さて、いかがでしたでしょうか?
今回は「被災地の復興」と言う意思を込め、ただ一点に集中して作品作りをしてきました。その一点とは「最高の笑顔」です。
「最高の笑顔」が何なのかを考えたのですが、そもそもそれは文章で書くものではないのだろうと、それでも「自分ならどんな笑顔を向けられたいか。」を考えながらの政策をしてきました。
結局、その答えらしいものはなく、ただ書いている間にも日本では色々な事がありました。
大きな事で言えば「長野県での大地震」「各地での大水害」「御嶽山の噴火」など、大勢の方が亡くなり、「自然の猛威と人」と言う視点で物事を見る機会が増えたように思います。
その一方で虐待による児童の死傷事件や誘拐、とにかく子供を狙った犯罪事件などが連日目につくような昨今でした。
そう言う環境や世相の只中「震災復興」も本来的な意味から遠ざかり、それらはただの商業的な話や、誰かを感動させる為に美化され加工された話となりつつあります。
要するに、ただ語る事さえ「偽善」となり、純粋に協力しようとか、何か力になれたら良いと言う思いまで「何かの利害に結びつく」と捉えられるような気配さえあります。
それでも「被災地復興を掲げた小説」と言う点にはこだわり、例えそれが後世どうなろうと、形式的にはどうあれ「被災地を舞台に」と、そう思ったのです。
そう言ったごちゃごちゃをまとめる内に、花が咲いて散るまでを思わせるような作品にすれば、花が咲く事と最高の笑顔と、そんな人が本来大事にしてきたものを再確認できるような内容へと進んで行った感じがあります。
今の人、と言うか日本人はそう言う点でどうなのか?と、私は思うのです。
造作もなく手に入る日々の食事、それらを当たり前の様に食べ、嫌なら気にせず捨ててしまっても困ることは無く、誰かにそれをとがめられもしない。
本当に自由で豊かなのだろう。そう言う点では、確かに。そして、自分も例に漏れずそう言う暮らしを今まさにしている訳で、それを辞める事もできない訳です。
だったら、何を再確認すれば良いのだろうか。そんな時に「被災地復興」を再度考える事ができた気がします。
私たちが再確認すべき事とは、生きるとはどう言う事か。つまりは、そう言う事なのだろうかと、思った訳です。
どんな命であれ、いずれは死ぬ。どんな形であれ、そして、それが残されて生きて行く人達の糧となり、未来へとつながっていくんだろうと。
そんな事、既に散々言われてきた訳ですが、いまなりの捉え方や今だからこその描き方もあるのだろうと、そんな感じで作ったのが
この作品なのだろうと思います。
○ストーリ
会社員の男は突如職を失い、抜け殻の様な日々を送る事となる。そんな折、自宅に一通の封筒が届く。中には仙台行の新幹線のキップが入っていた。差出人は不明。
何もかも失った男は、仙台へ行ってみる事に。仙台に着くと、誰が予約したのだろうかわからないが、タクシーが待っていた。
タクシーは高速に乗り、山間にある一軒家へと入って行く。男は昔親から仙台に居る親戚の話を聞いていたので、もしかしたらそうなのだろうかと思う。ただ、本当は誰かなのか全くわからない。
その家で彼は何もせずただ過ごしていた。家に居る老人と老婆は何も言わず、日々山や野へ出かけ、それでも三食きっちり男の分まで食事を作っていた。(その食事は震災でなくした孫娘のかげ膳だったと後半最後の方でわかる。)
自堕落を続けていた男。そんなある日、一人の少女が男の前に現れる。彼女は最初男を避けていたが、毎日何もしていない男を見かねたのか、遊びに連れて行く様ねだる様になる。男は渋々付き合う事に。
最終的に男はこの老夫婦の元で畑仕事などを手伝うこととなる。
今回は「被災地の復興」と言う意思を込め、ただ一点に集中して作品作りをしてきました。その一点とは「最高の笑顔」です。
「最高の笑顔」が何なのかを考えたのですが、そもそもそれは文章で書くものではないのだろうと、それでも「自分ならどんな笑顔を向けられたいか。」を考えながらの政策をしてきました。
結局、その答えらしいものはなく、ただ書いている間にも日本では色々な事がありました。
大きな事で言えば「長野県での大地震」「各地での大水害」「御嶽山の噴火」など、大勢の方が亡くなり、「自然の猛威と人」と言う視点で物事を見る機会が増えたように思います。
その一方で虐待による児童の死傷事件や誘拐、とにかく子供を狙った犯罪事件などが連日目につくような昨今でした。
そう言う環境や世相の只中「震災復興」も本来的な意味から遠ざかり、それらはただの商業的な話や、誰かを感動させる為に美化され加工された話となりつつあります。
要するに、ただ語る事さえ「偽善」となり、純粋に協力しようとか、何か力になれたら良いと言う思いまで「何かの利害に結びつく」と捉えられるような気配さえあります。
それでも「被災地復興を掲げた小説」と言う点にはこだわり、例えそれが後世どうなろうと、形式的にはどうあれ「被災地を舞台に」と、そう思ったのです。
そう言ったごちゃごちゃをまとめる内に、花が咲いて散るまでを思わせるような作品にすれば、花が咲く事と最高の笑顔と、そんな人が本来大事にしてきたものを再確認できるような内容へと進んで行った感じがあります。
今の人、と言うか日本人はそう言う点でどうなのか?と、私は思うのです。
造作もなく手に入る日々の食事、それらを当たり前の様に食べ、嫌なら気にせず捨ててしまっても困ることは無く、誰かにそれをとがめられもしない。
本当に自由で豊かなのだろう。そう言う点では、確かに。そして、自分も例に漏れずそう言う暮らしを今まさにしている訳で、それを辞める事もできない訳です。
だったら、何を再確認すれば良いのだろうか。そんな時に「被災地復興」を再度考える事ができた気がします。
私たちが再確認すべき事とは、生きるとはどう言う事か。つまりは、そう言う事なのだろうかと、思った訳です。
どんな命であれ、いずれは死ぬ。どんな形であれ、そして、それが残されて生きて行く人達の糧となり、未来へとつながっていくんだろうと。
そんな事、既に散々言われてきた訳ですが、いまなりの捉え方や今だからこその描き方もあるのだろうと、そんな感じで作ったのが
この作品なのだろうと思います。
○ストーリ
会社員の男は突如職を失い、抜け殻の様な日々を送る事となる。そんな折、自宅に一通の封筒が届く。中には仙台行の新幹線のキップが入っていた。差出人は不明。
何もかも失った男は、仙台へ行ってみる事に。仙台に着くと、誰が予約したのだろうかわからないが、タクシーが待っていた。
タクシーは高速に乗り、山間にある一軒家へと入って行く。男は昔親から仙台に居る親戚の話を聞いていたので、もしかしたらそうなのだろうかと思う。ただ、本当は誰かなのか全くわからない。
その家で彼は何もせずただ過ごしていた。家に居る老人と老婆は何も言わず、日々山や野へ出かけ、それでも三食きっちり男の分まで食事を作っていた。(その食事は震災でなくした孫娘のかげ膳だったと後半最後の方でわかる。)
自堕落を続けていた男。そんなある日、一人の少女が男の前に現れる。彼女は最初男を避けていたが、毎日何もしていない男を見かねたのか、遊びに連れて行く様ねだる様になる。男は渋々付き合う事に。
最終的に男はこの老夫婦の元で畑仕事などを手伝うこととなる。


