『碧くん。あのね、私、死ぬのは怖くないんだ』
二十歳の春、僕は恋に落ちた。瞬きほどの一瞬で、僕は彼女に囚われた。誰も踏み込むことのできない過去のどこかに心を残して来たような、寂しい瞳。瑞々しい生花にはない、時間を経たものだけが持つ静かな美しさ。それでいて、万華鏡のようにくるくると変わる表情と、少女のような可憐さ。
彼女はまるで、ドライフラワーのように儚いひとだった。
東京都、恵比寿ガーデンプレイスからほど近い目黒三田通り。都会の喧騒を一本逸れた路地に、こじんまりと佇む隠れ家的なイタリアンレストランFelicita(フェリーチェ)がある。僕のバイト先だ。大学に入学して直ぐに採用してもらってからだから、もう二年になる。
三月三日、十六時。
その新聞記事を見たのは、慌ただしいランチ営業が一段落し、ディナー営業が再開されるまでのつかの間の休憩時間だった。
「碧都って、福島出身じゃなかったっけ」
オーナーが作ってくれた賄いのアマトリチャーナを食べ終えたあと、激甘アイスラテを飲みながら大久保昌也が唐突に聞いてきた。彼の手にはくたびれた昨日の日付の新聞が握られている。さっき、ランチに予約で来店した常連客で、某有名出版社勤務の四人組のひとりが「捨ててもらえますか」とテーブルに残して行ったものだ。
「うん、そう。会津若松」
僕は昌也に負けないくらいのシュガーを入れた鬼甘カプチーノのふわふわの泡をすすりながらうなずいた。なにぶん、僕も昌也も甘党だ。そこもまた気が合う。
昌也とは大学の学部が同じで、初日の講義で隣り合わせたのが縁で仲良くなった。講義前に糖分補給をしようとカントリーマアムを机に出していたところ、うわ、俺もバニラ派だわ、と昌也が気さくに話し掛けてきてくれた。僕もカントリーマアムはバニラ派で、チョコは先に食べてからバニラをゆっくり味わう。チョコもホワイトチョコ派。そこも一緒だった。
そして、従兄が経営しているイタリアンレストランで一緒にバイトしないかと誘ってくれたのも昌也だった。店のオーナーシェフは神田宗吾さんといい、これが昌也を上回る気さくな人柄で面倒見が良くて、今では何でも相談できる兄貴的存在だ。賄いはどれもこれも絶品だし、飲み物はアルコール以外ならセルフサービスで自由に飲んでもいいし、時給も良い。バイト終わりに余った食材で夜食を作って持たせてくれるし、オーナーは神様みたいだ。
「会津若松、って、どこらへん? 猪苗代湖から近い? 遠い?」
穴が開くんじゃないかと思うほどの視線を新聞紙に注ぎながら、昌也はまるでクイズ番組で連続して早押しボタンを押すように立て続けに質問してきた。
「福島の冬ってどう? 寒い? だよな、東北だし。猪苗代湖って、寒いよな?」
「めちゃ寒い。てかやばい。豪雪極寒。寒すぎて滅」
「う……まじか」
「まじ。風が強い日の翌朝はさ、湖の飛沫が木々に噴き付けられてそのまま凍るんだ。しぶき氷っていってさ。でも、すげえ綺麗だから、わざわざ遠方から写真撮りに来る人もけっこういるんだ」
「うー、やば。聞いただけで寒い。てか、飛沫は凍るのに、湖自体は凍らんの? 碧都の実家から猪苗代湖までって近いの? 遠い? 車だとどれくらい?」
普段はあっさりとした性格の昌也が、今日は妙にしつこく根掘り葉掘り聞いてくるものだから、怪訝な態度であからさまに首をかしげてみせた。
「……なんで?」
「あ。いや、ほら。この記事のとこに、赤ペンで丸つけられてたからさ。碧都、福島出身だったよなぁと思って」
ほら、と昌也はくたびれた新聞をテーブルの上に広げた。
「さっき、あの四人組のお客さんのテーブルに料理持ってった時に、聞こえちゃったんだけど。この記事の水死体、蝋人形みたいにきれいな状態だったらしいよ」
「……え」
「冬だし水温も低くて腐敗が遅れたんじゃないかって、話してた」
ほら、ここ、と昌也がトンと人差し指で突いた記事のゴシック体の太い文字が視界に飛び込んできた瞬間、窒息しそうになった。
――猪苗代湖の遺体 都内女性と判明 昨年末から行方不明の三十二歳
肺に冷たい空気を入れ込んだまま、吐き出すのをすっかり忘れていた。
「貸して」
僕は奪い取るようにしてその新聞を引っ手繰った。震える指先を隠すように紙面を見つめる僕は、暑くもないのに不快な汗を背負いながら、ようやく息を吐き出した。
――大崎花純
活字として刻まれたその四文字が、渦を巻いて脳内を激しく駆け巡った。倫理的に考えれば、僕の人生とは全く無縁のはずの名前だった。でも、僕はこの見知らぬはずの名前を……いや、この四つの活字を知っている。
正確には、昨日、知った。
