商店街の中ほど、レンガ造りの外壁にツタが絡んだ喫茶店がある。



木製の扉には真鍮の取っ手、頭上にはひさしと、ぶら下がる風鈴。



秋の風にチリンと鳴るその音は、やたらと心地よく、日々疲れ切った社会人たちを吸い寄せていた。



店の名前は『ほっと一息』



名前通り、店内に一歩踏み込んだだけで、ふっと肩の力が抜けるような空気が流れている。



木のぬくもりが残る家具。ほんのり香るコーヒーと焼き菓子の匂い。ジャズでもクラシックでもない、どこか懐かしい、テレビドラマのBGMみたいな音楽。



だが、この店が地元で「奇跡の癒やし空間」とまで言われる理由は、インテリアでも空調でもコーヒーの味でもない。

そう、看板娘たちの存在である。



現在、『ほっと一息』には8人の看板娘がいる。

年齢は18歳から28歳。全員女性で、全員正社員(ただしシフトはめちゃくちゃ自由)。

常連たちは「メイドカフェじゃないのに、なぜか推しができてしまう」と口を揃えて言う。



その日もまた、いつものように奇跡は始まっていた。




「いらっしゃいませ〜、カウンターどうぞっ」



声の主はナナミ。明るく元気な21歳、黒髪ポニーテールの現役大学生。教育学部に通っているが、「子どもより大人の方が手がかかる」と最近気づきはじめている。



入ってきたのは常連の翔太。地元の配送会社に勤める23歳。スーツは着ないが、仕事帰りのTシャツにはいつも汗と油と、若さがつまっている。



「ナナミちゃん、今日も元気〜?俺、アイスブレンドね」



「了解っす……キリコさーん、アイスブレンド入りまーす!」



「はいよ」



返事をしたのはキリコ。25歳。メイクばっちりで目つきは鋭く、初見には絶対近寄りがたい。だが常連からの信頼は厚く、愛想のない接客すら「それがイイ」と評判。



なお、怖い人ではない。割と涙もろい。



翔太はカウンターに座ると、となりにいた祐介(高校の同級生)に小声で囁いた。



「なあ祐介、お前……気づいてた?」



「なにが?」



「ここの看板娘たちの名前さ……頭文字並べてみ?」



「……は?」



「俺、昨日ふと思ってスマホのメモに打ち込んでたんだけど」



翔太はおもむろにスマホを取り出し、祐介に画面を見せた。



キリコ(K)

ナナミ(N)

タマエ(T)

マコ(M)

アヤネ(A)

リカ(R)

ナギサ(N)

イオリ(I)



