一夜明け、セオラはジャンブールと共にゴラウンへと向かった。ニルツェツェグたちが無事にゴラウンへ着いたかの確認と、セオラの白馬を引き取るためだ。だが二人は、ゴラウンの集落に足を踏み入れた瞬間、その光景に息を飲んだ。集落は酷く寂しく、荒れ果てていた。天幕の数から推測して、もう三十人もいないかもしれない。
「セオラ姉上!」
 ニルツェツェグがセオラへ駆け寄ってくる。
「御無事だったのですね、姉上。本当に良かった。あの後、どうなってしまったかと心配で心配で。どこかお怪我をなさっていませんか?」
「はは、大丈夫だ。ジャンブールが助けに来てくれたからな」
 ニルツェツェグは隣に立つジャンブールへ、最上級の敬意を示す礼をした。
「ありがとうございます、姉を救っていただいて感謝の念に堪えません」
「いやいや、最愛の妃を救うのは当然のことだろう」
「妃、あ……!」
 ニルツェツェグは目の前に立つのがサンサルロの王子だと、初めて気づいた。慌てて地へ膝と手をつこうとするのを、ジャンブールは押しとどめる。
「やめようね、こういうの。君は僕の妃の妹なんだから。僕の妹も同様だよ」
「も、勿体ないお言葉にございます」
 セオラの耳に馬の足音が届く。チヌアがセオラの白馬を連れて姿を現した。
「姉さん、ありがとう。この馬、すごくいい馬だね」
「そうだろう。ジャンブールが私のために用意してくれた馬だからな」
 白馬はセオラを見ると嬉しそうに嘶き、鼻づらを押し付けて来た。
 眩しそうな表情で姉を見上げるニルツェツェグへ、ジャンブールが口を開く。
「そうだ、ニルツェツェグ。君がセオラに贈った本は面白いね。僕も興味深く読ませてもらったよ」
「まぁ、そうだったのですね」
「うん。あれはすごく役に立ってくれたよ。セオラも言っていたが、君は趣味がいい」
「畏れ多いことでございます」
 セオラとジャンブールは顔を見合わせ微笑み合う。それは大げさではなかった。あの本があって、何が毒物にあたるかを確認できたのだから。先王毒殺事件の解明が叶ったのは、ニルツェツェグのくれた本に依るところが大きかった。
 セオラたちの声を聞きつけ、ゴラウンの民たちがぞろぞろと姿を現す。そして口々にセオラへ言葉を掛けた。
「ん? ホランの息子はどうした」
 セオラは、自分のばあやの家族が姿を見せないことを怪訝に思う。だがそれに対し、ゴラウンの民たちは悲し気に眉をひそめた。そして、幾度も襲い来るアルトゥザムによって命を落としたことを伝えた。
「……そうか」
 セオラは唇を噛む。サンサルロで待っているホランに伝えなくてはならないと思うと、胸が痛んだ。
 その時、聞き覚えのある(しゃが)れ声が飛んで来た。
「馬を引き取ったら、さっさと失せろ。ここはお前の居場所じゃない」
 ゴラウン族長であり父親のオトゴンバヤルだった。その卑屈な顔を見た瞬間、セオラに怒りが湧きあがる。
「保身のために妃と娘を見捨てたと聞いたぞ。他の民はどうした。あぁ、父上に見切りをつけてシドゥルグについて行ったんだったか。恥ずかしくはないのか」
 セオラの言葉に、オトゴンバヤルはぴくぴくと頬を引きつらせる。自分の娘がサンサルロ製の質のいい衣を身に着けていることも、気に食わない様子だった。しかし隣に立つジャンブールへちらりと視線を寄こし、悔し気に顔を歪め吐き捨てるように言った。
「力のある男を味方につけて、自分も偉くなったつもりか。用が済んだら出ていけ。二度と顔を見せるな」
「言われなくとも」
 セオラがきびすを返そうとした時だった。ジャンブールがセオラの肩を押さえた。
「なんだ」
「思い出したよ。君の父親を殺せば僕の妃になるって話だっけ? そういや、その約束守ってなかったなぁ。そっか、だからセオラは自分が僕の第一妃かどうか、確信が持てなかったんだね」
 ジャンブールの言葉に、セオラを含め一同はぎょっとなる。
「今、やっとく?」
「いや、待て、ジャンブール! あれは言葉のあやというか……」
 セオラの中で、かつてのような父親への怒りはほぼ失せていた。サンサルロでの生活が日常のものとなって以来、既にどうでもいい過去の存在となっていたからだ。
「わかった。あの男を殺さずとも、私はそなたの第一妃だ」
「本当に? もう二度と、本当に僕の妃でいいのか、なんて言わない?」」
「言わん」
 二人の珍妙なやり取りを、周囲の人間はハラハラと見守る。
 その中でオトゴンバヤルは怒りに身を震わせ、キイキイとした声でまくしたてた。
「お、おおお俺を殺すように言ったのか! なんと見下げ果てた非情な奴だ! 二度と俺の前に現れるな! この出来損ないめが!」
 父親の罵声にも、もうセオラの心は傷つかない。オトゴンバヤルに心を閉ざしきったセオラには、彼の言葉が心に届かなくなっていた。五年前のあの日から始まり、決定打はあの襲撃の日だった。それに、ジャンブールが全面的に自分を肯定してくれることで、セオラの心には否定的な言葉をものともしない強さが備わりつつあった。
 だが、セオラの代わりに怒りを覚えたのはジャンブールであった。
「……それが血を分けた娘に対する言葉か?」
「ち、血を分けてなどいるものか!」
 大国サンサルロの王子に威圧され、オトゴンバヤルは狼狽える。だが、家臣の見守る手前、大人しくしているわけにもいかなかったのだろう。
「そいつは俺の娘なんかじゃない。ツェレンが昔ヘルヘーに攫われ、戻ってきた時には孕んでいたんだ。俺の血は流れていない!」
(え……)
 初めて聞く父の言葉に、さすがのセオラも動揺を覚える。ヘルヘーは第四妃オドンチメグの出身地でもあった。
「そうだ、俺の娘などではない。ヘルヘーの血を引く赤の他人だ。なのにゴラウンの男たちを見下すような真似ばかりしやがって、こいつは……」
 セオラがジャンブールの指を握る手にキュッと力を籠める。ジャンブールが彼女の気持ちを察し、オトゴンバヤルを止めようとした時だった。
オトゴンバヤルが目を剥き、言葉を止めた。
「ぐ……ぁ……」
 突如、オトゴンバヤルがその場に膝をつき崩れ落ちる。彼の背からは小刀(クドカ)の柄が生えていた。
 オトゴンバヤルの背後に立っていたのは、母ツェレンだった。
「は、母上!? 一体何を……」