(埃を吸い込んでしまったか)
 セオラはむせながら頭を覆う巻物を取り除け、そこに描かれたものに目をやりぎょっとなった。
(これは……)
「いやぁ……! 見ないでください!!」
 イントールが真っ赤になった顔を両手で覆い、その場に崩れ落ちる。
 巻物に描かれていたのは、一対の男女が艶めかしく絡み合う、愛欲の世界だった。
「ち、違うんです、いやぁああ!」
 イントールは酷く恥じ入り、目に涙まで浮かべている。
「イントール?」
「違うんです、違うんです!」
 ついにしゃくりあげ始めたイントールは、耳まで赤くして半錯乱状態に陥っている。
「落ち着いて、イントール」
「だってこんなみだりがましいものをセオラ姉さまに見られて……。死んでしまいたい!」
 セオラは巻物を巻いて戻し、元あった場所へ片づける。
「大丈夫、イントール。恥ずかしいことなど何もないから」
 セオラの言葉に、イントールは両目を覆っていた手をずらす。その双眸はたっぷりとした涙で濡れそぼっていた。
「后妃であれば、こういうものを持たされることは普通だ」
「そう、でしょうか?」
「あぁ。嫁入り道具なのだろう?」
 イントールはしばらくぐしゅぐしゅと鼻を鳴らしていたが、やがて小さくかぶりを振った。
「それも実は、まじない道具の一つなのです。受寵を願うもので、先王様にお仕えしていた頃に隊商から買いました」
「受寵の」
 大人しいイントールが思い切ったものを買ったものだと、セオラは内心驚く。しかしそこは顔に出さぬよう、気を配った。セオラ自身もこういったものにはこれまで縁がなく、かなり動揺していたのだが。
 イントールは立ち上がり、一つの引き出しを開けると薬包を取り出す。開けばそこには、黒い粉状のものが入っていた。
「……強壮剤です」
「強壮剤?」
「はい。事を行う際に殿方に飲ませることで、大いに盛り上がると」
 平静を装いつつ聞いてはいるが、まだそう言った事態に直面したことのないセオラは内心落ち着かない。一瞬、ジャンブールの広い胸を思い出したが、すかさず追い払った。
「その時に最も大事なのが先ほどの絵だそうで。寝床の側にあの絵を掛け、その下で事を成せば殿方からの寵を得られ、円満な関係を築けると商人が言っていました」
「そ、そうなのか」
「当時、先王様から最も寵愛を受けていたナランゴア様も同じものを使っていると説明がありました」
(ナランゴア……!)
 先日顔を合わせた、第一王子ナツァグの第二妃であると、セオラは思い出す。ナツァグに「ナランゴアさえくれれば、他の女は要らない」と言わしめた存在だ。先王にとっても一番の寵姫であったとなると、サンサルロの男たちにとって彼女は余程魅力的であるのだろう。そんな彼女が使っている呪具であれば、受寵を願う女たちは先を争ってこれを手に入れようとして当然だ。それは想像に難くなかった。
「だけど……、先王様がおいでになったあの夜……」
 再びイントールの瞳に涙が膨れ上がる。
「強壮剤を差し上げ、この絵を飾ろうとした時、先王は私を激しく叱責したのです。なんてはしたない真似をする女だと。そして強壮剤だけを私から取り上げ、二度と私の天幕に訪れることはありませんでした」
 イントールが泣き崩れる。その細い背を、セオラはそっとなでた。
「お願いです。このことは他の人に……、特にジャンブール様には言わないで」
 しゃくりあげながら、イントールが懇願する。
「この強壮剤も本のすき間に挟まっていた最後の一つです。あの日以来、私はこれをずっと仕舞いこんでおります。叱られたくないので一度たりとも使っておりません、だから……!」
「わかった、これは私たちだけの秘密だ」
 イントールはしっとりと露を含んだ睫毛を上げる。
「本当に?」
「あぁ。約束する」
 セオラが頷くと、また一筋イントールの頬を光が伝った。



 自分の天幕に戻ると、既に夕飯の準備がされつつあった。石焼き羊肉(ホルホグ)に入っている蒸された根菜が好きなセオラは、思わず頬を緩めた。
 やがてジャンブールが戻ってくると、すっかり日常となった二人の食事が始まる。
「セオラ、どこか具合でも悪いのかい?」
 セオラが四分の一ほど食べた頃、ジャンブールが問いかけてきた。
「え?」
 見ればジャンブールはもう、皿を空にしつつある。普段ならほぼ同時に食べ終わる二人だが、今日のセオラはあまり食が進んでいないようだ。
「そんなことはないのだが……。言われてみれば少し食欲がないかもしれん」
「食欲がない?」
「あぁ、あまり胃に入らないというか。美味しくはあるのだが、今日はもう十分だな」
 好物を用意してくれた侍従に申し訳なく思いながら、セオラは皿を下げるように指示を出した。
「セオラ、これはなんだい?」
 不意にジャンブールがセオラの髪に触れる。つぅ、と優しくしごくようにしたジャンブールの手には、キラキラと色鮮やかな粉がついていた。
「なんだこれは」
 セオラも首をひねる。
「顔料のようだね。絵を描くときに使う」
「絵……、あっ! イントールの天幕にあった絵か」
 セオラは、絵巻物が頭上へ降ってきたことをジャンブールに説明する。そこに描かれていた内容には触れずに。
「恐らく乾燥した顔料が……ふぁ!?」
 不意にうなじを撫でられ、セオラは飛び上がる。
「何をする、ジャンブール!」
「いや、首にもついていたから拭き取っただけだけど」
 ジャンブールが指先をセオラに見せる。そこには確かに、様々な色合いの粉がついていた。
「あれ? もしかしてセオラ、そこがくすぐったかったりする? 可愛いね」
 にまにまと笑うジャンブールの横腹を軽く小突き、セオラは棚から布を取り出した。
「自分でやるから、触るな!」
 セオラは狼狽しながらごしごしと乱暴に拭く。先ほどジャンブールに見せてしまった失態を取り消すように。セオラが拭き終えると、ジャンブールもその布を受け取り、手についた顔料をぬぐった。

 その夜、セオラは体調を崩した。