頭文字 → KINTAMANI




祐介は3秒ほど無言のあと……吹いた。



「お前……wwwキンタマーニってwww」



翔太はニヤニヤと自慢げに頷いた。



「しかもな、キンタマーニって実在する地名らしいんだよ。バリ島の方にあって、観光地にもなってるんだと」



「うっそだろwww」



「マジマジ、ググってみ」



そのとき、たまたまカウンターの中を歩いていたマスター(50代男性、無駄にイケオジ風)が、彼らの会話を耳にした。



「……ん?キンタマ……なに?」



翔太は得意げに言った。



「マスター、気づいてなかった?この店の娘たちの名前、頭文字並べると〜、キンタマーニになるんすよ!www」



「ブフォォオッ!!」



噴き出したコーヒーは、奇跡的にミルクピッチャーをかすめ、カウンターの真ん中に舞い上がった。

常連が一斉に振り向き、店内は爆笑の渦。



「えっ、キンタ……?」



「なにそれウケる」



「ってかそれって、わたしたちのこと……?」



声の主は、今日も天使スマイルのイオリ。恥ずかしがり屋の18歳。まだ高校を卒業したばかりで、敬語が抜けない。



「え、ちょ……イオリ泣かないで!?」

ナナミがすぐさま駆け寄る。



「キンタマーニって……へんな意味なんですか……?」



「いや、ちが、地名だって地名!バリ島に実在する!」



「逆におしゃれじゃね?」



そう言ったのはマコ。金髪ショートカットの25歳、見た目ギャルだけどめちゃくちゃ料理がうまい。元ヤン説が濃厚。



「え、それさ、Tシャツとか作ったら面白くない?」



「看板娘全員分の名前入り?映える!」



「SNSでバズれるかも……!」



気づけば、あの忌まわしい(?)名前は、店の空気を奇跡的に活気づけていた。



そしてこの瞬間が、

キンタマーニカフェ伝説の始まりだった。




閉店後、キリコが渋い顔で言った。



「……ねぇ。どう思う、これ」



店の奥、休憩スペース。制服姿の看板娘8人が揃っていた。



店の顔たちが並ぶと、なんだかアイドルグループのようでもある。

いや、実際、常連の中には勝手に推しランキングを作っている者もいる。



「まあ、キンタマはちょっとアレだけど……マーニは可愛い」



「意味の半分に救いを求めるな」



「てか、逆に覚えてもらえるって意味では最強じゃない?」



「マスター、どうする気なんですか?」



マスターは苦笑いしながら、コーヒーをすすった。



「まあ……話題にはなったしな。Tシャツ作るくらいなら、ノリでやってもいいかなって」



「……ほんとにやるんですか」



キリコがやや呆れ顔で言うと、アヤネ(インドア派の文学少女)が珍しく口を開いた。



「わたし、ああいうの嫌いじゃないです。変な名前だけど……なんか、忘れられない感じで」



「忘れられない……って、アヤネがそんな前向き発言するとか珍し」



「やかましいです。あと、ナギサさん、ストローかじらないでください」



「反射で……ごめん」



マイペースなナギサ(元保育士・甘えんぼ属性)がストローを口から外すと、会議は自然と笑いに包まれた。



こうして、店は一歩ずつ、キンタマーニの呪い(?)と共に歩き始めた。



だがこの名前が、看板娘たちの過去や絆、そして未来までも揺さぶっていくとは、このとき誰も知る由もなかった。




翌朝。



ナナミがいつものように店のシャッターを開けようとして、スマホを見て固まった。



「ちょ……なにこれ……」



Twitterを開いた彼女の画面には、キンタマーニカフェというワードがトレンド入りしている様子が表示されていた。

関連投稿は既に一万件を超えている。



しかも。



「近所にキンタマーニって名前のカフェあるってマジ?」

「バリ島じゃなくて草」

「でも見て。店内めっちゃおしゃれ」

「看板娘の名前でできてるって、どういうこと……」

「逆に行きたい」



その下には、昨日祐介が投稿した写真がバズっていた。



【やばい発見】

この喫茶店の看板娘たちの頭文字、並べたら「キンタマーニ」になった件www

#ほっと一息 #看板娘 #キンタマーニカフェ



いいね 13.8万

リポスト 6.2万




「終わった……」



ナナミはその場で膝をついた。



そこへ出勤してきたキリコが、コーヒー片手に一言。



「……バズってるな」



「見ました!?これ絶対ヤバいやつですよ!」



「うん。たぶん、変な人たちがいっぱい来る」



「笑えないですってば!!わたし、履歴書にキンタマーニって残るの嫌です!」




一方、マスターはと言えば。



「見た?トレンド入りしちゃったよ~!」



と、なぜかウキウキでTシャツのデザイン案を描いていた。



「どうこれ。背中にTeam KINTAMANIって書いて、下に人の名前と小さなコーヒーカップのマーク。かわいくない?」



「マスター、センス古いです……」



「でも、ほら!推しTシャツってやつだろ?」



マコがスマホを見ながら笑った。



「マジで『キンタマーニの誰推し?』ってタグできてんじゃん」



ナギサがポツリとつぶやく。



「……キンタマーニ推しって、語感バグってるね」



アヤネはすでに検索結果をチェックしていて、小さくため息をついた。



「……ああ、また勝手に最下位決定戦始まってる。わたし、地味だから不利……」



「いいじゃん地味キャラって、安定の需要あるってば」



と慰めたのはリカ(姉御肌系・元ギャル風)。

その横で、イオリは目を丸くしていた。



「……わ、わたし、推されてる?守ってあげたい系女子って書いてある……えっ、これほんとに?ほんとに?」



ナナミは顔を覆っていた。



「……わたし、教師になりたいのに……キンタマーニのセンター希望とか言われてる……」



こうして店は、本人たちの意志とは関係なく推し活戦争に突入した。




そして数日後。

Tシャツ・アクリルスタンド・マグカップ……そして謎の「キンタマブレンド(期間限定)」が、現実になっていた。



この手の展開に最もノリ気だったのはマコ。



「店内BGMも、全員のキャラソング作って流すとかどう?」



「いつの間にアイドル企画に……!」



キリコは呆れたように言いながらも、少しだけ口元が緩んでいた。



「でもまあ……楽しいって思うなら、やってもいいか」




そして、店内には貼り紙が一枚。



KINTAMANI推しアンケート、実施中!

