ここはおそらく、あの世とこの世の狭間に位置しているのだろう。
時の流れという概念はとうに消失している。朝を告げる光が差し込むこともなければ、帳を下ろす夜が訪れることもない。ただ停滞した空気だけがそこにある。それでも奇妙なもので長い年月この場に立ち続けていれば、一月という時の節目が分かるようになっていた。
太陽も月も拝まぬまま過ごした八十年という歳月が、私に異界の暦を刻み込ませたのかもしれない。空も、足元の草木も、ごつごつと牙を剥くような岩場も、全てが色を失った灰色の階調に沈んでいる。
色彩を持つものといえば、この橋の渡り口を通り過ぎゆく死人たちが身に着けている衣類や髪の毛の色くらいだ。
しかし、この殺風景な終焉の世界にも唯一、目を射るほど美しい風景がある。
透き通った浅葱色の川と、その川の上に虚空を繋ぐように架けられた鮮やかな朱い色の吊り橋だ。このふたつだけは呪いのように色濃く鮮やかで、灰色のこの世界で唯一輝きを放っている。
やがて、風も吹かないはずの空間に、湿り気を帯びた甘い花の香りが漂い始めた。彼女だ。月陽が来る気配だ。むせ返りそうなほど香りが立ち込めれば、またひとり、この世からもあの世からも弾かれた者が一輪の白百合を手に、朱い橋を渡って幽世へと逝くのだ。
「富沢正春様。また、新月の夜が明けます」
美しい笛の音色のようなその声に顔を上げてみれば、一歩後方には彼の姿があった。私は思わず強張っていた頬を緩めた。
「あ、正春」
左手をひょいと挙げ、人懐こくはにかんだのは孝太だった。たしか、一月ほど前、初めてここに辿り着いた時の孝太は、橋を渡れぬ戸惑いの中にいた。大きな体を小さくすくめ、心細そうに立ち尽くしていたあの少年のような面影は今やもうどこにもない。
あの時、私と孝太はたくさんの話をして仲良くなった。八十年も十七歳の姿のままの私と、今十七歳の孝太。出身もお国訛りも違えども、歳が同じで妙に気が合った。あの時はまだ不安そうにしていたが、今はもう激しい雨の後の空のように清々しく、憑き物が落ちたような表情だ。
「その様子だと、大切に思っていた者に会えたようだな」
私の問いに孝太は力強く頷いた。
「盟友に会うことができたんじゃ」
「ほお、盟友、か」
「そうじゃ。俺の最愛の盟友じゃ。正春があの場所を教えてくれたからじゃ。ほんまありがとう」
実に不思議な感覚だった。孝太とこうして言葉を交わすと、八十年前、私がまだ血の通った肉体を持ち、生きるために呼吸をしていた頃の記憶が鮮烈に蘇る。肌の奥がむず痒くなるような、生へのそわそわとした衝動。私もかつては彼のようにひたむきに明日を信じていた。そんな気がしてくるのだ。
「良かったな。孝太」
「うん。嬉しかった。俺の夢そのものみてえな、大切な友達なんじゃ。俺なんかよりずっと野球が好きで、かっこええんじゃ」
まるで恋人の自慢でもするかのように、孝太はその不思議な色の瞳をくるくると転がすように輝かせた。その純粋さに、私はつい声を立てて笑ってしまった。そんな自分に自分がいちばん驚き、エヘンと咳払いをして取り繕う。
「そうか、良かったな。では……もう逝くのだな」
うなずく孝太に、月陽殿が静かに一輪の白百合を差し出した。
「鳴瀬孝太様。この花をお持ちになってください。この先は道中暗く険しいと聞いております。もし死神に捕まってしまえば、二度と生まれ変わることは叶いません。この花が道しるべとなり、鳴瀬孝太様を導いてくださるよう、祈りを込めておきました」
