、温もりも、自ら消し去る勇気を僕は持ち合わせていなかった。まだ若くて子供でわがままで、経験不足なわりに欲にまみれた僕の独善的な愛が、彼女に残された唯一の希望さえ奪ってしまった。

 あの八時間という限られた時の中で必死に交わした会話。重く錆び付いた扉をゆっくり開くように明かされた、彼女が抱えていた悲しく残酷な真実。触れた時の切ない温度。抱き締めた時の儚い感触。

 ホテル・ラ・ソルーナの奇妙なルールや不気味なほど洗練されていたフロントマンに客室係の所作。そして、送迎してくれた運転手、月森さんとの会話も全て。昨日のことのように鮮明に、脳裏に焼き付いている。気持ち悪いほど何もかも全てを覚えている。

 あのあと、夜明け前の天文薄明の頃、客室係の月花さんの指示に従い、僕は再びあの黒光りする高級車に乗り込んだ。

『それでは、発車いたします』

 運転席にはこのホテルへ来るときと同じ、静謐な雰囲気を纏った月影さんだった。

 後悔の波に呑まれ、後部座席で深くうなだれて苦しんでいる僕の様子を、月森さんはやっぱり穴の開いたような、どこを見ているのか予測がつかない目で、バックミラー越しにそっと見守ってくれていた。

『高輪碧都さま』

 そして、ただただ優しく慈愛に満ちた静かな声で、小さな子供を諭すように言ったのだった。

『大丈夫です』

 その時の声色も言葉ひとつひとつもはっきりと記憶している。

『あのお方は……月陽さまは消滅と再生、両方のお力をお持ちになっていらっしゃる。どうか、祈ってください。その祈りが届いた時、きっと、良き方向へお導きくださるでしょうから』

 祈ったってもう遅いと突っぱねた僕に、まだ諦めるには早いのだと、月影さんは続けた。

『なにぶん、この私も、かつてあのお方に救っていただいた者のひとりなのです。私の家内が……懸命に祈ってくれたのでしょう。故に、こうしてこのようなお役目を与えていただきました。これを全うできた時に本当の処遇が決まるのです。ですから、諦めるにはまだお早い。大丈夫です、きっと』

 そして、僕に目を閉じるように言った。目を閉じたら深呼吸をして、みっつ数えて目を開けるように、と。だから僕は目を閉じて深呼吸をした。

『この新月の夜が明けて、現実に戻られましたら、ただひたすらに祈ってください。月と、太陽に』

 でも、どうしても解けない不可解な謎がひとつだけあった。

 僕はあのホテルから確かに月影さんが運転する車に乗って出発した。絶対に、確実にそうだった。それなのに……どこであの車から降りたのか、どうやってそこから移動したのか、そのプロセスだけが僕の記憶から抜け落ちていた。まるでそこだけ切り抜かれたようにすっぽりと。

 タン、タタン……と遠くに始発電車の重い音が響いていることに気付き、僕はハッと我に返った。気が付くと、目の前には朝靄の立ち込めるアスファルトが広がっていて、まだ消え残っている薄暗い街灯の光に濡れるように照らされていた。

 昼間の圧倒的な騒がしさが嘘のように静まり返った交差点。クラブ帰りだろうか。夜を明かした若者たちが眠そうな目で大きなあくびをしながら、気怠そうに駅へと歩いて行く。

 東の空が少しずつ白み始め、巨大なビルボードが静かに朝の明かりを灯し始めていた。徐々に増えていく車の走行音と足早に交差点を渡って行く、たった数人のサラリーマンのシルエット。

 静かに朝をむかえようとしている東京、渋谷。

 新しい一日が今まさに始まろうとしているそのスクランブル交差点を前に、僕は行き場のない大粒の涙をぽろぽろとアスファルトに落としながら、立ち尽くしていた。





 狭いわりにアパート自体が南西向きのせいで、日中はやたらと無駄に日当たりが良い3階の1DKの部屋。彼女は毎週火曜日の夜になると僕の部屋に泊まり、水曜日の昼には自宅へ帰った。日当たりの良いダイニングの窓辺のテーブルに頬杖をついて、風に揺れる小花のように微笑んで、いつも言っていた。

