「馬を殴った? 誰だ、そんな真似をしたのは!」
 セオラは直前まで側にいた人物を思い出す。走り出した馬に、乾いた笑いをぶつけた者を。
「……バル、かもしれない」
 逡巡しながらも、セオラは大尉(ダユ)の名を口にする。
「バルが!? それは本当か」
 しかしそれに対し、セオラは首を横に振った。
「どういうことかな?」
「直前までバルが私と馬のすぐ近くにいたのは間違いない。だが、私は彼が馬に手を上げた瞬間を見ていない。状況的に考えてほぼこの男だろうが、証拠がないのだ」
「……しらを切られたら、追及の仕様がないということか」
「あぁ。私を睨んでいたし、走り出した馬を見て嗤ってもいた。だがそれらも私の主観によるものと言われれば、どうしようもない」
 ふぅ、と息をつきながら、セオラは白馬を撫でる。
「痛い思いをさせたな、怖かっただろう。お前が無事でよかった」
 セオラの柔らかな声に、白馬はぶるるっと身を震わせながら顔を摺り寄せる。それを見て、ジャンブールは目を細めた。
「怖い思いをしたのは、君もだろうに。セオラは優しいね」
「怖い? いや、驚きはしたが怖くはなかったぞ」
「そうなの?」
「馬なら、あれくらいの速さを出すものだ」
 セオラの「何を言ってるんだ」とも言いたげな表情に、ジャンブールは呆気にとられる。そしてすぐさま吹き出した。
「全く、僕の第一妃の勇ましさったらないよ」
「仮初の、だがな」
 セオラのすげない答えに、ジャンブールはやれやれと一つ肩をすくめる。
「さて、狩りはどうしようか? 少し行った先の森が目的地だけど」
「当然、行く」
 白馬の心臓の音を確認し、にこりと笑ってセオラは再び馬上の人となる。
「これだけの足を持つ馬だ。きっと素晴らしい走りを見せてくれるだろう」
「そうだな」
 ジャンブールも自分の馬を呼び寄せ、漆黒の体にひらりと跨る。
「先に三匹仕留めた方が勝ち、ってことでいいかな?」
「望むところだ」
 言うが早いか、セオラは白馬へ「テュー」と声をかける。
 二頭の馬は軽やかな足取りへ、森へと走り出した。



 セオラとジャンブールが天幕群へと戻ってきたのは、昼過ぎであった。
「良い勝負だったね、セオラ」
「……」
 浮かれた様子のジャンブールとは裏腹に、セオラはおかんむりと言った風情であった。馬には共に、三匹の獲物が吊るされている。
「勝負はお前の勝ちだ、ジャンブール。私より先に獲物を仕留めていた」
「射ったのはほぼ同時だっただろう? 引き分けでいいじゃないか」
「慰めは要らん。獲物を貫いたのは、お前が先だった。……弓で負けたのは初めてだ」
 むくれるセオラに、ジャンブールは悪戯っぽく歯を見せる。
「あーぁ、こんなことなら賭けでもしておくんだったな」
「賭け?」
「そ。僕が勝ったら『愛してる』とセオラに言ってもらう、とか」
「ふざけるな」
 腹を立てるセオラの様子に、ジャンブールはけらけらと笑う。やがてジャンブールは、己の仕留めた獲物を掴み上げ、セオラへと突き出した。
「これらはセオラに任せていいかな」
「構わないが。処置を終えた肉はどこに届けさせればいい?」
「僕の所に持ってこなくていいよ。全て君の天幕群で消費してくれ」
「お前は要らないのか?」
 セオラの問いかけに、ジャンブールは少し考える。
「そうだな。じゃあ、僕の分も調理しておいてくれるかい? また夜、君の天幕に行くからさ。その時食べさせてよ」
「あぁ、わかった」
 ジャンブールを見送り、セオラは自分の馬を柵へと繋ぎ止める。
「ばあや、今帰った。いるか?」
 セオラの声に、老女がせかせかと天幕から出てくる。
「はいはい、セオラ様。第一妃ともあろうお方がそのような大声を出されますな」
 小言を口にしたホランへ、セオラは六匹の獲物を高々と上げて見せた。
「これの処置と調理を頼む。ジャンブールも夜に食べに来るらしい」
「はい、かしこまりました。ふふ」
「なんだ」
「ジャンブール様とは仲睦まじいご様子。ばあやは嬉しゅうございます」
 ホランの言葉に、セオラは目をしばたかせる。そして聞こえるか聞こえないかの声「そんなものではない」と呟いた。
「さぁさ、セオラ様。ジャンブール様が夜にお越しになるのであれば、もう少し身ぎれいにいたしませんと」
「必要ない」
「なくはありませぬ! 全く、いつまでも男のような物言いをなさって、せっかくのお美しい(かんばせ)が勿体のぅございます」
 ホランにたしなめられながらセオラは天幕へと戻ってゆく。

そんなセオラへ、物陰から刺すような視線を送る一人の人物がいた。
「……なんて野蛮で、優美さの欠片もない女なの」
 第二妃グアマラルである。真珠のような歯できりっと唇を噛みしめ、瞳は憎悪に染まっていた。
「あんな女がジャンブール様から寵愛を受けているなんて。許せない……!」