夜明けとともに、セオラは目を覚ます。
そしてまだ見慣れぬサンサルロの天蓋に、一瞬身を固くした。
(あぁ、そうだった……)
眠気が去るとともに、この数日間のことが脳裏によみがえる。
実の父から不要とされ、サンサルロ兵によってゴラウンから拉致され、ジャンブールの第一妃にされたこと。
そして、他の妃たちとの顔合わせを終えたこと。
(あの国に未練はないが、ここは退屈だな)
ゴラウンにいた頃は、毎朝馬を駆り領内を見回っていた。
そうすると朝の澄み切った空気が体内を満たし、体の隅々に力が行きわたる気がした。
だが今は、それが出来ない。狭い天幕の中で、ただ思考を巡らせるのみである。
ほんの数日のことであったが、セオラはそこに不満を覚えていた。
「あれ? セオラ、もう起きてたんだ」
ジャンブールが寝床の上で身を起こし、セオラを見る。
「早いね。君の寝顔を堪能してから、仕事に向かおうと思ったのに。残念」
「……先に起きて正解だった」
セオラの言葉に、ジャンブールは笑う。
「まだ早いよ。もうひと眠りしたら?」
「そうしたいのは山々だが、習慣でな。すっかり目が冴えてしまった」
「習慣?」
「あぁ」
セオラは、ゴラウンでの朝の過ごし方をジャンブールに伝える。
「今は弓もない」
セオラは何も乗っていない自分の掌に目を落とす。子どもの頃から馴染んでいた弓は、攫われる際にサンサルロ兵に捨てられてしまっていた。
「退屈だ」
「裁縫はしないのかい?」
ジャンプールの言葉に、セオラは顔をしかめる。
「何、その顔」
「……国でもさんざん言われてきた。女なら裁縫をやれと」
「苦手?」
「出来ないわけじゃないが、あまり好きではない」
セオラの不貞腐れた横顔を、ジャンプールは好ましく見つめる。やがて運ばれてきた揚げパンと塩ミルクティーの朝食を平らげると立ち上がり、身支度を整えた。
「まだここへ来たばかりで、不慣れなことも多いだろう。無理せず過ごしながら、他の妃たちの様子を探ることも徐々に進めていってくれ」
「わかっている。そうしなくては、私は第一妃の座から解放されぬのだろう?」
「解放って……」
ジャンブールが出ていくと、天幕の中は静けさに包まれた。
話し相手がいなくなり、セオラは一層退屈を感じる。
身の回り品を片付けてある棚を何気なく振り返ると、妹から贈られた本が目に入った。
(そうだ)
ごたごたに巻き込まれ、ニルツェツェグからの贈り物をまだきちんと見ていなかったこと思い出す。セオラは本を手に取り、ぱらぱらとめくった。
(うん、さすがはニルツェツェグだ。私の好みをよく知っている)
受け取った際も軽く確認したが、毒物や薬効成分のある様々なものについて記述されたものだった。色鮮やかな挿絵も多い、立派な図鑑である。
「ふぅん……」
セオラの手が止まる。そこに記されていたのは、滋養のつく飲料の作り方だった。
「こんなに色々あるのか」
喉の渇きを癒すものだけでも何十とある。その中でも特徴は細かく異なっていた。
(こちらは、体を温める効果がある。こっちは吐き気を抑えるのか)
読み進めていくうち、セオラは少し楽しくなってきた。
(料理はあまり好きではないが、どれか作ってみたい)
その中の一つの材料を見ると、白梅に白檀、甘草に塩に生姜と書いてある。発熱と吐き気とその他体調不良に効くらしい。
(ジャンブールに頼めば手に入るだろうか。もしこれが無理でも、別のものなら作れるかもしれない)
セオラは侍女が昼食を持ってくるまで、その本に没頭した。
夜、天幕を訪れたジャンプールと共に、セオラは夕食を取った。
「おっ、今日は炒め麺か。好物なんだ」
ジャンブールは顔をほころばせ、羊肉や野菜と共に炒めた麺を口に運ぶ。味付けは塩だけだが、羊肉の独特の香りがアクセントとなり、ハーブのような役割を果たしている。セオラももちもちとした麺の歯ごたえを楽しんだ。