「悪い、昌也。今日早退させて。悪いんだけど、オーナー戻って来たら伝えてくれないか。頼むよ」
喉の奥がカラカラに乾き、自分でも驚くほどかすれた声が出た。
「それは別に、全然いいけど……今夜は予約も少ないし。それより、碧都、お前大丈夫か?」
「え? 何が?」
「顔……真っ青っていうか、もはや白いけど。タクシー呼ぼうか?」
「大丈夫だから! ごめん、本当にごめん」
心配そうに眉を寄せる昌也に頭を下げると、僕は黒いソムリエエプロンをはぎ取り、制服のワイシャツと黒いスラックスのまま店を飛び出した。
恵比寿の緩やかな夕暮れ時の街並みが、ひどく現実味を欠いて見える。夕方の気怠い混雑に紛れるように恵比寿駅へ駆け込み、滑り込んできた外回りの山手線に飛び乗った。車両内は春休み時期のせいか、浮き足立った若者や旅行客の熱気がこもっていた。それなのに吊革を握る僕の指ときたら、氷水に浸したかのように感覚を失い、心臓はといえば肋骨を突き破らんばかりの速さで暴れ回っていた。
「間もなく、渋谷、渋谷です。お出口は左側です……」
無機質なアナウンスが鼓膜を叩き現実に引き戻された瞬間、額に嫌な汗が滲んでいることに気が付いた。ワイシャツの袖でがさつに拭う。でも依然として耳の奥深くではドクドクという不快な拍動が鳴りやまない。
――猪苗代湖の遺体 都内女性と判明 昨年末から行方不明の三十二歳
先月十六日、福島県猪苗代湖で発見された女性の遺体について、猪苗代署は一日、司法解剖の結果、東京都内、無職の大崎花純さん(32)と判明したと発表した。死因は溺死と見られている。
大崎さんは昨年の十二月二十四日、クリスマスイブの夜、都内の自宅マンションで夫と過ごしていた際、リビングを離れたまま行方が分からなくなっていた。夫が警視庁へ捜索願を出していたが、有力な手掛かりが得られないまま二ヶ月が経過していた。
遺体は十六日の早朝、猪苗代湖の冬の風物詩である「しぶき氷」を撮影に訪れた男性によって発見された。遺体は岸辺に流れ着いたように浮かんでおり、水草が絡まっていた。季節外れの薄手の白いワンピースを着用、両耳に白い小花のピアスを着けており、靴は履いておらず裸足の状態だった。
遺体発見現場は、大崎さんの実家がある福島県昭和村(奥会津)から直線距離で約四十二キロ離れた青松浜湖水浴場。同署の発表によると、遺体に目立った外傷や争った形跡はなく、事件性は低いとみて、真冬の湖に薄着のまま入水するに至った経緯を詳しく調べている。
渋谷駅の改札をどうやって抜けたのか、スクランブル交差点をどう渡ったのか、記憶は断片的でひどく曖昧だ。ただ、バイト先からアパートに辿り着くまでの間、新聞の記事とあるひとつの疑惑が真っ黒な塊になって僕の思考を完全に支配していた。
大崎花純さんという女性が、僕の最愛の女性である名知ハナさんと同一人物であるかもしれないということだ。
十二、という歳の差。僕と彼女の共通の地である福島。碧い湖、猪苗代湖。真っ白なワンピースに白い小花のピアス。恵比寿駅東口、エスカレーター横の花屋さん前。彼女が好きな花、かすみ草。そして、今にも泣き出しそうな微笑みを残して、忽然と姿を消したクリスマスイブの夜。
――21時 いつもの場所で
悲しそうな笑顔が酷く気掛かりで、バイト中にトイレへ行くふりをして送信したメッセージには今も返事はなくて、音信不通のままだ。いつもの花屋の前で独り、凍える手でスマホを握りしめていたあの夜、ハナさんは僕の日常からいなくなってしまった。まるで吹き消される蝋燭の灯のように、ふっ、と消えたままだ。
けれど、散らばっていたパズルピースが、音を立てて残酷な現実を完成させていく。いつも何かに怯え、逃げることもできず、自由もなくて、言葉というロープに縛りあげられ、いちばん綺麗な姿のまま時間を止められたドライフラワーのような彼女が、僕に残した言葉たちが耳の奥に蘇る。
『碧くんの碧って、猪苗代湖の湖水の色ね。青くて、でも緑色が混じっていて、宝石みたいに綺麗な色』
これは僕の勝手な憶測と予感に過ぎないけれど、もし、彼女が彼女で、最期に選んだ場所が、あの雪深く冷たい湖の底だったのかもしれないと思うと、心臓を鋭い何かで一突きされたように痛くて、窒息してしまうんじゃないかと心配になるほど苦しくなった。そして、全身で願った。
きっと、違いますように。
大崎花純という見知らぬはずの人物と、最愛のハナさんが、全くの別人であるようにと。
僕は祈るような、あるいは呪うような気持ちに近い心地で、アパートの部屋の暗証番号を押した。寒くもないのにバカみたいに指先が震えるせいで入力を間違えて、電子音が拒絶を続ける。