『角部屋なのに無駄に日当たりが良いのね、この部屋。無駄に良い男の碧くんみたい。でも、気持ちいいね。好きだな、この部屋、碧くんみたいで。居心地がいい』

 五月八日、金曜日、新月。 今夜は晴れる予報だったのに、気まぐれな雨が窓ガラスを叩き始めたのは、二十三時を回った頃だった。

 僕は部屋の照明を全て消し、遮光カーテンを大きく開け放った。ベッドに仰向けになり、雨粒が滝のように滴り落ちる窓ガラスの向こう、星も月もない、漆黒に濡れた夜空に目を細めた。

「新月、か……」

 今夜もまた誰かがあの奇妙なホテルで、亡き大切な誰かと再会し、涙しているのだろうか。

 あのあと結局、僕の返信を待っているだろうchihayaには返事のDMは出さなかった。でも、今夜は何もかもが闇に隠れる新月の夜だ。もし、chihayaが今夜あのホテルで大切な誰かと奇跡のような再会を果たせているなら……どうか、後悔しない選択をして欲しいと思う。

 僕のようにはなって欲しくない。こんな苦しい思いをして欲しくない。僕からは何も言ってやれないし、してやれないし、そんな資格さえないけれど。どうか、後悔のない再会になるように。心の中でそう願いながら、静かに目を閉じる。

 優しく囁くように降り出した雨はいつしか本降りになり、まるでシャワーの水圧のように激しい雨音へと変わっていった。その力強い音が妙に心地よくて、僕は雨音に全身を委ねた。明りを消した暗がりの中で、それまで隠されていた生活音が雨の重奏に入り混じって耳に入ってくる。

 ブゥンと低く唸る冷蔵庫のモーター音、カチコチと時を刻む時計の秒針の音、ポツポツと水道の蛇口からシンクに落ちて弾ける水滴の音。

 そして、雨の隙間を抜けて窓のサッシから滑り込んで来る、渋谷の夜の独特な低くざわつく街の音。遠くから聞こえてきた救急車のサイレンが、時折激しい雨音にかき消されながら弱々しく響いていた。

 僕も死んでしまおうと何度も思った。それほどに後悔しながらこの二ヶ月は、もう一度あのホテルを探し出すことに時間と労力を注ぎ込んだ。どうせ死ぬならもう一度あのホテルを見つけ出してからにしようと、大学の講義とバイト以外の時間はただひたすらに、何かに憑りつかれたようにあの場所を探した。

 日比谷通り、日比谷公園、国会議事堂のピラミッド型の屋根、六本木通りを過ぎてアークヒルズ。さらに直進すると、頭上を通る首都高の大きな高架と共にピンク色の看板が目印の洋菓子店がある交差点。赤坂、ミッドタウン・ガーデン、檜町公園。最先端の超高層ビル群と広大な緑地が融合したミッドタウン・タワー。

 あの新月の夜、黒光りする高級車の後部座席のシートにもたれて車窓から見えた景色とルートを記憶の底から手繰り寄せ、日中も夜も夜明け前も徘徊するように歩き回った。だけど、ホテル・ラ・ソルーナはどこにも存在しなかった。

 ネットでいくら検索してみたところで、住所も電話番号も、辿り着けそうな情報はひとつも手に出来なかった。

 もう一度だけでいいから、彼女に会って謝りたかった。それが叶わないのなら、支配人の月陽に会って撤回できないのか、どうにかできないのか、懇願しようと思った。僕のこの命と引き換えでも構わないから。

 あれから僕の焦燥を置き去りにしたまま、ただ勝手に月日が流れて一ヵ月。そして、今夜、再び新月の夜が巡ってきた。

 渋谷の街がもう一段階静けさを増し、夜の底が更に深まってきた頃だった。あれほど激しく本降りだった雨も気付けば僕を支配する睡魔の力と反比例するように、穏やかな霧雨になりさあっと弱まっていた。

