ホテル・ラ・ソルーナ

 まるで、孝太だった。

 触れればしっかりと温かく、気配もそこにある。髪の毛先から指先まで舐めるようにじろじろと見ては何度も確かめたけれど、到底、幽霊だとは思えなかった。

「あんなにずっと、四六時中、飽きるほど一緒におったのになあ」

 その声色も話し方もイントネーションも、孝太だった。

 そして、不思議なことに右隣に座っている幽霊を怖いという感覚も一切ないのだった。いつものようにこれが当たり前であるかのように孝太が隣にいる、そんな感じで違和感ひとつなかった。死んでしまったのだという現実をお利口さんに受け入れることの方がとてつもなく難しかった。

「千隼がこんなに泣き虫じゃったとは知らんかったなぁ」

 シャンデリアの白い照明の下で困ったように眉を八の字にして微笑んだ孝太は、まだ病気の影さえ無くて、ふっくらと厚みのある頬には赤みが差して健康そのものだ。

「うるせえんじゃ」

 自分がいちばん驚いている。体がバラバラになってしまうんじゃないかと不安になるほど全身を震わせて泣いたのは、きっと初めてだった。泣き過ぎて頭は鉛でも詰め込まれたように重いし、妙な疲労感で全身気怠い。

「それより……今はその……苦しいとかどっか痛えとかないんか?」

 鼻をすすり、ぶっきらぼうにソファの背にもたれながら聞くと「変わらんなあ、千隼は」と、孝太も相変わらず静かに笑った。そして、見ての通りじゃ、とソファの背を軋ませながら頭の後ろで両手を組むと、投げ出した足を交差させ穏やかな表情で天井を仰いだ。

「不思議なもんじゃ。生きとった時は悩みばっかで、心も体も痛くて辛いことばかりだったのになあ。今はもう、痛くも痒くもねえんじゃ。腹も減らんし喉も渇かん」

 安心せえ、と孝太がやわらかく笑った。

 この静かでたおやかな空気感にようやくほっと胸を撫で下ろした。孝太の声を聞けば聞くほど、隣に気配を確かに感じれば感じるほど、死んでしまったなんて思えないし、信じられない。

「そうか。そんなら良かった。ずっと気掛かりで心配しとったから」

 安心した、と俺が笑うと孝太は「えっ」と声を洩らし、どこか驚いたように琥珀色の瞳をくるんと輝かせ、首を傾げた。

「怒っとるんじゃねえんか? 俺が死んだこと許せねえから来たんじゃねえんか?」

「はあ? なんじゃそら……怒るとか許せねえとか、何言うとるんじゃ」

 あほう、と笑い飛ばすと、孝太は右に左に首を傾げる仕草をしながら奇妙なことを話し始めた。

「いや、だってなあ。正春が言うとったんじゃ。橋を渡れんのは、残して来た人たちの中の誰かが、俺の死を許してくれてないゆうことじゃって」

 たまらず眉間にしわが寄った。

「お前、なに言うとるんじゃ……マサハルって誰じゃ?」

「ああ、正春か?」

 なんて説明したらええかなあ、なんてのんびりとした口調の孝太はううんと唸りながらも富澤正春という人物と出会った時のことを語り始めた。

「正春は俺らと同じ十七歳でな。じゃけど、これがまた背は低いし痩せっぽっちでなぁ。神風特攻隊に志願したんじゃ言うとった。沖縄戦で敵艦に体当たりして、命を落としたって」

 初めは半信半疑で聞いていた。まあ良く聞くような死後の世界の話なんだろうと思って、適当に相槌を打っていた。でも気付けば真剣に聞き入っている自分がそこにいた。とても興味深かった。

「正春もこのホテルで面会したんじゃ言うとった。恋人だった、とても大切に想っていた人と。でも、自ら死を選択したことを未だに許してもらえていなくて、もう八十年も橋を渡れずにいるんじゃ言うとった」

「八十年も? なあ、孝太……さっきから言うとる橋ってなんじゃ? この近くにそんなとこがあるんか?」

 聞くと、孝太はもたれていたソファから上半身を起こすと、膝に両肘を突いて少しばかり身を屈め、そよ風が耳をかすめるようなトーンで話し始めた。

「死んだあと、延々と仄暗いトンネルの中を何日も何日も歩いたんじゃ、きっと。照明なんかひとつも無いのに、不思議と真っ暗でもない空間だった。どんなに歩いても全く疲れんし、腹も減らん、喉も渇かんのじゃ。不思議なことにどこまでも歩けるんじゃ」

