ホテル・ラ・ソルーナ~大切なきみが、明日を歩けるように~

 新月の漆黒に塗り潰されていた空の東の端が、僅かに、本当に僅かに、深い紺色から群青色へと溶けだし始めている。夜明け前の最も深い静寂に、眠らない街が溶け込んでいるようだった。

 遠くの幹線道路からは夜明けを急ぐトラックの走行音が、潮騒のような微かな残響となって響いてくるだけ。都会が呼吸を再開する直前の、嵐のあとの凪のような、そんなひとときの真空状態に胸が詰まり、どうにもできないことを悟ってしまった。

 俺は涙があふれそうなのを堪えて、バルコニーの手すりに両腕を乗せ、そこに顔を埋めた。

「なあ、千隼」

 孝太に肩を抱かれて、俺は返事もせず、下唇を前歯でぎゅっと押さえるように噛んだ。

「千隼がそう思ってくれとったように、今日からは千隼の夢が俺の夢じゃ。なるべく早う生まれ変われるように頑張るからさ、俺」

「……なに、夢みてえなこと言っとるんじゃ。できんのかよ、んなことっ」

 喉の奥が熱く焼き付くようで、せり上がって来る塊を何度も無理やり飲み込んだ。頑張ってみるよ、と孝太が隣で小さく笑っている気配にますます泣きそうになる。

「けどなぁ、千隼。次はいつ会えるか分からんけど、会えたらその時、教えてくれんか」

「孝太」

「千隼と一緒に叶えることも、見守ることさえできんかったけど」

「おい、孝太って」 

「俺は叶えられんかったけど、千隼がこれから叶える夢の続き、教えてくれよな」

 耳に届くのは孝太の声と、雨に洗われたアスファルトを走る車の瑞々しい走行音。そして、一羽の鳥が目覚めたような鋭いさえずりを上げ、静まり返っていた空気の膜を鮮やかに切り裂いた。

「孝太って!」

 勢いよく顔を上げれば、そこには自分と同じように雨上がりの薄明かりに照らされた孝太の姿があった。

「こう……た」

 孝太のふっくらと厚みのある頬は酷く濡れ、堪え切れずにあふれ出した涙が顎の先から滴っている。

「約束じゃ、千隼」

 震える声でそうつぶやき、孝太はぐしゃぐしゃに歪んだ顔で、でも、これ以上ないほどに晴れやかな笑顔で、迷わず左の拳を俺に突き出してきた。

「次に会うた時、どんな人生を送ったのか、教えてくれよなぁ。楽しみにしとる」

 ほれ、約束じゃ、早う、と孝太が拳を突き出す。もうその瞬間が訪れたことは、俺にも分かった。

 夜が明ける。夜明け前の青い光が、その固く握られた拳の輪郭を鋭く縁取っていた。一瞬、その熱量に圧倒され、自分の不甲斐なさ、情けなさ、ため込んできたすべての感情が足かせとなって指先が震えた。

「頼むわ、千隼」

 けれど、真っ直ぐに自分を貫こうとする孝太の眼差しに背中を押され、重い腕をゆっくりと持ち上げた。戸惑いながらも静かに右の拳を突き出し返す。

 コツン、という乾いた音が静まり返ったバルコニーの空気に小さく響いた。

「孝太ぁっ……」

 その僅かな振動が引き金となり、必死に耐えていた喉の奥の塊がとうとう熱く溶けていった。たまらなくなり、拳を合わせたまま、俺はうつむいてしまった。

「ああ、千隼の――」

 隣にいる孝太が震える声で話し始めた、その次の瞬間だった。

 背後の室内からアンティーク時計が時を刻む鈍い駆動音が聞こえ、続いてボーンと低く荘厳な鐘の音が静寂を震わせた。

「――で、最高の――……じゃ――」

 午前四時。

 水を打ったように静まり返った夜明け前の空気に、その音は驚くほど大きく、冷徹なまでに響き渡った。孝太の言葉の断片は時計の鐘の音の波に呑み込まれ、朝霧のように霧散して東京の街の片隅に消えてしまった。

