ガンゾリグの即位から数日が経った。
「ありえない!」
 ジャンブールの第二妃グアマラルは、鮮やかな紅色の枕を掴み、寝床へと叩き付けた。
「ありえない! ありえない! ありえない!」
 バンバンと派手な音を立てるごとに、侍女たちは身を縮める。
 多くのサンサルロ皇后を輩出しているトゴス族出身のグアマラルは、現状の何もかもが気に食わなかった。家臣から最も信頼を集めていた第二王子ジャンブールが、王の座につかなかった。しかもそれはジャンブール本人の意志であり、彼自ら弟を推挙した上で家臣たちを説得して回ったのだという。
「ジャンブール様が王の座を固辞なさるなんて!」
 そしてグアマラル自身がジャンブールの第二妃であること、これもまた彼女を苛立たせていた。王の座に就いた者の第一妃になることで初めて、サンサルロの皇后となれるからだ。つまり現状では、例えジャンブールが王位に就いたとしても、そもそもグアマラルに皇后の椅子は回ってこない。第一妃の座にセオラがいる限りは。
「きっとあの小国の蛮族の女が、余計なことを言ったのよ!」
 真珠(ソウドゥ)のような歯をキリリと噛みしめ、グアマラルは美しい顔を歪める。
「家臣はジャンブール様を推していたのに! あの女が弟に譲るように吹き込んだんだわ!」
 草原の民は基本的に末子相続である。末っ子のガンゾリグが王座を継ぐのは最も自然流れであったが、グアマラルは納得できなかった。
 また彼女が納得しないもう一つの理由は、ガンゾリグの第一妃、つまり新たに皇后の座に就いたのが、自分と同じトゴス族の女であることであった。
 グアマラルは美人ぞろいと言われているトゴス族の中でも、とびぬけて美人である。容色に絶対の自信を持っていた彼女は、自分より見た目の劣る女が皇后の座に就くことが許せなかった。それが顔見知りの者であればこそ。
 要するに、我がままである。何かのはずみでジャンブールが王位を継ぎ、自らがセオラに代わって第一妃にでもならねば叶わなかった夢が、成し遂げられなかったことにグアマラルは怒っているのだ。
 その上にである。元々先王の下級妃仲間であったはずのイントールやオドンチメグまでが、セオラと親しくしているとなれば、腹立たしいことこの上ない。
「あなたたち!」
 突然主からキッと睨まれ、侍女たちは震えあがる。
「何をぼさっとしているの! 香りのいいお茶でも用意なさい!」
 侍女たちは先を争い天幕から飛び出して行った。


 侍女たちが質のいい茶葉とお茶請けを求め、泡を食って飛び出していく様子を、物陰で見ていた者がいる。猪首の男、大尉(ダユ)のバルである。
 彼はグアマラルがサンサルロへ嫁いで来た日から、彼女の美しさに心奪われていた。主ジャンブールの妃であるのだから、当然手の届かぬ相手である。己の見た目が女心をくすぐるものでないことも、十分に自覚していた。なればこそ、バルは自分に出来る方法で彼女を幸せにしたいと考えていた。
 グアマラルは皇后になりたがっている。ならばジャンブールを王座に就けねばならない。バルはそこかしこで、ジャンブールがいかに王に相応しいかを説いて回った。実際の所、それはほとんど意味をなさないものであったが。ジャンブールの評判は元々高かったのだから。
 バルが度々部下を率いて勝手にアルトゥザムに諍いを吹っかけていたのも、ゴラウンを襲撃にしたのも、グアマラルの愛するジャンブールのため領地を広げておきたかったからである。
 だが、それが災いした。
 対アルトゥザムの作戦のため、バルが囮として攫って来たセオラを、ジャンブールは気に入ってしまった。そしてよりによって第一妃に据えてしまったのである。
 グアマラルが嘆き悲しんだのは言うまでもない。
(俺のせいだ)
 自分が余計なことをしたせいで、グアマラルを悲しませることになってしまったと、バルは激しく後悔した。ゴラウン襲撃前に、グアマラルがジャンブールの後宮に入ることはほぼ決まっていた。自分がおかしな真似をしなければ、愛する人の夢が叶ったかもしれないと思うと、バルは悔やんでも悔やみきれなかった。
 実際の所、ジャンブールは以前よりセオラに興味を持っていたのだが、それはバルの知るところではなかった。

