第1話 透明な友達

 白い空は、窓ガラスにうすい粉のように貼りついて、擦っても落ちないチョークみたいだった。
 陽菜は席のいちばん端、廊下側の壁に体を寄せて、窓の端を指でなぞる。指先に伝わるのは、冷たさと、うすく結露した水の感触。水に触れると、心臓の脈が半歩遅れて、静かになる。心臓が静かになると、教室の音がはっきりする。椅子のレールが床を擦る音。シャープペンの芯が折れる乾いた音。前の席の男の子が、消しゴムを何度も角から使っている音。
 担任は黒板に「係決め」と書いて、丸で囲んだ。丸のなかに小さく「じぶんの言葉で」と書き足しながら、こちらを見た。陽菜の視線は、黒板の下の白いチョークの粉へと落ちる。たしかに、言葉は持っている。喉の奥にも、舌の裏にも。けれど、口まで運ぶ途中で、角にぶつかって欠けていってしまう。こういうとき、机の上に置いた両手を、指一本分ひろげるのが陽菜の癖だ。五本の指のあいだに、目に見えない風が通り抜けると、言えなかった言葉たちが、風に巻かれてどこかに行ってくれる気がする。
「はい、じゃあ図書係は?」
 陽菜は、手を出す筋肉に命令を送る。肘が少しだけ浮きかけて、やめた。斜め前の子が先に手を挙げて、すべてはスムーズに決まっていく。スムーズ、という言葉は、陽菜を少しだけ疲れさせる。すべりやすい床の上で、陽菜だけは、靴底に小砂を抱えている。

 昼休み、陽菜は窓際に置いた観葉植物の葉を一本、そっと指で押した。葉脈の硬さが、指に返ってくる感触がすきだ。生きてる、という感じが、押し返してくる。
 そのとき、耳のすぐ近くで、小さいけれどやわらかな圧が、ふっとかかった。
「葉っぱはね、押すと戻るようにできてる。あなたの気持ちも」
「……透」
 名前を呼ぶと、陽菜の頬の内側がほんの少し熱くなる。そこにいるのに、いない。いないのに、いる。透は、目をこらしても見えない。声は、音というより、空気の密度の変化で伝わってくる。雨の前の気圧のように、耳の奥がかすかに詰まる。
「今日も、ちょっとだけ失敗した」
「失敗って、何」
「手を、挙げられなかった」
「それは失敗じゃない。ただ、今は手を挙げなかっただけ」
 透の言葉は、丸い石のようで、角がない。手のひらに載せると、ひんやりするのに重たさを感じない。
「図書係、似合いそうなのに」
「似合いそう、って言葉は、鏡みたいだね。映る人がいないと、ただの板」
「うん」
 返事をして、自分の声が、空気に溶けていったのを感じる。透と話すとき、陽菜はあんまり口を動かさない。動かさなくても、伝わる。透は、彼女の言葉の影を受け取って、意味を返してくれる。

 放課後、雨が来た。校門を出たとき、最初の粒は透明で、空気だけが濡れたように見えた。次の粒は、地面に、しずかな暗い音を置いた。すぐに大きくなって、音は一つ一つが聞き分けられなくなる。
 公園の滑り台の下は、子ども用の秘密みたいに気配が軽い。陽菜はそこに膝を抱えて座って、ランドセルのベルトを外側の穴にひとつずらす。肩が、ふっと軽くなる。
「雨が上がったら、空は少しだけ軽くなる?」
 問いのかたちで独り言を言うと、すぐ近くで、透が答える。
「軽くなるのは、空じゃなくて、あなたの肩だよ」
 陽菜は、滑り台の鉄の柱を指で叩いた。小さな金属音が、内部を走って、地面に落ちる。
「そっか」
「緩めるのは、上手だね」
「ベルト?」
「気持ち」
 濡れた土の匂いが、鼻の奥の深い場所に届く。いい匂い、と言っていいのかどうか、まだ分からない。でも、安心はする。雨の音は、たくさんあるものを同じリズムにしてしまう。足音も、車の音も、鳥の羽音も、少しずつ雨に似ていく。似ていくあいだは、世界と喧嘩しなくていい。
「宿題、やらないと」
「帰ったら、やろう」
「うん。夕飯、なんだろう」
「ハヤシライスの匂いがする」
 透が言うので、陽菜は笑った。鼻をくん、と鳴らし、匂いなんて分かるの、と聞く。
「分からない。でも、あなたが分かってる」
 雨は、滑り台の天井を叩き、天井は、音を少しやわらかくして返す。陽菜は濡れない場所の縁に小指を差し出して、外の水に触れた。冷たさが皮膚を通って、骨の芯までまっすぐ走る。こうして、今ここにいる、と感じる。

