ホテル・ラ・ソルーナ~大切なきみが、明日を歩けるように~

「千隼が俺に初めて話しかけてきた日のこと、覚えとるか?」

 孝太の声を追い掛けるようにアンティーク時計が深夜一時の鐘を響かせた。ボーン、とたった一度だけ放たれた低く深いその音はゆっくりと、けれど、確かな重みを持って消えていった。

「ああ、よう覚えとる」

 激流のように窓ガラスを伝っていた滴は今や宝石のような温かい色の粒となって、ゆったりと名残惜しそうに滑り落ちていく。豪雨のように降り続いた雨がようやく弱まり、雨と新月の闇に塗り潰されていた東京の街灯が滲んだ絵の具のようにぼんやりと灯っている。

「日曜でなぁ、でぇれぇ暑い夏の日じゃったよなあ」

 忘れろと言われても、あの日のことだけは絶対に忘れることができない気がする。そうじゃそうじゃと頷く孝太は、愛おしい宝物に触れるかのように手のひらに乗せたフェルトのお守りをそっと覗き込んだ。

「ほんまは、あの日、練習が終わったら、監督にもう辞めます言うて決めとったんじゃ」

「……え、なんでじゃ」

 あの時、真っ青な空の下で、必死に歯を食いしばってフェンスに向かってタオルを振っていた、小さな後ろ姿がふっと思い浮かんだ。

「お前、でぇれぇ努力しとったんじゃねえんか」

 必死に練習していたんだと思っていた。だから、知らなかった。あの日、実は孝太が倉敷ナックルズを去ろうとしていたなんて、微塵も思っていなかった。

 だってさあ、と孝太は唇をつんと突き出し、不満気な口調で続けた。

「野球がやりたくて、親に駄々こねて入団させてもらったってのに。なかなか硬球触る機会はねえし、なんでか皆と別メニューばかりじゃっただろ。皆と仲良くなるどころか、宇宙人なんて陰で言われるしなぁ。なぁんも楽しくねえし、もう限界じゃ思うて、辞めるつもりだったんじゃ」

 そして、天井を見上げてフフと笑うと、くすぐったそうに鼻の頭を人差し指で掻いた。

「それなのに、そんな日に限って、マルコメ頭の気の強そうな地球人が馴れ馴れしく話しかけて来やがってなあ」

「ああ……」

 その日のことを思い出して、なんだか懐かしいやら気恥ずかしいやらで、俺も笑ってしまった。

「痛くねえんか、って。お前の目に宝石が入っとる、きれいじゃ、なんて。突拍子もねえことキランキランの目で言うもんじゃから……嬉しくてな。辞める気も失せてしまったんじゃ。そんで、その日から、栗原千隼ゆう友達が俺の宝物になったんじゃ」

 あの日、あの時、俺が話しかけていなかったら、自分は確実に野球を辞めていたと思う、と孝太は言った。野球を嫌いになっていたかもしれん、とも。

「そんくらい、千隼の存在は大きかったんじゃ。俺の人生を左右するくらい、大きかった」

 そう言って、ほんの数秒の沈黙のあと、孝太が俺の目を見つめてゆっくりと瞬きをした。琥珀色の瞳がくるりと輝く。

「だから、俺を救ってくれた千隼のためならどんなことがあっても力になろう、支えてやろう。千隼が困っとる時は、一番に駆けつけてやれる存在でおろう。そう思うとった。でも、もうそれができなくなったんじゃ」

 もう、新幹線にはなれなくなったんじゃ、そう言って、孝太はフェルトのお守りを
包み込むように左手の中で握りしめた。

「新幹線て……」

「新幹線になれないこと、分かってしもうたんじゃ……だから、いつか俺の存在が、いつか絶対、千隼の足を引っ張ってしまう日が来るって、思うたんじゃ」

 辛そうに表情を歪めて絞り出すように話す孝太に、いつしか俺は気の利いた言葉ひとつさえ掛けることが出来なくなってしまっていた。

「なに言うんじゃ……意味が分からん」

 そう返すことで精一杯だった。唐突に、理解してしまったからだ。孝太が、死を選択した理由を。だから、意味が分からないなんて減らず口を叩いてうつむき、こっそり奥歯を噛んだ。

 孝太がいなくなってから今日まで、死を選択してしまったのは入院や治療が辛かったからだ、とか、大好きな野球ができなくて苦しかったのかもしれない、なんて思っていた。でも、分かった気がする。漠然とだけど、分かってしまった。