 セオラが白馬を与えられた日、バルは思い切り馬の尻を殴った。驚いた馬に振り落とされたセオラが大怪我を負えばいい、あわよくば命を落とせばいいと考えたのだ。しかしそれは空振りに終わる。格闘術(ブフ)を会得した小国の姫は、馬を操る腕まで達者だったのだ。ジャンブールと共に、笑顔で馬に乗り戻って来たセオラを見て、バルは歯ぎしりした。
 グアマラルがセオラを茶に誘った日、セオラの馬を隠したのもバルであった。草原の民にとって、馬で来た者を徒歩で帰すのは侮辱行為である。グアマラルがセオラに何か仕掛けるのを察した上で、バルもこっそり加担したのだ。大恥をかかせてやろうと。
 だが、あの場にジャンブールが来てしまった。そして、セオラの馬がいなくなったことについて、グアマラルが責められる展開となった。まずいと思ったバルは、慌てて隠してあった馬を取りに行ったのだ。
 主とセオラが立ち去るのを見計らい、バルはグアマラルの足元へ身を投げ出し謝罪した。
「申し訳ございません。あの女に屈辱を味わわせようと考え、俺がやりました」
 グアマラルは激怒し、バルを打ち据え、蹴りつけた。バルは自分のしでかしたことが、ジャンブールのグアマラルへの評価を下げてしまったことに心から悔やんだ。と同時に、美しく白い手で頬を打たれ、優美な足で蹴りつけられることに、恍惚となってもいた。
(あぁ、グアマラル様……)
 許されぬ恋である。だがバルは心の底から、グアマラルには幸せであってほしかったのである。


「消えてしまえ」
 怨念のこもったグアマラルの声に、バルは我に返る。
「消えてしまえ、忌々しいセオラ!」
 緋の暖簾(ハーラガ)のかかった天幕の中から、泣き声混じりに聞こえてきた言葉。その瞬間、バルの気持ちは決まってしまった。
 セオラを消すのは俺の役目だ、と。



「なるほど。バル、お前の言い分は分かった」
 サンサルロの西にある森、バルがセオラと初めて出会ったあの日の、道を南北に分ける例の場所である。
 セオラは不意を突かれて頭から袋を被せられ、この場所まで運んでこられたのだ。袋をはずされたセオラは、バルにこの行動の理由を問い、全ての説明を受けたところだった。
「グアマラルが、私に消えてほしいと願っている。だからお前はその願いを叶えるためにここまで私を連れて来た。その解釈で合っているな?」
「あぁ」
 バルは湾刀(クルチ)を構える。その眼差しは死にゆくものヘ向けるものであった。
「お前をサンサルロへ連れて来たのは、結果的に俺だ。だから俺が責任を取ってお前を殺す」
「勝手なことを」
 セオラは懐から小刀(クドカ)を取り出す。鎧の下にも分厚い筋肉を纏っている大男に通用するとは到底思えなかったが、丸腰よりはましだと判断した。それにこれは、ジャンブールにもらった守り刀でもある。
「お前は相当腕の立つ女のようだが」
 バルはにやりと口元を歪ませる。
「俺には通用せん。お前がその見目で相手を油断させ、隙をついて勝利していることを知っているからな」
 セオラは心の内で舌打ちする。それは事実だった。
 セオラは確かに腕が立つ。男と渡り合える戦闘力や技量を持っていた。だが、バルの言う通り、相手の油断をつくことで勝利を収めてきたことも多い。セオラの背は女の中では高めだが、引き締まった細身であり、容貌も優れている。男たちは無意識のうちに「所詮は綺麗なお嬢ちゃんだ」と高をくくり、初手の甘いことが多かった。そこを一瞬で叩き伏せるのが、セオラの主な戦法だった。何度も男たちと戦って来たセオラだからこそ、その現実を受け入れていた。
「おらぁっ!」
「フッ」
 セオラは機敏な足さばきで切っ先を逃れ、刃の軌道を読んで踏み込んでは攻勢に移る。
 セオラの見た目は、相手を油断させられる効果が間違いなくあった。だが、それだけで勝てるものではない。騙せるのは一度きり、それ以降は力と力のぶつかり合いになるのだから。
「でやっ!」
「はっ」
 優れた動体視力で相手の動きやその先を見抜き、持ち前の身軽さで相手の攻撃を避け、しなやかな筋肉で自らの体を自在に操り、空間認識能力をもって隙や間合いを見抜く。そして体のどこが弱点となり、どこをどう攻撃すれば相手が崩れるか、セオラは完璧に把握していた。
「女ぁ! 逃げるな!」
「逃げてなどいない」
 セオラの言葉に嘘はなかった。俊敏な動きで攻撃を避けているが、逃げ回っているわけではない。事実、バルの体にはいくつかの傷が走り、赤い血が流れていた。それはセオラも同様であったが。
 すでにかなりの時間が経過していた。
(相手はあの体躯だ。そして私を本気で殺そうとしている。防戦を主とした生半可な攻撃では、決着がつかない)
 セオラは覚悟を決める。バルを殺す覚悟を。
「目つきが変わったな」
 バルが嬉しそうに舌なめずりをする。
「だが、気持ちが変わった程度で俺をどうにかできると思うな!」
 バルが殺気を漲らせ、セオラへ飛び掛かる。だがそこへ風切り音が一つ迫った。
「ぐぁっ!」
 バルが突如膝を折り崩れ落ちる。太ももに矢が一本刺さっていた。
「ぐ、ぅっ」
 呻きながらもバルは矢を掴み、引き抜く。忌々し気にそれをへし折ろうとして、彼の手が止まった。
「この矢は……」
 バルがゆっくりと首を捩じる。その先に、親衛隊(ケシク)を引き連れたジャンブールの姿があった。
「ジャンブール、様……」
 ジャンブールはバルを無視してその横を通り過ぎ、全身のあちこちから血を滲ませているセオラの元へと急ぐ。
「怪我をしてるじゃないか、セオラ」
「切っ先が掠めた程度だ。深手は負っていない」
「……何を言ってるんだ」
 ジャンブールは強引にセオラを抱き上げる。
「ちょ、ジャンブール、下ろせ!」
 手足をばたつかせるセオラを、ジャンブールは無言で運ぶ。しかしセオラもジャンブールの厳しい横顔を目にして、抵抗することをやめた。
 既にバルは親衛隊たちの手で後ろ手に縛りあげられていた。バルは観念した顔つきで、地面を睨んでいる。だが、セオラが漆黒の馬に乗せられようとした時、バルは顔を上げセオラに向かって叫んだ。
「あの人に罪はない!」
 暴れるバルを、親衛隊たちが地面に押さえつける。だが、バルは構わず叫び続ける。
「俺の勝手な横恋慕だ! 俺が一人で勝手にやった! 本当だ!」
 セオラは察した。ここへ連れて来られた時、バルの口から聞かされたグアマラルへの想いを。この件の首謀者としてグアマラルを断罪するのはやめてくれ、そう訴えているのだろう。
「わかった。この罪はお前ひとりのものだ」
 セオラの言葉に、バルは微かに笑い瞼を伏せた。