ありがとうございました、と孝太は恭しく一礼し、白百合を受け取った。そして、ふいっと私を射抜くような眼差しで見つめ、雨が降り出すように語り出した。
「俺、小さい頃、この目の色のせいでいじめられること多くてさ、友達がいなかったんじゃ。自分の目が大嫌いじゃった。でも、あいつ……千隼だけは違った。綺麗じゃ、宝石見てえじゃって言ってくれた。千隼は俺のヒーローなんじゃ」
「そうか……」
「会って、分かったんじゃ。あいつ、ずっと苦しんどった。自分を責めて苦しんどった。会う前は自殺したこと許してもらえるか不安だったけど、会ってみて分かったんじゃ。残された者は後悔を胸に抱えて自分を責めてるってこと」
何だろうか……この痛みに似た感覚は。
「正春をここに縛り付けとる人も、正春のことが許せねえんじゃねえ。自ら志願して出撃して命を落とした正春のことが許せねえわけじゃない。ただ、どうしても、もう一度、正春に会いてえだけなんじゃ、きっと。もう一度、その人に会うことが正春の使命なんじゃと思う。だから、正春はまだ橋を渡ることができんのじゃ」
声を出すことができなかった。衝撃だった。私にもまだ感情の欠片が残っていたとは。瞳孔が開き、喉の奥から熱い塊が込み上げる。八十年間凪いでいた私の心に、激しい電流が走り抜けた。
「正春!」
孝太が左の拳を突き出してきた。ぐうたっちじゃ、とよく分からない奇妙な言葉を口にしながら。ぐう、たっち。拳を突き合わせようということらしい。私は右腕をゆっくりと持ち上げ、拳を突き合わせた。コチン、と軽い衝撃が魂の深くまで響いてハッとした。
「しっかりせえ、正春」
なんてことだろう。私にはまだ辛うじて魂が残っているらしい。感情も。危うく失うところだった。失っていたら地縛霊になってしまうところだった。孝太がそれに気づかせてくれたのだ。はっと顔を上げた私を見つめて、「目の色が戻ったな」と孝太がほっとしたように微笑んだ。
「正春。次は同じ時代で、きっとまた会おう」
十七歳の無邪気な笑顔を残し、孝太は白百合を大切そうに握り締めて歩き出した。朱い吊り橋に向かうその足取りに迷いは一切感じられない。
孝太は一度も振り返ることなく、浅葱色の川を越えて濃霧に霞む淡い光の向こうへと消えて行った。
またひとり、弾かれ者を無事に見送ることができた。
こうして魂の澱を洗い流し、清々しい表情で橋を渡っていく背中を、今日まで何度見送って来ただろうか。百や二百ではない。八十年の歳月の中で、私は数えきれないほどの魂が向こう側へ消えて行くのを、ただ静かに眺めてきた。ただ、月陽殿の司る宿から戻らぬ者も稀にいる。五十年ほど前にも未練の深渕に呑み込まれたのか、ここへ戻らぬ弾かれ者がいた。だが、ここ二十年ほどはそのような者もいなかった。皆、孝太のように憑き物が取れたように清々しい顔で朱い橋を渡って逝った。
だからこそだ。二月ほど前にここへ辿り着いた彼女のことが、どうにも気がかりでならない。彼女は死人とは思えないほど生命力にあふれて見えた。まるで何かの間違いで、生きたままこの狭間の世界に迷い込んで来てしまったのではないかと思ってしまうような、なんとも不思議なお嬢さんだった。
『あの、だめもとで聞くけど、スマホ、持ってたりしますか?』
今って何時くらいかな? 朝なのかな? それとも夜?