三度目でやっとロック解除に成功し、ドアを開けて部屋に飛び込んだ。シンと静まり返った空間だというのに、キンと耳鳴りがした。ごくりと唾を呑み、そして、土足のままフローリングに上がり、背負っていた鞄を床に叩きつけた。投げ出されたスマホがフローリングの上を滑り、乾いた音を立てて壁にぶつかる。
「はぁっ……はっ……」
喉の奥が引きつり、酸素を上手く取り込むことさえ難しい。肺がひしゃげたように苦しく、口の中は鉄の味が広がっている。僕は呼吸を乱したまま、視線だけで部屋の隅々を這いずり回った。
1DKの狭い部屋。日当たりの良い南西向きのダイニングキッチンの、小さなテーブル。ここ、すっごく日当たりが良いのね、気持ちいい、とハナさんのお気に入りの席に、その封書はあった。
何かのイタズラに違いない、やっぱり東京はおっかねえ、そう思って一度はゴミ箱にほうろうとした。でも、どうしてなのか、底知れぬ予感に指がすくんで、結局捨てることができずに放置していた一通の、見知らぬ人物からの招待状。昨日、届いたものだ。
僕は這いずるようにしてその封書に飛び付いた。指先が不快なほど汗ばんでいる。笑えるほど震える指でそれを封筒から抜き出した。まるで星も眠るダークネイビー色の上質な表紙、僕の体温と湿気でじっとりと汚れていくのが分かる。
そんなはずない。そうだ。きっと見間違えたんだ。きっと……いや、絶対、別人だ。ハッ、ハッ、と浅く呼吸することで精一杯だ。心臓が肋骨を砕いて飛び出して来そうなほど暴れ回っている。ふっ、と息を吐き出した時、こめかみを伝った汗の一滴が招待状の表紙の上にぽたりと落ちた。
手が制御を失ったように震えて、なかなか指が動かない。焦れば焦るほど視界がチカチカと明滅し、さっき昌也に見せられた新聞記事の活字が脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……あぁっ!」
焦げてしまいそうなほど焼き付いた活字を振り払うように上下左右に頭を振る。そして、ひと思いに招待状を開いた。高輪碧都様、と上質な紙に印字された自分の名前が視界に飛び込んできた瞬間、血が逆流するような感覚が全身を巡った。滲んだ汗ですべる招待状を両手でテーブルの上に押さえ付けて、目を細めた。額から流れた汗が目に入り、視界が激しく滲む。僕はそれをシャツの袖で乱暴に拭い、文字の列に目を凝らした。
「……は、ぁ」
喉の奥から、情けないほど小さな、引きつった声が漏れた。さっきまで、ただの印刷物の文字として僕の目を通り過ぎていくだけのはずの、名前。真冬の猪苗代湖で見つかったという、見知らぬ誰かのはずの、名前。大崎花純。それが僕の元に届いた封書の中に、確かに存在していた。
高輪 碧都 様
このたびは 大崎花純様のご逝去の報に接し 心よりお悔み申し上げます
落花流水という言葉のように出逢い 恋に落ち 最愛の心の人である高輪碧都様の切なさはいかほどかとお察し致します
また 突然このようなご連絡をお許しください
大崎花純様より当ホテルのご予約 また ご面会のご依頼を承りました
次の新月の夜 一室ご用意が可能となりましたので ご連絡させていただきました
202X年 3月10日(火)
東京都港区赤坂9-8-X 20時
ホテル・ラ・ソルーナにて大崎花純様がお待ちになっております
当日は東京駅から当ホテルの送迎車にてお越しくださいますようお願い致します
なお 当ホテルへは一般の交通機関を利用し直接お越しいただくことは出来かねます
必ず送迎車をご利用いただきますよう重ねてお願い申し上げます
19時 丸の内北口 タクシー乗り場にて 品川300 め 12‐XXの車にご乗車ください
当ホテルは夜のみの営業となります
当日 お越しになりましたら 19時45分までに受付を済ませていただきますよう お願い申し上げます
なお この招待状に関しまして くれぐれも他言無用にてお願い致します
他者に話された際には大崎花純様とご面会が出来なくなりますのでご注意ください
その他 詳細は当ホテルへお越しの際にフロント及び客室係より ご説明がございます
新月の夜 限られたお時間ではございますが おふたりの再会のお手伝いが出来ますよう 我々スタッフ一同 ご尽力させていただく事をお約束致します
それでは 高輪碧都様のお越しを 心よりお待ちしております
HOTEL La SOLUNA
支配人 月陽
「……おお、崎……花純」
頭の芯がピキピキと音を立てて凍りついていく。血の気が一気に引き、指先の感覚が消えていった。
