木曜日の朝。

ほっと一息のシャッターを上げ、看板を拭こうとしたナナミの目に、異物が映った。



「……ん?」



外壁の角っこ、通りに面した部分に、何かが貼ってある。白地に黒文字。手書き風のチラシだ。



新店舗オープン!

カフェ・ノワール。

癒やしを、影の先へ。

場所:この通りをまっすぐ、三軒目

グランドオープン:本日正午

オープニングサービス:先着100名、コーヒー1杯無料



ナナミはその貼り紙を引っこ抜くように剥がし、額にしわを寄せた。

「なんか、雰囲気が……挑戦状みたい」



その貼り紙は店の前に数枚、商店街の柱にも貼られていた。

店の入口で出勤してきた他の看板娘たちも、それを目にする。




「ねえ、見た?ライバル店……?」



イオリの声は震えていた。まだ人気が出たばかりの彼女にとって、敵は未知の恐怖だった。



「影とかノワールとか、中二病かよ……」



マコが舌を出し、軽く自分を鼓舞するように言った。



「でも、癒やしを影の先へって、なに?意味深」



アヤネはそのコピーを眉間に寄せて眺めた。



キリコは無言でカウンターに立ち、コーヒーメーカーを動かした。

だがその手には、わずかに緊張が混じっていた。



ン子は、スマホを取り出して検索を始めた。



「いいか、みんな。まずは情報を集めよう。場所、営業時間、強み……全部把握しないと」



「アンタ、めっちゃ軍師感出てる」



とナギサが言うと、ン子はニヤリと笑った。



「戦略なくして防御なし。チラシには無料って書いてあるけど、それがフックになるかもだし」



マスターは出勤してきて、貼り紙を無言で引き剥がした。



「ノワールか……来るなら来い。ただ、うちも負けねえよ」



そう呟いて、店のトップライトを魅せるように拭いた。




その昼。

ほっと一息が忙しくなる時間帯、ふと店の前を見たナナミが驚いた。



「……見て、向こうの店、もう開いてる」



三軒先の角に、店構えの異なる店があった。黒いレンガ調、ガラス張りの窓、看板にはCafé Noirの洒落たロゴ。



スタッフらしき人影が、外で立ち話をしている。



「お、おしゃれすぎる」



イオリ、思わずつぶやく。



ナナミがカウンターに向けて叫ぶ。



「マスター!ちょっと見に行こうよ!」



だがキリコがストップをかけた。



「まずは落ち着いて。見に行くなら、人数少なめで偵察に行こう」



「偵察って、スパイ映画かよ」



ナギサが呟く。



マスターがそっと財布をポケットに入れながら言った。



「じゃあ、俺とン子で様子見てくる。バレないように」

ン子は小さく頷き、二人は出て行った。




マスターとン子は、店の角を曲がり、そっとノワールの店内をのぞいた。



店内は落ち着いた照明。黒と鉄を基調としたインテリア。

それは「陰」の趣きを意図的に押し出した空気だった。



黒いカウンター、鉄製の椅子、紙ランプ。全体的にモノトーンの調和。

そして、窓際には、少し年齢高めの女性が一人、静かに本を読んでコーヒーを飲んでいた。



「落ち着くなあ……こういう静かな感じ、意外と好きかも」

ン子がささやいた。



「油断するなよ。これが武器ってやつかもしれん」



マスターの目は、店内を鋭くスキャンしていた。



そのとき、店の奥から声が聞こえた。



「いらっしゃいませ。Café Noirへようこそ」



声の主は、中性的な雰囲気の女性スタッフ。黒髪を切りそろえ、表情は落ち着いているが眼光に強さがあった。



マスターとン子は、互いに目を見て、小さくうなずいた。



「やつかもしれない」



「ライバル……だけど、敵か?」



それが、ノワールとの初対峙となった。




その夕方、ほっと一息にて。



「どうだった?」



とナナミが声をかける。



ン子が息を切らしながら話した。



「えっと……店内は静かだった。客少なめ。スタッフの感じは……すごく落ち着いてる。でも、強い雰囲気」



「静かすぎて、逆に圧を感じた」



「でも、悪役感はなかった」



マスターが頷いた。



「確かにな。ただ、あの空気、放っておけない。あの店が流行りだしたら、うちへの風向きもガラッと変わる」



「どうする?先手打つ?」



ナナミが目を光らせた。



数日後。

ノワールは、その存在をちらほらと地元に知らしめ始めていた。

雑誌の地元特集に、新感覚モノクロカフェ、Café Noir 開店という記事。

「癒やしを影の先へ」がキャッチコピーとともに使われていた。



そんな中、ノワールのスタッフの一人が、ほっと一息に現れた。

黒服の女性。まるで風景の闇を纏ったような佇まい。

ドアを開けて、店内を一瞥し、軽く礼をして言った。



「初めまして。Café Noir の店員、白夜と申します。ちょっとお邪魔します」



看板娘たちは、ざわついた。



「……お邪魔ってどういう?」



「ライバル挨拶?」



「でもなんか……冷たい感じ」



白夜はくるりと店の隅を見回し、細く笑った。



「素敵な店ですね。名前も、空気も。私、少し参考にさせてもらおうかなって」



ちょっと毒を含んだ言葉。



「無礼だったらすみません。でも、良い意味で、刺激を与え合う店になれればいいなあ、とは思います」



そのまま白夜は、カウンターで一杯、ブラックコーヒーを注文してドアを出て行った。

残された空気が、重く、ざらついていた。





閉店後、看板娘たちはバックヤードで、ざわざわと話し合っていた。



ナギサが拳をにぎる。



「参考にさせて?」



「なんか上からじゃない?」



「戦うなら、真正面でぶつかってやりたい」



マコが眉をひそめて、鼻息を荒くする。



「うちは、うちらのやり方でやるんだよ。派手な演出じゃなくても、じわじわ来るような空気で」



「ただ、白夜さんって人、ちょっと腹立つな……」



イオリはそっと言った。



「でも、刺激し合う店っていう言い方、悪くないかも……?」



「あんた……真面目……?」



ナナミが茶化す。だが、その言葉の裏に、少しの同意があった。



キリコは無言で背を向け、すすり泣きような息をついた。



(侵食されてたまるか)