あなたの推し娘に1票を。

結果は月末に発表!特典あり!




それは、8人の看板娘にとっての運命を大きく動かすイベントの幕開けだった。




さて、その夜。



店の裏手、夜風が通る喫煙スペースで、キリコは一人、煙草を吸っていた。

彼女は元々、芸能系の裏方をしていたが、ある事情で辞めた。

今はこの喫茶店で、穏やかな日常を守るように働いている。



そこに現れたのは祐介だった。



「……キリコさん、一服中すか?」



「ん。あんたも?」



「俺、吸わないけど……なんか、話したくて」



キリコは、ちょっとだけ驚いた表情を見せた。



「珍しいね。どうしたの」



「いや、なんかさ……最近、すげぇ人気になってるじゃん、キリコさん。SNSでもクールビューティー枠とか言われてて……」



「へぇ。なんか笑えるね」



「でも俺、知ってんすよ」



「何を?」



「キリコさん、裏でこっそりイオリちゃんの手直ししてたり、ナギサさんが眠そうな時に仕事代わってたり。たまに猫の動画見てにやけてるのも」



キリコは黙ったまま、ゆっくりと煙を吐いた。



「……見てたの?」



「うん。だから、なんか俺……俺だけが知ってるキリコさんがいて、ちょっと……ズルいなって」



その言葉に、キリコの目が一瞬だけ泳いだ。



「……ふーん。あんた、案外ストレートね」



「キリコさんは、案外素直じゃないっすよ」



ふと、風が通り抜けた。



二人の間に沈黙が流れる。

でもそれは、心地よい沈黙だった。



これはきっと、始まり。



まだ確信じゃない。けれど、

このキンタマーニ旋風の中で、何かが芽生えていた……。




「……というわけで、アンケート中間発表、やります」



ナナミの声が、店内に響いたのは、いつもの夕方。



そろそろラストオーダーの時刻というのに、今日は客のほとんどが帰らない。

なぜなら。



「ついに来たか、中間発表」



「俺のキリコがどこまで食い込んでるか……」



「地味かわのアヤネちゃん、ここで伸びると信じてる」



そんな声が、テーブル席やカウンターでささやかれていたからだ。



喫茶『ほっと一息』改めキンタマーニカフェは、今や推し活界隈の異端として、都内のオタク層にも知られつつある存在だった。

Twitterのハッシュタグ【#キンタマーニの誰推し】は、日に何百件も投稿されており、中にはプロ顔負けのファンアートまで飛び出している。



誰がセンターか。

誰が最下位か。

そして、自分の推しはどうなのか。



客も、看板娘たちも、なぜか全員が他人事じゃない空気の中にいた。



店内・簡易ステージ



ナナミが店内中央の小さな台の上で、手作りのホワイトボードを掲げた。



「それでは、現在集計された【KINTAMANI 推しアンケート】、中間順位を発表します!」



客たちがざわつき、スマホを構える。

そして、ナナミは手書きの文字をめくっていく。



第8位



ン子(桜井ン子)