「この先、どんなに頑張っても、もう新幹線にはなれんのじゃ、そう気付いてしまったんじゃ。もう、千隼と同じレールを並んで駆け抜けることさえできねえって、分かったんじゃ」

 孝太の声をかき消すように雨粒が窓ガラスを乱暴に叩き始めた。雨が遠ざかり始めたと思った矢先、容赦ない再訪に胸がざわつく。

「早い話が、千隼の夢の足手まといになりたくなかったんじゃ」

 そのひと言に、漠然としていたものは確信に変わった。息を吸わないと窒息しそうで、なんとか顔を上げて、空気を肺に取り入れる。小分けにして吐き出す。また、吸い込む。

「そんなんで……死んでんじゃねえ、あほうが」

「ごめん」

 一度小降りになった隙に覗いた街灯の光が、再び降り出した銀色の長針のような雨で、ガラスに映り込む俺たちの姿もろとも瞬く間にかき消された。

「どんだけあほうなんじゃ。バカかぁ……それでもええから、それでも俺は」

 孝太に生きていて欲しかった。

 例えこの先一生一緒に野球ができないとしても、どんなに足を引っ張られても、ただ生きていて欲しかったのに。

「ごめんな、千隼……ごめん」

「なんじゃぁ、それ。ごめんで済んだら……」

 どうにかこうにか絞り出した声は震え、途切れてしまった。視界がぐらりと歪み、うつむいた足元の境界線が曖昧になる。喉の奥に熱い塊がせり上がり、胸が激しく上下した。息を吐き出そうとすると漏れ出す熱い呼気と共に嗚咽を漏らしそうになり、とっさに手で口を押えた。

 孝太が選択した死の理由の奥深くに隠れていた願いはあまりにも温かく、そして、あまりにも眩しかった。

「でもな、千隼」

 と大きな手に肩をそっと叩かれて、ゆっくり息を吐きながら顔を持ち上げる。

「俺、人生救われたんじゃ、あの日の千隼に。コンプレックスだった目の色を、千隼が宝石じゃーきれいじゃー言うてくれたあの日から、この目に映る世界全てが、でえれえきれいに輝いて見えるようになったんじゃ」

 キラッキラにな! そう言って、孝太は彩世お手製のお守りをシャンデリアにかざすと、眩しそうに目を細めて微笑んだ。その横顔は確かに笑っているのに、薄氷のように危ういもので不安になった。

 「実はなあ、彩世は知っとったんじゃ。俺がきっともう長くは生きれんこと。もう残された治療に可能性がないことも、全部」

 えっ、と声を漏らしてしまった俺に向けられた微笑みはあまりに淡く、今にも窓の外の夜の闇と打ち付ける雨に溶けてしまいそうだった。

「ごめんな。俺が口止めしたんじゃ。千隼にだけは言わんでくれって。だから、彩世にも背負わせてしまったようなもんじゃ」

 悪いことしたなぁ、と目尻に寄った微かなしわが、孝太がこれまでに飲み込んできた悲しみの深さを物語っているようだった。

「俺、入院中、見舞いに来てくれた彩世に弱音吐いたことがあったんじゃ……」

 それは、治療が思うようにうまくいかず、体力も免疫力も落ちて感染症を併発してしまい、無菌室へ入らなければいけなくなるちょうど一週間前のことだったらしい。

「抗がん剤の効果は薄いし副作用はきついし、移植後で毎日しんどくてなぁ。でも、彩世がひょっこり面会に来てくれたあの日は、なんじゃ、わりと体調がええ日じゃった」

 確かにあの時期は孝太にとっていちばんしんどい時期だったことは、俺も分かっていた。いつ面会に行ってもしんどそうで声も掛けられずに帰って来た日だって何度もある。

「彩世のやつ、一日だけ部活休んだ日があったの知らんか? 寒うて寒うてな。ああ、バレンタインデーじゃなかったか?」

「えぇぇ……よう分からん。覚えとらんわ」

「そうかぁ。俺は覚えとる。先生から病状の説明と今後の治療について話があってな、そのすぐあとくらいに彩世が来たんじゃ。病室の窓から見える夕日が妙にきれいでな。よう覚えとるわ」