きっと、好きになってはいけないひとだった。でも、どうしようもないほどに好きになってしまった。彼女は僕に《《ハナ》》だと名を名乗った。でも、それは嘘だったことに、今日、気付いてしまった。
どうにもならないほどに好きになってしまったハナさんは夫という檻から逃れ、僕と過ごす僅かな限られた時間だけ彼女が自らに与えていた偽りの名前だったことに、今、気付いた。
花純、か。大好きな花なのだと言っていた彼女の、小さな小さな精一杯の嘘だったのだろうけれど。
昨日、ポストに入っていたこの招待状。そして、新聞に載っていた情報と完全に一致してしまった名前が、最悪のパズルピースとなって脳内で完全に噛み合った。名知ハナは大崎花純であり、そして、彼女はもうこの世にはいない。大崎花純は、僕がクリスマスイブの夜に日付が変わっても待ち続け、連絡が取れなくなった、あの愛おしくてたまらないハナさんだ。
「あ……あぁぁ……っ」
全身の力が一気に抜け、僕は床に膝から崩れ落ちた。体が八つ裂きにされたんじゃないかと思うほどにギシギシと軋んだ。苦しくて切なくて、悲しみなのか怒りなのか……胃の底からどす黒い絶望がせり上がってくる。
あの物欲とプライドの塊のような旦那に僕たちの関係がバレて何かされたんじゃないかと、さらに自由のない生活を送っているのではないかと。クリスマスイブの夜から、寝ても覚めてもスマホを握り締め、不安に潰れそうになりながら連絡を待ち続けていたあの時期も、二月に入って、もう完全に振られたんだ、遊ばれたのかもしれない、都合のいい暇つぶし相手にされていたのか、と独りよがりの失恋に泣いていた時。
彼女はもう、この世に存在していなかった。あの冷たい真冬の湖で、たったひとりで息を止めていたのだ。
私はね、枯れたくても枯れることさえ許されない、ドライフラワーなの。そう言って、消え入りそうな声で笑っていたハナさんの横顔が浮かぶ。彼女はドライフラワーであることをやめる為に、自ら水を求めて沈んでいったのかもしれない。
『碧くんの碧って、とっても綺麗な色だよね。私、好きだなあ。澄んだ深い青緑色。単なる青や緑色じゃなくて、何層にも重なるような奥行きのある、青緑色。私の大好きな湖と同じ色だね、碧くんの名前』
二十歳の春、僕は純白の小花のような女性に恋をした。瞬きほどの速さの一瞬でストンと落ちた。あらがいようのない恋だった。そのひとはドライフラワーのように儚く、そして、危ういひとだった。
彼女は僕より十二歳も年上だったけれど、その肌は瑞々しく潤い、陽にかざせば透けてしまいそうなほどの透明感を纏っていた。
華奢で小柄で控えめに笑うその姿はまるで、花束の隙間でささやかに、けれど確かに息づく可憐なかすみ草のようだった。そよ風にふわふわと揺れる小さな小さな純白の花。指先で突けば折れてしまいそうなほど細い手首と頼りないなで肩。ころころと鈴を転がすように笑ったと思えば、酷く怯えるように泣いて、気まぐれにぷいっとそっぽを向いて拗ねてみたりして。
天真爛漫で、でも、目を離した隙にふわりと飛んでどこかへ行ってしまいそうな、危ういひとだった。そして、朽ちてしまいたくても枯れることさえ許されない、ドライフラワーのようなひとだった。いちばん美しい瞬間のまま時間を止められ、生を奪われた標本のようなひとだった。
きみは俺が居ないと何もできないんだな、俺の言う通りにしていればいいんだから、本当にきみは欠陥品だな。
そんな呪いのような呪文を毎日浴びせられた可憐なかすみ草の心は、少しずつ水分を失い、固く、脆くなっていったのだろう。生きたまま枯れていくのを待つことさえ許されない、白く小さく可憐で天真爛漫で、純粋無垢な、僕の大切な花だった。
朽ち果てて土に還る自由さえ奪われて、静かな部屋の片隅にただ美しく吊るされている。そんな悲しい、ドライフラワーのようなひとだった。けれど、とても芯が強く勇ましく、どこかおっちょこちょいで、本当に可愛らしい、僕の最愛のひとだった。
『誠実。青色のかすみ草の花言葉。私ね、どんなに腐っても、自分の心にだけは誠実でいるって決めてるの』
その言葉は祈りの様でもあり、彼女が自身に掛けた呪いのようにも聞こえた。
『自分の心にだけは、嘘、つきたくないの』
あの日の彼女の瞳には吸い込まれそうなほど深く固い決意のようなものが宿っているように見えた。
『私、碧くんが好き。大好き』
それが、彼女が僕に残した最初で最後の告白だった。
そのクリスマスイブの夜、彼女は忽然と姿を消してしまった。
まるでかすみ草のように愛らしく、けれど、冬の夜空に浮かぶ月のように朧げな微笑みだけを僕の記憶に焼き付けて、いなくなってしまった。