 延々とも思えたそのトンネルにもちゃんと出口はあって、抜けたその先には殺風景な景色が広がり、一本の朱い吊り橋が、それはそれは透き通った水色の美しい川の上に架かっていたのだと孝太は言った。

「空も地も草や木も、川の水以外全て灰色に見えた。風は吹かないし、雨も降らない。聞こえるのは勢いよく流れる川の音と、無数の足音だけ。トンネルから人が次から次へと出て来て、吊り橋を渡って、向こう岸へ消えて行くんじゃ」

 あまりにも生々しく語るものだから、いつしか俺まで前屈みになって耳を傾けていた。

「渡口で立ち止まって、唐突に理解したんじゃ。なるほどなあ、これが良う聞く三途の川かって。それで、この橋を渡ればきっとあの世へ辿り着けるんじゃろ思うて、渡ろうとしたんじゃけどな」

 俺は渡ることができんかったんじゃ、と孝太が肩を落とした。

「後から来た人たちは平然として渡って行くのに、俺だけ渡ることができんのじゃ。まるでそこに目に見えんガラスの板でもあるみてえに、前に進めんのじゃ」

 どうしたものかと首を傾げていたその時に声を掛けて来たのが、富澤正春という特攻兵だったそうだ。

「吊り橋の渡り口に案山子みたいに突っ立っとった。白いマフラーに飛行服、襟には小さな星のバッジ、飛行帽にゴーグル。黒い飛行靴の底が地面に張り付いて、そこから一歩も動けないんだって言っとった。右目は穴が開いとるように真黒で、左は普通のつぶらな瞳じゃった」

 ――きみも私と同じに、弾かれたのだ

 彼は孝太の目を真っすぐに見つめて、教えてくれたのだそうだ。きみは弾かれ者なのだ、と。この橋を渡ることが出来ないのは、遺族、恋人、友人の誰かがきみの死をどうしても受け入れることが出来ずに苦しんでいるからだと。きみが自ら死を選択したことを許せず、認められず、苦しんでいるから橋を渡ることができないのだ、と。

「じゃあどうしたらええのか、どうしたら許してもらえるのか聞いたら、もう一度、その人物に会うしかないって。会って、死を選択した理由と気持ちを正直に伝えて理解してもらうしかないって言うんじゃ」

 もうこの世に留まる必要がない、もうこの世に戻らなくてもいい、と送り出してもらうしかないのだと言われた孝太は、再会するためにどうしたらいいのか尋ねたのだと言った。

「それで、このホテルのことを教えてもらったんじゃ」

 そう言って、少しの沈黙の後、再び穏やかな口調で淡々と話し続けた。

「正春に言われた通りにしたら、このホテルに辿り着いたんだ。んで、フロントの係に事情を説明したら調べてくれてな。面会に該当する人が三人いるって言われたんじゃ」

 まずは孝太の母親、次に父親、そして、三人目は。

「千隼だった」

 でも、三人みんなと会えるわけじゃなくて、面会できるのは一人だけの一度きり。だから、三人の中から一人だけ、後悔のないように選ぶようにと孝太は究極の選択をすることになったのだ。

「ごめんな、孝太……」

「え?」

「おばちゃんと、おじさんに会いたかったよな」

 本来ここにいるべきは俺なんかじゃなくて、おばちゃんかおじさんだったんじゃないかと思うと、申し訳なくて居た堪れなかった。おばちゃんもおじさんも、絶対、孝太に会いたかったはずだ。孝太だって、きっと、本当は……。

「すまんかった。ごめんな」

 俺は膝の上で拳を握り締め、深く頭を下げた。

「ほんまに申し訳なかった」

 俺の気持ちが執念深すぎたがゆえに、たった一度の機会を孝太や孝太の両親から奪ってしまったのかと思うと、なかなか頭を上げることが出来なかった。それなのに、後頭部に降って来たのは「なんで千隼が謝るんじゃ」と相変わらず優しい声だった。