「うわ、いきなり私かい!!」



爆笑が起きた。



桜井ン子は、店でもっとも特殊なポジションにいる女。

名前の頭文字がンで、本人はんこちゃんと呼ばれることに何の抵抗もない。

ただし、気は強くない。めっちゃ繊細。



「いや、これはさすがに……インパクト枠として得票多いと思ったのに……」



「いやでも、8位がンって語呂的においしくない?」



「逆に一番覚えられるよ!」



「そういう慰め方やめて!逆に泣けるから!」



第7位



リカ



「あー、やっぱ下の方か……」



リカは、元ギャルで姉御肌、ちょっと男っぽいノリが売りの最年長。

料理の腕は本物で、常連の胃袋を掴んで離さない。が、それは推しとはまた別のベクトル。



「ま、年齢順ってやつ?わかってたけど、言われると刺さるね〜」



キリコがぼそっと漏らす。



「いや……あなたと私、年齢1コしか違わないんだけど」



第6位



アヤネ



「……あ、やっぱり」



インドア文学少女のアヤネは、静かに本を読みながら、結果発表を聞いていた。



「いや、アヤネちゃんもっと上かと思ったわ」



「癒やされるのにな〜」



「地味枠って票割れるんよな……」



「いてくれるだけでいいって言われるのが、一番不安になるんですよね……」



ぽつりとつぶやいて、本に目線を戻すアヤネ。

誰にも聞こえないようでいて、しっかりマスターが聞いていた。



第5位



ナギサ



「ふふ、まあまあじゃん?」



ナギサは元保育士、ゆるふわ系で、いつも眠そう。

実際、今日もストローをかじりながら発表を聞いている。



「なぎちゃん、安定してる〜」



「甘えんぼ系女子、もっと伸びていいでしょ!」



「……でも、ほんとは3位以内に入りたかった」



「なっ、意外と欲あるな!?」



第4位



マコ



「ちょ、マジ!?なんでよ!」



マコは、金髪ショートのギャル枠。意外にも手先が器用で、料理とDIY担当。



「私の料理してるギャル姿バズったのに!?この位置!?」



「逆に言うと、ギャップが強すぎてギャル属性が薄れた説ある」



「うっわ、分析キモい。合ってるのが余計に腹立つ」



第3位



キリコ



「……あ、意外」



クールビューティー担当のキリコは、真顔でコーヒーを注ぎながらその報を受け取った。

が、内心では少し驚いていた。



「絶対1位だと思ってた……」



「てか俺、1位キリコで確信してた」



「いやいや、落ち着けみんな。まだ総合発表じゃないぞ!」



マスターが小声で笑った。



「そりゃな……今まで何かと、目立つことは避けてきたからな」



彼女が過去に芸能の裏方をやってたことを、マスターだけは知っていた。



第2位



ナナミ



「えっ!?」



驚いたのは本人だった。



「わたし、1位じゃないの!?」



「いや十分すごいって!」



「ナナミちゃんはさ、もう顔だから。ほっと一息の」



「センター力が高すぎて推されてるっていうより当然そこにいる感じなんだよな〜」



「うっわ、わたし空気化してる説ある!?」



第1位



イオリ



「えっ……うそ、わたし!?」



拍手と歓声と、どよめき。

18歳、最年少。ちょっと泣き虫。敬語が抜けない。

「守ってあげたい系」の純度100%。



「イオリちゃん、今まさに伸びてる枠だよね」



「一番票を集められる雰囲気ある」



「いやこれは完全に箱推しの象徴!」



イオリは小さく震えながら、絞り出すように言った。



「……みなさん、ありがとうございます。わたし、がんばります……!」



(かわいい)



(あざとくないのに、かわいい)



(勝てる気がしねえ)