二十歳の春、僕は恋に落ちた。瞬きほどの一瞬で、僕は彼女に囚われた。誰も踏み込むことのできない過去のどこかに心を残して来たような、寂しい瞳。瑞々しい生花にはない、時間を経たものだけが持つ静かな美しさ。それでいて、万華鏡のようにくるくると変わる表情と、少女のような可憐さ。
彼女はまるで、ドライフラワーのように儚いひとだった。
東京都、恵比寿ガーデンプレイスからほど近い目黒三田通り。都会の喧騒を一本逸れた路地に、こじんまりと佇む隠れ家的なイタリアンレストランFelicita(フェリーチェ)がある。僕のバイト先だ。大学に入学して直ぐに採用してもらってからだから、もう二年になる。
三月三日、十六時。
その新聞記事を見たのは、慌ただしいランチ営業が一段落し、ディナー営業が再開されるまでのつかの間の休憩時間だった。
「碧都って、福島出身じゃなかったっけ」
オーナーが作ってくれた賄いのアマトリチャーナを食べ終えたあと、激甘アイスラテを飲みながら大久保昌也が唐突に聞いてきた。彼の手にはくたびれた昨日の日付の新聞が握られている。さっき、ランチに予約で来店した常連客で、某有名出版社勤務の四人組のひとりが「捨ててもらえますか」とテーブルに残して行ったものだ。
「うん、そう。会津若松」
僕は昌也に負けないくらいのシュガーを入れた鬼甘カプチーノのふわふわの泡をすすりながらうなずいた。なにぶん、僕も昌也も甘党だ。そこもまた気が合う。
昌也とは大学の学部が同じで、初日の講義で隣り合わせたのが縁で仲良くなった。講義前に糖分補給をしようとカントリーマアムを机に出していたところ、うわ、俺もバニラ派だわ、と昌也が気さくに話し掛けてきてくれた。僕もカントリーマアムはバニラ派で、チョコは先に食べてからバニラをゆっくり味わう。チョコもホワイトチョコ派。そこも一緒だった。
そして、従兄が経営しているイタリアンレストランで一緒にバイトしないかと誘ってくれたのも昌也だった。店のオーナーシェフは神田宗吾さんといい、これが昌也を上回る気さくな人柄で面倒見が良くて、今では何でも相談できる兄貴的存在だ。賄いはどれもこれも絶品だし、飲み物はアルコール以外ならセルフサービスで自由に飲んでもいいし、時給も良い。バイト終わりに余った食材で夜食を作って持たせてくれるし、オーナーは神様みたいだ。
「会津若松、って、どこらへん? 猪苗代湖から近い? 遠い?」
穴が開くんじゃないかと思うほどの視線を新聞紙に注ぎながら、昌也はまるでクイズ番組で連続して早押しボタンを押すように立て続けに質問してきた。
「福島の冬ってどう? 寒い? だよな、東北だし。猪苗代湖って、寒いよな?」
「めちゃ寒い。てかやばい。豪雪極寒。寒すぎて滅」
「う……まじか」
「まじ。風が強い日の翌朝はさ、湖の飛沫が木々に噴き付けられてそのまま凍るんだ。しぶき氷っていってさ。でも、すげえ綺麗だから、わざわざ遠方から写真撮りに来る人もけっこういるんだ」
「うー、やば。聞いただけで寒い。てか、飛沫は凍るのに、湖自体は凍らんの? 碧都の実家から猪苗代湖までって近いの? 遠い? 車だとどれくらい?」
普段はあっさりとした性格の昌也が、今日は妙にしつこく根掘り葉掘り聞いてくるものだから、怪訝な態度であからさまに首をかしげてみせた。
「……なんで?」
「あ。いや、ほら。この記事のとこに、赤ペンで丸つけられてたからさ。碧都、福島出身だったよなぁと思って」
ほら、と昌也はくたびれた新聞をテーブルの上に広げた。
「さっき、あの四人組のお客さんのテーブルに料理持ってった時に、聞こえちゃったんだけど。この記事の水死体、蝋人形みたいにきれいな状態だったらしいよ」
「……え」
「冬だし水温も低くて腐敗が遅れたんじゃないかって、話してた」
ほら、ここ、と昌也がトンと人差し指で突いた記事のゴシック体の太い文字が視界に飛び込んできた瞬間、窒息しそうになった。
――猪苗代湖の遺体 都内女性と判明 昨年末から行方不明の三十二歳
肺に冷たい空気を入れ込んだまま、吐き出すのをすっかり忘れていた。
「貸して」
僕は奪い取るようにしてその新聞を引っ手繰った。震える指先を隠すように紙面を見つめる僕は、暑くもないのに不快な汗を背負いながら、ようやく息を吐き出した。
――大崎花純
活字として刻まれたその四文字が、渦を巻いて脳内を激しく駆け巡った。倫理的に考えれば、僕の人生とは全く無縁のはずの名前だった。でも、僕はこの見知らぬはずの名前を……いや、この四つの活字を知っている。
正確には、昨日、知った。
