ジャンブールの声に、サンサルロ兵たちはいっせいに馬の頭を東へ向ける。そして全力で自分たちの領地へ引き返し始めた。
「しゃべんないでね。舌噛むから」
(ジャンブール……)
 あの日と同じだ。女の中ではそれなりに背丈のあるセオラだが、ジャンブールの広い胸と逞しい腕にすっぽりと包まれる形となる。温かく、この世のどこよりも安心できる場所に今自分はいるのだと、心から感じた。甘く突き刺すような沁みる感覚に襲われ、セオラは不覚にも泣きそうになる。だがそれは自分らしくないと、ぐっとこらえた。
 馬はすさまじい速さで、土煙を巻き上げながら疾駆する。やがて。森を挟んで南北に分かれる道までやって来た。吸い込まれるように、サンサルロの全ての馬が北の道へと進んでいった。そしてアルトゥザム兵が続こうとした時だった。両側から大量の矢が射かけられた。二人が出会ったあの日とは比べ物にならないほどの。
「引けーー!」
 バタバタと倒れるアルトウザムの仲間を見て不利と判断した隊長格の男が、焦った声を上げる。アルトウザムの兵士たちは、自分たちの領地へと引き返していった。

「なぜ……」
 サンサルロの自分の天幕へと戻る道すがら、馬上でセオラはジャンブールへ問いかける。
「なぜ私を助けるため、あんな無茶な真似をした。サンサルロの皆まで連れて」
「いや、なぜって言いたいの、こっちなんだけど?」
 ジャンブールはセオラの肩へ顎を乗せてくる。
「全部聞いたよ。妹さんと母親が攫われて、弟が助けを求めて来たんだって? で、僕に何の相談もないまま飛び出して行った? なんでそんなことするかな? セオラのこと賢いと思ってたんだけど、もしかしてお馬鹿なの?」
「ばっ……」
 馬鹿と謗られ、セオラの頭に血が上る。
「馬鹿とはなんだ!」
「一人でアルトゥザムに突っ込んでいくのはお馬鹿さんのすることでーす」
「仕方ないだろう! お前は、即位式に向けて忙しそうだった。だいたい、これはゴラウンの問題で、サンサルロを巻き込むわけにはいかないと判断した」
「は? サンサルロを巻き込まない? 君はサンサルロ第二王子の第一妃だよね?」
 ジャンブールの肩腕が、ぐっとセオラを抱きしめた。
「最愛の妃に関わる問題が、僕と無関係なわけないでしょ?」
「それは……」
 セオラの胸がキュッと痛む。
「わ、私はまだ、お前の第一妃でいていいのか?」
「え? いていいか、って言われても。セオラは僕の第一妃だよねぇ」
「だって私は、先王暗殺の犯人をあぶりだすのと、ジャンブールに野心がないのを証明するための第一妃で。それらはもう全部終わってしまったから、用済みかと」
「僕、何度も言ったよね? 全てが終わっても、僕の第一妃でいてほしいって」
 セオラの目頭がぐっと熱を持つ。
「まさかそれで、もうサンサルロの妃じゃないから自分だけで解決しなきゃ、なんて考えたわけじゃないよね?」
「……その通りだ」
「うっそでしょ」
 ジャンブールがへなへなとセオラの背へもたれかかって来た。全体重をかけて。
「重い」
「あのねぇ、僕がどれだけ心配したと思ってんの? 君が一人でアルトゥザムに乗り込んだって聞いて、心臓止まるかと思ったよ」
「重いって」
「重いのくらい我慢して。僕の受けた衝撃はこんなものじゃなかったんだから」

 空色の暖簾(ハーラガ)のかかった天幕へと到着する。馬を降りたセオラは、ジャンブールが馬に何やら括り付けているのに気付いた。
「これはなんだ?」
「あぁ、これは」
 ジャンブールが荷をほどく。それは艶やかな黒貂(ブルガン)の毛皮だった。かつて隊商の所で見たものより上等の。
「セオラのために手に入れてたんだよ。例の商人を見つけた時に。けど、セオラがアルトゥザムに乗り込んだって聞いてさ。もし捕まっていたら、君を取り戻すための交渉道具にしなきゃって、持って行ったんだ」
 ジャンブールは毛皮を、セオラの背へとかける。
「良かった。また君に贈り損ねるところだった」
「ジャンブール……」
「今度は受け取ってくれるよね?」
 セオラは俯き、一つ頷く。そして深呼吸をすると、覚悟の決まった瞳でジャンブールを見上げた。
「ジャンブール、聞いてほしい」
「え? なに? なんかすごい顔してるけど」
「わ、私は……」
 セオラの声が珍しく震える。
「今、すごく怖い」
「お、おぅ?」
「気持ちを伝えたら、そこで全てが終わってしまいそうで、今すぐに逃げ出したいくらいだ。あの世に」
「それはやめて」
 セオラの顔が赤い。そして呼吸も早い。心臓の音まで聞こえてきている。
「だけど言わなきゃいけない。私は……」
 セオラが大きく息を吸う。
「ジャンブールが好きだ。これからもお前、いや、そなたの妃でいさせてほしい!」
 セオラの言葉にジャンブールは目を見開く。そしてすぐさま破顔した。
「当たり前でしょ! 僕の第一妃はセオラ、君以外に考えられない」
「ジャ……」
 その途端、セオラの体がぐらりと揺れる。ジャンブールは慌ててセオラを支えた。ジャンブールの腕の中でその体はがくがくと震えていた。
「は、はは……」
 セオラの双眸には涙さえ浮かんでいる。目の縁が紅に染まっていた。
「情けないな、脚に力が入らない。今にも気絶してしまいそうだ」
「セオラ」
 ジャンブールはセオラをしっかりと抱きしめた。耳元へ口を寄せ、静かな声で伝える。
「嬉しいよ。僕に気持ちを伝えることをそこまで怖がってくれるなんて。アルトゥザムに一人で乗り込んでいけるほど豪胆な君が、さ」
 ジャンブールは更に両腕へ力を籠める。
「大好きだよ、セオラ。誰よりも愛してる。君の全てが愛しくてたまらないよ」