 朱鷺色の空じゃった、と孝太は言った。

「夏の夕焼けみてえに燃えるような赤じゃなくて、冬のキンと冷えた青空に、ハケですーっと一筆うすべに色を置いたみたいに優しげな、黄色みがかった薄い薄い桃色じゃった」

 ざわつく心が洗われていくような色の空を眺めていたところに、彩世が顔を出したそうだ。なんだかどうしても今日、孝太に会いたくて、部活初めてさぼっちゃった、そんなことを言って。

「なんじゃ、俺もなあ、とことん弱っとったんじゃなぁ」

 その頃の一週間で白血球の数値がまた下がるようなら無菌室へ入らなければならないこと。無菌室に入って数値が正常になっても、その後の治療も厳しいこと。もう、全身に転移が見られていること。予後不良、回復の見込みが薄い深刻な状況であり、今後は緩和ケアへと移行する選択も視野に入れなければならないこともあって、孝太は彩世に弱音を吐いてしまったのだ。

「もうマウンドには立てんようじゃ、もう野球ができんのじゃ。俺はもう長くねえようじゃ。しんどいもんじゃなぁ、言うたら彩世のやつ大激怒してしまってなぁ」

 あれは怖かった、彩世を怒らせたらおえんぞ、なんて孝太は思い出したように噴き出して笑った。

「そんなこと言うな、どうにかして治すしかねえだろって、怒ったんじゃけどなぁ、その怒った理由が千隼じゃと分かった時は力が抜けたでほんまに」

「は……? 俺?」

「そうじゃ、お前じゃ。孝太が死んだら千隼はどうなるんよって、なぜか俺が怒鳴られとったわ。俺、病人なのになあ」

 孝太が死ぬのは絶対にうちが許さんよ。だって、今だって必死なのに。孝太と野球したくてあんなに必死なのにさ。千隼は孝太のことがでえれえ好きなんよ。孝太を失うたら、千隼がどうにかなってしまうわ。うちにできることならなんでもするから、絶対良うなって戻って来て。約束じゃ、そう言って、彩世は泣いてしまったそうだ。

「なんでもする言うから、俺、ほんならって彩世にひとつ頼んでみたんじゃ」

 と孝太はずっと左手に握っていたフェルトのお守りに優しい眼差しをそっと落として、口元にほんのりと笑みを宿した。

「これ、作ってくれんかって。そんで俺がいなくなったら、その時はこれを千隼に渡して俺からの遺言じゃ伝えて欲しいって。渡せばきっと千隼は何のことかちゃんと分かるはずじゃ」

 千隼は絶対に大丈夫じゃ……と話が途切れて孝太と目が合った一瞬、部屋の中に静寂が満ちていることに気付いた。

 雨が止んだのか。

 その静寂を切り裂くようにアンティーク時計の鐘がボーンとひとつ鳴り響く。背中がぎくりとした。3時だ。その重厚な音色は広い空間の隅々まで波紋のように広がっていった。そして、全ての音が消え、再び静寂が戻る。

 耳が痛くなるほどの静寂に胸が潰れそうになり、たまらず喉の奥に引っ掛かっていた声を吐き出した。

「しっ……新幹線!」

 どうにも耐えられなかった。あの耳鳴りを起こしそうなほどの重苦しい静寂に残された時を奪われたまま、その瞬間《とき》を迎えてしまうのではないかという恐怖に耐えられず、かといって突いて出た話題は突飛な質問になってしまった。

「お前はなんで新幹線になりたかったんじゃ。お前ならプロでも通用したのに、プロ野球選手になりてえとは思わなかったんか?」

 突飛な質問とはいえ、ずっと不思議に思っていたのも確かで、いつか聞こうと思っていたことだ。でも、そんなこといつでも聞けるものだと思って、結局聞きそびれていた。

「ああ、それなぁ。高校卒業して、社会人になって、お互い結婚して家庭を持つようになって、じいちゃん、ひいじいちゃんになっても。例えばその長い道の途中で別々の道を歩むことになっても。千隼が困っていたら、SOSを出していたら、その時はヒューン! て」

 孝太は両腕を鋭く突き出して風を切るような仕草をした。きっと新幹線の真似だ。

「誰よりも早う、俺がいちばん最初に駆け付けるんじゃ! のぞみみてえにでえれえ速く。ヒューン!」

 新幹線の真似をする孝太の指先が、僅かに、でも確実に震えていた。孝太もまた俺と同じでアンティーク時計が知らせたタイムリミットに動揺しているのだと思うと、不謹慎ながらにほっとした。