甘糖楼と牛乳を混ぜ溶かしたような色の、やわらかな短い髪の毛。耳たぶには可愛らしい白い小花の耳飾りをして、髪の毛先をふわふわと弾ませながら、白い衣を羽織った彼女は、ぺちゃくちゃとまあよくしゃべった。
彼女はその膝丈の白い衣を「わんぴいす」と呼び、今、日本は二〇二十六年の春だと言い、元号は令和だと教えてくれた。人々は「すまほ」という小さな薄い板のような電話を持ち歩いているらしい。そして「こんびに」という二十四時間三百六十五日営業する便利な店が全国に点々とあるそうだ。さらに驚いたのは、何百人もの人を乗せて「じゃんぼじぇっとき」なるものが空を無数に飛び交っているということだった。
私が必死に生きた時代からは想像もつかない、魔法のようなおとぎ話の世界の話だ。彼女の話は面白く興味深いものばかりだった。ただ、想像が追い付かず腰を抜かしそうになるような話ばかりだった。というより、彼女が一方的にしゃべり倒すのを、私が呆れたり共感したりしながら聞いていただけなのだが。
『私ね、死ぬつもりなんて、これっぽっちもなかったのよ。だって、死んじゃったら、あおくんに会えなくなっちゃうでしょ』
その大好きな彼の話をしている時は特に、万華鏡のようにくるくると表情が変わった。よほどその彼のことを愛していたのだろう。彼の話をするとそれはそれは幸せそうで、鈴を転がすようによく笑う、どこかおっちょこちょいで愛らしいお嬢さんだった。
『でも、死んじゃった。もうね、耐えられなくて。入水自殺したの』
苦しかったぁー、と胸元を擦りながら悲しそうに笑って話す彼女があまりにも瑞々しいものだから、私は彼女が実はまだ生きているのではないかと、何度も疑わずにいられなかった。そんな彼女もまた弾かれ者に違いはなく、大切な誰かと最初で最後の再会を果たすために、月陽殿の宿へ向かった。だが、一月、二月過ぎても彼女はこの橋へ戻って来ない。後から来た孝太が先に橋を渡って逝ってしまった。
「それでは、富澤正春様。失礼いたします」
かくんと膝を折り、黒い衣の裾をひらりと翻して踵を返した月陽殿の背中を、思わず引き止めてしまった。
「月陽殿」
「……はい。なにか」
振り返った月陽殿の静かな眼差しに、私は結局なにも聞けず、喉まで出掛かっていた問いを飲み込み、力なく首を振った。
「いや。呼び止めて申し訳なかった」
「いいえ。では、失礼いたします」
再び静寂が戻る。私は笑うことも泣くことも忘れてしまったような灰色の空を仰いだ。
あの小花のような彼女は、大切な誰かと再会を果たせたのだろうか。何を伝え、どんな選択をしたのだろうか。やわらかな風にふわふわと揺れる白い小花のような彼女のことが気掛かりで、私は何もない殺風景な空にそっと祈りを捧げた。
時の流れという概念はとうに消失している。朝を告げる光が差し込むこともなければ、帳を下ろす夜が訪れることもない。ただ停滞した空気だけがそこにある。それでも奇妙なもので長い年月この場に立ち続けていれば、一月という時の節目が分かるようになっていた。
太陽も月も拝まぬまま過ごした八十年という歳月が、私に異界の暦を刻み込ませたのかもしれない。空も、足元の草木も、ごつごつと牙を剥くような岩場も、全てが色を失った灰色の階調に沈んでいる。
色彩を持つものといえば、この橋の渡り口を通り過ぎゆく死人たちが身に着けている衣類や髪の毛の色くらいだ。
しかし、この殺風景な終焉の世界にも唯一、目を射るほど美しい風景がある。
透き通った浅葱色の川と、その川の上に虚空を繋ぐように架けられた鮮やかな朱い色の吊り橋だ。このふたつだけは呪いのように色濃く鮮やかで、灰色のこの世界で唯一輝きを放っている。
やがて、風も吹かないはずの空間に、湿り気を帯びた甘い花の香りが漂い始めた。彼女だ。月陽が来る気配だ。むせ返りそうなほど香りが立ち込めれば、またひとり、この世からもあの世からも弾かれた者が一輪の白百合を手に、朱い橋を渡って幽世へと逝くのだ。
「富沢正春様。また、新月の夜が明けます」
美しい笛の音色のようなその声に顔を上げてみれば、一歩後方には彼の姿があった。私は思わず強張っていた頬を緩めた。
「あ、正春」
左手をひょいと挙げ、人懐こくはにかんだのは孝太だった。たしか、一月ほど前、初めてここに辿り着いた時の孝太は、橋を渡れぬ戸惑いの中にいた。大きな体を小さくすくめ、心細そうに立ち尽くしていたあの少年のような面影は今やもうどこにもない。
あの時、私と孝太はたくさんの話をして仲良くなった。八十年も十七歳の姿のままの私と、今十七歳の孝太。出身もお国訛りも違えども、歳が同じで妙に気が合った。あの時はまだ不安そうにしていたが、今はもう激しい雨の後の空のように清々しく、憑き物が落ちたような表情だ。