「悪い、昌也。今日早退させて。悪いんだけど、オーナー戻って来たら伝えてくれないか。頼むよ」
喉の奥がカラカラに乾き、自分でも驚くほどかすれた声が出た。
「それは別に、全然いいけど……今夜は予約も少ないし。それより、碧都、お前大丈夫か?」
「え? 何が?」
「顔……真っ青っていうか、もはや白いけど。タクシー呼ぼうか?」
「大丈夫だから! ごめん、本当にごめん」
心配そうに眉を寄せる昌也に頭を下げると、僕は黒いソムリエエプロンをはぎ取り、制服のワイシャツと黒いスラックスのまま店を飛び出した。
恵比寿の緩やかな夕暮れ時の街並みが、ひどく現実味を欠いて見える。夕方の気怠い混雑に紛れるように恵比寿駅へ駆け込み、滑り込んできた外回りの山手線に飛び乗った。車両内は春休み時期のせいか、浮き足立った若者や旅行客の熱気がこもっていた。それなのに吊革を握る僕の指ときたら、氷水に浸したかのように感覚を失い、心臓はといえば肋骨を突き破らんばかりの速さで暴れ回っていた。
「間もなく、渋谷、渋谷です。お出口は左側です……」
無機質なアナウンスが鼓膜を叩き現実に引き戻された瞬間、額に嫌な汗が滲んでいることに気が付いた。ワイシャツの袖でがさつに拭う。でも依然として耳の奥深くではドクドクという不快な拍動が鳴りやまない。
――猪苗代湖の遺体 都内女性と判明 昨年末から行方不明の三十二歳
先月十六日、福島県猪苗代湖で発見された女性の遺体について、猪苗代署は一日、司法解剖の結果、東京都内、無職の大崎花純さん(32)と判明したと発表した。死因は溺死と見られている。
大崎さんは昨年の十二月二十四日、クリスマスイブの夜、都内の自宅マンションで夫と過ごしていた際、リビングを離れたまま行方が分からなくなっていた。夫が警視庁へ捜索願を出していたが、有力な手掛かりが得られないまま二ヶ月が経過していた。
遺体は十六日の早朝、猪苗代湖の冬の風物詩である「しぶき氷」を撮影に訪れた男性によって発見された。遺体は岸辺に流れ着いたように浮かんでおり、水草が絡まっていた。季節外れの薄手の白いワンピースを着用、両耳に白い小花のピアスを着けており、靴は履いておらず裸足の状態だった。
遺体発見現場は、大崎さんの実家がある福島県昭和村(奥会津)から直線距離で約四十二キロ離れた青松浜湖水浴場。同署の発表によると、遺体に目立った外傷や争った形跡はなく、事件性は低いとみて、真冬の湖に薄着のまま入水するに至った経緯を詳しく調べている。
渋谷駅の改札をどうやって抜けたのか、スクランブル交差点をどう渡ったのか、記憶は断片的でひどく曖昧だ。ただ、バイト先からアパートに辿り着くまでの間、新聞の記事とあるひとつの疑惑が真っ黒な塊になって僕の思考を完全に支配していた。
大崎花純さんという女性が、僕の最愛の女性である名知ハナさんと同一人物であるかもしれないということだ。
十二、という歳の差。僕と彼女の共通の地である福島。碧い湖、猪苗代湖。真っ白なワンピースに白い小花のピアス。恵比寿駅東口、エスカレーター横の花屋さん前。彼女が好きな花、かすみ草。そして、今にも泣き出しそうな微笑みを残して、忽然と姿を消したクリスマスイブの夜。
――21時 いつもの場所で
悲しそうな笑顔が酷く気掛かりで、バイト中にトイレへ行くふりをして送信したメッセージには今も返事はなくて、音信不通のままだ。いつもの花屋の前で独り、凍える手でスマホを握りしめていたあの夜、ハナさんは僕の日常からいなくなってしまった。まるで吹き消される蝋燭の灯のように、ふっ、と消えたままだ。
けれど、散らばっていたパズルピースが、音を立てて残酷な現実を完成させていく。いつも何かに怯え、逃げることもできず、自由もなくて、言葉というロープに縛りあげられ、いちばん綺麗な姿のまま時間を止められたドライフラワーのような彼女が、僕に残した言葉たちが耳の奥に蘇る。
『碧くんの碧って、猪苗代湖の湖水の色ね。青くて、でも緑色が混じっていて、宝石みたいに綺麗な色』
これは僕の勝手な憶測と予感に過ぎないけれど、もし、彼女が彼女で、最期に選んだ場所が、あの雪深く冷たい湖の底だったのかもしれないと思うと、心臓を鋭い何かで一突きされたように痛くて、窒息してしまうんじゃないかと心配になるほど苦しくなった。そして、全身で願った。
きっと、違いますように。
大崎花純という見知らぬはずの人物と、最愛のハナさんが、全くの別人であるようにと。
僕は祈るような、あるいは呪うような気持ちに近い心地で、アパートの部屋の暗証番号を押した。寒くもないのにバカみたいに指先が震えるせいで入力を間違えて、電子音が拒絶を続ける。
