「男は女より優れている」
それが草原の国の一つ、ゴラウン族の族長オトゴンバヤルの口癖だった。
故に族長の娘セオラは、オトゴンバヤルが義兄のシドゥルグや弟のチヌアばかりを褒めることに不満を抱いていた。そして勘違いをしてしまったのだ。
女は優れていないから認められない。逆に考えれば、シドゥルグやチヌアよりも優れているところを父に示しさえすれば、女である自分も褒めてもらえるのだと。
そう、それは完全なる勘違いだった。
オトゴンバヤルが、ゴラウン族を挙げての狩猟大会を開催すると決めた日。十二歳だったセオラは実力を示すべく大会に出場すると決めた。
「セオラ姫様、どうかおやめください。族長様に叱られてしまいます!」
当然ながら、参加は男にしか許されていない。セオラは男の装束を身に纏い、期待に満ちた目をくるくると輝かせながら矢筒を背負い、馬に跨った。ばあやのホランが懸命に止めるのも聞かず。
「誰だ、あの少年は」
「チヌア様だとばかり思っていたが、チヌア様はあちらにいらっしゃる」
「しかし素晴らしい弓の名手だ」
この日セオラは全ての参加者を退け、他の誰よりも大きく誰よりも多くの獲物を仕留め、見事大会の頂点に輝いた。
「見事な腕であった」
褒美を与えんと段を降りてきたオトゴンバヤルは、これまで娘に見せたことのない最上の笑みを浮かべていた。
「そなたほどの腕前の男子がいれば、ゴラウン族の未来も明るい。しかし見ぬ顔だの。誰の息子だ」
セオラは嬉しくなり、男物の帽子を取って見せた。艶やかで長い黒髪が風をはらんで靡いた。
「父上、セオラです! あなたの娘が、全ての男に勝利いたしました!」
義兄や弟のように褒めてもらえる、セオラは胸を弾ませそう言い放った。
だが族長は顔色を変えた。ありえないものを見るように目を見開き、やがてその髭面は怒りで赤黒く染まった。
「この、馬鹿者が!」
伸びて来た手は頭を撫でるどころか、髪を掴むとセオラを地面へ引き倒した。
「きゃあっ!」
「女が男に恥をかかせるとは何事だ! この痴れ者が!」
悲鳴を上げるセオラを、オトゴンバヤルは何度も蹴りつける。やがて族長は自分の膝の上へ娘をうつぶせに乗せると、部族全員の見守る中、セオラの尻を幾度も打ち据え始めた。
「ははは、良い音がしおる! それ! それ!」
オトゴンバヤルは観衆に目をやり、滑稽な見世物だろうと言わんばかりの顔をする。周囲の男たちは互いに目配せし、へつらうように嗤い始めた。
セオラは恥ずかしさと屈辱と痛みで泣き出してしまう。
「母上! 助けて、母上!」
しかし母ツェレンは、少し離れた場所から穏やかに微笑むばかりであった。
やがてオトゴンバヤルは満足気に笑うと、気遣い駆け寄って来たホランに向かってセオラを放り投げた。
「さっさとその馬鹿を下げろ! 女がでしゃばればこんな目に遭うのだ、今日は良い勉強になっただろう」
その夜、セオラは酷い熱を出した。一晩中、夢の中で男たちの嘲りの視線と嗤いを浴び続けた。
一夜明け熱が引いた時、セオラの胸にあるのはただ父オトゴンバヤルに対する失望であった。
「セオラ姫様、大丈夫でございますか?」
「……うん」
セオラは実力を示した。けれどオトゴンバヤルは、セオラが女と言うだけで𠮟りつけ、屈辱まで与えた。
母親も私を見捨てた。このゴラウン族の中に、父に異を唱えられる者は一人もいない。
(あんなクソ野郎に、認めてもらおうなんて金輪際思わない)
十二歳のセオラの胸に、冷え冷えとした思いは深く刻まれたのだった。
五年が経過した。セオラの背丈や手足はすらりと伸び、星を宿したかのように輝く黒い瞳を持つ、美しくも凛々しい少女へと成長していた。鴉の濡れ羽色の髪は頭の高い位置で一つにまとめられ、背に艶やかに流れている。茶色の地味な長衣を身に纏っていたが、額に輝く銀とトルコ石の髪飾りが、彼女の身分が高いことを現わしていた。
「む?」
馬を操り、森の奥深くへ狩りに出かけたある日。国境にほど近い場所の藪の陰に蹲る人の姿を認めた。
「誰だ、そこにいるのは」
落ち着いたオレンジ色の長衣に身を包んだ人物は、のっそりとした動きで、振り返る。帽子の下からは癖の強い黒髪が覗いており、背の半ばまで伸びた部分は三つ編みにまとめられていた。
(若い男だ。竜を模した刺繍の服は、サンサルロの人間だな。日直番か?)
