「じゃ、ジャンブール様!」
厩務司の奴隷の一人が、慌てて地面へ這いつくばる。
「つ、妻を……」
声を震わせながら奴隷は怯えた目でジャンブールを見上げる。
「連れて行かれるのでしょうか。あの、妻は……」
奴隷は息を大きくつき、勇気を振り絞り言葉を続ける。
「サラントヤは、先王の暗殺には関わっておりません! その頃には、この地で私の元におりましたので! だから、その……」
それだけ言うと奴隷は再び地面に頭を擦りつけ「なにとぞ、なにとぞ」と呻くように繰り返す。
「顔を上げてくれ、えぇと……」
さすがのジャンブールも、ガンゾリグの領内の奴隷全ての名前は把握できていない。
「僕らはサラントヤを捕まえに来たわけじゃないからさ」
その時、小さな天幕の一つから儚げな雰囲気の小柄な女性が顔を出した。
(あ……)
セオラは直感的に理解した。彼女こそナランゴアの妹サラントヤだと。
(確かに、イントールに雰囲気が似ている)
「サラントヤだな」
「は、はい……」
サラントヤは天幕から出てくると、夫と並び跪くと地面に手をついた。
「姉のことは大変申し訳なく思っております。いかようにもなさってください」
ナランゴアとサラントヤは、族長の娘だと言っていた。奴隷の身分に落ちながらも、その振る舞いには気品があった。
「顔を上げてくれ、二人とも。私たちはサラントヤを捕らえに来たわけじゃない」
セオラは膝をつき、二人の手を取る。
「そなたがどのような生活をしているか、確かめに来ただけだ。夫には大切にされているのだな」
「はい」
サラントヤは目を潤ませ、夫を見る。
言葉は必要なかった。先ほど、決死の覚悟で妻の無罪を訴えた夫の姿。そして二人が互いを気遣い見つめ合う姿が、彼らの慎ましくも穏やかな生活を物語っていた。
「それならいいんだ」
セオラは二人に微笑む。
ジャンブールを振り返ると、彼もまた納得したようにうなずいていた。
「ナツァグ兄貴はあれからずっと寝込んだままだ」
ガンゾリグからナツァグの現状を聞いたのは、それからまた数日経ってからのことだった。セオラの天幕を訪れたガンゾリグは、侍女たちの用意した揚げパンを塩ミルクティーにつけながら豪快に食べる。
「あの時点ですでに毒にかなりやられていたからな。ナランゴアの看病があるから医者はいらないってはねつけてたらしいし。ナランゴアの献身的な看護を疑うのか、って」
「盲目的にもほどがあるだろう」
ジャンブールが深いため息をつく。
「それだけ夢中になっていた相手が、親父を殺し、自分の命も狙っていた。その上、愛情もなかった。衝撃は相当なものだっただろうな。今は医者が手を尽くして治そうとしてくれているけど、本人の気力が失せてしまってる感じでさ。ずっと『死なせてくれ』と泣いてばかりだってよ」
(気力が失せている……)
散々ナツァグには邪険にされたセオラであったが、さすがに僅かばかりの同情心が湧きあがった。
「なぁ、ジャンブール兄貴」
ガンゾリグは頬杖をつき、兄を見る。
「妃を振り分ける時にさ、オレが強引にナランゴアを引き取っていたら、ナツァグ兄貴は無事でいられたのかな?」
「んー、どうかな。それはそれで、兄弟間の争いが勃発していた可能性もあるし」
「そうだよなぁ」
その言葉を聞いて、セオラの中に疑問が湧きあがる。
「ジャンブール。お前は先王殺害の疑いのある妃を引き取ったと言っていたな」
「言ったね」
「ナランゴアはうちの後宮じゃなかったぞ」
「え、言ったじゃん。本当は迎え入れたかった、って」
セオラは過去の会話を思い出す。あの時感じた、胸の痛みも。
「あれは……、ナランゴアの魅力に溺れて、迎え入れようとしたわけじゃなかったのか」
「いや、何その言い回し! 僕は最初から、怪しい人物を選んだって言ってただろ。ナランゴアもその一人だったよ」
「そっか……」
セオラはほっとする。そして自身の感情に気付かざるを得なくなった。
(私は、ジャンブールがナランゴアに魅了されていなかったことに、安堵している)
トクトクとなる胸に手を当て、セオラは小さく息をついた。頬がほんのり熱を持つ。
「ナツァグ兄さんがあぁなった以上、これ以上兄弟間でごたごたしていたら国の弱体化につながる。ガンゾリグ」
「ん? 何、兄貴」
「君にはこの草原の民の慣例通り、王の座についてほしい」
ガンゾリグの手から、揚げパンが落ちた。
