「セオラの馬が見当たらないな。輿で来たのかい?」
「いや」
 まだ痛む舌を風に当てながら、セオラが答える。
「お前にもらった白馬で来た。間違いなくここに繋いだはずなんだが」
「グアマラル」
 冷ややかな声のまま、ジャンブールは後を追って来たグアマラルを振り返る。
「まさか、馬で来た者を徒歩で帰すつもりで、隠したのかい?」
「ち、違いますわ!」
 グアマラルの顔色は完全に変わっていた。
「わ、わたくし何も知りませんわ! 本当ですのよ! 信じてくださいまし!」
 セオラはジャンブールの腕を押さえる。
「私はここに馬を繋いでから、グアマラルの天幕へ行った。そこから茶まで、彼女とほぼ一緒にいたんだ。グアマラルには私の馬をどこかに連れて行く余裕などなかったと思う」
「だが、現にセオラの馬は見当たらない。グアマラルでなければ、一体誰が……」
 その時、軽やかな蹄の音が近づいてきた。
「セオラ様の馬なら、ここへ」
(バル……!)
 がっちりした体格の男が、手綱を引きながらやってくる。
「ここからほど近い場所で、草を食んでいるのを見つけました。逃げ出したのでしょう」
(逃げ出した? そんなはずはない)
 セオラは間違いなく、柵にしっかりと結び付けて行ったのだから。
 あの日、バルが白馬の尻を殴りつけたであろうことを思い出す。
(この男がまた、嫌がらせ目的で私の馬を隠したのか?)
 そんなことも考えたがいかんせん証拠がない。
「見つけてくれて助かった、ありがとうバル」
「……いえ」
 互いの言葉とは裏腹に、セオラとバルは睨み合う。やがてバルが、微かに鼻で笑ったのをセオラは見逃さなかった。
 セオラは白馬の様子を確認する。そして傷つけられた痕跡がないことに、ほっと息をついた。
「帰ろう」
 ジャンブールに促され、セオラもまた馬上の人となる。自分の天幕へ帰ろうとして、何の気なしにセオラは振り返った。
(ん?)
 グアマラルがバルに向かって、何やらすごい剣幕でまくしたてていた。やがてバルに平手打ちをする。猪首の男はその場に這いつくばり、ペコペコと頭を下げていた。

 天幕に戻ると同時にジャンブールは医者(マンバ)を呼び、セオラを診せた。口腔内は皮のめくれた部分が数ヶ所あったが、幸いにも数日中には治ると言われ、胸をなでおろす。しばらくは薬を飲みながら、刺激の少ない食事をするよう伝えられた。
「全く……」
 医者が天幕から出ていくと、ジャンブールは大きく息をついた。
「野心の強い女だとは思っていたが、まさかこんな真似をするとは」
 大きく筋張った手が、セオラのすべやかな頬にそっと触れようとした時だった。
「馬鹿者!」
 セオラはその手を弾いた。
「え?」
 困惑するジャンブールをセオラは睨みつける。
「なぜ、あんな真似をした!」
「あんな真似って?」
「私の口から、茶を……」
 そこまで言ってセオラは俯く。
「あー……」
 ジャンブールは気まずそうに頭を掻いた。
「えっと、許可なく唇を合わせたことを怒ってるのかな? でもあれは緊急事態だったし」
「そうじゃない!」
 セオラは自分の胸元をぎゅっと掴んだ。
「あれがもし毒だったら、今頃お前がどうなっていたか分からないのか」
 ジャンブールはぽかんとなる。そして「あぁ」と手を叩いた。
「言われてみれば、そうだね」
「言われてみれば? お前という男は何と迂闊な……!」
「だってあの時は、君を助けることしか頭になかったから」
 セオラが息を飲む。
「毒かどうかだなんて、考える余裕もなかったよ」
 理解できぬといったふうに、セオラはかぶりを激しく横に振った。
「お前は、大国サンサルロの王子なんだぞ。しかも、皆の期待を背負っている。私なんかより自分の命を優先してくれ」
「僕を心配してくれるんだ?」
「単純に、切り捨てるならどちらがましかの話をしている」
 その瞬間、セオラは広い胸の中にきつく抱きこまれた。
「離……」
「僕はセオラを切り捨てたくない」
「馬鹿、馬鹿! 私とお前、民が困るのはどちらを失った時だ? そんなことも分からないのか」
「はは、やっぱり僕は王に向いてないってことさ」
 ジャンブールの腕が緩み、胸に押し付けられていたセオラの顔が露になる。その潤んだ瞳を見て、ジャンブールは表情を和らげた。
「だけど僕も君に言ったよね? 何が起こるか分からないから、気を付けるようにって」
「うっ」
「迂闊勝負は、どちらの勝ちかな?」
 セオラは口ごもり、やがて「すまない」と小さく呟いた。


 夜が更けると、ジャンブールはいつものように西側の寝床へごろりと横になる。
「やはり今宵もここで寝るのだな」
「当然。君にあんなものを飲ませる妃の側で、寝て来いなんて言わないよね?」
 言えるはずがない。媚薬を盛ることくらいなら序の口だろう。甘やかな香りに満ちたグアマラルの天幕を思い出し、セオラは一つため息をついた。
「だが、私の隣でのんきに寝られるお前の感覚も、いまいち理解できん」
「うん?」
「私は無理矢理攫われてきた上、サンサルロの兵士に痛めつけられたんだぞ? 私がお前の寝首を掻くとは思わないのか?」
「あぁ」
 ジャンブールは、ぐっと伸びをする。そして布団を肩の所まで引き上げた。
「その時は、僕の見る目がなかったと諦めるさ。お休み、セオラ」
「……おやすみ」
 間もなく、ジャンブールの穏やかな寝息が聞こえてくる。セオラも布団を引き寄せ、目を閉じた。
(妙な男だ……。私がこれまで見て来た男たちとは全然違う)
 そっと自分の唇に手で触れる。心の準備をする間もなく押し付けられた、ジャンブールの唇の感触。
 胸の奥が甘くざわめいた。