食事を終えると、セオラはジャンブールに、飲料を作るのに欲しいものを伝えた。
「白梅に白檀に甘草? 構わないけど、それが先王暗殺の犯人を突き止めるのに役立つのかい?」
「いや、全く関係ないな。ただの私の暇つぶしだ」
セオラの答えにジャンブールは苦笑する。
「仕方ないだろう。相手の様子を探ろうにも、時期や先方の都合というものがある。いきなり馴れ馴れしく押しかけても、不審がられるだろうし。それに馬や弓もない今の私に、余った時間をどう過ごせというのだ」
言ってセオラは、妹から贈られた本を引き寄せジャンブールに見せる。ジャンブールはパラパラと頁をめくりながら「なるほど」と言って頷いた。
不意にジャンブールの手が止まる。
「……これは」
「どうかしたか?」
ジャンブールの手元を覗き込むと、そこにはやたらと尾の太い、トカゲのような生物が描かれていた。
「こんな生き物も薬になるのか」
「みたいだね」
ジャンブールは本を閉じる。
「ごめんね、女性の時間の過ごし方に疎くてさ。確かに何もない場所に一人放り出されてちゃ、侍女たちとおしゃべりする以外することがないよね。しかしこの本に書かれている内容は興味深いなぁ」
「だろう? 妹は趣味がいいんだ」
得意げに口端を上げたセオラへ、ジャンブールは本を返した。
「君の欲しがっている材料だけど、今は貯えが十分じゃない」
「そうか」
「でも、ここへは隊商がひっきりなしに訪れる。先王の時代から、気前よく商品を買い上げていたからね。運が良ければ数日中に手に入るんじゃないかな」
(そんなに早く……)
思えばセオラのいたゴラウンに、隊商が訪れることなどごくまれであった。寂れた小国は、異国の商人たちから商売相手として認められていないのだろう。
「次に隊商が来た時は、すぐに教えるよ。君の望むものがあるかもしれない」
「ありがたい」
「それにしても、ふふ」
ジャンブールが嬉しそうに笑う。
「なんだ? だらしない顔をして」
「だらしないはないだろう」
言いながらも、ジャンブールはにこにこと目を細めている。
「なぜそんなに楽しそうに私を見るのだ」
「そりゃあ楽しいさ。可愛い妻がおねだりしてくれたんだよ? それに応えるなんて、夫冥利に尽きるじゃないか」
ジャンブールの言葉に、セオラは内心狼狽える。しかしそれを悟られたくなくて、セオラは語気を荒くした。
「誰が可愛い妻で、誰が夫だ」
「セオラが可愛い妻で、僕が君の夫だよ」
あっさりと言ってのけるジャンブールに、知らずセオラの頬に赤みが差す。気付かれる前に、セオラは慌てて彼から顔をそむけた。
「ふざけたことばかり言って。もう寝てしまえ」
「ふざけてなんかないさ」
セオラの背へ、ジャンブールは歩み寄る。
「僕はセオラを可愛い妻だと思っているよ。そして君にはずっと僕の側にいてほしい」
ジャンプールの大きな手が、空色の衣に包まれたセオラの肩に触れた。
その瞬間、弾かれたようにセオラは振り返り、ジャンブールの手首を掴む。
「え?」
景色が一回転したかと思うと、ジャンブールは床に転がり天井を見上げていた。何が起こったか理解できず、ジャンブールは目をしばたかせる。やがて背にじわりと広がる痛みが、自分がセオラによってひっくり返されたのだと教えてくれた。
「は、はは……、すごいねセオラ! 格闘術まで出来ちゃうんだ」
ほこりを払いながら、ジャンブールは笑ってすっくと立ち上がる。その様子に、セオラはたじろいだ。
「投げられて笑っているなど……、お前はおかしいのか?」
「いやぁ、兵たちが君に投げ飛ばされたとは聞かされていたけど、実は半信半疑だったんだよね。でも、これは本物だ」
ジャンブールは、セオラの目を覗き込む。
「キミは得難い、僕の自慢の妻だよ」
あまりにも無邪気なジャンブールの視線に、セオラはそれ以上何も言えなくなってしまった。