「あらぁ、随分と勇ましいお姿ですのね? ついに戦にまで随伴するようになったのかしら? いっそ妃の座など捨てて、親衛隊になられてはいかが?」
 数日後、まだ頬に傷の残るセオラに向かって、グアマラルは(あで)やかに笑った。
(あの男は、グアマラルへの気持ちを密かに抱いたまま逝った)
 恐らくバルの恋慕の情を聞かされたのは、この世でセオラだけである。
(この女は何も知らない)

――俺が一人で勝手にやった!

(死を前にしても、グアマラルを巻き込むまいとして)
「何よ、その顔は」
 グアマラルが袖でセオラを軽くはたく。セオラはすかさず、その細い手首を掴んだ。
「きゃあ! 何よ、痛い! 痛いぃ!」
「お前は、私に消えてほしいか?」
「はぁ?」
「答えろ」
 セオラはがっちりとグアマラルの手首を掴んで離さない。
「やめてよ、乱暴にしないで! いたぁい! 殺されちゃう!」
「……」
 ただ、キンキンとした声を張り上げ続けるグアマラルを、セオラは解放した。
「なんなのよ、もう! 赤くなっちゃったじゃない。これだから蛮族の女は嫌なのよ」
 細く白い手首を、グアマラルはさする。セオラを恨めし気に睨みながら。
「バルは……」

――俺が一人で勝手にやった!

「お前の願いを叶えたかったそうだ」
「はぁ?」
 セオラはそれだけ言って、グアマラルに背を向ける。大尉の地位にあったバルの処刑のことは、グアマラルの耳にも届いていた。そうなったのは、セオラに斬りかかったためであることも当然ながら。
「な、なによ、わたくしの為って……。あっ!」
 グアマラルは慌ててセオラに駆け寄った。
「まさかわたくしが、あの男をけしかけたなんて言うつもりじゃないでしょうね?」
 セオラは鋭い視線をグアマラルへ寄こす。
「冗談じゃありませんわ! わたくしはあの男に話しかけられるのすら不愉快でしたのよ。図体ばかり大きいくせに、それでいて卑屈な目つきでわたくしを盗み見るあの男が、本当に薄気味悪くて。それにあの醜男が馬を逃がしてしまったせいで、わたくしはジャンブール様に叱られてしまいましたのよ? わたくしには何の罪もないのに!」

――あの人に罪はない!

「……そうだな」
 セオラは振り向きもせず、グアマラルを突き放す。グアマラルはまだ何か喚いていたが、セオラの耳には届いていなかった。
(バル、お前の願い通り、お前の罪はお前一人のものだ)
 草原を行く風が、セオラの髪をなびかせる。
(グアマラルの心にお前の存在を残しておいたぞ)

――了――