三度目でやっとロック解除に成功し、ドアを開けて部屋に飛び込んだ。シンと静まり返った空間だというのに、キンと耳鳴りがした。ごくりと唾を呑み、そして、土足のままフローリングに上がり、背負っていた鞄を床に叩きつけた。投げ出されたスマホがフローリングの上を滑り、乾いた音を立てて壁にぶつかる。
「はぁっ……はっ……」
喉の奥が引きつり、酸素を上手く取り込むことさえ難しい。肺がひしゃげたように苦しく、口の中は鉄の味が広がっている。僕は呼吸を乱したまま、視線だけで部屋の隅々を這いずり回った。
1DKの狭い部屋。日当たりの良い南西向きのダイニングキッチンの、小さなテーブル。ここ、すっごく日当たりが良いのね、気持ちいい、とハナさんのお気に入りの席に、その封書はあった。
何かのイタズラに違いない、やっぱり東京はおっかねえ、そう思って一度はゴミ箱にほうろうとした。でも、どうしてなのか、底知れぬ予感に指がすくんで、結局捨てることができずに放置していた一通の、見知らぬ人物からの招待状。昨日、届いたものだ。
僕は這いずるようにしてその封書に飛び付いた。指先が不快なほど汗ばんでいる。笑えるほど震える指でそれを封筒から抜き出した。まるで星も眠るダークネイビー色の上質な表紙、僕の体温と湿気でじっとりと汚れていくのが分かる。
そんなはずない。そうだ。きっと見間違えたんだ。きっと……いや、絶対、別人だ。ハッ、ハッ、と浅く呼吸することで精一杯だ。心臓が肋骨を砕いて飛び出して来そうなほど暴れ回っている。ふっ、と息を吐き出した時、こめかみを伝った汗の一滴が招待状の表紙の上にぽたりと落ちた。
手が制御を失ったように震えて、なかなか指が動かない。焦れば焦るほど視界がチカチカと明滅し、さっき昌也に見せられた新聞記事の活字が脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……あぁっ!」
焦げてしまいそうなほど焼き付いた活字を振り払うように上下左右に頭を振る。そして、ひと思いに招待状を開いた。高輪碧都様、と上質な紙に印字された自分の名前が視界に飛び込んできた瞬間、血が逆流するような感覚が全身を巡った。滲んだ汗ですべる招待状を両手でテーブルの上に押さえ付けて、目を細めた。額から流れた汗が目に入り、視界が激しく滲む。僕はそれをシャツの袖で乱暴に拭い、文字の列に目を凝らした。
「……は、ぁ」
喉の奥から、情けないほど小さな、引きつった声が漏れた。さっきまで、ただの印刷物の文字として僕の目を通り過ぎていくだけのはずの、名前。真冬の猪苗代湖で見つかったという、見知らぬ誰かのはずの、名前。大崎花純。それが僕の元に届いた封書の中に、確かに存在していた。
高輪 碧都 様
このたびは 大崎花純様のご逝去の報に接し 心よりお悔み申し上げます
落花流水という言葉のように出逢い 恋に落ち 最愛の心の人である高輪碧都様の切なさはいかほどかとお察し致します
また 突然このようなご連絡をお許しください
大崎花純様より当ホテルのご予約 また ご面会のご依頼を承りました
次の新月の夜 一室ご用意が可能となりましたので ご連絡させていただきました
202X年 3月10日(火)
東京都港区赤坂9-8-X 20時
ホテル・ラ・ソルーナにて大崎花純様がお待ちになっております
当日は東京駅から当ホテルの送迎車にてお越しくださいますようお願い致します
なお 当ホテルへは一般の交通機関を利用し直接お越しいただくことは出来かねます
必ず送迎車をご利用いただきますよう重ねてお願い申し上げます
19時 丸の内北口 タクシー乗り場にて 品川300 め 12‐XXの車にご乗車ください
当ホテルは夜のみの営業となります
当日 お越しになりましたら 19時45分までに受付を済ませていただきますよう お願い申し上げます
なお この招待状に関しまして くれぐれも他言無用にてお願い致します
他者に話された際には大崎花純様とご面会が出来なくなりますのでご注意ください
その他 詳細は当ホテルへお越しの際にフロント及び客室係より ご説明がございます
新月の夜 限られたお時間ではございますが おふたりの再会のお手伝いが出来ますよう 我々スタッフ一同 ご尽力させていただく事をお約束致します
それでは 高輪碧都様のお越しを 心よりお待ちしております
HOTEL La SOLUNA
支配人 月陽
「……おお、崎……花純」
頭の芯がピキピキと音を立てて凍りついていく。血の気が一気に引き、指先の感覚が消えていった。