 微睡みの中、遠くでまた何やら物騒な予感のするサイレンが微かに響いた、その直後だった。

 ……ツン……コツン、コツン。

 ゆっくり、ゆっくりとした足音が薄いフローリングの床を伝って不気味に響いて来て、僕は一気に微睡みの世界から現実の世界に引き戻された。固いコンクリートを石ころで叩くようなその足音は次第に大きくなり真っ直ぐ近付いて来て、ついに三階角部屋、僕の部屋の前でパタリと止まった。

 えっ、と声を漏らしたつもりだったのに、異様なほどの緊張で喉がカラカラに渇いていて、空気だけが抜けて声にもならなかった。

 こんな雨降りの夜遅くに……誰だ。

 ごくりと重い唾を呑み込み、僕はベッドの上で息を潜めた。全身の神経を耳へと集中させ、暗闇の中、全身全霊でドアの外の気配に耳を澄ませる。心臓がバクバクと暴れ回る。ぎゅっと目をつむり息を止めて神経を研ぎ澄ませた、その瞬間だった。

 新月の夜を濡らす霧雨の音の隙間を縫うように、玄関のドアポストからコトリと小さく軽い音が室内に響いた。そして数秒ののち再び鳴り響いた足音は、ゆっくりと未練を一切残さずに遠ざかっていく。

 そうして階段がある方へと遠ざかって行ったはずの足音と気配は、まるでノイズだらけのラジオの電源を不意に切るかのように、突然プツンとあとかたもなくこの建物から消えてしまったのだ。

「っ……はぁっ!」

 限界まで止めていた息を一気に吐き出す。

 凍てついていた血が一撃で身体中を駆け巡り、猛烈な動悸となって胸を打ち始めた。暗闇の中、手探りでスマホをつかみ液晶画面で時刻を確かめる。

 5月9日(土) 0:01

 日付が変わったばかりの、でも、やっぱりまだ新月の夜に違いなかった。僕はベッドからゆっくりと降り、冷え切ったフローリングの上を裸足のまま玄関へと向かった。足裏から伝わる冷たさも気にならないほど、僕の意識はドアポスト一点に向かっていた。

 震える指先でドアポストを覗き込み、スマホからこぼれる白光でその奥を照らしてみる。暗いスリットの底にぽつんと斜めに横たわっている物があった。あの時と同じ、触れることをためらってしまうほどに綺麗な、純白の封筒が一通、そこに存在していた。

 奇妙な足音と気配、ポストに入っていた白い封筒……まさか、と一瞬鼻で笑いそうになったけれど、ポストから取り出した純白の封筒をひらりと裏返し、的中した期待と予感に喉の奥がぐっと詰まった。

「あ……あぁ……」

 月と太陽が半分ずつシーリングワックスで施されている重厚な、あのホテルを象徴するロゴ。それを確認した瞬間、頭が真っ白になった。

 この二ヶ月の間、どんなに探しても辿り着くことのできなかったあの奇妙な世界に、手が届くかもしれない。そして、この封書をここへ届けに来たのは一体、誰なのか……。

「まっ……」

 花純さんの魂を消してしまったあの日からの気が狂いそうな後悔。もう一度、もう本当にたった一度だけで構わないから、チャンスをもらえないだろうかと縋る思いが僕の体を突き動かした。

「待っ……頼む! 待って!」

 ガチャガチャと激しい音を立ててチェーンロックを外し、内鍵を跳ね上げ、
 裸足のまま外へ飛び出した。外廊下に一歩出た瞬間、ひんやりとした霧雨が容赦なく全身に降りかかり濡らした。

 周囲をぐるりと見渡す。誰も、いない。

 足裏から熱を奪っていくコンクリートの不快な冷たささえよく分からなくなるほど、僕は必死だった。まだきっと近くにいるはずだ、と耳を澄ませる。突然途絶えた足音。階段を降りる音さえ聴こえない。僕は外廊下の霧雨に濡れた手すりに飛び付いて、身を乗り出すようにして三階から見下ろした。