その夜。



閉店後の店内。

キリコは、ポスターの貼り出しを眺めながら、独り言のように言った。



「……名前、なんて、どうでもいいと思ってたんだけどな」



「キリコでいることが、誰かに届いてるんだなって思ったら……」



「ちょっとだけ、やってよかったって思えた」



隣で掃除機をかけていた希美が、それを聞いて、ふと口を開く。



「……わたし、最終結果は出なくていいって思ってた」



「名前が晒されるだけの気がしてて……でも、今日見てて、ちょっと違うなって思った」



「名前じゃなくて、意味がそこにある感じ」



「キンタマーニって、変な名前だけど……わたしたちにしかできない名前だなって」



キリコが少しだけ、笑った。



「センター、任せたよ。Kの人」



「や、マジ勘弁してください……」




月曜の朝。

看板娘たちは、いつものようにそれぞれの時間に、ふらりと店に現れた。



ナナミは小走りで登場、トースト片手に口いっぱい。

イオリは制服を着て、緊張気味にドアを開ける。

マコは駅前のコンビニ袋を提げ、まかないの材料を携えて。

リカはサングラス姿で、自転車を押して店の脇に停めていた。



彼女たちにとって、キンタマーニと呼ばれることも、もう完全に日常になりつつあった。



ただし……。

それぞれの胸の奥では、あのランキング発表の余韻が、波のように引いては寄せていた。



「……わたしが、1位でよかったんでしょうか」



その日、店のトイレ掃除を終えたあと、イオリはナギサにそっと訊ねた。



「いいんじゃない?だって、みんながそう思ったんだし」



「でも……守ってあげたい系って、ずっとそうでいなきゃいけないみたいで、ちょっと、こわいです」



ナギサは笑って、そっと肩を抱いた。



「だいじょぶ。そうじゃなくなってもイオリちゃんはイオリちゃんだよ」



そう言っているナギサ自身、少し眠そうな目の奥に、私はこのままでいいのかという迷いを、抱えていたことは、誰にも気づかれていない。



「ねえ、リカ姉。わたし達、正直、下位争いって感じだったじゃん?」



「うるせーな。順位なんて気にしてねーし。味で勝負だっつの」



「うん、でもさ……それでいいのかな、って思っちゃった」



マコは、厨房で手作りプリンの皿を並べながら、言った。



「見た目とか、インパクトとか、そういうのだけじゃなくてさ。推すって、ほんとはもっと……中身を見てくれるものなんじゃないの?って」



「……中身な。あたしの中身なんて、ギャルの残骸と、夜中に観てる釣り動画くらいだわ」



「それ、ギャップとしては最高では?」



二人は、顔を見合わせて笑った。



「まあ……推されなくても、残るもんはあるって、信じてるよ」



「わかる〜。推されるのもいいけど、忘れられないほうが、強くない?」




キリコは、日々ほぼ変わらずに店に立ち、変わらずにカプチーノの泡を調整していた。

客からの視線も言葉も、増えているのは自覚していた。



けれど、感情の表に出るものはなにもなかった。少なくとも、彼女の目には。



ただ一つ、変わったことがあるとすれば。



閉店後、彼女が一人で作る“まかない”の内容が、少しだけ、優しくなった。



たとえば、アヤネが苦手なパクチーは除かれていたし、ナナミが好きな揚げパンをこっそり多めに仕込んでいたし、イオリには、いつも冷たすぎない麦茶を。



「別に……気まぐれよ」



彼女は誰に言うでもなくつぶやいた。

だが、その気まぐれは、今日という日のなかで、確かに誰かを救っていた。



マスターは、例のごとくノリノリだった。

手書きのポスターはアップデートされ、紙吹雪(なぜか全部コーヒーフィルター)が天井にセットされていた。



「皆さん、おまたせしました!」



ナナミがステージ(ビールケースの上)に立ち、胸を張る。



「ついに……キンタマーニ推しアンケート、最終結果を発表しまーす!!」



客たちは拍手。カメラのシャッター音。

看板娘たちは、一人また一人とステージ脇に整列し、照れくさそうに笑った。



🔥最終ランキング🔥



1位:イオリ(感動的な1位継続)

2位:キリコ(怒涛の追い上げ)

3位:ナナミ(地元票と安定感)

4位:マコ(料理ギャルに共感多数)

5位:アヤネ(文芸オタク層の支援拡大)

6位:ナギサ(甘えんぼの限界)

7位:リカ(職人枠、固定ファン強し)

8位:ン子(なぜか海外票が入って逆に混乱)



「おめでとー!!」



ステージ上で花束を渡されたイオリは、両手で口を押さえた。



「……う、うれしいです……でも、わたし、ほんとに……ただの新人で……」



涙がこぼれそうになるのをこらえるように、深く頭を下げた。

客の中に、「泣かないでー!」と叫ぶ人までいた。



キリコが一歩前に出て、ぽつりと言った。



「この子は、誰よりも努力してたよ。見えないところで、自分が愛される意味を、ずっと探してた」



その言葉に、イオリが顔を上げた。

目が合った二人のあいだに、ほんの一瞬、まばたきほどの時間が流れた。



そしてナナミが勢いよく前に出る。



「さあ!そんなわけで、来月からは推し投票第2弾がスタートしまーす!!」



「え、続けんの!?」



「毎月やんの!?」



「うわ〜〜終わらねえ戦争が始まった〜〜〜!」



店内はまた笑いと拍手の渦。



ある夜、イオリの手帳より



《きょう、投票のけっかが出ました。》



《うれしかったけど、まだ自信はありません。でも、わたしでいいって言ってもらえるのが、こんなにあたたかいものだと、知りました。》



《もっとがんばります。でも、もっと笑えるようにもなりたいです。》



《だから、キンタマーニって名前、もうそんなにきらいじゃありません。》




最終結果発表から数日後。

『キンタマーニカフェ』では、告知のポスターが店中を覆っていた。



キンタマーニ1周年記念フェス開催!

日時:午後3時〜夜10時

場所:ほっと一息店内+商店街特設ステージ

内容:看板娘ライブ、コーヒー飲み放題、限定グッズ販売、推しトーク会、ミニライブ、コラボ企画多数

※入場券は店頭・オンラインで予約可!