相手が、昔から小競り合いを続けている国の人間だと察し、セオラは油断なく弓に矢をつがえる。すると青年は慌てたように、胸の前で手を振った。
「ま、待ってよ! 撃たないで!」
「ここはゴラウン族の土地だ。サンサルロの人間が足を踏み入れてよい場所ではない」
「ごめんごめん、うっかり迷い込んでしまっただけなんだ! すぐに出ていくから、見逃してくれない?」
青年は整った顔立ちをしていた。やや青みがかった灰色の虹彩、やわらかな眼差し。鼻筋が通っており、陽に焼けた肌が精悍な印象を与える。しかし、白い歯ののぞく口元はどうにも締まりがない。
(ここは国境からほど近い場所だ。この間抜け面なら、警備の最中にうっかり迷い込んだとも考えられる)
サンサルロ族は獰猛な気性だと聞くが、目の前の青年からはそれらしいものが伝わってこなかった。何か懐に隠し持っている様子もない。セオラは矢を構えたまま青年に言い放った。
「三十数える間だけ待ってやる。その間にサンサルロへ戻れ。さもなくば射殺す」
「あ、ありがとう。えっ、なんで僕がサンサルロの人間だってわかったの?」
「服の刺繍を見れば一目瞭然だ。数え始めるぞ。一……」
「待って待って! 戻りたくても、どっちに進めばいいか分からないんだ」
(阿呆め)
仕方なくセオラは構えた弓を下ろし、サンサルロの方角を指差す。
「そっちにまっすぐ進めば国境だ。早く行け」
「ありがとう、恩に着るよ」
へにゃっと笑った青年の顔は、警戒心の欠片もない無邪気なものだった。セオラの張りつめた心がビリッと痺れる。あんな顔が出来るなんて、余程甘やかされて育ったに違いない。
「ところで君、どうして男のような物言いをするんだい?」
「……」
「とても可愛い顔をしているのに」
「一、二、三……」
青年の言葉を聞き流し、セオラは数を数え始めた。青年は慌てて身を翻し、弾かれたように走り出す。その足取りに、セオラは目を見張った。
(早い。ゴラウン族にあれほど素早く動ける男はいない)
草木の間を飛ぶように駆け抜けていく男の後ろ姿を見て、まるで牡鹿のようだとセオラは思った。
狩りを終えたセオラは、集落へと戻って来た。
「ふぅ……」
馬から降り、ぐっと背を伸ばす。見渡す限り天幕の張られている草原。これがセオラの物心ついてから毎日目にしてきた、遊牧民ゴラウン族の集落の風景だった。
「セオラ姫様」
一つの天幕から老女のホランが姿を現わす。
「ばあや、収穫だ」
セオラは笑うと、掴み上げた数羽の兎をホランへ手渡した。
「処置を頼む」
ホランはそれを受け取り、使用人へと手渡した。
セオラの天幕は今、母ツェレンの天幕群の中でも侍女たちの住む場所のすぐそばに張られていた。セオラの「できる限り父のいる場所から離れたい」と言う希望が叶えられ、五年前からこの位置になっている。
「セオラ様、こちらを」
侍女の一人が恭しく何かを差し出す。
「なんだ、これは。……本?」
「はい、先ほどニルツェツェグ様よりお預かりしました」
「ニルツェツェグから?」
年の離れた幼い妹の名を聞き、セオラは眉を上げる。
「久方ぶりに隊商が来ているのです。そこに並ぶ品々の中で見つけられたそうで、きっと聡明なセオラ様ならお喜びになるだろうと。誰かのものになる前にニルツェツェグ様が買い上げられたとのことです」
「私のためにか、ありがたい」
頁を開けば、そこには薬物や毒物などに関する知識が、細かな字でびっしりと記されていた。色鮮やかで豊富な画像も目を引いた。
「これはすごいな。高かっただろうに」
「お姉様が喜んでくれればそれでいい、そうおっしゃっていました」
「そうか、だが……」
セオラは本から顔を上げ、ホランへと声を掛ける。
「ばあや。先ほどの兎、処置を終えたらニルツェツェグの天幕へ二つほど届けてやってくれないか。この素晴らしい贈り物の対価としては、十分とは言い難いが」
セオラの言葉に、ホランは目を細める。
「かしこまりました。きっと妹君もお喜びになりますよ」
事件が起きたのは、ある夜のことだった。
(ん? 馬の足音?)
狩猟に長けたセオラの耳が宵闇の中、迫る波音に似たものを感じ取った。本能が察する、良からぬものが集落へと踏み込んできたのだと。
時を置かず、荒々しい怒鳴り声と女たちの悲鳴が耳に届いた。



