火曜日は、病院の中庭に風が通る。
 樫の葉がきしりと鳴り、ベンチの塗装がひび割れている。僕はそこに座り、紙コップのコーヒーを手に、病棟の自動ドアが開く音を待つ。自動ドアは、彼の足音より先に彼のことを教えてくれる。空調の風と消毒液の匂いが漏れ、ドアが閉まるまでのわずかな間に、外の世界と中の世界が入れ替わる。

 「はじめまして」

 白いカーディガンの袖を少し折って、彼はそう言う。毎週、同じ笑顔で。
 「新田暁(にった・あきら)です」
 「藤崎慧(ふじさき・けい)だよ。今日も、いい風だ」

 彼は僕の名を繰り返し、音の粒を確かめる子どものように口の中で転がす。
 「ふ・じ・さ・き・けい。藤崎、さん」
 「呼び捨てでいいさ」
 「それは、昔から?」
 「昔から」

 僕らは大学で出会った。文学部の廊下の端、窓枠の塗装が剥げた場所で、彼は詩のフレーズを口にしていた。僕は投げ出されたそのフレーズの続きを知らず、けれど続きが知りたくて、話しかけた。彼は穏やかに微笑んで、言葉の継ぎ目を僕に譲った。それから、日陰を選んで歩くように、僕らは同じ道を選び続けた。

 病気の名は、ゆっくりと忘れていく種類のものだった。忘却が彼の中に湧き水のように湧き、地下に隠れた川筋を作り、見えないところで地形を変えていく。最初は鍵の場所だった。次に、朝食のメニュー。やがて駅までの道順、出版社の担当者の名前。彼は机の上に小さなメモを増やした。白いメモ紙は雪みたいだった。降り積もるほどに室内は明るく、少し寒い。

 病院へ向かう道を僕は覚えている。バスを降りてから、スーパーの裏の細道を抜け、金網に絡む朝顔のつるを横目に、横断歩道を二つ渡る。信号機はいつもタイミングが悪く、僕は立ち止まり、去年の同じ季節に、彼とここを歩いたことを思い出す。彼は信号待ちの間に、並んだ車の色を数えた。青が七台、白が四台、赤が一台。
 「今日は青に勝たせてやって」
 彼はそう言って、何に勝つのか説明しなかった。

 病室の窓際のテーブルには、黒いノートが置かれている。百円ショップで売っている、方眼の薄いノートだ。彼はそこに、日々の断片を書きつける。できる限り。字は揺れて、時にひらがなが長く伸びる。僕はそれを読み上げる役を買って出て、空いた左ページには、僕の字で日付を書く。秋はページが進む。季節はいつでも、紙の上では正直だ。

 「息子の慧くん」

 ある日、暁は僕をそう呼んだ。
 看護師が一度こちらを見て、すぐに目を逸らす。僕は否定しない。否定は彼の世界をさらに削る。
 「うん。今日は一緒に宿題しようか」
 「宿題?」
 「詩だよ。比喩を三つ、つくる」

 彼は嬉しそうに笑い、ノートのマス目を撫でる。
 「比喩、比喩……。ええと、記憶は――」
 「記憶は?」
 「引き出しの中の海」
 「どうして海なんだろう」
 「耳を近づけると、音がする。引き出しは閉まってるのに」

 僕は首肯して、彼の言葉の続きを待つ。
 「友情は?」
 「友情は、消しゴムのカス」
 「それは、少し、悲しいね」
 「消すためじゃないんだ。間違えた線を、柔らかくするためにこぼれる。集めると手にくっつく。うっとうしい。でも、手放せない」
 彼の指先に、消しゴムの粉のような白い包帯が巻かれている。点滴のテープの下の皮膚が赤くなっていて、看護師が丁寧に貼り直していった。それを見るたび、僕は胸の奥で小さく謝る。許しを請う相手が誰なのか、明確ではないのだけれど。

