紫の暖簾(ハーラガ)を開き、セオラとジャンブールは外へ出る。馬の繋いである場所まで行こうとした二人を、ナランゴアが追って来た。
「せっかくおいでくださったのに、十分なおもてなしも出来ず申し訳ございません」
「いや、君は悪くないよ、ナランゴア。まだ十分に回復していない兄さんの所へ押しかけた僕らが悪かった。」
 へらりと笑うジャンブールに、ナランゴアはほっとしたように口元をほころばせた。
「兄さんのこと、頼むね」
「えぇ、それは勿論」
「あ、あのっ」
 セオラはナランゴアに向かって頭を下げる。
「先ほどは済まなかった」
「あら、何のこと?」
「……ナツァグ殿の第一妃が、トゴス族の女だと言ったことだ。第二妃のあなたに対して、多少なりとも失礼だったと思う」
「まぁ、うふふ」
 ナランゴアは上品に目を細める。
「お気になさらないで、事実ですもの」
「しかし」
「ナツァグ様にも事情がございますから。第一妃はトゴス族というだけでなく、まだナツァグ様がお若い時分に族長同士の約束でお迎えした御方です。そんな方を無碍になさってはいけませんでしょう?」
 ナランゴアは満足気に微笑んだ。
(あれ)は第二妃ではありますが、ナツァグ様から最も愛されております。それで十分なのです。最もつらい時に側にいたいと思ってもらえるだけで、吾はこの世の誰よりも幸せ者ですわ」
「ナランゴアはナツァグ殿を愛しておられるのだな」
「はい」
 ナランゴアに釣られ、セオラも表情を和らげる。そこへジャンブールがずいと身を乗り出し、セオラの肩を抱き寄せた。
「はーい、僕もセオラを愛してまーす」
「ちょ、この馬鹿っ!」
「あらまぁ、ジャンブールったら」
「離せ、ジャンブール! お前はどうしていつも、そんなふうにふざけてばかりなのだ!」
 思いの外力強い抱擁にセオラがもがいていると、足元へ一つの影が差した。
「ははっ、えらく賑やかだな、ジャンブール兄貴(アハ)
「ガンゾリグ!」
 振り返れば、家臣を引き連れた監国の姿があった。
「どうしたんだ、ガンゾリグ」
「ナツァグ兄貴の見舞いに来たんだ。兄貴たちもだろう? 顔を見に入っても問題なさそうか?」
「ははは、お前なら大歓迎だろうよ」
「おっ、それなら良かった!」
 ガンゾリグは豪快に口をあけて笑う。そこへナランゴアがそっと近づく。
「久しぶりね、ガンゾリグ」
「おっ、ナランゴア義姉(アガ)。そういやここは。ナランゴア義姉の天幕か。相変わらず兄貴はあんたにベタ惚れだな」
「あら、うふふ」
 嬉しそうに微笑むナランゴアに笑みを返し、ガンゾリグは懐を探った。
「そうだ、これ」
 ガンゾリグが帯の間から真珠の耳飾りを取り出す。大粒で微かに桃色がかったものだ。ガンゾリグは一つを摘まみ上げると、ナランゴアの耳元へそれを近づける。すでにナランゴアの耳を飾っていた真珠と比べ、ガンゾリグは「う~ん」と唸った。
「この間、隊商が来た時に手に入れたんだ。ナツァグ兄貴の贈ったものよりは大きいが、親父からの真珠に比べるとまだ小さいな。ま、やるよ」
「あら、ありがとう、ガンゾリグ」
 ナランゴアはガンゾリグからの贈り物を受け取り、やんわりと目を細める。
「でも、真珠の耳飾りはたくさんいただいているわ。ナツァグからも、あなたからも。もう十分よ」
「だけどさ」
 ガンゾリグはがしがしと頭の後ろを掻く。
「親父がナランゴア義姉に贈った真珠は見事なものだったからなあ。あんな大粒のもの、後にも先にも見たことねぇ。あれをなくしちまうなんてなぁ……」
「本当に。先王には申し訳ないことをしたわ」