そんな意志が、唇の裏で震えそうなほど強かった。




ある午後。

ほっと一息の窓際の席は、夕陽がほんのり差していた。

イオリは窓の外をぼんやり見ながら、ミルクティーの湯気をゆらめかせていた。



「イオリ、注文そろったよ」



ナナミが差し出すお盆に、彼女はハッと我に返る。



「ありがとう……ナナミちゃん、ごめんね、ぼーっとしてて」



「いいよ、気にすんな」



そのとき、入口ドアが静かに開いた。

ガラス越しに見えたのは、黒のスーツを羽織った青年だった。

細身で背筋がすっと伸び、髪はやや茶色。目に光があった。



見た者すべてが、

「あ、かっこいい……」

と思うような、その存在感。

だが、彼はゆっくりとこちらを見て、まっすぐに、窓際のイオリを見た。



心臓が跳ねた。

イオリの頬が、一瞬で紅潮する。



ナナミは反射的に目をそらしたが、すでに遅かった。



青年は軽く礼をして、ノワールの名刺を掲げた。



「こんにちは。Café Noir の店長見習い、桐生と言います。少しお時間よろしいでしょうか」



その声音は、低く、穏やかで、どこか秘めた強さを持っていた。




ほっと一息の客たちはざわめいた。



「ノワール店長見習い?」



「この人、かっこいい……」



「店長補佐か何かか?」



マスターが顔をあげ、そっと立ち上がる。



「どうぞ。うちの店に用か?」



桐生は名刺を差しながら、頭を下げた。



「すみません、お邪魔かもしれませんが……先日はご挨拶できずに失礼しました。白夜さんからの返礼を兼ねて、ご挨拶をと思いまして」



「白夜さん?」



イオリはその名前を、無意識に口にした。



桐生は視線をイオリに戻し、軽く頷いた。



「はい。白夜は元々この界隈を知る人で、こちらの店を、ただの競合ではなく切磋琢磨の相手として見ていたようです」



「……切磋琢磨?」



マスターが眉をひそめた。



「貴店の店らしさには、私も興味を持っていまして。お話を伺いに参りました」



その時、イオリの胸がざわついた。

話を、伺いに。

その「伺う」の対象に、わたしも含まれていたのか。



桐生は、淡く微笑んだ。



「それと、初めて来たとき、窓際の席にいらっしゃった方が気になりまして」



イオリは一瞬固まった。鼻先が熱い。



ナナミがごくりと唾を飲み込む。



「え、あ、あの子ですか?」



桐生は頷いた。



「はい。目も声も、忘れられない感じで」



その言葉に、イオリの心臓はもう、バクバクと音を立てていた。




桐生はそのまま、コーヒーを一杯注文し、店内の隅で静かに飲み始めた。



彼が座った席は、窓から少し離れた位置で、店全体が見渡せる。

イオリは、血の気を引かせながら、自分の席に戻った。



ナナミは眉を寄せ、イオリの膝を軽く叩いた。



「大丈夫?顔真っ赤だけど」



「う、うん、大丈夫……」



「なんかあったの?」



「いや、あの人……桐生さんっていう人がさ」



「なにそれ、顔と名前まで覚えてんの、すげーな」



マコが、鍋を洗いながら、さりげなく口を出した。



「恋の始まりって、案外静かだよな。最初は視線だけとかさ」



「マコさん、何知ってんの」



「経験則だよ、経験則」



イオリはそっと自分の手を見つめた。

指先が震えている。




数日後。

ノワールの方から、公式に提携を兼ねたコラボ企画の話が来たという噂が流れていた。

それは、双方が店舗を行き来して提供メニューをシェアするという内容だ。



その打ち合わせのため、桐生と白夜が、ほっと一息を訪れた。

看板娘たちも、緊張の面持ちで待機していた。



席が整えられ、コーヒーを飲みながら、ヌルっと話が始まった。



協議がひとしきり終わったあと、桐生がまっすぐイオリを見た。



「……もしよければ、お願いしたいことがあります」