「それが、孝太が新幹線になりてえなんて言っとった理由か?」

「そうじゃ。ヒューンて……いちばんに千隼のとこに駆け付けるんはこの俺じゃって。中学生、高校生になっても何歳になっても、それだけは心に決めとった。新幹線になることが俺の夢じゃった」

 その不器用な流線型はどんなに着飾った言葉たちよりも真っすぐにダイレクトに、俺の心の中へと滑り込んできた。

「は……なんっじゃその理由」

 くっだらねえー、とわざとおちゃらけて笑い飛ばして俺はソファを立った。恥ずかしくて、照れくさくて、くすぐったくて、窒息しそうなほど嬉しくて、でも、その倍寂しくて切なくてたまらなかった。ソファを離れて窓辺に立ってみれば、あれほどしつこく降り続いていた雨は、夢でも見ていたかのように上がっていた。

「雨が上がったようじゃ」

 新月の夜、窓ガラス越しに見上げた空には月影ひとつなく、吸い込まれるような漆黒に塗り潰されている。

「おい、くだらねえとはなんじゃ! でえれえ夢じゃ! 俺のかっこええ夢じゃ!」

 弾むように元気なその声に振り向こうとしたタイミングで駆け寄って来た孝太が、俺の首に腕を巻き付けてヘッドロックしてきた。

「ぐはっ、やめい! やめえい!」

「おえん! くだらねえなんて言った罰を受けろ」

「ごめん、悪かった! ごめんて」

 と孝太の腕をほどこうとした時だった。

 孝太が何かに気付き、窓ガラス越しに外を覗き込み、斜め下方向を指さした。そして、ほんまに奇妙なホテルじゃ、としみじみとした口調で言った。

「ほれ、見てみい」

「ああ?」

「そこのバルコニーに出るとなあ、真下にリッチカールトンを見下ろすことができるんじゃ」

「リッチ……? なんじゃそれ」

 それはタウンタワー棟内の40階から50階に位置する5つ星高級ホテルだと、孝太が教えてくれた。

「50階……? じゃけど、ここ、10階じゃねえんか?」

 首を傾げた俺に、孝太はこくりとうなずいた。

「な、おかしいよな? ここ10階のはずなのに、50階建ての建物を見下ろすことができるんじゃ」

 雨粒に濡れた窓の向こう、深淵のような暗闇の中に、忽然と淡く滲んだ光の城が浮かんでいる。

「だからここは、月と太陽の狭間の、あの世とこの世の境目にある、本来は存在なんてしない、でも、確かに存在した不思議な空間なんじゃねえかな。たぶん、だけど」

 客室の窓ひとつひとつにランダムに灯る小さく暖かな明かりは、この巨大な垂直の街で、名もなき誰かが静かに夜を明かしている証だ。暗闇に赤く点滅する航空障害灯が雨上がりの空気の中で滲み、まるで都会が静かに呼吸しているかのようだ。その光景はまるで隔離された高度からの眺めのようで、たまらず目を細めた。

「なあ、雨も上がったようじゃ、バルコニーに出てみねえか」

 孝太に誘われて、おれはしっかりとうなずいた。バルコニーの重い扉を押し開けると、雨上がりのひんやりと湿った空気が一気に肌を包み込んだ。

「……うお、すっげえー」

 太い手すりに両手を掛け、身を乗り出すようにして斜め右下に見える高級ホテルを見下ろす。新月の闇が全てを深く沈ませる中で、見下ろした先にある5つ星ホテルが圧倒的な静謐さと気品を纏い、まるでもうひとつの宇宙のように孤高に浮かび上がっているように見える。

「ここ、いったい何階なんじゃ」

 今度は身を乗り出すように上を見上げてみるけど、上階には何もなかった。ただただ漆黒で、都会の音を全部吸い取って、騒がしい明日が来るのを拒んでいるような、濃密な静寂が広がっているだけだった。

 奇妙なことに、どうやらここが、この1008号室がこのホテルの最上階らしい。

「あー! こっちの世界の空気を吸えるのは、今日が最後かぁー」

 とバルコニーの手すりに両腕を乗せて深呼吸する孝太の左手には、しっかりとあのお守りが握られている。新月の暗闇と雨上がりの浄化された匂い。孝太の横顔。俺は無意識に、孝太の左腕をつかんでいた。

「なあ、孝太」

「うん?」

 こちらに顔だけを向けた孝太と目が合う。大都会とは思えないほど静かで暗いからなのか、今、この世界にはもう俺たちしかいない、そう錯覚してしまいそうになる。俺は意を決して、ごくりと唾を呑んだ。