そしてまだ見慣れぬサンサルロの天蓋に、一瞬身を固くした。
(あぁ、そうだった……)
眠気が去るとともに、この数日間のことが脳裏によみがえる。
実の父から不要とされ、サンサルロ兵によってゴラウンから拉致され、ジャンブールの第一妃にされたこと。
そして、他の妃たちとの顔合わせを終えたこと。
(あの国に未練はないが、ここは退屈だな)
ゴラウンにいた頃は、毎朝馬を駆り領内を見回っていた。
そうすると朝の澄み切った空気が体内を満たし、体の隅々に力が行きわたる気がした。
だが今は、それが出来ない。狭い天幕の中で、ただ思考を巡らせるのみである。
ほんの数日のことであったが、セオラはそこに不満を覚えていた。
「あれ? セオラ、もう起きてたんだ」
ジャンブールが寝床の上で身を起こし、セオラを見る。
「早いね。君の寝顔を堪能してから、仕事に向かおうと思ったのに。残念」
「……先に起きて正解だった」
セオラの言葉に、ジャンブールは笑う。
「まだ早いよ。もうひと眠りしたら?」
「そうしたいのは山々だが、習慣でな。すっかり目が冴えてしまった」
「習慣?」
「あぁ」
セオラは、ゴラウンでの朝の過ごし方をジャンブールに伝える。
「今は弓もない」
セオラは何も乗っていない自分の掌に目を落とす。子どもの頃から馴染んでいた弓は、攫われる際にサンサルロ兵に捨てられてしまっていた。
「退屈だ」
「裁縫はしないのかい?」
ジャンプールの言葉に、セオラは顔をしかめる。
「何、その顔」
「……国でもさんざん言われてきた。女なら裁縫をやれと」
「苦手?」
「出来ないわけじゃないが、あまり好きではない」
セオラの不貞腐れた横顔を、ジャンプールは好ましく見つめる。やがて運ばれてきた揚げパンと塩ミルクティーの朝食を平らげると立ち上がり、身支度を整えた。
「まだここへ来たばかりで、不慣れなことも多いだろう。無理せず過ごしながら、他の妃たちの様子を探ることも徐々に進めていってくれ」
「わかっている。そうしなくては、私は第一妃の座から解放されぬのだろう?」
「解放って……」
ジャンブールが出ていくと、天幕の中は静けさに包まれた。
話し相手がいなくなり、セオラは一層退屈を感じる。
身の回り品を片付けてある棚を何気なく振り返ると、妹から贈られた本が目に入った。
(そうだ)
ごたごたに巻き込まれ、ニルツェツェグからの贈り物をまだきちんと見ていなかったこと思い出す。セオラは本を手に取り、ぱらぱらとめくった。
(うん、さすがはニルツェツェグだ。私の好みをよく知っている)
受け取った際も軽く確認したが、毒物や薬効成分のある様々なものについて記述されたものだった。色鮮やかな挿絵も多い、立派な図鑑である。
「ふぅん……」
セオラの手が止まる。そこに記されていたのは、滋養のつく飲料の作り方だった。
「こんなに色々あるのか」
喉の渇きを癒すものだけでも何十とある。その中でも特徴は細かく異なっていた。
(こちらは、体を温める効果がある。こっちは吐き気を抑えるのか)
読み進めていくうち、セオラは少し楽しくなってきた。
(料理はあまり好きではないが、どれか作ってみたい)
その中の一つの材料を見ると、白梅に白檀、甘草に塩に生姜と書いてある。発熱と吐き気とその他体調不良に効くらしい。
(ジャンブールに頼めば手に入るだろうか。もしこれが無理でも、別のものなら作れるかもしれない)
セオラは侍女が昼食を持ってくるまで、その本に没頭した。
夜、天幕を訪れたジャンプールと共に、セオラは夕食を取った。
「おっ、今日は炒め麺か。好物なんだ」
ジャンブールは顔をほころばせ、羊肉や野菜と共に炒めた麺を口に運ぶ。味付けは塩だけだが、羊肉の独特の香りがアクセントとなり、ハーブのような役割を果たしている。セオラももちもちとした麺の歯ごたえを楽しんだ。