部屋が静まり返る。



「付き合ってください」



その言葉は、客の雑音も店の機械の音もかき消して、まるで二人の周囲だけが凍ったような時間を作った。



イオリの目に、一瞬、驚きと戸惑いと歓喜が交錯する。

心臓が跳ね、言葉が詰まる。



「え、えっと……」



声が震えた。



桐生はごくりと飲み込んでから、続けた。



「あなたを、もっと知りたい。名前だけじゃなく、声も、笑顔も、涙も」



「あの、僕……あなたのこと、いつか忘れられないと思ってたんです」



壁の時計が、カチ、という音を立てた。



イオリは、がくん、と膝が揺れたような感覚を持った。

だが、顔を上げて、ゆっくりと、頷いた。



「……はい、いいです」



周囲から、どよめきと拍手。

看板娘たちは目を見合わせ、驚きながらも喜びに満ちた笑顔を浮かべた。



桐生はほっと胸をなでおろしたように、柔らかく笑った。



「ありがとうございます。大事にします」



その日から、イオリは、守ってあげたい系女子から、愛される女の子の一歩を踏み出した。

そして、ほっと一息には、甘くて切ない恋の香りが、静かに漂い始めた。



恋が始まったからって、すべてが順風ではない。



マコとナギサはなにやらコソコソ話して、時折イオリの姿を見つめる。



「ねえ、あの恋、誰得だと思う?」



「いや、幸せになってほしいけど、波乱も来そうだな」



キリコは、カウンターのコーヒーカップを拭きながら、黙って俯いた。

胸の奥では、小さな嫉妬と守りたい思いが混ざっている。



白夜は、ノワールで桐生に言った。



「あなた、本当に恋というものに足を踏み入れたのね……でも、それがあなたを強くも、壊すこともあるわ」



桐生は少しだけ苦笑した。



「それでも、後悔はしたくないです」



その夜、イオリは小さな手帳に、こう書いた。



桐生さんが、私の名前を言ってくれた。

「イオリ」って。

その声を、忘れたくない。

でも、怖い。私、ごめんって泣きそうで。

でも、嬉しい。

これから、どうなるんだろう。




その日は晴れていた。

風は穏やかで、空は高く、夏の残り香がほのかに混じるような青。



ナナミが店の裏口をガチャリと開けると、そこにイオリがいた。

普段の制服ではなく、爽やかなワンピース姿。髪はふわりと巻いている。



「おはよう、ナナミちゃん」



「おはよ〜。今日、なんか変だね、かわいいじゃん」



「えっと……その、桐生さんと、デートなんです」



ナナミの目がさっと輝いた。



「いいなあ……私も行きたい」



「いや、こっそりくっついていかないで」



「それ、最高のチラ見プランじゃん」



ナナミはニヤリと笑いながら、スマホをポケットにしまった。



他のメンバーも次々に出勤し、イオリの姿に気づくたびにざわざわと囁く。



「今日、デート?」



「見に行きたい」



「こっそり偵察部隊、結成ね」



その日の営業は、看板娘たちが出勤してから、店を開けるまでの時間も、少しざわめきがあった。




デートの待ち合わせは、駅近くの遊園地の入口。

正午、改札を出て、公園のチケット売り場の前。イオリは少し早めに着いていた。



「こんにちは」



帽子を斜めにかぶった桐生が、手をさっと差し出した。



「イオリさん」



その声を耳にした瞬間、イオリの胸がドクッドクンと跳ねた。



「こんにちは、桐生さん」



「さあ、一緒に行こうか」



淡い緊張のなか、二人は改札を抜けて、遊園地の敷地に足を踏み入れた。



そのすぐ近くでは、マコ、ナギサ、アヤネ、ン子、キリコ、ナナミが、ちょっと離れた並木道の影から、スマホで撮影体勢を整えて見ていた。



「向こう見えてる?」



「見えた、二人ともめっちゃ恥ずかしそう」



「ジェットコースター来たら最高画角だよね」