「なあ、このまま……俺と一緒に、逃げねえか? どうにかならんか? なあ、孝太」

 そして、孝太の左腕をつかむ指先に力を込めた。重たい湿り気を帯びながらも、どこか凛とした冷たさを孕む雨上がりの風が、バルコニーをふわりと横切る。それはまるで眠らない街がつかの間に見せる深呼吸のようだった。

 孝太は、千隼、と俺の名前を大切そうに口にして微笑むと、

「きっとお前はそう言うんじゃねえかなって思うとったんじゃ」

 そう言いながら、俺の手をほどいて瞳をくるんと輝かせ、ゆっくり……本当にゆっくりと首を横に振った。

「おえん。無理じゃ。俺は死んだんじゃ、もう戻れん」

 そんなことは分かっている。でも、おれも諦めることができなかった。

「でも、今こうして話しとるじゃねえか。ここにおるじゃねえか!」

 おれはすがりつくように孝太の胸ぐらをつかんだ。

「一緒に帰れんのか? なあ、どうにか――」

「消えるんじゃ、俺は……生きることを諦めてしまったんじゃ!」

 大きな声を上げて、孝太も俺の胸ぐらをつかんで手繰り寄せた。感情的な孝太を見たら何も言い返せなくなって、俺は孝太の胸ぐらから反射的に手を引いた。

「千隼……もう、俺に縛られるな。生きることを諦めてしまった俺に、いつまでも執着するな。俺は死んだんじゃ。もう戻ることなんてできねえんじゃ」

 俺の胸ぐらをつかむその手はカタカタと震え、唇はわなわなと、その瞳には薄い膜が張っていた。

「俺のことは年に一回思い出すくらいでええ。もう俺のことは考えんでもええんじゃ。これからは自分のことだけを考えて、俊介や彩世、それからみんなとの未来を歩け。ええな」

 その濁りのない、左右ゆらゆらと揺れる美しい宝石のような色の瞳を見れば分かる。胸が痛くなるほどの後悔が伝わってくる。本当は死にたくなかった、生きたかった、みんなと野球をしたかった、と孝太の瞳が訴えている気がしてたまらなかった。

「なぁ、孝太……」

「おえん! 千隼っ……しっかりせえ! もう、いつまでも俺に執着するな。時間の無駄じゃ。俺が言いてえこと、分かっとるよな?」

「分からん! できん! 無理じゃ!」

 俺は孝太の手を振りほどいて、ブンブンと首を横に振った。

「どうにかできんか? その支配人ゆうやつに頼んでも、おえんのか?」

 もう、本当に時間がない。どうにかして……孝太を連れ戻す方法はないのか。焦る俺に、孝太は頑として首を振った。

「おえんのじゃ」

「なんっ……でじゃ」

 うなだれて奥歯を噛んで、込み上げる感情に必死に耐えていると、大きな拳で左胸をどんと突かれた。

「俺は死んだけど、お前はこれからも生きて行く人だからじゃ」

 胸を突かれた衝撃とそのひと言に現実を突きつけられた気がしてハッと顔を上げると、孝太が穏やかに微笑んでいた。

「もう、一緒にはいられねえんじゃ。俺はこれから橋の向こうに行かなおえんし、千隼は一緒に野球をしたいって伝えなきゃならん仲間たちのとこに戻らなおえん。それに」

 孝太はそこで言葉を切り、何かに打たれたかのようにハッとした様子で目を見開いた。見開かれた瞳が激しく揺れ、でも直ぐにその瞳に光を宿した。それから自分に言い聞かせるようにひとつ頷くと、

「それに、好きな人に好きだって伝えなきゃいけねえだろ」

 途切れていた言葉に続きを紡ぎ出した。

「俺はもう生きて行くことはできんけど千隼は違う。これからも明日を生きて行く者だから、今日ここで、俺たちは一旦、お別れじゃ」

 千隼は夢を叶えて幸せになって人生を全うするんじゃ。生きるんじゃ、千隼は。そう言って、孝太は俺の肩を弾くように叩いて笑った。

「今日はええ天気になりそうじゃ。夜明けが近いなぁ」

 時が経つのは早えなぁ、と孝太がバルコニーの手すりに手を乗せて、東の空を見つめながら言った。

「千隼。そろそろ、お別れじゃなぁー」