「その様子だと、大切に思っていた者に会えたようだな」
私の問いに孝太は力強く頷いた。
「盟友に会うことができたんじゃ」
「ほお、盟友、か」
「そうじゃ。俺の最愛の盟友じゃ。正春があの場所を教えてくれたからじゃ。ほんまありがとう」
実に不思議な感覚だった。孝太とこうして言葉を交わすと、八十年前、私がまだ血の通った肉体を持ち、生きるために呼吸をしていた頃の記憶が鮮烈に蘇る。肌の奥がむず痒くなるような、生へのそわそわとした衝動。私もかつては彼のようにひたむきに明日を信じていた。そんな気がしてくるのだ。
「良かったな。孝太」
「うん。嬉しかった。俺の夢そのものみてえな、大切な友達なんじゃ。俺なんかよりずっと野球が好きで、かっこええんじゃ」
まるで恋人の自慢でもするかのように、孝太はその不思議な色の瞳をくるくると転がすように輝かせた。その純粋さに、私はつい声を立てて笑ってしまった。そんな自分に自分がいちばん驚き、エヘンと咳払いをして取り繕う。
「そうか、良かったな。では……もう逝くのだな」
うなずく孝太に、月陽殿が静かに一輪の白百合を差し出した。
「鳴瀬孝太様。この花をお持ちになってください。この先は道中暗く険しいと聞いております。もし死神に捕まってしまえば、二度と生まれ変わることは叶いません。この花が道しるべとなり、鳴瀬孝太様を導いてくださるよう、祈りを込めておきました」
ありがとうございました、と孝太は恭しく一礼し、白百合を受け取った。そして、ふいっと私を射抜くような眼差しで見つめ、雨が降り出すように語り出した。
「俺、小さい頃、この目の色のせいでいじめられること多くてさ、友達がいなかったんじゃ。自分の目が大嫌いじゃった。でも、あいつ……千隼だけは違った。綺麗じゃ、宝石見てえじゃって言ってくれた。千隼は俺のヒーローなんじゃ」
「そうか……」
「会って、分かったんじゃ。あいつ、ずっと苦しんどった。自分を責めて苦しんどった。会う前は自殺したこと許してもらえるか不安だったけど、会ってみて分かったんじゃ。残された者は後悔を胸に抱えて自分を責めてるってこと」
何だろうか……この痛みに似た感覚は。
「正春をここに縛り付けとる人も、正春のことが許せねえんじゃねえ。自ら志願して出撃して命を落とした正春のことが許せねえわけじゃない。ただ、どうしても、もう一度、正春に会いてえだけなんじゃ、きっと。もう一度、その人に会うことが正春の使命なんじゃと思う。だから、正春はまだ橋を渡ることができんのじゃ」
声を出すことができなかった。衝撃だった。私にもまだ感情の欠片が残っていたとは。瞳孔が開き、喉の奥から熱い塊が込み上げる。八十年間凪いでいた私の心に、激しい電流が走り抜けた。
「正春!」
孝太が左の拳を突き出してきた。ぐうたっちじゃ、とよく分からない奇妙な言葉を口にしながら。ぐう、たっち。拳を突き合わせようということらしい。私は右腕をゆっくりと持ち上げ、拳を突き合わせた。コチン、と軽い衝撃が魂の深くまで響いてハッとした。
「しっかりせえ、正春」
なんてことだろう。私にはまだ辛うじて魂が残っているらしい。感情も。危うく失うところだった。失っていたら地縛霊になってしまうところだった。孝太がそれに気づかせてくれたのだ。はっと顔を上げた私を見つめて、「目の色が戻ったな」と孝太がほっとしたように微笑んだ。
「正春。次は同じ時代で、きっとまた会おう」
十七歳の無邪気な笑顔を残し、孝太は白百合を大切そうに握り締めて歩き出した。朱い吊り橋に向かうその足取りに迷いは一切感じられない。
孝太は一度も振り返ることなく、浅葱色の川を越えて濃霧に霞む淡い光の向こうへと消えて行った。
またひとり、弾かれ者を無事に見送ることができた。
こうして魂の澱を洗い流し、清々しい表情で橋を渡っていく背中を、今日まで何度見送って来ただろうか。百や二百ではない。八十年の歳月の中で、私は数えきれないほどの魂が向こう側へ消えて行くのを、ただ静かに眺めてきた。ただ、月陽殿の司る宿から戻らぬ者も稀にいる。五十年ほど前にも未練の深渕に呑み込まれたのか、ここへ戻らぬ弾かれ者がいた。だが、ここ二十年ほどはそのような者もいなかった。皆、孝太のように憑き物が取れたように清々しい顔で朱い橋を渡って逝った。
だからこそだ。二月ほど前にここへ辿り着いた彼女のことが、どうにも気がかりでならない。彼女は死人とは思えないほど生命力にあふれて見えた。まるで何かの間違いで、生きたままこの狭間の世界に迷い込んで来てしまったのではないかと思ってしまうような、なんとも不思議なお嬢さんだった。
『あの、だめもとで聞くけど、スマホ、持ってたりしますか?』
今って何時くらいかな? 朝なのかな? それとも夜?