きっと、好きになってはいけないひとだった。でも、どうしようもないほどに好きになってしまった。彼女は僕に《《ハナ》》だと名を名乗った。でも、それは嘘だったことに、今日、気付いてしまった。
どうにもならないほどに好きになってしまったハナさんは夫という檻から逃れ、僕と過ごす僅かな限られた時間だけ彼女が自らに与えていた偽りの名前だったことに、今、気付いた。
花純、か。大好きな花なのだと言っていた彼女の、小さな小さな精一杯の嘘だったのだろうけれど。
昨日、ポストに入っていたこの招待状。そして、新聞に載っていた情報と完全に一致してしまった名前が、最悪のパズルピースとなって脳内で完全に噛み合った。名知ハナは大崎花純であり、そして、彼女はもうこの世にはいない。大崎花純は、僕がクリスマスイブの夜に日付が変わっても待ち続け、連絡が取れなくなった、あの愛おしくてたまらないハナさんだ。
「あ……あぁぁ……っ」
全身の力が一気に抜け、僕は床に膝から崩れ落ちた。体が八つ裂きにされたんじゃないかと思うほどにギシギシと軋んだ。苦しくて切なくて、悲しみなのか怒りなのか……胃の底からどす黒い絶望がせり上がってくる。
あの物欲とプライドの塊のような旦那に僕たちの関係がバレて何かされたんじゃないかと、さらに自由のない生活を送っているのではないかと。クリスマスイブの夜から、寝ても覚めてもスマホを握り締め、不安に潰れそうになりながら連絡を待ち続けていたあの時期も、二月に入って、もう完全に振られたんだ、遊ばれたのかもしれない、都合のいい暇つぶし相手にされていたのか、と独りよがりの失恋に泣いていた時。
彼女はもう、この世に存在していなかった。あの冷たい真冬の湖で、たったひとりで息を止めていたのだ。
私はね、枯れたくても枯れることさえ許されない、ドライフラワーなの。そう言って、消え入りそうな声で笑っていたハナさんの横顔が浮かぶ。彼女はドライフラワーであることをやめる為に、自ら水を求めて沈んでいったのかもしれない。
『碧くんの碧って、とっても綺麗な色だよね。私、好きだなあ。澄んだ深い青緑色。単なる青や緑色じゃなくて、何層にも重なるような奥行きのある、青緑色。私の大好きな湖と同じ色だね、碧くんの名前』
二十歳の春、僕は純白の小花のような女性に恋をした。瞬きほどの速さの一瞬でストンと落ちた。あらがいようのない恋だった。そのひとはドライフラワーのように儚く、そして、危ういひとだった。
彼女は僕より十二歳も年上だったけれど、その肌は瑞々しく潤い、陽にかざせば透けてしまいそうなほどの透明感を纏っていた。
華奢で小柄で控えめに笑うその姿はまるで、花束の隙間でささやかに、けれど確かに息づく可憐なかすみ草のようだった。そよ風にふわふわと揺れる小さな小さな純白の花。指先で突けば折れてしまいそうなほど細い手首と頼りないなで肩。ころころと鈴を転がすように笑ったと思えば、酷く怯えるように泣いて、気まぐれにぷいっとそっぽを向いて拗ねてみたりして。
天真爛漫で、でも、目を離した隙にふわりと飛んでどこかへ行ってしまいそうな、危ういひとだった。そして、朽ちてしまいたくても枯れることさえ許されない、ドライフラワーのようなひとだった。いちばん美しい瞬間のまま時間を止められ、生を奪われた標本のようなひとだった。
きみは俺が居ないと何もできないんだな、俺の言う通りにしていればいいんだから、本当にきみは欠陥品だな。
そんな呪いのような呪文を毎日浴びせられた可憐なかすみ草の心は、少しずつ水分を失い、固く、脆くなっていったのだろう。生きたまま枯れていくのを待つことさえ許されない、白く小さく可憐で天真爛漫で、純粋無垢な、僕の大切な花だった。
朽ち果てて土に還る自由さえ奪われて、静かな部屋の片隅にただ美しく吊るされている。そんな悲しい、ドライフラワーのようなひとだった。けれど、とても芯が強く勇ましく、どこかおっちょこちょいで、本当に可愛らしい、僕の最愛のひとだった。
『誠実。青色のかすみ草の花言葉。私ね、どんなに腐っても、自分の心にだけは誠実でいるって決めてるの』
その言葉は祈りの様でもあり、彼女が自身に掛けた呪いのようにも聞こえた。
『自分の心にだけは、嘘、つきたくないの』
あの日の彼女の瞳には吸い込まれそうなほど深く固い決意のようなものが宿っているように見えた。
『私、碧くんが好き。大好き』
それが、彼女が僕に残した最初で最後の告白だった。
そのクリスマスイブの夜、彼女は忽然と姿を消してしまった。
まるでかすみ草のように愛らしく、けれど、冬の夜空に浮かぶ月のように朧げな微笑みだけを僕の記憶に焼き付けて、いなくなってしまった。