厩務司の奴隷の一人が、慌てて地面へ這いつくばる。
「つ、妻を……」
声を震わせながら奴隷は怯えた目でジャンブールを見上げる。
「連れて行かれるのでしょうか。あの、妻は……」
奴隷は息を大きくつき、勇気を振り絞り言葉を続ける。
「サラントヤは、先王の暗殺には関わっておりません! その頃には、この地で私の元におりましたので! だから、その……」
それだけ言うと奴隷は再び地面に頭を擦りつけ「なにとぞ、なにとぞ」と呻くように繰り返す。
「顔を上げてくれ、えぇと……」
さすがのジャンブールも、ガンゾリグの領内の奴隷全ての名前は把握できていない。
「僕らはサラントヤを捕まえに来たわけじゃないからさ」
その時、小さな天幕の一つから儚げな雰囲気の小柄な女性が顔を出した。
(あ……)
セオラは直感的に理解した。彼女こそナランゴアの妹サラントヤだと。
(確かに、イントールに雰囲気が似ている)
「サラントヤだな」
「は、はい……」
サラントヤは天幕から出てくると、夫と並び跪くと地面に手をついた。
「姉のことは大変申し訳なく思っております。いかようにもなさってください」
ナランゴアとサラントヤは、族長の娘だと言っていた。奴隷の身分に落ちながらも、その振る舞いには気品があった。
「顔を上げてくれ、二人とも。私たちはサラントヤを捕らえに来たわけじゃない」
セオラは膝をつき、二人の手を取る。
「そなたがどのような生活をしているか、確かめに来ただけだ。夫には大切にされているのだな」
「はい」
サラントヤは目を潤ませ、夫を見る。
言葉は必要なかった。先ほど、決死の覚悟で妻の無罪を訴えた夫の姿。そして二人が互いを気遣い見つめ合う姿が、彼らの慎ましくも穏やかな生活を物語っていた。
「それならいいんだ」
セオラは二人に微笑む。
ジャンブールを振り返ると、彼もまた納得したようにうなずいていた。
「ナツァグ兄貴はあれからずっと寝込んだままだ」
ガンゾリグからナツァグの現状を聞いたのは、それからまた数日経ってからのことだった。セオラの天幕を訪れたガンゾリグは、侍女たちの用意した揚げパンを塩ミルクティーにつけながら豪快に食べる。
「あの時点ですでに毒にかなりやられていたからな。ナランゴアの看病があるから医者はいらないってはねつけてたらしいし。ナランゴアの献身的な看護を疑うのか、って」
「盲目的にもほどがあるだろう」
ジャンブールが深いため息をつく。
「それだけ夢中になっていた相手が、親父を殺し、自分の命も狙っていた。その上、愛情もなかった。衝撃は相当なものだっただろうな。今は医者が手を尽くして治そうとしてくれているけど、本人の気力が失せてしまってる感じでさ。ずっと『死なせてくれ』と泣いてばかりだってよ」
(気力が失せている……)
散々ナツァグには邪険にされたセオラであったが、さすがに僅かばかりの同情心が湧きあがった。
「なぁ、ジャンブール兄貴」
ガンゾリグは頬杖をつき、兄を見る。
「妃を振り分ける時にさ、オレが強引にナランゴアを引き取っていたら、ナツァグ兄貴は無事でいられたのかな?」
「んー、どうかな。それはそれで、兄弟間の争いが勃発していた可能性もあるし」
「そうだよなぁ」
その言葉を聞いて、セオラの中に疑問が湧きあがる。
「ジャンブール。お前は先王殺害の疑いのある妃を引き取ったと言っていたな」
「言ったね」
「ナランゴアはうちの後宮じゃなかったぞ」
「え、言ったじゃん。本当は迎え入れたかった、って」
セオラは過去の会話を思い出す。あの時感じた、胸の痛みも。
「あれは……、ナランゴアの魅力に溺れて、迎え入れようとしたわけじゃなかったのか」
「いや、何その言い回し! 僕は最初から、怪しい人物を選んだって言ってただろ。ナランゴアもその一人だったよ」
「そっか……」
セオラはほっとする。そして自身の感情に気付かざるを得なくなった。
(私は、ジャンブールがナランゴアに魅了されていなかったことに、安堵している)
トクトクとなる胸に手を当て、セオラは小さく息をついた。頬がほんのり熱を持つ。
「ナツァグ兄さんがあぁなった以上、これ以上兄弟間でごたごたしていたら国の弱体化につながる。ガンゾリグ」
「ん? 何、兄貴」
「君にはこの草原の民の慣例通り、王の座についてほしい」
ガンゾリグの手から、揚げパンが落ちた。