その告知を見た客も、SNS界隈も、ざわめいていた。



「来月、カフェがライブ会場に?おいおいマジかよ」



「限定グッズ……また財布が飛ぶじゃねぇか」



「看板娘たち、歌うのか?」



「やばい、全員見に行きたいwww」



看板娘たち自身も、ソワソワしていた。



「うそ……ライブとか歌とか、私たちでやるの?」



「でも推し活だし、やるなら今しかないじゃん」



「なんか怖い……できる自信ない」



「でも、見返してやりたい」



それぞれが、自分の殻を少しずつ剥がす予感を持ちながら、準備を始めていた。



マスターはノリノリで、店の奥から古いPA機材やスポットライトを運び込ませている。



「推しトーク会用のステージも作るぞ。ちゃんとスポットあててやるからな」



「お願いです、それスポットだけは柔らかくして……」



と、ナギサが声をひそめる。




キリコ。



深夜、厨房。

キリコはライブのリハーサルで、音響機器の配置図をじっと見つめていた。



「……どうしよう、このスピーカー配置で声がこもったら」



彼女は細かいことが気になる性分である。

過去、裏方としてステージを支えた経験が、彼女の中に高い基準を植え付けていた。



が、その夜、アヤネがそっと近づいてきた。



「手伝いましょうか?細かいの、好きでしょ?」



「……あんた、夜の時間帯にいるって珍しいじゃん」



「ほら、推しのためだし」



アヤネの、その控えめな勇気が、少しだけキリコの肩を軽くした。



イオリ。



店の奥、鏡前。

イオリは、手にしたマイクをじっと見つめていた。



「わたし、歌……下手なんじゃないかな」



「声震えそう」



ナギサがそっと背後に立ち、肩をぽんと叩く。



「大丈夫、イオリちゃんなら、絶対伝わるよ」



「そうだよ。私も、あなたが歌うなら聞きたい!」



イオリはちらりとナギサを見て、頬を赤らめた。

この夜、彼女たちは誰かのために歌うという初めての挑戦を前にしていた。



その他メンバー



マコは限定スイーツ開発に没頭していて、夜な夜なキッチンで試作を繰り返していた。



「推しが手に取りたくなる一品を作る」



という命題のため。

甘さ、形、名前、パッケージ。すべて妥協なし。



ナナミは司会進行の練習をし、時折ステージで「みなさーん!」とか、明るく叫びながら、声出しをしていた。



(その声の響きが意外と、いい感じだとマスターは密かに思っていた)