「バレんなよ〜〜」



白昼の遊園地。人の波、歓声、風船、綿あめ、メリーゴーラウンドの鈴の音。

すべてが、恋の高揚を包み込む背景となっていた。




桐生はメリーゴーラウンドのチケットを買い、イオリと一緒に乗る提案をした。



「これ、好き?」



「うん、なんか童心に戻る感じが好き」



その言葉を聞いて、桐生は少し笑った。



回る馬の列に並び、ゆるやかに乗って座る。

周囲は子どもやカップル。

だが、二人だけ、世界が少し隔てられたような気持ちになる。



木馬にまたがり、ゆるやかに回る。

風が頬をなで、かすかな笑い声が周囲から漏れる。



「気持ちいいね」



「うん、なんか……安心する」



そんな時間が、ほんのすこし永遠のように思えた。



乗り終えて二人が降りたとき、桐生が綿あめを買ってくれた。

大きなふわふわしたピンク色。

イオリは恥ずかしそうに、桐生から綿あめを受け取る。



「ありがとう」



「いいよ。好きな味は?」



「……いちご」



「じゃあ、いちご味で」



ふたりで綿あめを少しずつ食べながら歩く。

そのとき、背後を影から、観察メンバーのスマホが揺れていた。



ン子が画面をそっと見せる。



「今、シャッターチャンスだった」



「ダメ、絶対目合うから」



ナギサがハラハラしてスマホを下げる。



遊園地の定番、ジェットコースターの入り口に二人が立つ。

イオリは心臓を手で押さえていた。



「……大丈夫?」



桐生が優しく聞く。



「う、うん……ちょっと怖いけど、乗りたい」



「じゃあ、隣にいるよ」



二人乗りの座席に向かい、シートベルトを締める。



「手……つなぐ?」



桐生はさりげなく手を差し出した。



イオリは少し迷ってから、その手をそっと握る。



ゴォォォ……という轟音とともに列車はスタート。

坂を駆け上がると、一気に落ちる。

風が髪を揺らし、心臓が口から飛び出そうなほど鼓動する。



イオリは目を瞑ってしまい、手にぎゅっと握る。



後ろから、観察部隊の数人がこっそり位置を変え、カメラを向けようとする。



「今だ!シャッター!」



しかし、その瞬間、桐生がイオリを抱き寄せるようにしていたので、視界が互いに覆いかぶさってしまい、観察メンバーは撮れなかった。



列車が減速し、静かになる。

イオリは息を整えて、振り返る。

桐生も、少し額に汗をにじませながら、でも笑っていた。



「楽しかった?」



「……うん、めっちゃ怖かったけど、楽しかった」



その声に、桐生が頬を緩めた。



観察隊も、遠くからホッとため息をついた。



「バレなくてよかった……」



「でも、めっちゃいい顔してた」



「証拠、残したい」



ン子がつぶやく。




次はランチをしよう、ということで、遊園地内のレストランへ。

中は半屋外タイプで、屋根とガラス壁に囲まれた開放感のある席があった。



桐生とイオリは、窓側の席を選び、日差しが柔らかく降り注ぐ場所に座る。

メニューを見ながら談笑する二人。



「パスタにする?それともハンバーグ?」



「うーん、パスタかな」



「じゃあ、僕はハンバーグ」



二人で料理を注文し、少し距離を空けて、観察部隊も別席を確保。



だが、ナナミがうっかり通路でつまずきそうになり、食器を持ったトレイが揺れた。



「きゃっ」



ナナミは慌ててひっかけた腕を戻すが、その瞬間、イオリと桐生の視線が通路側へ向いた。



「……あれ?」



イオリが小さく呟いた。

桐生も顔を少し上げた。

だが、ン子がすかさずスマホを遮光して、顔が映らないように体を覆い隠した。



「誰か通った?」



桐生が聞く。



「たぶん……風?」



イオリは小声で笑い飛ばしたが、鼓動は少し早かった。



料理が来て、二人は少し照れながら食べる。