「孝太……?」

 隣にあったはずの僅かな熱、微かな衣擦れの音、そして拳を合わせたあの確かな温かい感触さえもが、夜明け前の青い闇へと消えていった。もう、ここに孝太はいない。

「おい……なあ、孝太」

 悟ってもなお、俺は顔を上げることが出来なかった。虚無感に圧し潰され、指先ひとつ動かせずにうつむいていると、今、孝太が立っていたそこでパサッと乾いた、けれど確かな音が響いた。うつむいたまま視線だけをずらすと、そこには彩世が作ってくれたフェルトのお守りが落ちていた。

「こっ……孝太っ、あ……あぁっ」

 込み上げた涙で滲んで見えるそれは、たった今さっきまで孝太が左手の拳の中に、壊さんばかりに強く握り締めていたはずの物だった。震える指でそれを拾い上げると、そこにはまだ忽然と消えてしまった孝太のぬくもりが僅かに残っている気がした。

 ふと、無い気配に顔を上げれば、新月の闇はすでに去り、東の空の際からは逃れようのない朝の気配が静かに、けれど確実に忍び寄っている。

 ああ、千隼のおかげで、でぇれぇ面白い、最高の十七年じゃったなあ。それが、孝太が残した最後の言葉だった。

「こ……孝太ぁっ……」

 たまらずその場に膝から崩れ落ちた。そして、胸元でお守りをきつく握り締めた拳の中で指先に違和感を覚えた。確かめてみるとお守りの裏面にカッターか何かで施されたような切り込みが入っている。

「なんじゃ、これ」

 あふれ出る涙を拭い、薄明かりの中でその裂け目をそっと覗き込む。中から現れたのは、見覚えのある懐かしい長方形の紙片。それは、あの日、試合でズタボロに負けたあと願え橋へ行った帰りに、倉敷駅で購入した切符だった。どんなことがあっても互いに信頼し合って、この先の道を一緒に歩んで行こうと約束して交換した切符だ。

 切り込みから引き抜いた切符の端は年月を経て僅かに擦り切れてしまっていた。でも、孝太が大切に保管していたことが分かる、きれいなままの切符だった。

 その時、ようやく全てが繋がった気がした。きっと孝太はこの切符が俺の元へ渡るように、彩世に託したに違いない。そして、あの日、死ぬ前に残した最後の着信で孝太が俺に伝えようとしていたのは、この切符を使う時が来たということではないだろうか。きっと……いや、絶対そうだ。

 あの日、切符を交換した日、孝太は言っていた。

 これは人生に一度だけ使える切符なのだと。でも、たった一度しか使えないSOSの切符なのだと。期限は無期限。人生を左右するような最大のピンチに直面した時に使うのだと。この先、ものすごく困ってしまって、ひとりじゃどうにもできなくなった時、挫折しそうになった時に使うのだと。そして、この切符を受け取ったらその時は、何があろうと最優先して相方を助けなければならないのだと。この切符を受け取ったら、相方の頼みごとは必ずきかなければいけないのだと。

「そんなこと、言うとったなぁ、孝太……」

 切符、受け取ってしまったからには、孝太のピンチを救ってやらなおえんなぁ。

 フェルトのお守りと切符を両手で包み込むように抱きしめると、東の空の際から滲み始めた薄紫色の淡い光が、俺の影をバルコニーに長く引き伸ばしていった。

 孝太は、俺に託してくれたのだ。きっと。もう自分の寿命が長くないことを悟り、叶えられなかった夢と未来を、こんな俺に託してくれたのだ。だから、俺は孝太の分を生きなければならない。こんな俺に夢を託してくれた孝太に、恥ずかしくない生き方をしなければならない。

 親友が残したSOS をお守りの切り込みに入れ直し、その重みを胸ポケットにしっかりとしまい、俺は震える膝を突き立てて、ゆっくりと立ち上がった。雨上がりの瑞々しい風が頬を撫でる。

 次に会えるのはいつになるか分からない。けれど、きっと、またどこかで再会できると思う。だから、次に会えた時に今日から紡いでいく夢の続きを、孝太に話そう。孝太の思いと夢を背負って、俺は前を向く。そう心に決めて深く息を吸い込んだその時、静まり返った客室内に軽やかなインターホンの音がキンコンと響いた。