アヤネは演目の台本を作り、朗読パートを割り振り、曲の選定をやっていた。

文学枠演出はアヤネの担当となった。



ナギサは装飾チームと連携して、風船、ライト、フォトスポットを考えていた。



彼女が提案した推しとのツーショットチェキ風フォトブースは、反響が大きくなる予感を呼んでいた。



ン子はグッズ係を担当。

Tシャツ、キーホルダー、缶バッジのデザインを夜中まで考え抜き、何案も手描きのラフスケッチを重ねていた。



それぞれが動き、緊張と興奮を抱きながら、夜が深まっていく。




午後2時。

商店街は既に通行人で賑わっていた。屋台風の出店も並び、風船が宙を舞う。

キンタマーニフェスの看板がアーチになってかけられている。



「こんな光景、見たことない」



「地方の小さな喫茶店が、まさかここまで」



「看板娘たち、どんな姿になるんだろう」



観客は続々と集まっていた。推しTシャツを着た客、推し名札を下げたカップル、ファンアートを手にした人々。



店の前には長蛇の列。SNS用の撮影スポットで記念撮影する人々。

まるで一つのお祭り空間となっていた。



店内。看板娘たちは、上着を脱ぎ、仕上げの身だしなみを整えている。

顔には緊張もよぎるが、どこか誇らしさもあった。



ナナミがマイクを握り、手を高く振った。



「みなさーん!ようこそ、キンタマーニフェスへ!!」



喝采と拍手が巻き起こる。

推し活ファン、地元民、通りすがり……さまざまな顔が、笑って、カメラを向け、拍手を送っている。




オープニングライブ:ナナミ & マコ



ナナミとマコがまず飛び出す。



ナナミの明るさとマコのエッジの効いたパフォーマンスが融合し、軽やかなポップソングを披露する。



観客が手拍子を送る。



マコのソロパートでは、照明が当たり、客席に推しの文字が映る。



朗読パート:アヤネ



アヤネがステージ前に立ち、一冊の詩集を手に取り、静かに話し始める。



「名前って、みんなが勝手に意味を重ねてくる。でも、それを乗り越えて、自分で意味をつけるのが、私たちの物語……」



彼女の声はか細いが、言葉がゆっくりと、確かに会場を包んだ。

観客の中に、涙をぬぐう人影もあった。



中盤企画:推しトーク&チェキコーナー



推しトーク会場には列ができ、ファンと看板娘たちが1対1で語り合う時間が設けられていた。



「どうして推したの?」



「好きなメニューは?」



「これからどうしたい?」



という問いが交わされ、笑いと感動が混じる時間。



チェキブースでは、推す娘と撮るツーショット写真。

ナギサが淡い光演出を考えており、写り込みが推し光みたいで映えまくりだった。



トリ:キリコ & イオリ デュエットライブ



ラストを飾るのは、キリコとイオリのデュエット。

選ばれた曲は、オリジナル曲。「キンタマーニの誓い」と題されたバラード。



照明が暗転し、スポットが二人に当たる。

ギターの伴奏とシンプルなピアノ。

歌い出したのは、キリコ。



彼女の声は、静かで澄んでいて、でも染み入る。

次第にイオリが入り、ハーモニーを重ねる。

歌詞は、問いかけるようなものだった。



「名前を超えて、あなたに届きたくて変な文字列でも、思いを込めて」



「誰かの言葉で揺れても、揺らめく影でいい」



「私という存在を、もう一度呼んでほしい」



歌が終わると、会場は静寂の中に包まれ、拍手が瞬時に崩れ落ちたように巻き起こった。

涙をぬぐうファン、見入る常連、胸を押さえる看板娘たち。




ライブ後。



楽屋に戻ると、疲労と安堵と緊張が入り混じった空気が漂っていた。

拍手の余韻が、衣装の隙間から漏れてくるような感覚。



ン子は、手で顔を覆っていた。



「もう……終わったのかな」



「いや、これからだよ、本番は。今の拍手は予告編」



 マコがそっとン子の肩を抱いた。



「次、伸びる人が変わるかもしれない。でも、それでいいじゃん」



キリコは、静かにマスターの方を見た。

マスターは目をきらりとさせながら、言った。



「よくやった。みんな、今日のステージ、絶対忘れんな」



その言葉に、キリコはそっとうなずいた。




フェス終了後の深夜。

商店街の電灯は順々に落とされ、風船や看板は残り香のように揺れていた。



看板娘たちは、店の前のベンチに並んで腰掛けていた。

疲労した表情の奥に、熱が残っていた。



イオリが静かに言った。



「今日、歌ってよかったです」



「ありがとう、イオリちゃん」



キリコがそっと隣に座る。



「私も……あなたと歌えてよかった」



「うん」



ナナミが空を仰ぎ、ふっと笑った。



「これ、明日から伝説の夜になっちゃうのかな」



「いや、明日からが本番でしょ」



マコが軽くビールケースを蹴って、声を張る。



「けどまあ、疲れた……誰か先に横になっていいよ?」



「んー、でも今、このまま時間止まってほしい」



というような無言の望みが、夜風に溶けていく。



ン子がそっと差し出した缶コーヒーを、アヤネが受け取り、回し飲みする。

笑い、目を細め、肩を並べる。

そのどれかは、確かな連帯感だった。



その夜、店は静かに眠った。

でも、キンタマーニの炎はまだ、消えてはいなかった。




その朝、店は静かだった。