でも、話は尽きない。

過去の話、好きな本、将来の夢。

イオリが、本を読むことが好きだと話すと、桐生が目を輝かせた。



「文学好きなんだ。いいな、僕も好きだよ、小説とか詩とか」



「ほんと?じゃあ、今度一緒に本屋行こ」



「行こう。君の好きなやつ、教えてほしい」



ランチの終盤、デザートにアイスクリームが出て、二人で一口ずつ食べ合う。

その甘さと、隣にいる距離が、少しずつ“特別”を育てていく。



日が傾き始めた頃、二人は観覧車に向かう。

頂上からの夜景が見える時間帯。

列に並び、順番を待つ。



イオリは手をぎゅっと握りながら、心臓の音を自分に聞かせる。



ゴンドラに乗ると、ゆっくりと動き出す。

窓の向こうには夕暮れの遊園地と、街の灯り。

風がゴンドラを揺らし、静かな時間が流れる。



「きれい」



イオリが小さな声で言う。

桐生は窓の外を見て頷く。



「君と一緒に見たかった景色なんだ」



その言葉に、イオリは驚きの表情を浮かべた。



桐生がそっと手を伸ばし、ゴンドラの天井に手を当てながら、イオリの手を包むように握った。



「イオリさん、君を……本当に、大切にしたい」



「私、桐生さんのこと、好き……です」



イオリの声が震える。

桐生は穏やかに笑う。



「付き合ってくれて、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」



ゴンドラはゆっくりと頂上を越え、街の灯りが小さな星屑のように広がる。

二人は見つめ合い、唇はすこしだけ近づくが、まだ触れない。

それは、今の甘酸っぱさを崩したくないから。




観覧車を降りて、出口へ向かう。

周囲はだいぶ暗くなっていて、ライトアップがいいムードを作っていた。



「今日は、ありがとう」



桐生は少し照れくさそうに言う。



「こちらこそ。楽しかった」



二人で歩いていると、並木道の影の中に、小さな人影。

キリコ、マコ、ン子、ナギサ、アヤネ、ナナミの6人。

茶色の影から、思わず息を飲む。



「……あ!」



ナナミが声を上げかける。

だが、ン子がパッと手を上げて制す。



「ちょ、ちょっと、バレるから、黙って!」



彼女たちは慌てて影に隠れ、息を殺してその場を通り過ぎるのを待つ。

桐生とイオリが気づく。

桐生はそっとイオリの手を固く握る。

イオリはちらりと後ろを見るが、何も言わない。



「今の、誰かいた?」



「……多分、風」



イオリはそれだけ言って、頷いた。



帰り道の終盤、駅前で二人は別れる。

桐生は少し名残惜しそうに振り返る。

イオリは小さく笑って、手を振った。



「おやすみ、桐生さん」



「おやすみ、イオリさん」



駅の改札で、人波に消えていく。

その背中を、こっそり隊は影から見届けていた。




その夜。

イオリは自分の部屋の明かりを落とし、手帳を開く。



今日、ずっと夢みたいだった。

桐生さんと、遊園地、いろいろ乗った。

告白してもらえた。付き合おうって言われた。

手が震えてたけど、うれしかった。



でも、遊園地にもこっそり隊がいたみたいで、ばれそうになった瞬間もあった。

あの人たち、私のことすごい気にしてくれてるんだな……って思った。



これから、どうなるんだろう。

でも、桐生さんとなら、きっと楽しい。

いっぱい、思い出作りたい。

そう思った。



ペンを置くと、部屋に静かな夜が戻る。

窓の外には、星がちらりと光っていた。




朝。



シャッターが上がり、扉が開くと、いつもどおりの匂いと光が差し込む。

看板娘たちは、それぞれのポジションにつく。



だが、店内には小さな違いがあった。



イオリは、目を伏せて制服のリボンを直す。



ナナミは何か言いたげに、気配をチラチラ送るが、口をつぐむ。