「そらぁまぁ、ひとつも迷わんかったなんて言うたら嘘になる。心底悩んだよ。でも、どうせこの一回を使うんじゃったら、千隼じゃなあ、思うたんじゃ」

「お前はバカか? 普通、迷わず親に会うために使うもんじゃろうが」

 思わず勢い良く顔を上げた俺を、孝太は優しい目で見ては困ったように小さく笑った。

「そうじゃなぁ、俺はバカ息子じゃ、親不孝もんじゃ。けど、今夜お前に会うて、あの時千隼との面会を望んだ自分のこと天才じゃ思うた。さすが俺じゃ思うた」

 危ねえ危ねえ、後悔するとこじゃった、そう言って孝太は俺の背中を手のひらで少し強い力で、しっかりと叩いた。良く知っている手の感触を噛み締めて再び前屈になった俺に、孝太は「俺の勘はよう当たるんじゃ」と可笑しそうにクスクスと鼻を鳴らして笑った。

「不器用な相方が、どうもひとりぼっちな気がしてなぁ、心配でどうにもならんかったんじゃ。どうしてなんか、誤解されやすい相方なもんでなぁ」

 優しい力で肩をぽんと弾かれてゆっくり顔を上げると、通り雨の後の晴れ間のような湿っぽくて温かい笑顔で孝太が見てくるものだから、くすぐったくて目のやり場に困った。

「なんじゃ、そんな顔して。情けねえなあ、千隼」

「るせえ……もともとこういう顔じゃ」

 陽だまりのように優しい微笑みを直視できずうつむいてみたものの、逃げ場を失った視線は足元をうろうろとさ迷った。

 どうも今日はだめだ。涙腺の調子がおかしい。弱い。ちょっとしたことですぐに目の奥が熱くなって、顎の辺りから何かがこみ上げてくる。

「その様子じゃと、俊介とも彩世とも、うまくいっとらんのだろ」

 孝太のひと言が心臓の端っこにチクリと刺さり、たまらず顔を上げた。声が喉に引っかかって出てこない。宝石のような澄んだ瞳に吸い込まれそうになった。

「図星か」

 それだけ言うと、孝太は俺の反応だけで全てを察したのか「くくっ」と声を漏らして肩を揺らした。

「ほんまに分かりやすうて助かるなぁ。千隼は何でもすぐに顔に出すんじゃ。なあんも変わらんなぁー」

 変わらないのは、孝太だって同じだ。

 他の人が言えば嫌味に聞こえることでも、孝太が言えば不思議とすんなり、腹の底にすとんと落ちて、ひとつも嫌な気持ちにならない。その物腰のやわらかい控えめな話し方もあるのだろうけど。孝太が纏っている空気は浄化作用があって、その瞳には言葉ではうまく説明できない強力な魔力が宿っている。目が合った瞬間から嘘は吐けなくなるし、誤魔化すことさえできなくなってしまう。

「相変わらず鋭いんじゃ、孝太は。お前、実はほんまに宇宙人なんじゃねえんか」

 俺は白旗を掲げて苦笑いしながら背中を丸めた。

「うおぉ、懐かしいなあ」

 そんな俺の隣では孝太が思い出したようにパンと両手を叩き鳴らした。

「俺、リトルの時、宇宙人なんて呼ばれとったなぁ。この目の色のせいで」

 そして、左手の人差し指をピンと伸ばし、その瞳を突くように指さして、くすぐったそうにはにかんだ。でも、すぐに都合悪そうに肩をすくめ「すまん、千隼」と苦笑いした。

「千隼と俊介がそうなってしまったんは、きっと、俺のせいでもあるんじゃろうなぁ」

 今度は孝太が膝の上で拳をぎゅっと握り締め、

「俺が死んだことが原因でもあるんじゃ、きっと」

 とまるで自身に言い聞かせるようにボソボソとつぶやいてはコクコクとうなずき、そして、アンティーク時計を見ては顔を上げた。

「時間は限られとる。全部教えろ、吐き出せ。夜が明けたらもう、聞いてやることさえできなくなるんじゃ。千隼がため込んどること全部、聞いたる。今夜しかねえんじゃ」

 二十二時を数分過ぎたばかりのことだった。

「とにかくむしゃくしゃして、何に対してもイライラして腹が立って仕方ねえんじゃ」

 俺は孝太が死んだあの日からのことを、堰を切ったように吐き出した。

 まず、とにもかくにも毎日、訳も分からず、全てに対して気に食わなくて、何をしていても面白くなくて、むしゃくしゃしていること。孝太が死んだと聞いて駆け付けた病室で、あかりんが孝太のタオルケットを抱き締めて泣いていたこと。そんなあかりんが先輩看護師に、泣くなんてみっともないと注意されていたこと。