「いや、責めてるわけじゃないんだ。ただナランゴア義姉によく似合っていたから、もう一度着けてる姿が見たいんだよ。オレが」
「気持ちは嬉しいけど。あなたからの贈り物を喜んでつけていたら、ナツァグがヤキモチ妬いちゃう」
 ナランゴアが肩をすくめると、ガンゾリグは破顔した。そしてセオラを振り返る。
「聞いてくれよ、セオラ義姉。ナツァグ兄貴のやつ、親父の后妃をオレらの後宮に振り分ける時になんて言ったと思う? 『頼むからナランゴアだけは俺にくれ。ナランゴアさえ俺の妃になってくれれば、他には誰も要らない』って言ったんだぜ」
「それは、随分と熱烈だな」
 セオラは自分へ向けたナツァグの敵意のこもった目を思い出す。あの男が、そこまで一人の女に入れあげたのだと思うと、少しおかしみを覚えた。
「ガンゾリグったら」
 ナランゴアは、監国の腕を軽く叩く。
「恥ずかしいわ。その話、あちこちで聞かせて回っているでしょう?」
「ははは、誰に話しても受けるからな」
「もうっ」
 ガンゾリグとナランゴアの間に流れる親密な空気に、セオラは「おや」となる。
「どうかなさいまして?」
 セオラの視線に、ナランゴアはいち早く気付いた。
「あぁ、いや……。二人は随分と仲が良いのだな、と思ってな。まるで本当の姉弟のようだ」
「何の不思議もございませんわ」
 そう言って、ナランゴアとガンゾリグはにっこりと微笑み合う。
「ガキの頃、オレが親父の所へ行くと、いつもナランゴアが茶や菓子を用意して遊んでくれたんだ。だからオレはナランゴアになついてた」
「ふふ、あの頃はガンゾリグの義母でしたものね」
「言っとくけど、親父の后妃を自分の後宮に振り分ける際、オレもナランゴアを招き入れたいって言ったんだぜ? けど兄貴にあそこまで言われちゃあな」
「今度は義姉になっちゃったわね」
 和やかに笑い合う二人を見ながら、セオラは肘でジャンブールをつつく。
「何?」
「お前は参加しなかったのか? ナランゴア争奪戦に」
「や~。実を言うと、僕もナランゴアを後宮(オルド)に迎えたかったんだけどさ」
 その言葉に、セオラの胸がツキンと痛む。だが、ジャンブールは第一妃が僅かに顔を強張らせたことに気付かない。
「兄と弟が取り合ってるのを見たら、尻込みしちゃったよ。僕、争うの苦手だもん」
 へらへらと笑うジャンブールに、セオラは心の内で「嘘つきめ」と思う。ジャンブールは好みの女を取り合うよりも、父王の仇を見つけ出すことを優先したというだけだと思った。
「それにさ」
 言いながら、ジャンブールはセオラの耳元に口を寄せる。
「本当に欲しい相手は、ちゃんと捕まえたし」
 先程、他の女を欲した過去を自白したばかりのジャンブールの口から洩れた甘い声に、セオラの肌がピリリと痺れる。
「お前はそうやって、口先ばかりでぬけぬけと!」
「本音だし」
 陽気に屈託なく笑うジャンブールの姿を、セオラは眩しく思う。オレンジ色(オルバルシャル)の衣と彼の輝くような笑顔が相まって、太陽のようだと感じた。
「では、ガンゾリグを案内してまいりますわね」
 振り返ると、ナランゴアが一行を天幕へと案内するところだった。
「今日は邪魔したね、ナランゴア。兄さんの具合がもう少しよくなったら、また来るよ」
「ありがとうございます、ジャンブール」
 ガンゾリグとナランゴアは仲の良い姉弟のように並んで歩く。
「ナツァグ様にもしものことがあった時は、ガンゾリグが吾を助けてくれるわね?」
「おう、任せろ」
 そんな二人の会話が、風に乗ってセオラの耳へと届いた。