甘糖楼と牛乳を混ぜ溶かしたような色の、やわらかな短い髪の毛。耳たぶには可愛らしい白い小花の耳飾りをして、髪の毛先をふわふわと弾ませながら、白い衣を羽織った彼女は、ぺちゃくちゃとまあよくしゃべった。
彼女はその膝丈の白い衣を「わんぴいす」と呼び、今、日本は二〇二十六年の春だと言い、元号は令和だと教えてくれた。人々は「すまほ」という小さな薄い板のような電話を持ち歩いているらしい。そして「こんびに」という二十四時間三百六十五日営業する便利な店が全国に点々とあるそうだ。さらに驚いたのは、何百人もの人を乗せて「じゃんぼじぇっとき」なるものが空を無数に飛び交っているということだった。
私が必死に生きた時代からは想像もつかない、魔法のようなおとぎ話の世界の話だ。彼女の話は面白く興味深いものばかりだった。ただ、想像が追い付かず腰を抜かしそうになるような話ばかりだった。というより、彼女が一方的にしゃべり倒すのを、私が呆れたり共感したりしながら聞いていただけなのだが。
『私ね、死ぬつもりなんて、これっぽっちもなかったのよ。だって、死んじゃったら、あおくんに会えなくなっちゃうでしょ』
その大好きな彼の話をしている時は特に、万華鏡のようにくるくると表情が変わった。よほどその彼のことを愛していたのだろう。彼の話をするとそれはそれは幸せそうで、鈴を転がすようによく笑う、どこかおっちょこちょいで愛らしいお嬢さんだった。
『でも、死んじゃった。もうね、耐えられなくて。入水自殺したの』
苦しかったぁー、と胸元を擦りながら悲しそうに笑って話す彼女があまりにも瑞々しいものだから、私は彼女が実はまだ生きているのではないかと、何度も疑わずにいられなかった。そんな彼女もまた弾かれ者に違いはなく、大切な誰かと最初で最後の再会を果たすために、月陽殿の宿へ向かった。だが、一月、二月過ぎても彼女はこの橋へ戻って来ない。後から来た孝太が先に橋を渡って逝ってしまった。
「それでは、富澤正春様。失礼いたします」
かくんと膝を折り、黒い衣の裾をひらりと翻して踵を返した月陽殿の背中を、思わず引き止めてしまった。
「月陽殿」
「……はい。なにか」
振り返った月陽殿の静かな眼差しに、私は結局なにも聞けず、喉まで出掛かっていた問いを飲み込み、力なく首を振った。
「いや。呼び止めて申し訳なかった」
「いいえ。では、失礼いたします」
再び静寂が戻る。私は笑うことも泣くことも忘れてしまったような灰色の空を仰いだ。
あの小花のような彼女は、大切な誰かと再会を果たせたのだろうか。何を伝え、どんな選択をしたのだろうか。やわらかな風にふわふわと揺れる白い小花のような彼女のことが気掛かりで、私は何もない殺風景な空にそっと祈りを捧げた。