「頭にきてなあ、かぁっとなって、悲しい時に泣くこともできんような仕事なんか辞めてしまえ、って。俺、怒鳴ってしまったんじゃ」

「先輩……? あ、もしかして、井上(いのうえ)さんのことかもしれんなぁ。井上さんな、あかりんの教育係なんじゃ。あかりんのこと期待しとるんじゃ思う。だから厳しくしてしまうんじゃ思う」

 その先輩看護師のことを、孝太はひとつも悪く言わなかった。逆に、あの病棟で誰よりも患者思いの看護師だと言い切った。あかりんよりもかと突っ込むと、そこは曖昧に笑って濁したけど。あかりんはきっと素晴らしい看護師に成長すると思う、そう言ってやわらかく微笑んでいた。

 それから、どうしてなのか、母さんが毎日持たせてくれる弁当が味気なく感じるようになってしまったこと。昼休みの教室がうるさくて、クラスメイトたちの会話もただの騒音にしか思えなくなってしまったこと。部活に行くのも気が乗らなくなってしまったこと。このままいつか野球がつまらないと思う日が来そうで不安なこと。チームメイトたちと話すのも億劫になってきていること。

 俺がひとつ不満をこぼせば、孝太は困ったように眉をへの字にしたり笑ったりして、俺の心に刺さった棘を一本一本慎重に抜くように返事をくれた。

「俺が相手だと萎縮してしまうんじゃと。萎縮してしまって、うまく投げることができねえんじゃと」

 それは千隼の力量不足だろ、とか、いやいやもっと俊介の気持ちに寄り添ってやるべきだ、だとか。

「俊介は、俺じゃおえんのじゃと」

 しっかりしろ、千隼、なんて一発気合でも入れられるんだろうなと覚悟しながら、思い切って俊介から距離を置かれてしまったことを相談してみれば、返ってきたのは全く予想外の反応だった。

「俊介に一本取られたんじゃ、千隼」

 と手を叩き鳴らし、物静かな孝太にしては珍しく大きな口でわははと笑った。

「どういう意味じゃ」

「どうもこうも、一本は一本じゃ。ふうん……なるほどなあ」

 孝太は再びソファにもたれ掛かると天井を見上げ、そして、ふふっと困ったように笑って「ちいと焼けてしまうなぁ」と胸の前で腕を組んで続けた。

「もうええコンビになっとるじゃねえか。千隼はもうとっくに俊介のこと、ちゃんと認めとるんじゃなあ」

「はあっ? なに言うんじゃ。孝太は、何も分かっとらん」

 俺は溜め息を吐きながらうつむいた。

「なに言うとるんはお前じゃ、千隼。お前はもうちゃんと俊介を認めとるんじゃ。だからもっともっと、もっと行けるはずじゃ、もっとええ球投げられるはずじゃって俊介に求めてしまうんだろうが。それを俺に求めたみたいにな」

 声が出なかった。ハッとして弾かれたように顔を上げて左隣にぱちくりと瞬きをすると、孝太は「お、今頃気付いたんか」と俺の右肩を拳でドンと小突いた。小突かれた衝撃で声が出るかと思ったけれど、やっぱり喉に引っ掛かって出て来なかった。そんな俺を見て孝太はやっぱり穏やかに微笑むのだった。

「千隼がいちばん分かっとるよなぁ。俊介が、全国でも通用する投手に成長したことは」

 ああ……ほんまにもう。敵わんなあ、孝太には。

 一生……いや、生まれ変わって人生2周目になったとしても、孝太には敵わないのだと、心底思い知らされる。

「わぁ……分かっとるっ……」

 やっとの思いで喉の奥から絞り出した声は見事に震えて、自分でも心配になるほどだった。ごくっと唾を飲み込んで、俺は深くしっかりと頷いた。

「……俊介の球なんじゃがなぁ、もう、とうにお前を超えとるんじゃ、孝太」

 言ってしまった。このひと言を口にするのが嫌で嫌で、悔しくてたまらなかった。出来ることなら、言いたくなかった。口にしたら、本当にもう、鳴瀬孝太という人間が生きていた証さえ消えてしまいそうな気がして……怖かったのだ。

 本当はかなり前からもしかしてとは思っていた。孝太の病気が発覚して、入院して、冬が終わって、倉敷の街のあちこちに春の訪れを感じるようになった3月の始まりに、俺の中で渦巻いていた予感はとうとう確信に変わった。