食事を終えると、セオラはジャンブールに、飲料を作るのに欲しいものを伝えた。
「白梅に白檀に甘草? 構わないけど、それが先王暗殺の犯人を突き止めるのに役立つのかい?」
「いや、全く関係ないな。ただの私の暇つぶしだ」
セオラの答えにジャンブールは苦笑する。
「仕方ないだろう。相手の様子を探ろうにも、時期や先方の都合というものがある。いきなり馴れ馴れしく押しかけても、不審がられるだろうし。それに馬や弓もない今の私に、余った時間をどう過ごせというのだ」
言ってセオラは、妹から贈られた本を引き寄せジャンブールに見せる。ジャンブールはパラパラと頁をめくりながら「なるほど」と言って頷いた。
不意にジャンブールの手が止まる。
「……これは」
「どうかしたか?」
ジャンブールの手元を覗き込むと、そこにはやたらと尾の太い、トカゲのような生物が描かれていた。
「こんな生き物も薬になるのか」
「みたいだね」
ジャンブールは本を閉じる。
「ごめんね、女性の時間の過ごし方に疎くてさ。確かに何もない場所に一人放り出されてちゃ、侍女たちとおしゃべりする以外することがないよね。しかしこの本に書かれている内容は興味深いなぁ」
「だろう? 妹は趣味がいいんだ」
得意げに口端を上げたセオラへ、ジャンブールは本を返した。
「君の欲しがっている材料だけど、今は貯えが十分じゃない」
「そうか」
「でも、ここへは隊商がひっきりなしに訪れる。先王の時代から、気前よく商品を買い上げていたからね。運が良ければ数日中に手に入るんじゃないかな」
(そんなに早く……)
思えばセオラのいたゴラウンに、隊商が訪れることなどごくまれであった。寂れた小国は、異国の商人たちから商売相手として認められていないのだろう。
「次に隊商が来た時は、すぐに教えるよ。君の望むものがあるかもしれない」
「ありがたい」
「それにしても、ふふ」
ジャンブールが嬉しそうに笑う。
「なんだ? だらしない顔をして」
「だらしないはないだろう」
言いながらも、ジャンブールはにこにこと目を細めている。
「なぜそんなに楽しそうに私を見るのだ」
「そりゃあ楽しいさ。可愛い妻がおねだりしてくれたんだよ? それに応えるなんて、夫冥利に尽きるじゃないか」
ジャンブールの言葉に、セオラは内心狼狽える。しかしそれを悟られたくなくて、セオラは語気を荒くした。
「誰が可愛い妻で、誰が夫だ」
「セオラが可愛い妻で、僕が君の夫だよ」
あっさりと言ってのけるジャンブールに、知らずセオラの頬に赤みが差す。気付かれる前に、セオラは慌てて彼から顔をそむけた。
「ふざけたことばかり言って。もう寝てしまえ」
「ふざけてなんかないさ」
セオラの背へ、ジャンブールは歩み寄る。
「僕はセオラを可愛い妻だと思っているよ。そして君にはずっと僕の側にいてほしい」
ジャンプールの大きな手が、空色の衣に包まれたセオラの肩に触れた。
その瞬間、弾かれたようにセオラは振り返り、ジャンブールの手首を掴む。
「え?」
景色が一回転したかと思うと、ジャンブールは床に転がり天井を見上げていた。何が起こったか理解できず、ジャンブールは目をしばたかせる。やがて背にじわりと広がる痛みが、自分がセオラによってひっくり返されたのだと教えてくれた。
「は、はは……、すごいねセオラ! 格闘術まで出来ちゃうんだ」
ほこりを払いながら、ジャンブールは笑ってすっくと立ち上がる。その様子に、セオラはたじろいだ。
「投げられて笑っているなど……、お前はおかしいのか?」
「いやぁ、兵たちが君に投げ飛ばされたとは聞かされていたけど、実は半信半疑だったんだよね。でも、これは本物だ」
ジャンブールは、セオラの目を覗き込む。
「キミは得難い、僕の自慢の妻だよ」
あまりにも無邪気なジャンブールの視線に、セオラはそれ以上何も言えなくなってしまった。