 現実に引き戻されるようにバルコニーから室内へ戻ると、

「失礼致します」

 ドアを開けて入って来たのは、客室係の月花さんだった。

「お茶の準備を致しますので、どうぞ、ソファへお戻りください」

 彼女はシャンデリアの光を反射して眩しく輝く金色のカートを静かに押し、その上には湯気を立てるお茶のセットが整えられていた。

「……いや、あの……お茶なんて頼んでないっすけど」

 首を傾げながらソファへ戻ると、

「決まりですので」

 と茶葉を金色のティースプーンですくい、ティーポットにさらさらと落としながら、月花さんが微笑む。

「決まり? どういうことですか?」

「はい。当ホテルのルールですので」

 月花さんの穏やかで淀みのない透明感のある声が、なぜか妙に心地いい。

「鳴瀬孝太様はさきほど、当ホテル支配人、月陽と一緒に無事に三途の吊り橋へ向かわれました。ご安心くださいませ」

 淡々と話しながら月花さんは慣れた手つきでティーポットに熱湯を注いで淹れる。

「あの、じゃあ、それって……今度は渡ることができるって意味ですか?」

 孝太が言っていた。その吊り橋を自分だけが渡れなかったと。弾かれたのだと。俺と会って話したことで、次は確実に渡れるものなのだろうか。

「それは分かりかねます。申し訳ございません」

「えっ、あの、でも」

 ふわっと漂ってきた香りに前のめりになりかけていた体がふっと軽くなり、気付けば操られているかのようにソファに深く沈んでいた。

 失礼致します、と一言を添えて、月花さんはテーブルの上に空のガラスのカップを置いた。そして、蝋人形のように白く細い手で静かにティーポットを反時計回りに八回まわして傾けると、橙色に透き通った液体がお猪口ほどの小さなカップに注がれた。

 甘く、どこか懐かしささえ感じる香りがふんわりと立ち昇る。秋の街角でふいに出会うような、胸が締め付けられるほど純粋で、それでいて温かい香りに心がほぐれる。

「それでは、ご説明させていただきます」

 ぼんやりとしかけていた俺は、ハンドベルのような美しいその声にハッとして我に返った。

「今から栗原千隼様にお飲みいただくお茶は、金木犀のお茶です」

「金木犀?」

「はい。こちらの金木犀のお茶をお飲みいただきますと、故人、鳴瀬孝太様と面会なされたこと、当ホテルのこと、今宵の出来事、全ての記憶を消すことができます」

「は? いや、待ってください、消すって……記憶って、あの」

 消す? 孝太と交わした会話も、触れた時のぬくもりも、全部、無かったことにしろっていうのか?

「絶対ですか? 飲まなければ記憶を消さずに済むんですか?」

 前のめりになって聞く俺を、月花さんは真っ黒な空洞のような目でどこか悲しげに見たあと、そういうことになりますが……とガラスのカップの中で透明な橙色に揺れるお茶に視線を落とした。

「金木犀にはあの世、また、幽世という意味がございます。自死はあの世では大罪です。自死なされた死者の魂は、これから長く苦しい道のりを経て浄化されることとなります。ですから、栗原千隼様が金木犀のお茶をお飲みになることで、鳴瀬孝太様は吊り橋をお渡りになれるのです。また、面会された方が死者の自死をお許しになることで、長い道のりが少し免除されると聞いております」

「許す? 俺が孝太をってことですか?」

「はい。金木犀のお茶をお飲みになり、故人様へ、もうこの世に留まる必要がないのだと、しっかり罪を償うようにと、愛を持ってその背中を見送ることがお許しになるということかと」

 淡々とした口調で言い、月花さんは白い手でカップをそっと差し出した。カップから立ち上るその香りは相変わらず甘く優雅で、けれど、どうしても納得できず、もう一度だけ問うた。

