ジャンブールの兄、ナツァグの体調不良を知ったのは、狩猟大会から数日経過した日のことだった。
「熱が下がらないらしく、特に手足が火照ってよく眠れないそうだ。他には吐き気と全身の倦怠感が酷く、用を足すにも一苦労していると聞いたよ」
 ジャンブールから聞かされ、セオラは狩猟大会の日に見たナツァグを思い出す。肌は病的にくすみ、黒ずんでいるようにさえ見えた。やはりあの時点で、不調を抱えていたのだろう。
「……似ている気がするんだ」
「似てる?」
 セオラの問い返しに、ジャンブールは神妙な顔で頷く。
「父上の時と、ね」
「なんだと?」
「まぁ、病状は人づてに聞いただけだから断定はできない。だから直接見に行くのさ」
 ジャンブールは帽子(マルガエ)の位置を直した。
「医者とナランゴアの献身的な看病で、最も悪い状況からは脱したらしい。見舞うなら今だ」
「ナランゴア?」
「あぁ。ナツァグの第二妃の名前だよ」
「なぜこんな大変な時に側にいるのが第一妃ではないのだ?」
 不思議そうにするセオラへ、ジャンブールは言いにくそうに返す。
「兄さんの一番お気に入りの妃だからだね」
「最も気に入った相手なのに、第一妃にしなかったのか?」
「兄さんの第一妃は、トゴス族から嫁いできた人なんだ。父が存命の頃にね」
(トゴス族……)
 歴代サンサルロ王が皇后として側に置いた女の出身地だ。同じトゴス族であるグアマラルの態度から想像するに、「選ばれし女」と自負している者も多いのだろう。そんなトゴス族の女を降格などすれば、親族が黙ってはいまい。
「ナツァグ殿の見舞いだが、私も行った方がいいだろうか」
「そうだね。兄さんの様子は君にも見ておいてもらいたい」
 二人揃って天幕を出て、馬の繋いである柵まで行く。そこでジャンブールが「あ」と小さな声を上げた。
「どうした」
「ごめん、忘れ物」
 セオラの天幕へと小走りで駆けこんだジャンブールは、ほどなくして戻って来た。
「忘れ物は見つかったのか?」
「うん、ここにある」
 彼は懐を軽く叩いて見せ、ひらりと馬に跨った。

 ナツァグの天幕群へ辿り着いた二人は、馬を柵に繋ぎ、入り口に紫色の暖簾(ハーラガ)のかかった天幕へと足を向ける。そこがナツァグの臥せっている場所だった。
「ナツァグ兄さん(アハ)
 天幕へ足を踏み入れると、椅子に腰かけていた妖艶な女性が振り返った。
「ジャンブール、よく来てくれたわね。それからそちらは……」
「セオラだよ、僕の第一妃の」
「あら」
 きらめく紫色の衣をまとった女性が立ち上がり、優美な仕草で挨拶をした。
「初めまして、セオラ妃。(あれ)は、ナツァグ様の第二妃のナランゴアと申します」
「あ、セオラ、です」
 ナランゴアの完璧に洗練された振る舞いに圧倒され、セオラはぎこちなく挨拶する。
(グアマラルとはまた違う美しさだ)
 グアマラルが咲き誇る大輪の花だとすれば、ナランゴアは視界いっぱい埋め尽くし咲き乱れる花の絨毯である。全方向から包み込まれてしまいそうになる。金の装飾も見事な大粒の真珠の耳飾りがよく似合っていた。
「何しに来た」
 ナランゴアの後ろから顔を見せたのは、まだ苦し気に寝床に横たわったままのナツァグであった。何やら飲んでいたのか、ぐいと口元をぬぐう。そこには黒い粉状のものが、僅かに貼りついていた。ナツァグの手にした空の器をナランゴアは受け取るとサッと袖に隠し、口元の汚れを素早くぬぐい取った。
「見舞いに来たんだよ、兄さん。回復してきているようだね」
「ふん」
 不機嫌に呻きながら、ナツァグはそっぽを向く。
「ずっと吐き気が続いている。まともに起き上がれやしない」
「さっきは何を飲んでいたんだい?」
「お前には関係ない」
 ナツァグの様子に、セオラは兄弟間の確執を感じ取る。本来、末っ子が王位を継ぐべきこの国で、次男であるジャンブールが家臣から支持されていることは、この国の未来を支える王子の一人として、歓迎できない状況なのだろう。
「滋養強壮剤のようなものですわ」
 来客用の茶を用意しながら、ナランゴアが穏やかな声で代わりに答える。
「先王様が、ここぞという時に飲んでいらしたの」
「ナランゴア!」
「いいじゃありませんの」
 ナツァグの咎めるような声にも、ナランゴアはふんわりと笑顔で返す。その微笑みたったひとつでナツァグは黙ってしまった。
