夜になった。見張りが日直番(トルカウト)から宿直番(ケプテウル)に入れ替わると、集落はしんと静まり返る。空いっぱいの星と、松明だけが暗がりを照らしていた。
 セオラとチヌアは息を殺し、見張りの目を避け死角を選びながら移動する。やがて目的の天幕へ着くと、僅かに暖簾(ハーラガ)を開き中をのぞいた。
(いた)
 昼間チヌアが言っていた通り、そこにはニルツェツェグと母のツェレンの姿があった。攫われたものの乱暴な扱いは受けていないようで、二人とも怪我を負っている様子はない。ただ、ニルツェツェグは目を泣きはらし酷く憔悴した様子だった。比べて母は普段とほぼ変わらない様子で落ち着きはらっていた。
 先に天幕へ入ったのは、チヌアだった。
「母さん、ニルツェツェグ」
「チヌア!」
 ツェレンは驚いたように目を見開く。チヌアが口元へ人差し指を添え静かにするよう示すと、嬉しそうに微笑みながら頷いた。そして目に涙を浮かべ、炉の主(すえっこ)へ両手を差し伸べる。
「良かった、無事だったのね」
「チヌアお兄様」
 妹もまた声を潜め、兄へと駆け寄る。そして、わずかに開いた暖簾の向こうにもう一人誰かが立っていることに気付いて、小さく息を飲んだ。
「……誰?」
 入ってきた人物が、龍の縫い取りのあるサンサルロの上衣(デール)を着ていることに、母と妹は身を固くする。だが、見知った顔がその上にあることに気付くと、手で口を覆った。
「セオラ姉上!」
「静かに」
 セオラが小声で鋭く制すと、ニルツェツェグはハッとしたように口をつぐむ。しかし赤く泣きはらした双眸には、見る間に涙が膨れ上がった。
「御無事だったのですね、良かった……」
 喉をひくつかせながら、ニルツェツェグはセオラにすがりつく。その震える体を、セオラはそっと抱きしめた。
「元気そうで何よりです」
 母ツェレンの声にセオラは目を上げる。その穏やかな微笑は、あの日と変わらなかった。幼いセオラが観衆の中、嘲笑されながら尻を殴打された時と。セオラがサンサルロ兵に「要らぬ者」として連れ去られる時と。
「あぁ」
 セオラはそれだけ返す。交わす言葉などなかった。
 ニルツェツェグが落ち着くのを待ち、セオラは暖簾のすき間から外をうかがった。
「母上、ニルツェツェグ。逃げるぞ、ついて来い。チヌア、お前には最後尾を頼む」
「わかったよ、姉さん」
 母ツェレンは一瞬渋るような様子を見せたものの、諦めたように我が子の言葉に従った。

 暗がりの中、一行は足音を立てぬようにゴラウンとの境目にある岩山へと向かう。見張りのいない天幕の側に身をひそめながら。灯りを使うわけにはいかないので、ところどころに立っている松明と星明りだけが頼りだ。遅々とした移動に、全員の神経はすり減っていった。
(あと半分だ)
 その時、身を隠していた場所のすぐ側の天幕の暖簾が、前触れもなく開いた。
「そこに誰かいるのか?」
 明るい場所から出て来たばかりで、相手はまだ闇に目が慣れていないのだろう。その隙をセオラは見逃さなかった。即座に組み付き、足払いを掛けると頭から地面へ叩き付ける。声を上げる間もなく、男は伸びた。
「セオラ姉上!」
「シッ」
 反射的に悲鳴を上げたニルツェツェグの口をチヌアが塞ぐ。だが、異変に気付いた者がいたようだ。静かだった夜の闇の中、さざめきが広がった。
「チヌア、二人を岩山へ誘導しろ」
 言ってセオラは近くにあった松明を掴む。
「姉さんは?」
「いいから二人を連れて逃げろ! 私の馬も使え」
 チヌアは姉の意図を察し、それ以上問わずに頷く。セオラが松明を持って駆け出すと、三人は反対側――岩山へ向かって移動を再開した。
 ニルツェツェグが訴えるような目をチヌアへ向けるが、それには首を横に振る。母ツェレンの表情はよく見えなかった。
「何の騒ぎだ?」
 松明を手に大山猫(シルース)のように駆けるセオラのすぐ側で、暖簾が開く。セオラはすぐさま身を反転させ、男の顎下から掌底を食らわせる。脳を揺らされ、足元をふらつかせた男の側頭を、セオラは容赦なく蹴りつけた。
「お前たちになど捕まるものか!!」
 ニルツェツェグたちを安全に逃がすため、セオラは敵の意識を自分へ集めんと、わざと声を張り上げる。
「襲撃だ!」
 狙い通り、数多の殺気が自分へ向けられたのをセオラは肌で感じ取った。
(逃げ切ってくれ、ニルツェツェグ!)
 その一心で、セオラは松明を持ったままアルトゥザム領内を駆け回る。やがて十分に敵を引き付けたことを感じ取ったセオラは、松明を追手に向かって投げつけた。
 そこからは闇の中での追いかけっこである。気配を消し、物陰に身を潜め、案山子(アノーハイ)のふりをしてやり過ごし、一人でいるアルトゥザム兵を見つけては背後から襲撃する。やがて岩山を伝い登っていく三つの米粒ほどの人影が頂を越えたのを確認すると、滝のように汗の伝う顔で笑った。
(あとは私が逃げきるだけだ)
 呼吸音を聞きつけられぬよう、荒い息を懸命に殺す。
(だが、どこから脱出する?)