「……なるほど。ナツァグ殿にそれを飲ませたのは、ナランゴア様だったか。そう言えば……」
 セオラはイントールを振り返る。
「イントールは商人から『先王様から最も寵愛を受けていたナランゴアがこれを使っている』と聞かされて、買ったのだったな」
 イントールがこくこくと頷く。しかしそれに対し、ナランゴアは怪訝そうに首を傾げた。
「何の話でしょう?」
「え?」
「私は自らそれを入手した覚えはありません。先王様が『良い薬だ』と私に渡してこられたので、それを用意しただけのこと。『良い薬だ』とおっしゃっていたので、保管しておいたものを必要と判断した時に使っていただけのことです。結果的にそれを飲ませてしまったのが私となってしまうのでしょうが……」
 ナランゴアは声を震わせ、両手で顔を覆う。その細い肩を愛し気に抱きしめ、ナツァグはセオラをねめつける。
「確かに俺に薬を飲ませたのはナランゴアだ。そして父王にそうしたのも彼女かもしれん。だが、哀れなナランゴアは騙されただけだ。そこのイントールが、薬と偽り毒を父に渡さなければ、ナランゴアがこうして苦しむこともなかった! ナランゴアは操られたのだ。悪いのは全てお前だ、イントール! 罪を認めて罰を受けろ。ナランゴアの名に釣られて買ったなどと、適当なことを言いおって」 
「何をやってるんだ、ナツァグ兄貴(アハ)
 不意に若々しい声がその場に響く。暖簾(ハーラガ)を開き姿を現したのは、炉の主である監国ガンゾリグだった。
「ガンゾリグ、なぜここへ……」
 末弟(オッチギン)は困惑した様子で長兄を見つめる。
「男が目下の妃の所へ押しかけるのは、誰でも知る禁忌だよ。それを犯したうえ、冷静さを完全に失っていると報告があったんだ」
「放っておいてくれ」
 ナツァグの声が、やや勢いを落とす。
「俺の愛するナランゴアが、罪の意識にさいなまれている。俺はそこから彼女を救ってやりたいだけだ」
(なるほど)
 セオラは、ナツァグが激昂している理由を理解した。
(ガンゾリグからの通達で、ナツァグは自分の不調がナランゴアに飲まされていた毒によるものと理解した。そしてナランゴアは先王に対しても同じことをしていた可能性が出て来た。薬と信じて毒を飲ませ続けたと、ナランゴアは自責の念に囚われている。ナツァグは愛するナランゴアの心的負担を軽くするため、すべての責任を黒い粉末を入手し結果的に先王へ渡したイントールに押し付けたいということか)
「絵があれば防げたのだ」
「……絵だと?」
 セオラの声に、ナツァグが目を上げる。セオラは頷き続けた。
「商人はその強壮剤を使う際に、絵を寝床の側に掛けるよう言っていた。その絵は黒い強壮剤の毒性を打ち消す効果を持っていたんだ。にもかかわらず先王はその絵を持たず、強壮剤だけをイントールの元から奪い去った。先王が亡くなったのは残念ながら本人の手落ちだ。そしてナツァグ殿の不調も」
「父上を愚弄するか……」
 ナツァグの瞳に再び怒りが燃える。
「父王が死んだのも、俺がこうなったのも、自業自得だとお前は言うのか!」
「兄貴、落ち着けよ!」
 黒ずんだ顔に深い隈を宿した第一王子は、苦し気に息をつきながらセオラを睨む。セオラは彼へ椅子を勧めたが、ナツァグは忌々し気にそれを蹴飛ばした。
「そんな絵があるなら、今すぐ出せ」
 幽鬼のような顔つきで、ナツァグは喚く。
「毒を消す効果がある絵と言ったな。そんな魔法のようなものがあるなら、ここへ出してみろ」
「それは無理だ」
 先日、ジャンブールがサンサルロを発つ際に、持って行ってしまった。
「今はない」
「なら、嘘だ」
 勝ち誇ったように、ナツァグは顔を歪めて笑う。
「あの黒い粉の毒成分を消す物など、最初からないのだ。そこのイントールは父王に盛るための毒を買った。それだけの話だ!」
「だから毒性のことは、イントールも知らなかったと……」
「うるさい! イントール、この毒婦。お前は死刑だ。この俺自ら首を落してやる!」
「ヒィッ」

 その時、暖簾の勢いよく開く音がした。オレンジ色(オルバルシャル)の服を身に纏い、明るい微笑をたたえた人物が、陽光を背負って姿を現した。
「絵ならここにあるよ」
 見覚えのある絵巻物が、武骨な手にしっかりと握られていた。生命力にあふれた両の瞳は、まっすぐにセオラを見ていた。
「ただいまセオラ。イントールも」
「ジャンブール!」
「ジャンブール、さ、ま……」
 セオラの後ろで、どさりと重い音がした。気が抜けたのだろう、イントールは棚にもたれかかり、焦点の合わぬ目を天井へ向けていた。
「ジャンブール、いつ帰って来たんだ?」
「今だよ。やー、ギリギリ間に合ったかな?」
 埃っぽいジャンブールは靴音を立てながら天幕内へ入ってくる。そして空いている片方の腕でセオラを力強く抱いた。
「ジャ……ッ」
 なぜかセオラは動けなかった。抵抗する力が湧かず、ただジャンブールに抱きしめられるままになっていた。
「……ジャンブール、お前の服ざらざらしているな」
「ははっ、砂漠越えて来たからね~。ところであれはどうだった?」
「あれ? あぁ」
 セオラは強壮剤と顔料を溶かし込んだ器を振り返る。
「魚は元気だ。両方入った方だけな」
「よっしゃ! 予想は当たったな」