(ニルツェツェグと母上が、アルトゥザムに攫われた……!)
 足元に這いつくばる弟を立たせ、セオラは静かな声で確認する。
「父上はどうしている?」
 弟だけが傷だらけでここに辿り着いた現状から、セオラは父親がアルトゥザムの刃の下に倒れたと考えたのだ。だが、チヌアの返事は意外なものだった。
「ゴラウンにいるよ」
「? 怪我でもして臥せっているのか?」
「ううん。母上とニルツェツェグを差し出したから、父上は無事」
(差し出した!?)
 セオラの頭にカッと血が上る。
(あの日もそうだった。ゴラウンの皆を守るためと言って、多くの老人や傷病者をあっさりとサンサルロ兵へ差し出した)
「他の皆は無事か? 民は元気にやっているのか?」
 セオラは自分たちが犠牲になったことで助かったはずのゴラウン族について尋ねる。けれど、チヌアは悲し気に首を横に振った。
「もうゴラウンには僅かな人間しか残っていない。シドゥルグ義兄さんが独立した時に、大勢ついて行っちゃったんだ。残された者も、気が付けばどんどん姿を消していった。きっとシドゥルグ義兄さんの所へ逃げたんだと思う」
「では今や、ゴラウンに残っているのは……」
「俺たち家族と、十人にも満たない親衛隊(ケシクテン)とその身内ばかりだ。もう国としてやっていける状態じゃない」
 セオラは眩暈を覚える。同時に怒りではらわたが煮えくり返った。
(あの、愚王!!)
 結局、民たちも守れていない。自らの保身のために、平気で周囲の人間を斬り捨てていくだけの父親を、セオラは心底軽蔑した。
 ふと辺りからさざ波のような音が耳に届く。サンサルロの日直番(トルカウト)たちは、ゴラウンの惨状を知り苦笑していた。
「セオラ姉さん、俺はサンサルロの下に入りたい。奴隷として扱ってくれてもいい。だから、母上とニルツェツェグを助けるために、サンサルロの力を貸してほしい」
(そうしたいのは山々だが……)
 ニルツェツェグをこのままアルトゥザムに囚われたままにしておけるわけがない。そうは思うが、だからと言って安請け合い出来ない状況にあるのも事実だった。
「チヌア、今サンサルロは新しい王の即位に向けて忙しい。王不在の今、国を挙げて他国へ争いを吹っ掛けるわけにもいかないのだ」
(それに今、自分がサンサルロ王子の妃の立場にあるかどうかも怪しい)
 だがその言葉をセオラは口に出来なかった。発してしまえば、ジャンブールとの縁が確実に切れてしまいそうで怖かった。
「……そんな。サンサルロの力を借りられないなんて」
 チヌアがへなへなと座り込む。
「しばし待て」
 セオラは一旦天幕内へ姿を消す。やや経って、再び弟の前に現れたセオラは武装していた。
「サンサルロの力は借りられない。だが、私がゴラウンのセオラとしてニルツェツェグを救いに行く。ついて来い、チヌア」
「姉さん……!」
 弟を伴い、セオラは馬繋ぎ(オヤー)へ颯爽と向かう。
「馬を一頭借りるぞ」
 日直番たちは二人の後ろ姿を見送り、困惑顔を見合わせた。たった十七歳の妃がほぼ単身で敵国へ乗り込むなど、冗談としか思えなかったからだ。
 だが、セオラの性格をよく知るゴラウンからの侍従たちは慌てふためいた。
「セオラ妃様(ハトゥン)! お待ちください!」
「まさか、本気ではございませんよね?」
「皆さん、セオラ妃様を止めてくださいまし!」
 俊敏に動けぬ侍従たちを残し、セオラは白い馬に跨ると駆け出した。


 セオラはまず、ゴラウンの領地へと入った。ゴラウンは、大国サンサルロと強国アルトゥザムの二つの北部へ、へばりつくように存在している国だ。つまり、ゴラウンから入れば、アルトゥザムの中ほどに北から侵入できる。間に岩山がそびえてはいるが。
 セオラはチヌアと共に馬を操り岩山を上る。そして窪みに馬を隠すと、自らの足でその先へと登っていった。
(どこだ……)
 ニルツェツェグたちが攫われてから、それなりに時間が経っている。今は拾得品か何かのように、どこかの天幕に集められているのだろうが、広大なアルトゥザム領に目を凝らしてもまるで分らない。
(夜を待って、地道に探すしかないか)
 どれだけの時を必要とするだろう、どうやって探せばよいのかと、セオラは焦燥感に襲われる。だが、チヌアが小さな声を上げた。
「姉さん、あれ!」
 チヌアの指差した先に、米粒ほどの大きさの人間が二人前後に並んで歩いているのが見えた。どうやら天幕から別の場所へ移動させられているようだ。
「ニルツェツェグか?」
「うん、多分前にいる黒い上衣(デール)が母さんで、後ろにいる桃色のがニルツェツェグだ」
 姉弟は息をつめて目を凝らし、二人がどこに連れて行かれるかを見届ける。やがて彼女らは、別の天幕へと入っていった。
 妹たちの入っていった天幕の位置を確認し、セオラは頷く。女だけの為か、特に見張りもつけられていないようだ。
「陽が落ちたら乗り込むぞ、チヌア」
「わかった」