商店街には、フェスの飾りがまだ一部残っている。風船の残骸、色褪せた貼り紙、立て看板の端に貼られた「SOLD OUT」のステッカー。



店のシャッターが上がる音が、通りに響く。



「……おはようございます」



ナナミは、少し眠そうな目をこすりながら、制服の襟を直す。



昨日の熱狂が嘘のような、肌寒い静けさ。

でも、こういう朝もまた日常だ。



店内に入り、椅子を並べ直していたところで、キリコが現れた。

髪はまだ濡れていて、乾かし途中のラフなまとめ髪。



「昨日の片づけ、あんた……一人でやったの?」



「いや、途中で祐介くんが来て手伝ってくれました。マスターは……寝てましたけど」



「マスター、案の定ね」



二人でテーブルを拭きながら、ふと視線が交差する。

言葉は交わさなくても、互いによくやったねという気持ちは、目の奥で伝わっていた。




開店してからしばらく、店にはぽつぽつと常連客が戻ってきた。

「昨日はすごかったなぁ」



と笑う人もいれば、



「人が多すぎて無理」



と苦笑する年配の常連も。



そんな中、ナギサは少し不機嫌だった。



「……あのさ、マスター」



「ん?」



「チェキブース、次からはもっと早く予約制にしようよ。昨日、変な人に絡まれて怖かったんだよ」



「え、そんなことあったの?」



「うん、でもあんまり言いたくない。けど……ちゃんと対策しないと」



その言葉に、マスターは少し黙った。



「あー、悪い……完全に俺の段取りミスだな」



ナギサは頷いたが、その目にはまだ納得しきれていない色があった。



それを見ていたマコが、思わず口を挟んだ。



「でもさ、そういうこと含めてイベントでしょ?あんたも、スタッフって自覚足りなかったんじゃない?」



ナギサが顔を上げた。



「……え、それって、私が悪いってこと?」



「違うよ。でも、疲れてるのはこっちも一緒だし、いつまでもピリピリしてるの、ちょっと空気悪くない?」



空気がぴしッ……と張った。



ナナミがすぐに間に割って入る。



「ちょ、ちょっと待って!マコさんもナギサさんも、別に責めてるわけじゃなくて!ね?言い方の問題だよ……」



イオリは不安げな目で、カウンターの奥からそっと様子をうかがっていた。



キリコは、遠くでバケツに水をくみながら、ため息をついた。



「……これが、日常か」



その呟きは、小さかった。




夕方前、少しだけ客足が落ち着いた頃。

アヤネはカウンターの端で、日報をつけていた。



その向かいに、ナギサが座る。



「……ごめん、さっきのこと。やっぱり、ちょっと言いすぎたかも」



アヤネはしばらく何も言わず、ペンを止めると、ページの端を折った。



「ううん。疲れてたの、分かるから」



「でもマコにも悪かったな。ああいう言い方、いつもじゃなかったし」



「うん。でも、マコさんは分かってると思うよ。あの人、言葉キツいときあるけど、裏に悪意ないの分かるし」



ナギサは、アヤネの横顔を見つめた。



「……あんた、ほんと冷静だよね」



「冷静じゃないよ。ただ、めんどくさいのが苦手なだけ」



ふたりの間に、コーヒーの香りだけが流れていた。




閉店後、厨房ではマコが片づけをしていた。

背中に疲労がにじむ。そのとき、背後からぬっと現れたのはリカ。



「ほれ」



差し出されたのは、冷えたスポーツドリンク。



「……え、なに」



「アンタ、たぶん今日の誰より動いてんだから、水分くらい取っとけっての」



「……ん。ありがと」



リカはにっと笑った。



「で、ナギサのこと、気にしてんでしょ」



「……まあ、ちょっと」



「そろそろあいつにも言ってやれよ。『また一緒にやろう』ってさ」



マコは、ほんの少し目を細めた。



「……あんた、昔から人の心だけは読めるよね」



リカは肩をすくめて、コンロの火を確かめる。



「職人はさ、言葉じゃなくて手でわかるの。アンタの手、今日、ずっと震えてたよ」




翌朝。



店に来たナギサは、入口でマコと鉢合わせる。



二人は、一瞬視線を交わし、そらす。

でも、マコの方が先に口を開いた。



「……昨日、ごめん」



「ううん。私の方こそ」



そして、ナギサがふっと笑った。



「ねえ、また……次、イベントあるなら、一緒に準備しよ」



マコも、笑った。



「もちろん。そのときは、また一番人気の座、私が奪うから」



「は?こっちだし」



いつも通りの空気が戻った気がする。



その日の店は、いつも通りの忙しさだった。



ナナミは明るくオーダーを取って、キリコは黙ってカウンターを回し、アヤネは日報に余白で詩を書き、イオリは焼き菓子を盛りつけながら、祐介からもらったファンレターをそっとポケットにしまった。



そしてマスターは……。



「次、春の企画どうする?」



と、もう次の戦を企んでいた。



小さな揺らぎ。けれど、それが日常。



フェスは終わった。

けれど、日々は続いていく。



すれ違い、喧嘩、仲直り、心の小さなさざ波。



それが、この店の、奇跡の空間を作っている。

看板娘たちは、それを今日も一歩ずつ、少しずつ育てているのだ。



だって、キンタマーニとは。

ただの地名じゃない。

彼女たちが作った、名前の物語なのだから。