 鳴瀬孝太という投手をいつの間にか俊介が追い越していたことを、俺はきちんと理解していた。でも、どうしてもそれを認めるということが出来なかった。いや、出来なかったのではなく、認めたくなかったのだ。

 俊介のことが気に食わないとかそういう単純な理由じゃなくて、もっと複雑な理由だった。認めてしまえば、孝太が残したもの全てがいつかは全てなかったことになって、風化してしまうんじゃないかと思った。

 晴れの日も雨の日も、強風の日、雪の日だってそうだ。幼い頃から二人三脚で一歩ずつ歩んできた俺と孝太の道も、絆も、努力も、吹き消される蝋燭の灯のようにフッと消えて、最初からなかったことになってしまうような気がして。

 このままじゃ鳴瀬孝太というひとりの人間が生きていたことさえ風化して、孝太のいないチーム、孝太がいないグラウンド、孝太のいない毎日が当たり前になって……そんな日々がこの先淡々と続く日常になるんじゃないかと。そう思うとむしゃくしゃしてきて、次第に腹が立ってきて、終いには怖くてたまらなくなっていた。

「正直なぁ、今はもう、俊介の方が遥かにええ球、投げよるんじゃ」

 言葉が大粒の飴玉みたいに喉に引っ掛かっているみたいで、声を出すのに苦労した。ようやく白状して、大きく息を吐き出し、今、孝太が悲しい顔をしていたらどうしようかと心配しながら顔を上げて、拍子抜けしてしまった。

「ほんまに不器用にも程があるだろうが」

 孝太は心の底から安堵したような、嬉しくてたまらないような、それなのに今にも泣き出しそうな、複数の感情をごちゃ混ぜにしたような微笑みを目じりに浮かべて、続けた。

「なんでそれを俊介本人に伝えてやらんのじゃ。俊介は俺じゃねえんじゃ。俺みてえに千隼がどんなこと考えとるかを察することが出来る男、そんなポンポンおるかぁ。ええか、これからはそういう大切なことは口に出して伝えなきゃ伝わらんぞ」

 伝えなきゃ千隼が損するだけじゃ、そう言ったあと、孝太は軽くうつむきながら「うーん」と唸って、顔を上げながらぷはっと噴き出して笑った。

「それにしても、俊介もなかなか不器用じゃなぁ。素直じゃねえなあ」

 そして、これはあくまでも俺の勘だけどな、と孝太は俺の顔を指さした。

「きっと俺と同じじゃ。俊介もどうにかして千隼と一緒に甲子園に行きたくてたまらんのじゃ。俊介は俊介で今頃もがき苦しんでるんじゃねえんか」

 孝太のひと言ひと言はどうしてなのか、とてもすんなりと食道を通過し、俺の腹の底へすとんと落ちて行った。

「俊介が千隼と距離を置いた気持ち分かる気がするなぁ。今のままぶつかり合うておったら、ほんまにもう修復不可能になると思っての苦肉の決断だったんじゃねえのかな。俊介のやつ」

 孝太のゆったりとした口調に耳を傾けながらも、頭の中は面白くなさそうにボールを投げる俊介の姿でいっぱいだった。あれは面白くなかったんじゃない。俊介は俊介でどうにかしたくて、分かり合いたくて、必死にもがいて俺に訴えかけていたのではないか。

「これ以上、千隼とこじれたくねえから、一旦距離置くしかなかったんじゃ思う。俊介も、一緒に甲子園に行きてえんじゃ、千隼と」

 胸がパンパンに詰まって、自分の浅はかさが恥ずかしくて、顔を上げることができずにいた俺に、孝太は声のトーンをひとつ下げてそっと背中を押すように言って、あとは一切、俺と俊介の関係に深く踏み込もうとはしなかった。

「野球はひとりじゃできねえんじゃ。助けを求めることは、恥ずかしいことじゃねえよ、千隼」

 胸がいっぱいで返事ができず、頷くことが唯一の精一杯だった。




 パチ、とその小さな音がした窓の外を見れば、月明かりのない新月の東京の空は、底の抜けた瓶のように深く暗かった。

「雨じゃ」

 パチパチと硬い音を立ててガラスを降り出したばかりの雨粒がノックしている。数十秒の間に一気に本降りになった雨はバラバラと砂を蒔いたような音を立て、ガラス上で互いに引き寄せ合い大きな滴へと形を変え流れ落ちて、外の世界を曖昧に隠すように一気に滲ませていった。