 深夜の雨が街中の音を吸い取って気配さえ失ってしまったように暗い路地。頼りない街灯の明かりを浴びて霧雨に濡れるアスファルトの上に、不気味な程に黒光りする高級車が音もなく置物のように停車していた。

 後部座席のドアが開いている。僕は思わず手すりをぎゅっと握り締め、ごくっと唾を飲んだ。

 乗り込もうとしていたのは、この世のものとは思えないほど均整のとれた静謐なシルエットだった。

 数回浅く呼吸を繰り返し、目を細める。どうしてなのかは分からない。でも、きっとそうなのだと……漠然と、でも、確信した。

「ツキ……アカリ……」

 運転手の月影さんが言っていた、消滅と再生、両方の力を持つホテル・ラ・ソルーナの支配人、月陽。

 そのシルエットは僕の視線に気付いたかのように、ふと、動きを止めた。あるいは最初から僕が部屋から飛び出して来るのを待っていたかのように、ゆっくりと、時間を掛けてこちらに顔を向けた。

 ひっ、と声が洩れ、同時に心臓がドサリと不快な音を立てて落ちた。

 街灯の心もとない鈍い明かりに照らされたその容姿は男とも女ともつかない、おぞましいほどに完璧な美を湛えていた。

 闇の中で発光しているかのように、どこまでも白い肌。漆黒の髪は一点の乱れもなく美しく束ね結い上げられている。身体のラインを際立たせる暗黒色のハイネックのクラシカルドレスが、霧雨に濡れて妖しく艶めいていた。

 そして何より、僕を射すくめたその双眸。右目は夜空に浮かぶ満月のような黄色、左目は深海を思わせる冷徹な青。その異形のオッドアイが、血を吸って滲んだように不気味なほど鮮やかな色彩と相まって、人間としての生々しさを一切排除した神聖な造形を完成させていた。

 見てはいけないものを見てしまった。

 その歪で完璧な双眸に見つめられた瞬間、僕の全身の筋肉は完全に硬直して指一本動かすことができなくなっていた。脳の芯まで凍りつき、喉の奥から魂を抜き取られてしまうような得体の知れない恐怖が全身の肌を粟立てる。声も出せない。呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうだ。

 月陽は金縛りのように動けない僕に向かって、ドレスの裾をほんの少し持ち上げる仕草をして妖艶に軽く膝を落とし、そして一礼した。

 その一礼の所作でさえあまりにも完成された冷徹な美しさを放っていた。それと同時に、僕の頭の中に冷酷で残酷な確信が直接流れ込んできた。

 もう終わりなのだ。と。

 あの場所は生きている人間が自らの意思で探して辿り着けるような場所ではない。きっと、生と死の狭間に朧に浮かぶ蜃気楼のような場所なのだ。これから僕が毎月新月の夜をさまよい、声を枯らして泣いて縋ったところで、あのホテルに辿り着くことは絶対にできない。

 それどころか、これ以上あのホテルに執着し関わってはならない。深追いすれば本当にこの命を失うことになる――そんな本能的な恐怖に近い直感が脳裏を支配した。もう終わりにしなければいけないのだと、残酷なほど明確に悟ってしまったのだ。その瞬間、驚くほど肩がすっと軽くなって、僕は全身から毒を吐き出すように大きく大きく息を吐き出した。

 直後、月陽の姿は吸い込まれるように車内へと消え、ゆっくりとドアが閉まった。エンジン音ひとつ立てず、高級車は新月の闇に溶け込むようにして、狭い路地を滑らかに走り去った。

 ただ霧雨の音だけが呆然と立ち尽くす僕の耳に冷たく、でも、優しく響き続けていた。僕は濡れた手すりをつかんだまま激しく脈打つ胸を押さえ、おぼつかない足取りで部屋へ戻った。

 玄関に落ちている真っ白な封筒。

 僕はそれを、今度こそ拾い上げた。