ホテル・ラ・ソルーナ~大切なきみが、明日を歩けるように~

 西日が真横から差し込み、グラウンドの砂ひと粒ひと粒が金色に輝いている。バックネットの影が長く伸び、校舎の窓ガラスが夕日を反射して、まるでもうひとつの太陽のように光を放っていた。

「……はや先輩」

 最後に残っていたボールを拾い集める部員や、ベンチで差し入れのドリンクに群がり、それを飲み干す部員たちの姿。目に映る全てが西日に照らされ、まるで映画のひとコマとして切り取られたように見える。でも、どこを切り取ってもやっぱり孝太の姿はどこにもないことだけは変わらない。

「千隼先輩っ!」

 それが何度目かは分からない。背後から呼ばれてハッとして振り向くと、ブルペン横のフェンス越しに2年生マネージャーの山本渚(やまもとなぎさ)がバットケースを担ぎながら立っていた。

「ベンチに父兄からの差し入れあるので、千隼先輩ももらって帰ってくださいね! ポカリ」

「ああ、さんきゅ」

「はい! おつです!」

 と明るい性格の山本は元気にぺこっと会釈をして、華奢な肩にバットケースを担いで、たかたかと部室へ走って行った。

 整備を終えたブルペンの片隅でミットを小脇に抱え、俺は胸いっぱいに息を吸い込んだ。グラウンド整備のために撒かれた水と土の匂いと、使い込まれた革グローブのオイルの香りが、夕暮れ時の空気に混ざり合って肺を満たした。

 まだ五月上旬だというのに、今日は良く晴れて暑い日曜日だった。

 昼間の熱を帯びたグラウンドを、瀬戸内海から吹き寄せる穏やかな風がゆっくりと冷やしていく。足元に置いていたスポーツバッグを右肩から掛け、左の小脇にミットを抱えて、ベンチへ行こうと踵を返した時だった。

「おい、落としたぞ」

 背後から呼び止められたと同時に、新緑の香りが混じった爽やかな夕方の風が、ユニフォームの襟元を通り抜けた。

「あ?」

 俺? と振り向くと、野球ボールを模したフェルトのお守りを地面から拾い上げ、無言で差し出して来たのは、ここ一週間ほどまともに目も合わせていなかった俊介だった。

 慌ててスポーツバッグを確認すると、ファスナーの引手に付けていたお守りの紐の結び目が緩んで落ちてしまったらしい。

「これ、千隼のだろ?」

 不意を突かれ、一瞬だけ指先が触れそうになる。

「ああ……悪い」

 短くそう言って素早く受け取ると、俊介はうなずくでもなくただ小さく息を吐いた。気まずさに視線を逸らそうとした俺に、

「失くしたなんてことになったら、また彩世に怒られるぞな」

 と俊介は呆れたように小さく笑った。え、と顔を上げると俊介は気まずくなる前のように、少しだけ不愛想に、でも、いつもと変わらない屈託のない笑顔を俺に向けてくれていた。そして、俊介は走り出す体勢のまま、言葉を繋いだ。

「それ、彩世からもらったんじゃねえんか」

 気まずい沈黙が流れる間もなく、俊介が背を向ける。

「しゅ……俊介」

 俺はその背中に訊いた。

「まだ帰らんのか?」

「当たり前じゃぁ」

 と俊介は背を向けたまま顔だけ半分振り向き、

「グラウンドあと十周したら帰る。そんな事より、千隼」

 彩世と早う仲直りせえ、とそれだけ言い残すと、西日の差すグラウンドへ力強く駆け出して行った。その大きくてたくましい背中に、どうしても孝太の後姿を重ねて見てしまい、胸が潰れそうになる。

