母親は、いつものように穏やかな笑顔をセオラに向け、口を開いた。
「チヌアとも話し合ったの。この人の率いるゴラウンは先が見えないから、チヌアが族長となりサンサルロの下につきましょうって。そ のためには」
 ツェレンは、足元で呻く夫に柔らかく微笑む。
「この人は邪魔でしょう?」
「ぐ……ツェ、ツェレン……」
 夫の苦悶の声など耳に入らぬかのように、ツェレンは柔らかく微笑みジャンブールへと近づく。
「はは、うえ……」
 セオラは小さく息を飲む。震えるセオラをジャンブールは抱き寄せたる。
「ジャンブール様。ゴラウンの女は、全てサンサルロに差し上げます。勿論、私も含めて」
 ツェレンは全身に媚態をまとい、うっとりとした視線をジャンブールへと向ける。
「どうかお好きになさってください。娘セオラと共に、あなた様に誠心誠意お仕えいたしますわ」
「母上、なんてことを……」
 悍ましいものを見る目を、セオラは母親へ向ける。娘の夫に対する露骨な媚び。だが、ジャンブールはきっぱりとそれを拒絶した。
「遠慮いたします、僕の最愛の妃セオラの義母上様」
 穏やかだが有無を言わさぬジャンブールの口調に、ツェレンは初めて笑顔を強張らせた。
「え……?」
「娘を守らない女性は、好みではないのです。あなたはゴラウン王の第一妃として、最後までゴラウンとその族長に尽くしてください。民を守らぬ族長に、子を守らぬ妃。とてもよくお似合いだ」
「……っ」
 ツェレンは視線を泳がせ、たった今自分が刺した夫に目を落とすとスッと青ざめた。
 ニルツェツェグの体がふらりと(かし)ぐ。セオラは慌てて駆け寄り、その小さな体を抱きしめた。妹は失神をしていた。セオラ自身、両親それぞれの醜悪な姿に、今にも吐きそうになっていた。
「チヌア」
 ジャンブールの声に、ゴラウンの炉の主(すえっこ)がびくりと身をすくめる。
「ち、違うんです!」
 チヌアもまた、母親のしでかしたことに激しい衝撃を受けていた。
「確かに、俺の代になったらサンサルロの傘下に入ろうという話は母としました。だけどこんな今すぐ、こんな形でそうしようなんて……」
「ジャンブール!」
 セオラもまた、ジャンブールへ訴えかける。
「チヌアは、父親の暗殺など考える子じゃない。それは姉である私が保証する。族長の地位を簒奪してゴラウンを差し出そうなんて、この子は本当に考えていなかったと思う。信じてやってくれ!」
「そっか」
 最愛の妃の必死の訴えに頷き、泣きだしそうになっている少年をジャンブールはそれ以上責めなかった。
「君の希望は受け入れるよ。君が族長になった際に気が変わらなかったら、サンサルロで皆を受け入れるべく王に話をつけておく」
「あ、ありがとうございます」



 ニルツェツェグを彼女の侍従へ託し、セオラとジャンブールはゴラウンを後にする。
「そんな顔しないで」
 暗い顔つきのセオラへジャンブールはいたわりを込めた口調で話しかけた。
「サンサルロへ戻ったら、すぐにゴラウンへ医者を手配しよう。あんな小さな小刀の傷、急所さえ外れていればそこまで心配はいらないはずだ。出血の量も少なかった」
「……あぁ」
「ただ、君の母親が自ら断ち切った夫婦のきずなだけは、僕にもどうしようもないけどね」
「それは分かってる。あの二人は自業自得だから仕方ない。私が心配しているのは、残してきたニルツェツェグとチヌアのことだ」
 ジャンブールは自分の馬を、セオラの白馬へと寄せる。そしてそっとセオラのしなやかな背に手を当てた。
「しばらくは様子を見よう。何と言っても君の弟だ。まだ幼くとも、うまくゴラウンをまとめていく可能性だってある。まぁ、僕の見立てではセオラ、君が王となってゴラウンを率いるのが一番だとは思うが」
「私が?」
「駄目だな。そうなると僕は最愛の妃を手放さなくちゃいけなくなる。この選択肢は無しだ」
 ジャンブールの言葉に、セオラも密かにほっと息をついた。
「まぁ、君の弟が頑張った末ににっちもさっちもいかなくなったら、彼の希望通りサンサルロで全員を受け入れるさ。セオラは心配しなくていい」
「……うん」
「妹さんが心配なら、一足先にサンサルロに連れてくるって手もあるよ。攫うという形になるが、恐らくゴラウンの族長は抵抗をしないだろう。その時は、君の天幕群に受け入れれば安全だしね」
「そうだな、ありがとう」
 セオラは大きく深呼吸をする。
「すまないな、ゴラウンのごたごたにまで巻き込んでしまって」
「君の家族のことだろ。僕にとっても他人事じゃないよ」
「そう言ってくれると助かる」
 ジャンブールの手が、そっとセオラの髪をひと房掬った。ジャンブールの瞳に、まっすぐな眼差しのセオラが映り込む。
「……くちづけしたいな」
 ジャンブールの言葉にセオラは目をしばたかせ、やがて頬を赤らめた。
「こっ……、こんなところでいきなり何を言う!」
「いきなりじゃないよ。同じ天幕でいくつの夜を共に過ごしたと思ってんの? めちゃくちゃ我慢した方だと思うけど?」
「そ、それはそうだが……」
 セオラがしどろもどろになっている隙をつき、ジャンブールは素早くセオラの頬へ唇を落す。
「ジャンブール!?」
「ははは」
 ジャンブールは高らかに笑うと、漆黒の馬を操りセオラから距離を取った。
「よし、今からサンサルロまで競争しよっか。僕が勝ったら、今夜こそセオラを抱かせてもらうね」
「は? なぜそうなる!」
「テュー!」
セオラの返事を待たず、ジャンブールは馬に鞭を加える。漆黒の馬があっという間に前方へ小さくなってゆく。
「待て、ジャンブール! 私はまだ承諾していないぞ!」
 セオラも慌てて白馬を急がせた。
 草の海原を駆け、風に髪を靡かせる。体内を通り抜けていく風は、セオラの中にこもったモヤモヤしたものを吹き飛ばしていく。

――僕が勝ったら、今夜はセオラを抱かせてもらうね

 耳に残った甘やかな声に、セオラの胸が一つ踊る。
(なら私が勝てば、ジャンブールは今宵私に触れようとしないのか?)
 そう考え、少し残念な気持ちになる。そして、彼の肌に触れたいと思っている自分を実感した。
(つまり私がわざと負ければ……)
 そこでセオラは頭を振る。ジャンブールがいつも真剣勝負を仕掛けてくれたことを思い出した。
(私も全力で彼に勝とう)
 不敵な笑みを浮かべ、セオラは馬をさらに急がせる。
(そして言ってやるのだ。私がジャンブールを抱くのだと)
 言えばジャンブールはどんな顔をするだろうか。驚くだろうか、面白がるだろうか、呆れるだろうか、……喜んでくれるだろうか。想像するほどに、セオラの心は高揚していく。
 徐々に近づいてくる漆黒の馬とオレンジ色(オルバルシャル)の衣の背に揺れる三つ編みを見つめ、セオラは心底楽しそうに笑った。

―終―