 真夏の盛りに、暁は病院のベッドから窓の外を見て、波の音がする、と言った。街の中心部に近い病棟で、海はずっと遠い。けれど彼が聞くと言うなら、そこには波があった。僕の耳にも、かすかに泡立つような音が残響した。「音の残像」と僕はノートに書きながら、彼がそうやって世界を組み替える能力に嫉妬さえ覚える。昔から、彼は現実を少しだけ詩に傾けて受け取る人だった。偏りは彼の美徳だった。

 大学を出て、彼は作家になった。僕は編集になった。立場は別れても、作業机は隣り合ったままだった。雑誌の特集で彼と組むたび、彼は締切前夜にふっと立ち上がり、窓を開け、「風をいれよう」と言った。その風が、文章の中の埃を攫っていくのだと信じていた。実際、風が入ると、文章は少しだけ軽くなる。紙がめくれ、要らない段落が露わになる。二人で赤を入れ、言い過ぎと沈黙のバランスを調整する。僕らは度々喧嘩した。彼は自由に、僕は慎重に。彼は足りないものを拾い、僕は余計なものを捨てた。違う方法で、同じところを目指した。

 病気が見つかった日、彼はコンビニに寄って、鉛筆を買った。シャープペンではなく、芯が濃い、短い鉛筆。小学生の手に合うやつだ。
 「これなら、折れてもまた削れる」

 僕は何も言わなかった。励ましや慰めや正論は、すべて音の立つ道具で、彼の静かな部屋には合わない。僕は彼の鉛筆から削り屑が落ちる音を聞き、床に散った木の匂いを吸いこむ。鉛筆は、形を変えて持続する。僕らの友情も、そうだと信じたい。

 黒い方眼ノートの最後から四ページ目に、折り目がついていた。ある火曜日、彼がトイレに立った隙に、僕はそこを開いた。薄い走り書きで、見開きにびっしりと文字がある。
 〈慧へ〉
 僕の名前で始まる手紙だった。日付はない。彼の字に似ているけれど、ところどころ、知らない癖が混ざっている。字は人だ。記憶の具合によって、別人が筆を持つことがあるのかもしれない。手紙は、こう続いていた。

 〈やり直すために、もう一つの人生を作った。そこでは、僕は父親で、君は息子で、夏には一緒に蝉の抜け殻を拾った。公園のベンチに座って、君はナイフを貸してくれと言った。鉛筆を削るのだと。僕はうまくできず、君が横から指を添えてくれた〉

 読んでいるうち、胸にどこか、冷たい場所が現れる。
 彼には子どもはいない。結婚はしたが、別れた。公園のベンチでの場面は、僕の記憶には存在しない。だけど、彼の中では、確かにあった。真実か、虚構か。その境は彼の脳の中側でだけ意味を持つ。外の世界ではどうでもよくなる。彼が見たということが、すでに事実だ。

 〈息子の君は、時々、父親の僕に段落の終わり方を教えた。終わりに近づくと、息を吸って、口を閉じるように、と君は言った。僕はふざけて、ずっと息を止めてみせた。君は慌てて、背中を叩き、笑いながら泣いた〉

 読み終えたとき、彼がベッドから戻ってきた。便座のために遅れた分だけ、手のひらに冷たいタイルの感触が残っているらしい。
 「何を読んでる?」
 「日記だよ」
 「誰の?」
「君の」
 彼は少し考え、目を細める。
 「……君は、どこまで知ってる?」
 「たぶん、ぜんぶは知らない」
 僕はノートを閉じて、テーブルに置いた。
 「けど、知らないまま、支えることはできる」

 秋が来た。樹々の葉が赤くなるより少し早く、彼の言葉は薄くなった。話し始めるまでに時間がかかる。話し始めると、目的地を忘れる。言葉の船が港を離れ、霧の中でゆっくり回転する。僕は急かさない。港が見えなくても、船は船だ。波に浮かぶだけで、充分だ。

 ある火曜日、彼は唐突に言った。
 「君はもう、僕の友達じゃない」
 喉の奥に小さな鈴が飲み込まれたみたいに、音がした。
 「そうかもしれないね」
 「君は、僕の息子だ。……たぶん」
 「うん」
 「だって、友達は、父親に、こんな顔をしない」
 彼は僕の頬に触れ、指で目尻を拭った。濡れていたのは、たぶん僕だ。
 「父親の前では、強くなくていい。泣いてもいい」
 僕は頷いた。父親の定義が、その瞬間だけ、世界の中で最も優しいものになった。