 遠ざかる背中から目を逸らして、フェルトのお守りをじっと見つめた。フェルトのやわらかな感触と裏面の切り込みが2日前の記憶を呼び起こした。

 このお守りを彩世から受け取ったのは五月八日。泣きたくなるほど空が青くて、太陽が眩しい午後だった。二日前の俺は朝から何かがおかしかった。なぜかどうしても「願え橋」へ行きたくて、いや、行かなければならない気がしてどうにもならなかった。まるで何かに憑りつかれたように「願え橋」へ行くことで頭がいっぱいだった。

 入部以来、一度も休んだことのない部活をさぼった。初めて、大好きな野球を放り出したのだ。校門を出ようとした時、そんな俺を彩世が引き止めようと追い掛けて来た。どこへ行くのかと引き止める彩世は、理由も行き先も言わずにただ黙って振り切ろうとする俺に感情を爆発させた。言い争いの中、孝太の遺言だ、と叫びながら俺に投げつけてきたのが、この野球ボールの形のお守りだった。

 彩世は泣きながら言った。ずっとこんな俺のことが好きだったと。一年生の時からずっと好きだったと。でも、今の俺のことは大嫌いなのだとも。そして、孝太を失った俺は体半分を失ったみたいだ、情けない、かっこ悪い、しっかりしろとまで言われてしまった。

 その時に受け取ったお守りを握りしめて、俺は願え橋へと向かった。人斬り抜刀斎でも飛び出して来そうな草木の生い茂る竹藪を抜けた先、そこには記憶に残るままの願え橋が当時のまま静かに佇んでいた。

 四本の在来線を見送り、燃えるような夕日に空が染まったその時、遠くから山陽新幹線のぞみが姿を現した。ただただ野球のことを考えていた無邪気なあの頃にタイムスリップしたかのように、胸が高鳴った。

『うっ、わあぁ……見ろ、のぞみじゃ! のぞみ! なぁ、孝太!』

 叫びながらフェンスに飛び付いた。けれど、隣にはもう「ほんまじゃ、千隼!」と返してくれるはずの、共に夢を語った大好きな親友の姿はない。その残酷な現実が通過する新幹線の轟音と共に打ちのめされ、俺はただその場に泣き崩れた。

 嗚咽を漏らしながら握り締めたお守りの中に、硬い感触があった。不思議に思い確かめると、裏面の生地に切り込みがあって、中から出て来たのは倉敷駅から岡山駅までの片道切符だった。その瞬間にようやく全てが繋がった気がして、再び涙があふれて止めどなく頬を伝い落ちた。彩世が言っていた「孝太からの遺言」の意味、そして、孝太が最期に俺に託したかったことが、このお守りの中に隠されていたのだ。

 大切な親友だった孝太が遺した願い。それを形にして俺に届けてくれた彩世。おそらく、全てを知ったうえで彩世と仲直りしろと俺の背中を押した俊介の温かい思いが、胸の奥をキリキリと締め付ける。

 俊介が拾ってくれたフェルトのお守りをスポーツバッグのポケットに押し込んでいると、入れ替わるようにしてブルペンのフェンスの向こうを歩く人影が視界に入って来た。彩世だった。細い両手で重そうにボールケースを抱え、少しだけ前屈みになりながら、一歩ずつアスファルトを踏みしめて部室へ向かって歩いて行く。