マコは、いつもより早めに仕込みを始めつつ、そっとイオリの動きを見張っていた。



キリコはカウンターでさっと手を拭きながら、鋭い視線で店内を見渡す。



ン子はスマホを時折見るふりをしながら、影で情報を探っていた。



ナギサはぼんやりとしていて、一見平常だが、目の奥には静かな緊張が宿る。



アヤネはレジ横で黙ってメニューを整えながら、そっと息をつく。



「おはようございます」




ナナミの声で、一瞬の沈黙が破れる。

客席には常連客がちらほら。数日前のフェスの話で賑わっている。



だが、イオリはぎこちなく笑う。



「おはようございます……」



その声に、小さなざわめきが響く。



ナギサが小さくつぶやく。



「どうしたんだろ、今日の雰囲気」



午前営業が始まる。

注文を受け、コーヒーを淹れ、ケーキを提供する。

だが、いつもと違うのは、イオリの顔がときどき上気していること。

バックヤードに一瞬退いては、深呼吸してまたフロアに立つ。



あるとき、店の外の窓際席に、桐生の姿を見かける。

彼が来るとは聞いていなかったから、イオリは胸が跳ねる。

彼がこちらを見て、手を軽く挙げた気がしたが、イオリは目を逸らす。



その視線を、ン子がちらりと確認して、スマホを手に構える。

だが、シャッター音は鳴らさない。



「今はまだ、撮らない」



ン子はつぶやいた。



ナナミが、ティーセットを運びながら、コソリとイオリに小声で言った。



「大丈夫?変な汗かいてるよ」



イオリは顔を赤らめて答える。



「うん……大丈夫」



だがその「大丈夫」が、かすかに震えていた。




午後。比較的客足が落ちて、看板娘たちは少し余裕ができた。

その時間帯を使って、みんなで作戦会議やら雑談やらをするのが常だった。



だが、その日は空気が違った。



マコが不意に声を荒げた。



「ねえ、ナギサ!さっき、桐生さんが店の前で目合ってたって本当?」



いきなりの問いに、ナギサはびくっとして、すぐ否定する。



「ちがうよ!そんなはずないじゃん!」



「じゃあ、じゃあイオリが見間違い?」



マコの声が少し強くなる。



そこへ、キリコが間に割って入る。



「うるさいよ、マコ。そんなことガヤガヤ言うもんじゃない」



「でも…でも…」



マコは口ごもる。



イオリは顔を伏せ、カップをそっと置く。

その沈黙が、空気を重くする。



ン子がすかさず、冗談ぽく言った。



「お、お姉さま方、昼下がりの恋の話は禁止令出ますか?」



その一言で、空気がふっと和む。だが、わだかまりは残る。



ナナミがそっと、イオリの後ろに近づき、ささやいた。



「気にすんな。あたしらが味方だし」



イオリは小さく頷いたが、目が潤んでいた。




夕方。店の営業も終盤に差し掛かるころ、扉が静かに開いた。

白夜が、ひとりで入ってきた。黒を基調とした衣装。彼女の雰囲気は冷ややかでミステリアス。



看板娘たちは緊張し、客もざわつき始めた。



白夜は静かにカウンターに歩み寄り、桐生と似た名刺を提示した。



「今日は桐生さんが外せない用事があると伺いましたので、代わりにご挨拶に参りました」



その声は低く、落ち着いている。



イオリは胸がきゅっとなる。

横にいたキリコが、すっと背筋を伸ばす。



白夜は店内を一瞥し、少し呻いたような微笑を浮かべた。



「いい店ですね。看板娘さんたち、人柄が伝わってきます。今日はお邪魔しました」



そう言い残すと、白夜は名刺をそっと置いて、スッとドアを出ていった。



その背中を、気配を消すように、看板娘たちは見送った。

空気が、ほんの少し冷えた気がした。




営業を終えて、看板娘たちはバックヤードに集まった。

疲労と余韻が混ざる中、イオリはそっと席に着く。



キリコがそばに寄り、カップを差し出した。



「これ、温かいお茶ね」