 冬が近づく。病室の空気は乾き、加湿器が白い煙を吐く。カルテに書かれた用語は僕には専門的すぎて、黙って頷くことしかできない。看護師が、家族の方、と僕に呼びかけ、すぐに言い直す。「ご友人の方」。僕はそれでいい、と答える。どちらでも、どちらでも構わない。そういいながら、どちらでもあるのだ、とも思う。言葉は、名付けるために生まれて、溢れるために存在している。

 夜、帰宅すると、棚から古い雑誌を取り出す。僕と彼が作った特集。「日陰の言葉たち」と題した文章。インタビュー記事の間に、小さなエッセイを挿んだ。彼はエッセイの最後を、こう締めた。
 ――忘れられることは、恐ろしい。けれど、忘れられる場所は、やさしい。
 その一文に、僕は赤鉛筆で小さく丸をつけた。あのとき、編集長に「少し観念的だ」と言われ、彼は笑って、「観念の中にも、日向と日陰がある」と返した。僕はその言葉を、いま、ようやく理解する。忘却は、暗闇ではない。光が強すぎる場所から目を守る、木陰だ。陰は必要だ。そこに座って休めばいい。

 年末、病院のロビーに小さなツリーが飾られた。透明な球に、白い粉が入っている。雪のふりをする。僕は売店で買ったミカンを彼に渡し、薄皮を剥く。彼は不器用に指を動かし、種のない房を選んで口に入れる。
 「甘い」
 「よかった」
 「これは、冬の味だ」
 「そうだね」
 「君の名前、なんだっけ」
 「藤崎、慧」
 「慧」
 彼は丁寧に発音し、僕の顔を見て、頷いた。
 「いい名だ」

 年が明けて、凍った朝に、彼は急に熱を出した。看護師の足音が速くなる。ベッドの脇で、僕は彼の手を握る。彼の手は、鉛筆の木部みたいにすべすべしている。彼は呼吸を整えようとし、うまくできず、けれど不思議と穏やかな顔をしている。
 「慧」
 「いるよ」
 「また、一緒に書こう」
 「うん。もう、書いてる。ずっと」
 彼は少し笑って、目を閉じる。まぶたの上の筋が緩む。
 「ねえ、父さん」
 その呼びかけは、僕の口から自然に出た。
 「段落の終わりは、息を吸って、口を閉じるように」
 彼の指が、わずかに動いた。確かに合図を返した気がした。
 呼吸器の数字が落ち着き、また上がり、そして少しずつ、静かになっていく。看護師が静かに頷いた。

 退院手続きの紙の束を、僕は無言で受け取る。書類の文字は硬く、余白が少ない。彼が愛した余白は、ここにはない。僕はスタッフステーションの端でペンを止める。名前を書く欄に、僕の名を書いてはいけない。欄外に滲むインクのように、僕はこの場に居合わせるだけだ。けれど、居合わせる人間がいることは、世界の手触りを変える。

 病室のテーブルに、黒い方眼ノートが置かれたままだった。看護師が目配せし、僕に持ち帰るよう促す。
 「ご家族の方が……」
 「僕が預かります。友人として」
 「お願いします」

 家に戻って、僕はノートを開く。最後のページは、空白だった。方眼だけが整然と並び、何も書かれていない。僕は鉛筆を削る。鉛筆削りは机の引き出しの一番上、右の奥。刃を回すたび、木の香りが立ち、粉が机に落ちる。彼が好きだった音だ。僕は鉛筆を持ち、呼吸を整える。段落を終えるときのように、息を吸い、口を閉じ、そして、書き始める。

 ――記憶とは、二人で書いた原稿だ。片方が単語を落としても、もう片方が余白に拾い書きする。どちらかが居眠りしても、もう一人が灯りを守る。どちらかが忘れても、もう一人が覚えている。覚えている者がいなくなったなら、その時は、紙が覚えている。紙が湿気る夜には、風が覚えている。 