「彩世!」

 俺は夢中でフェンスへ駆け寄った。金網をつかみガシャガシャと激しく揺らしながら、その小さな背中を呼び止める。

「彩世ぇ!」

 立ち止まり、ゆっくり振り返った彼女の切れ長の目は明らかに拒絶の色を帯びている。そして、どこか都合悪そうに視線を逸らし、うつむき加減になった。

「……なに?」

 低くひややかな彩世の声に心臓がツンと痛くなる。それでも俺はもう逃げないと決めた。もうくだらない意地を張って、自分の手で首を絞めるのはやめる。

「俺も」

 と言いかけて、ごくりと唾を飲む。爆発するんじゃないかと心配になるほど暴れ回る心臓の音を、フェンスを握る手に抑え込み、喉の奥から絞り出す。

「俺も好きじゃ。彩世のことが、好きじゃ」

 その瞬間、弾かれたように顔を上げた彩世がぎょっと目を見開いた。

「……え」

 腕の力が抜けたのか、抱えていたボールケースがアスファルトに叩きつけられる。鈍い音と共に白いボールたちが四方八方へと散らばり転がっていった。

「付き合うてくれ」

 たたみかけるような俺の言葉に、彩世は石のように固まった。沈黙が流れる。やがて、彩世の端正な顔がゆっくりと歪み、震える細い指で口元を覆った。切れ長の目から大粒の涙があふれ出し、夕日を吸い込んでキラキラと輝きながら、ボールが転がっている地面へと落ちていく。

「うち、おせっかい女じゃけど、ええの? うざいとか言わん?」

 ずびずびと鼻をすすり泣きじゃくる彩世に、俺は胸を締め付けられながら答えた。

「ええんじゃ。そういう彩世がええ。今まですまんかった。けど、俺、もう大丈夫じゃ。大丈夫なんじゃ」

「……そうかぁ。そう……良かった、良かったなぁ、千隼ぁ」

 彩世は何度も何度も、壊れた人形のように、良かった良かったと涙をぽろぽろ落としながらうなずいた。その姿をフェンス越しに見つめ、抱きしめたい衝動を抑えながら、言った。

「彩世、今日、一緒に帰るから、校門で待ち合わせじゃ。先に一人で帰るんじゃねえぞ」

「……うん」

「今日だけじゃねえ。これからは毎日じゃ。毎日、一緒に帰るからな! ええな!」

「えぇー、毎日?」

 泣きながらくすぐったそうにクスクス笑う彩世につられて、俺も笑ってしまう。

「頼むわ。話してえことが、でえれえあるんじゃ」

 アスファルトの上を転がるボールと、顔を覆って泣きじゃくる彩世。その光景が目に入ったのだろう。

「えっ! えええー!」

 部室から戻って来た山本が血相を変えて飛んで来た。

「彩世先輩! ちょちょちょ……どうしたんで、えっ! おえん、でぇれぇ泣いとる! なんで? うそ、え、なんでなん?」

 俺と彩世を交互に見ながら、背中をさすったりボールを拾い集めたりと、山本が忙しなくちょこまかと動く。その落ち着きない空間を切り裂くように、グラウンドから再び走り込みをする俊介の軽快な足音が近付いて来た。はっと振り向くとビュッと風を切って、俊介が通過して行った。

 俊介の背中が、また遠ざかって行く。

「俊介……おい、俊介ぇ、待てぇ」

 俊介にまで置いて行かれるような気がして、俊介まで手の届かないところへ行ってしまいそうな気がして怖くてたまらなくなって、俺は喉がちぎれるほどの声で叫んだ。

「俊介えー!」

 その声に、俊介の足が止まった。

「……千隼?」

 ゆっくりとこちらへ歩み寄って来る俊介は、燃えるような夕焼けを背負いシルエットになっていて、その表情は分からない。

「……なんじゃ、どうかしたんか?」

 目の前まで来た俊介が怪訝そうに俺の顔を覗き込んだ。その瞬間、見栄も意地もプライドも全て捨てて、俺は勢いよく頭を下げた。

「すまんかった! 俺が悪かったっ……もう一度、俺とバッテリー組んでもらえんか? 一緒に、甲子園、目指してもらえんか?」

 ぎゅっと固く目を閉じて、下げた頭を上げずにいる俺の耳に、グラウンドを吹き抜ける風の音が響く。そして、目の前に立つ俊介の静かな呼吸の音と。

 ふざけるな、と突き放される覚悟はできていた。孝太の死を受け入れることが出来ず、まるでその当てつけのように俊介に感情をぶつけてきたのだ。突き放されても仕方ない、それだけの不義理を、俺はもう一人の大切な友だったはずの俊介に重ねてきたのだから。