「じゃあ、俺が飲まないと拒否したら、あいつと話したことも今夜のことも、全部、記憶を残せるってことですよね?」

 詰め寄るような勢いで問う俺に、月花さんは瞬きひとつせず、はい、とうなずいて続け、

「お飲みになるもならないも、栗原千隼様のご判断にゆだねますが」

 わずかに眉頭を寄せ、肩をすくめた。

「お茶を飲まない場合、大罪を犯された故人、鳴瀬孝太様の魂はうまく浄化できず、この世とあの世の狭間をさまよい苦しむこととなります」

「なんっじゃ……それ」

 チッと舌打ちをして、俺は苛立ちを隠そうとうつむいて拳を握った。そんなことを言われたら選択肢はひとつじゃないか。俺がお茶を飲まないという選択をしたら、孝太はこの先もずっと苦しまなければならないということじゃないか。

「最悪の場合、地縛霊となってしまう恐れがあるため、支配人の月陽より魂は消滅させられ、生まれ変わりは不可能となります」

 世の中……この世もあの世も理不尽なことばかりだ。この世で苦しんだうえに、あの世へ逝っても苦しみが存在するなんて。俺はうつむいたまま静かに目を閉じた。そして、そっと胸に手を当てる。心臓がトクトクと早くなってきた。

 俺はちゃんとうまくやれるだろうか。今夜の記憶を、孝太とのこの最後の温かい時間を忘れてしまっても、明日からうまく生きて行けるだろうか。なんて考えてみる。左胸に当てた手のひらに、鼓動と共にお守りの感触が伝わって来る。

 今夜の全てを忘れてしまっても、俺は孝太のいない明日からを歩いて行けるだろうか。

 深く、深く、胸いっぱいに空気を吸い込む。そして、ゆっくりと、たっぷりと時間を掛けて息を吐き切った。

 きっと、大丈夫だ。

「月花さん」

 自分に言い聞かせるようにして意を決し、目を開け、顔を上げる。

「俺がお茶を飲めば、孝太は、あの世へ渡って行けるんですよね? 魂を消されることなく、いつかきっと……生まれ変わることもできるんですよね?」

 月花さんは真一文字に結んでいた口角を僅かに上げて、小さく微笑んだ。

「ええ、きっと」

「俺、飲みます。このお茶」

 そして、唐突に理解したのは、ドライフラワーさんがDMに綴っていた言葉たちの意味だった。

――あなたもきっと大切なひとの魂の処遇を判断することになるでしょう
  私は手放すことができず、結果、後悔しています

 ドライフラワーさんはきっと、このお茶を飲まない判断をし……いや、大切なひととの記憶を手放せずお茶を飲むことができなかったのではないかと。そして今も後悔しているに違いない。あの時、お茶を飲むべきだった、と。

「かしこまりました。では、栗原千隼様。こちらのお茶を全て飲み干してください。全てお飲みいただきましたら目を閉じ、みっつ数えて、ゆっくりと目を開けてください」

「……はい」

 俺は透明なカップへと手を伸ばした。口元にカップを持ってくると、金木犀の甘い香りは密度の高い霧のように濃くなって、鼻腔を抜けていった。金木犀のお茶をごくりと飲み込む。ほとんど同時に、まるで深い眠りの淵へ急降下する時のように、鉛のような重だるさが一気に全身に巡った。

 孝太。お前と出逢ってからの毎日は、まるで宝石みたいにキラキラ輝いて、楽しくて面白くて仕方なかった。

 どこにでもあるような何気ない景色も、孝太と一緒だと特別な場所に変わった。いつしか孝太は俺の夢そのものになっていた。孝太となら、どんな困難も不思議と簡単に超えて行ける気がした。

「それでは、目を閉じてください」

 俺は素直に月花さんの声に従った。

 さっき、時計の鐘の音と一緒にお前が消えてしまった時、自分の中の光も消えてしまったような気がした。でも、お守りの中から、あの日交換し合った切符を見つけた時、孝太が最期に何を俺に伝えたかったのか、やっと分かった気がしたんだ。

「次に、みっつ、数えてください」

 いち。

 孝太、ありがとな。

 にぃ。

 きっと、絶対に、また会おう。孝太、お前は、俺のいちばん大切な盟友だったんだ。

 ……さん。

「それでは、ゆっくりと目を開けてください。栗原千隼様、この度はホテル・ラ・ソルーナをご利用いただき、誠にありがとうございました」