「ありがとう」



イオリは震える手で受け取る。



キリコは少し黙ってから口を開く。



「イオリ、頑張ってるね」



「え?」



「恋って、うまくいくことばかりじゃない。でも、君が笑っててくれるなら、私はそれでいい」



その言葉は、冷静なようで、優しい刃のようだった。



「キリコさん……ありがとう」



イオリの目に、涙がすうっと滲む。



だが、すぐにこらえて微笑む。



「明日、普通に笑顔で店に出よう」



「うん、そうしよう」



その夜、看板娘たちは静かに眠りについた。

心の奥では、恋が浸透し、波紋を描いていた。




その日はしとしと降る雨のせいで客足がまばらだった。



店内にはジャズピアノのゆるいメロディーが流れ、看板娘たちはそれぞれ、余った時間で本を読んだり、シフト表を直したり、休憩をとっていた。



カウンター席で、ナナミはレジ横のメモ用紙に何かを書いていた。



「……キリコ、ナナミ、タマエ、マコ、アヤネ、リカ、ナギサ、イオリ……」



小声で名前を読み上げ、アルファベットの頭文字を並べる。



K(キリコ)

N(ナナミ)

T(タマエ)

M(マコ)

A(アヤネ)

R(リカ)

N(ナギサ)

I(イオリ)



「うーん……KNTMARNI?ん?」



ナナミは眉をひそめた。



「これさ……順番的にも足りないよね? KINTAMANIって、Iが2つでしょ? てことは……イオリ、だけじゃ足りなくない?」



そのつぶやきに気づいたのは、そばにいたアヤネだった。

彼女は本のページをめくりかけて止めた。



「……あれ? 確かに。KINTAMANI、って8文字じゃない。わたしたち、8人いるのに……アルファベット、9文字必要?」



「でしょ!? ってことは、これって……」



その瞬間、空気がピリリと変わった。

背後からキリコの低い声が飛ぶ。



「ナナミ。あんまり深入りするな」



「え?」



「その話題、前にも一度……話題になったんだけど。結局、なんとなくスルーになったの」



「なんで?」



「理由は……あまり深く考えない方がいいって、マスターが言ってた」



ナナミは唇を噛む。アヤネも本を閉じた。



そのとき。



「なんの話?」



イオリがちょこんと顔を出した。



ナナミは慌てて紙を裏返す。



「ううん、なんでもないよ! 新しいTシャツの話!」



イオリは首をかしげながらも、にこっと微笑んだ。



「そうですか〜。あ、今アイスラテ作ってきますね!」



足音が遠ざかる。



ナナミは小声でキリコに聞いた。



「……イオリ、関係あるの?」



「さあ。でも、あの子が『唯一のI』なのは確か」



「じゃあ……もう一人、Iがいたの?」



「……それは、今のメンバーじゃない」



キリコの目が、一瞬だけ陰を宿した。




その夜、ナナミはマコと祐介をこっそり誘い、店の在庫帳を調べていた。



「ねぇ、昔のシフト表とか残ってないの?」



「探してみるけど、マスターにバレたら怒られんぞ?」



マコがしぶしぶ古いファイルを開く。紙の焼けたような匂いとともに、数年前の記録が現れる。



「……これ、創業当時の?」



「うん。最初は3人くらいでやってたんだって」



だが、半年目あたりのシフト表に、こんな名前が記されていた。



イチカ→I




他の名前はすべて整然と記載されているのに、イチカだけは線で無造作に消されていた。



「……消されてる」

「てことは……“消した誰か”がいるってこと」



マコの口元がピクリと動く。



「でも、うちら誰も会ったことない。キリコさんも?」

「……あの子は、わたしが来るより前に、もういなかった」



そして、ファイルの奥に挟まれていた小さなメモ帳には、こんな文字が走り書きされていた。



“また、どこかで。イチカより。”