「おいおい、千隼。こらぁ雪でも降るんじゃねえんか」

 けれど、頭を下げ続ける俺に降って来たのは、驚くほど穏やかでやわらかく、温かい笑い声だった。

「どうした。どういう風の吹き回しじゃ」

 少しお道化たような口ぶりで俊介は続けた。

「じゃけど、俺は孝太にはなれんし、あんなでえれえ魔球はあいにく持ち合わせとらんのじゃ。ナックルなんて生まれ変わっても無理じゃ」

「え……ええんじゃ。お前の、俊介のままでええんじゃ!」

 俺は膝につくほど深く頭を下げたまま、心に隠していた本音を全て吐き出した。

 俊介の投球がいつの間にか世間を賑わせた孝太の投球を超えている現実を認めることが怖かった、と。それを認めたら鳴瀬孝太という投手が生きていたことも、マウンドに立っていたことさえ風化してしまう気がして、たまらなく嫌だったことも。俺ひとりがくだらない意地を張り、過去に縋り付いて、今を懸命に一緒に乗り越えようとしてくれていた俊介を傷付けていたことも。

 すべてを洗いざらい吐き出して、もう一度、頼み込んだ。

「俊介、頼む。もう一度、俺を信じてもらえんか? 俺を信じて、投げてくれんか?」

 初夏の夕暮れ時、薫風がグラウンドを吹き抜けていく。

「ちばけるんじゃねえぞ、千隼」

 その瞬間、後頭部に軽い衝撃を受けた。

「おっ、いっ……てぇ?」

 顔を上げると、俊介が優しい力で俺の頭を小突いた右手を引くところだった。後頭部を押さえながら首を傾げた俺を見て、俊介は困ったように眉を八の字にして小さく噴き出して笑った。

「最初から信頼しかしとらん」

「は?」

「じゃから、千隼ほど信頼できるキャッチャーはどこにもおらん、ゆうとるんじゃ」

 額に汗を滲ませ、夕日に照らされた俊介が、とびきりの笑顔で「待っとったんじゃ」とたくましい右手をずいっと差し伸べてきた。

「千隼なら、絶対に乗り越えるって、信じて待っとったんじゃ」

 行くんじゃ、甲子園に、孝太の思いを一緒に連れて行くんじゃ、と真っ白な歯を見せて笑う俊介の全力の笑顔を見た瞬間、ずっと我慢していたものが心の奥深くから一気にあふれ出した。

「そうじゃ……行くんじゃっ……」

 孝太の思いを背負って、一緒に、甲子園に行くんじゃ。

 俺は顔を手で覆い、子供のように泣きじゃくった。そんな俺を見て俊介は驚いた様子で、でも、笑っていた。千隼がこんなに泣き虫じゃとはなぁ、なんて暢気に笑っていた。

 五月の倉敷の空を染め上げる朱鷺色の夕焼けが、帳を下ろすようにゆっくりとグラウンドを包み込んでいく。かつて孝太とふたりで見上げた「願え橋」での燃えるような夕焼けとはまるで違う。今の俺を照らす光は、全てを許して背中をそっと押してくれるような、静かで優しい色をしていた。

 彩世に告白したんだと言ったら、孝太はどんな反応をするだろう。見栄もプライドも全て捨てて俊介に歩み寄ることができたんだと話したら、孝太はどんな顔をするだろう。そうだな。孝太のことだから、きっと、でかしたなぁ、千隼、なんて。今日のこの夕焼け色のように優しく笑うのだろう。

 これからどんな未来を歩むかなんて想像もつかないけれど、ひたむきに生きようと思う。

 俺の大切な親友……いや。俺の最愛の盟友、鳴瀬孝太がひたむきに生きたように。そして、次に会えた時に、でえれえ人生じゃった、と胸を張って語れるように、ひたむきに生きようと思う。

 孝太。

「ありがとう」

 俺は、俊介が差し伸べてくれた右手を、今度は迷わずに力強く握り返した。