「そういうのなら口にできるんだね。ちょうどいいものを持って来た」
 ジャンブールが懐から取り出したのは、以前セオラが作った白梅や白檀等の実をすりつぶし団子状にしたものだった。
「それは……」
「ナランゴア、湯をもらってもいいかい?」
「えぇ、かまわないわ」
 戸惑うセオラを尻目に、ジャンブールは悠々とした仕草で器に団子と生姜を入れ、湯を注ぎ仕上げていく。
「ジャンブール、さっき取りに戻った忘れ物と言うのはまさか」
「これだよ、セオラの作った健康飲料。ちょうど症状も一致してるし、いいんじゃないかと思って」
「勝手な真似を」
「だけどこれは、不調を抱えた人のためにあるものじゃない?」
 器の中身をかき混ぜて溶かし、ジャンブールは兄の元へと足を進める。
「兄さん、これを飲んでみてよ」
「なんだ、それは」
「セオラの作ったものだ。吐き気と熱、その他もろもろに効くんだって」
「チッ」
 ジャンブールが捧げた器を、ナツァグは邪険に払い落とす。派手な音を立てて器が割れ、中身は床にぶちまけられた。
「兄さん!」
「……何を企んでいる」
 濃い隈を落した両眼が、ジャンブールとセオラをギラリとねめつける。
「こんな怪しげなものを飲ませて、俺を殺す気だな?」
「えぇ……。僕がそんなことをするわけないだろう」
「白々しい! 俺が消えれば、ガンゾリグの味方が減る。そうなれば次は家臣たちを引き連れてガンゾリグの命を狙うつもりだ」
 ぜいぜいと息を荒げるナツァグを前に、ジャンブールとセオラは顔を見合わせる。
「あのさぁ、兄さん。俺はゴラウン族のセオラを第一妃にしたんだ。サンサルロの王は歴代、トゴス族の女を第一妃にするのが慣例だろ? 僕にその気がないって、どうすれば分かってくれるのかなぁ?」
「黙れ黙れ黙れ!」
 ナツァグは叫び、そして「うっ」と口元を押さえる。吐き気を催したのだろう。第二妃ナランゴアがそっと寄り添い、ナツァグを寝床へと寝かせた。
「ジャンブール、俺はお前を信じない」
 いささか弱々しくなった声で、ナツァグは続ける。
「そうやって、何の野望もない顔をしながら家臣たちの心を掌握していったのは、まぎれもない事実だ。一体、どんな汚い手を使ったのやら」
「だからぁ……」
「ナツァグ殿」
 セオラが前に出る。
「ジャンブールの言っていることは本当だ。彼に野望などない。ガンゾリグ殿を支え、純粋にこの国のために動こうとしてる。この飲物だって、貴殿の体のことを思って……」
「俺に直接口をきくな、女の分際で!」
 ナツァグの言葉に、セオラはひやりとした思いを抱く。かつて、ゴラウンで父から受けた扱いを思い出した。しんと冷えた頭が、セオラを大胆に開き直らせた。ついでに言えば、ジャンブールが罵られていることに、セオラは腹を立てていた。
「王位を狙っているというならば、貴殿も十分に怪しいぞ。なにせ、貴殿の第一妃はトゴス族の女なのだろう。歴代王が皇后とするのがトゴス族と聞いたが? 貴殿こそ野心がないなら、最も愛する妃を第一妃にすればいいではないか」
「は?」
 思いがけぬ反撃を受け、ナツァグはぽかんとなる。やがて最愛の第二妃ナランゴアへちらりと視線をやり、顔に怒りを漲らせた。
「ジャンブール! この無礼な女を俺の目の前から下げろ!」
「はいはい」
 ジャンブールは素直に従い、セオラの肩を抱く。
「兄さんの具合はまだ優れないようだし、僕たちはこの辺で撤退するよ。行こ、セオラ」
「あぁ」
 天幕から退出しようとする二人へ、ナツァグは更に言葉を投げかける。
「さっきの怪しい飲物は、その女が用意したと言ったな。ひょっとすると、父上を毒殺したのもセオラではないのか? ジャンブール、お前の手引きでな」
(なっ!)
「兄さん……」
 声に微かな苛つきを滲ませ、ジャンブールは兄を振り返る。
「セオラがここへ来てからまだひと月も経っていないよ。父さんが亡くなった時期から、ずいぶん離れてると思うけど。熱で混乱しているのかい?」
「うるさい! その女がここに来る前に、お前たちが知り合いでなかった証拠はない」
 ナランゴアが先ほど用意した茶を、ジャンブールはぐっとあおる。
「……お暇しよう、セオラ」
 セオラもジャンブールに倣い茶を飲み干すと、第一王子に背を向けた。