「ええぇっ……てかそれ、お前、告白されとるじゃねえか!」

 バシッと肩を叩かれた衝撃と、絶妙なタイミングで部屋に響いたアンティーク時計の音でハッと我に返った。

「え、あ……あぁ? 告白? まさかまさか、だって俺、大嫌いじゃ言われたんじゃ」

 ありえん、と手をひらひらと振って笑い飛ばし、時刻を確かめて正直少し焦った。アンティーク時計の針が午前0時を指していたからだ。思わず二度見してしまったほどだ。

 俺たちは、あれからもう四時間も語り明かしていたらしい。孝太の両親の近況、学校のこと部活のこと。部活帰りによくふたりで立ち寄ったえび飯屋が四月いっぱいで閉店してしまったこと。このホテルから招待状が届いた日のこと。ネットでこのホテルが都市伝説になっていること。そして、彩世とのこと。

「でも、ずっと大好きじゃった言われたんだよなあ? そらぁお前、告白じゃ」

 話しても話しても話題は尽きなかった。孝太が生きていた時の倍、いや、百倍語り明かしたかもしれない。時間が一秒でも惜しくて、俺はもちろん孝太なんて普段から無口だっただけに別人のようにぺらぺらとまあよくしゃべった。

 日をまたぐ頃には本降りがさらに強くなって、激しい音を立てて砕け散る飛沫が窓のガラスを濁った水の膜で覆いつくしていた。

「いや、違うんじゃ。今の俺は情けのうてかっこ悪くて、大嫌いなんじゃ、言われたんじゃ。ここに来るために学校早退して出ようとした時にな、言われた」

 雨は激しさを増し、まるで豪雨のようだった。話題は校門を出ようとした時の出来事になっていた。

「告白する前に振られたいうことじゃ。かっこわる」

 フンと鼻で笑ってソファにもたれ、足を前に投げ出してズボンのポケットに手を突っ込んだ瞬間、そのやわらかい感触にハッとして「あ」と声が漏れた。手に触れたのは、彩世が俺に投げつけてきた野球ボールと背番号入りの手作りのお守りだ。ポケットの中で握り締めたそれを抜き出して、そういえばこれさぁ、と手のひらに乗せて孝太の顔の前に突き出す。

「その……校門で言い合いになった時に、なんじゃこれ……孝太の遺言じゃー、言うてな、走って行ってしまったんじゃ」

 手のひらにちょこんと乗るサイズの真っ白なフェルトの中には、綿を入れてあるのかふわふわとしていて、黒のフェルトで「Chihaya 2」と縫い付けてある。深紅の縫い目も几帳面に太くて赤い糸で縫われている。

 俺の手の中を覗き込んだ瞬間、孝太の瞳が大きく見開かれた。あっと小さく口を丸く開けたまま、孝太の口から声にならない息が漏れる。

「孝太? どうかしたか?」

 顔を覗き込むと孝太は「いや」とだけ言うと瞬きさえせず、フェルトのお守りをじいっと見つめて、そして、俺の手からそのお守りをそっと壊れ物を扱うような手つきでつかんだ。

「うまいもんじゃのぉ。ようできとる。かわええなぁ」

 そう言った孝太はふっと目元を和らげ小さく微笑んだ。夜空にさり気なく浮かぶ三日月のように優しく弧を描いた瞳が、真っ直ぐに俺を捉えた。

「時間が無くなってしまう前に、話しておくわ、千隼」

 その細めた目じりには深い慈しみと強い意志が滲み出ていて、周囲に漂う空気だっていつものように穏やかなのに、なぜか背筋がしゃんと伸びた。

「話?」

 俺が首を傾げると孝太は静かにうなずき、口角を上げた。

「知りたいんじゃろうが。だから、今ここにおるんじゃろうが」

 孝太は天井から降り注ぐように光を放つシャンデリアにフェルトのお守りをかざして、眩しそうに目を細めた。そんな孝太の横顔を見つめながら、俺は静かに慎重に唾を飲み込んだ。

「俺も千隼にどうしても伝えてえことがあってな。会いたかったんだ、どうしても。最期に、もう一度……会いたかったんだ」

 その横顔には一切の迷いも苦悩もなくて、風もなくただただ静かに凪ぐ水面のような、不思議な安らぎに満ちていた。

「どうして俺が、自ら命を絶ったのか、ちゃんと話すよ」