3.誰も知らない、でも確かにいた子



その夜、イオリがぽつりとこぼす。



「……Iがふたつあるの、やっぱり気になります」

「誰か、いたんですよね……でも、なんで名前も顔も誰も知らないんですか?」



誰も、答えられなかった。



そしてキリコは、またひとり、裏倉庫の段ボールを開ける。



そこにあったのは、一通の手紙。



宛名は。



「To マスターへ」

差出人:イチカ



彼女はまだ、『ほっと一息』のどこかに、何かを残している気がした。




マスターが戻ってきたのは、雨がやんだ翌朝だった。



朝の仕込みをしていたキリコは、無言で一通の封筒を差し出した。

中には、あの手紙。差出人はイチカ。



マスターはしばらく黙っていたが、ふぅ……と深く息を吐いた。



「……あの子の名前、まだどこかに残ってたんだな」



キリコは言った。



「もう……話してもいいと思います」



マスターは頷き、カウンターの椅子に腰掛ける。



「イチカは、この店を一緒に始めた初期メンバーだった。一番最初の看板娘だよ。オープン前から店を掃除して、メニューも考えて、制服のデザインも一緒に決めた」



「……じゃあ、相当大事な存在だったんですね」



「ああ。でもな……ある日、突然いなくなった。何も言わずに、だ」



キリコは目を伏せる。

イチカという名前は、ほかの誰の記憶にもない。

マスターがずっと一人で抱えていた、空白の一文字。



「俺はね、しばらくは怒ってたよ。置いていかれたような気がしてな。でも、あの子がいなかったら、この店は生まれてなかったんだ。だから消せなかった。名前を……記憶を」



彼はカウンターの端を指でなぞる。



「そこに、イチカはいつも座ってた。開店前、ここに座って、自分で焼いたクッキーを俺に食わせてきたんだ。『試食係だから!』ってな」



キリコは、笑いそうで、でも少しだけ目を赤くした。



「それ、イオリちゃんとそっくりですね」



「だろう?だからなのかもしれん。俺、イオリを初めて見たとき……一瞬、時間が巻き戻ったような気がした。違う子なんだって、わかっててもな」




その夜。マスターは、看板娘たちを一人ずつ呼び出した。



リカ、ナギサ、アヤネ、タマエ、マコ、ナナミ、キリコ、そしてイオリ。



みんなに、イチカの話をした。



「そのKINTAMANIのIは、あの子がいたから成り立ったんだ。イオリ、お前のせいじゃない。むしろ、お前が来てくれて……この店は、また前に進めた」



イオリは目を潤ませながら、小さく言った。



「……わたし、Iがふたつあるのが不安だった。この名前のせいで笑われて、からかわれて、バカにされることもあるのに、なんで……って。でも、もう一人のIがいたって聞いて、ちょっと……うれしかったです。わたし、一人じゃなかったんだって」



ナギサがそっと手を握る。



「イオリちゃん、イチカちゃんの分も輝いてるから、大丈夫」



マコが口元をにやりと曲げた。



「てか、ふたり分の可愛さでファン増えてんだから、十分罪深いよね〜」



イオリはふにゃっと笑って、みんなと目を合わせた。



マスターは、壁に飾られたポスターを見上げながら言った。



「KINTAMANI……ちょっとふざけた、でも奇跡の言葉。それを作ってくれたのは、今ここにいるお前たちと、いなくなったイチカなんだ」




閉店後。



マスターは、一人でカウンターを拭いていた。

ふと、ふらりと誰かが入ってきた気配がした。



見上げると、誰もいない。



……だが、カウンターの端に、一枚の紙が置いてある。



そこには、少し癖のある文字でこう書かれていた。



「クッキー、また焼きました。試食してね」



イチカ。



その瞬間、マスターは微笑んだ。

静かに紙を折りたたみ、ポケットにしまう。



「……やっぱり、お前はここにいたんだな」