 鉛筆の芯が折れて、点のような黒い傷が紙につく。僕はそこを消しゴムでこすり、粉を指で集める。掌に集まった粉は、少し温かい。彼の言った通りだ。
 〈友情は、消しゴムのカス〉
 間違いを消すためにではなく、間違いの輪郭を柔らかくするために、こぼれるもの。

 ノートを閉じて、窓を開ける。冬の風が机の上を通り、紙を鳴らす。窓外で、バスが角を曲がる。音だけで、その車体の青色がわかる。彼と数えた、色の隊列。青が七台、白が四台、赤が一台。僕はベランダにも出て、手すりに指をかける。冷たい金属が、指に現実を戻す。彼が好きだった散歩道を思い出す。信号待ちの場所、金網に絡む朝顔、横断歩道を二つ。道順は、まだ、僕の中にある。

 翌週の火曜日、いつもと同じ時間に病院の中庭へ向かう。意味がないことだと、誰かは言うだろう。意味は要らない。行為があればいい。気配があればいい。中庭のベンチは空いている。樫の葉はまだ固く、風は少し弱い。自動ドアが開いて、閉じる。彼は来ない。けれど、風は来る。ドアの隙間から、消毒液の匂いと、床ワックスの匂いと、微かな笑い声。
 僕はベンチに座り、紙コップのコーヒーを持つ。湯気はもうほとんどない。
 「はじめまして」
 誰にともなく、僕は言ってみる。空気に挨拶する。世界に礼を言う。
 「藤崎慧です」

 名前を口に出すたび、僕は僕の輪郭を少しずつ描き直す。彼の見た“もう一つの人生”の中では、僕は息子だった。現実のこの人生では、僕は友だちだ。二つの線は重なり、少しずれる。ずれは、影になる。影ができるから、立体になる。彼が教えた。どちらでも、どちらでもあることの強さを。

 帰り道、スーパーの裏の塀に、古い落書きが残っていた。消された名前の跡。一度塗りつぶされた上から、別の誰かが別の言葉を書いたのだろう。幾重にも塗装が重なり、かすかに光る。忘却は上書きではない。層だ。層の中に、時間が閉じ込められる。耳を近づけると、音がする。引き出しの中の海が、小さく寄せては返す。僕は立ち止まり、目を閉じる。風が頬を撫で、鉛筆の香りが、ありもしないはずの空気に混ざる。

 家に帰ると、机の上で黒いノートが待っている。方眼の線は、やさしい柵だ。はみ出しても、戻ってくればいい。僕はページを開き、続けて書く。

 ――父さんへ。
 と、書いてから、線を引いて消す。消しゴムの粉がまた掌に集まる。
 ――暁へ。
 と、書きなおす。彼はどちらでも、どちらでもあったのだ。僕がそう呼ぶとき、彼はかならず振り向いた。

 夜更け、窓を少しだけ開けたまま眠る。夢の中で、彼と僕は病院の中庭に座っている。樫の葉が鳴り、彼は「比喩をもうひとつ」と言う。
 「じゃあ、最後に」
 僕は言って、空を見上げる。
 「君は、僕のバックアップ」
 「それは、機械みたいだ」
「ううん。たぶん、逆」
 「逆?」
 「僕が、君のバックアップなんだ」
 彼は笑い、頷く。
 「なら、安心だ」
 目覚ましの音が鳴る前に目が覚める。窓の隙間から入る朝の空気は冷たく、清潔だ。僕は鉛筆を手に、日付を書く。新しいページの一行目に、彼の名と、今日の天気と、風の向き。忘れることは、世界の誤りではない。誰かが隣で覚えていれば、それで充分だ。 

 僕は今日も忘れている。昨日の些細なことを、あのときの表情を、便利な単語の意味を。忘れることを、彼のせいにしない。忘れるたび、思い出す。彼が引き出しの中に置いていった海の音。
 はじめまして、と、声がする。
 僕は微笑み、返事をする。
 「また会ったね」

 鉛筆の先はまだ十分に長い。削れば、また書ける。
 僕はノートを閉じ、机の端に置く。風が通り、ページの端が、かすかに波打った。