 家に入ると、たしかにハヤシライスの香りが、廊下の角で溜まっていた。狭いダイニングは湯気で白く、壁のカレンダーには小さな赤い丸印がいくつか付いている。母はエプロンの紐をきつく結んだまま、鍋の蓋を押さえていた。
「おかえり」
「ただいま」
「手、洗った?」
「今から」
 手を洗って、タオルが湿っている感じを掌に移し、席に着く。スプーンは金属で、ハヤシは茶色で、皿は白い。言葉にしなくても分かることを、一つ一つ、脳の手前に置いてから食べるのが、陽菜の食事の仕方だ。
 母は、あまり食べない。スプーンを持ったまま、視線が皿の縁とカレンダーの間を往復する。
「今度の人事で、もしかしたら」
 母が言ったので、陽菜はスプーンを止めた。
「もしかしたら?」
「異動になるかも。春休み前」
 言われる前から、身体のどこかは分かっている。雨の匂いと同じように、言葉の匂いもある。異動、という四文字の匂いは、紙と板目の匂いが混ざった感じで、少し尖っている。
「引っ越し?」
「うん。ごめんね」
「ううん」
 謝られると、陽菜はいつも困る。たぶん母は、謝るしか言い方を知らない。謝るかわりの抱きしめ方も、知らない。陽菜は、スプーンを皿に置いて、背筋を伸ばした。伸ばすと、肩の痛みが少し遠くなる。
「食べ終わったら、宿題して、絵を描く」
「うん」
 母は、台所の水道にコップを重ねた。重ねる音が、小さな鐘みたいに鳴った。

 宿題の算数は、線を引くと答えが出た。線は、引く前はただの可能性で、引いたあとだけ意味になる。引いたから、その線を二度と引き直せないのが好きだ。答えが間違っていても、線は線。そこにいた時間の形が残る。
 宿題が終わると、祖父の残したデッサン帳を机に置いた。茶色の紙の端が少し欠けて、くるぶしみたいな形の破れがある。紙は、長く誰かの指に触れられていると、やわらかくなる。
 鉛筆で椅子を描く。背もたれの曲線に、指が、鉛筆の腹を使いたがる。木の椅子の影は四角く落ちるけれど、よく見れば、影の端は毛のようにほつれている。そこが好きだ。完璧な直線は、嘘っぽい。
「誰の席?」
 透が尋ねる。
「いつかの私の席」
「いつか、っていつ」
「まだ知らない時刻」
「知らない時刻は、たいてい正確」
 意味が、分かるようで分からない。けれど、分からないまま、静かに頷ける。透の言葉は、ときどき、未来のどこかに結び目をつくる。あとでそこに来たとき、ほどけるように意味が分かる。
 ページの端に、祖父の薄い鉛筆の跡があった。椅子の足を描いた線の上に、別の線が重なっている。誰かが、ここに座っていたことを、紙は覚えている。祖父は絵のなかで会話をしていたのかもしれない。紙と椅子と影とで。陽菜は、祖父の指の長さを想像する。長い指で、薄い影を撫でるみたいに描いていたのだろう。
 ページを閉じて、枕元に置く。紙の匂いは、枕の布とよく混ざる。混ざった匂いは、眠りを重くしない。

 次の日から、小さな出来事が、小さな音で積もり始めた。
 発表の順番を代わってほしいと頼んだら、「今日は無理」と笑顔で言われた。笑顔は、断りの刃をやわらかい布で包むために使われる。布はやさしいけれど、刃は刃のまま。
 給食の配膳で、牛乳を配るスピードが遅くて、「気が利かない」と言われた。言った子は、悪気がない顔をしていた。悪気がない、は、傷薬みたいに言われるけれど、傷薬は傷の上にしか塗れない。
 黒板の隅に、小さな鳥をチョークで描いたら、掃除の時間、誰かが何も言わずに消した。消し方が丁寧だったから、形はきれいに失われた。丁寧に失われるほうが、粗雑に壊れるより、胸がきゅっとなる。
「翼はね」
 透が囁く。
「逃げるためだけじゃなく、降りていくためにもある」
「降りていく?」
「着地、ってこと」
「私は、どこに降りればいいのかな」
「濡れてない地面。あるいは、濡れているのに冷たくない場所」
 陽菜は、黒板消しの粉が舞う光の中で、小さく頷いた。濡れているのに冷たくない場所は、たぶん、人の声のすぐ外側にある。そこには、耳だけを差し出せばいい。体は差し出さなくていい。

 日曜の午後、窓の向こうで、空の白が少しだけ薄くなった。雲の切れ目のどこに切れ目があるのか、目では分からないのに、部屋の空気が軽くなったことで分かる。
 陽菜は机の上を片づけた。コップに水を用意して、紙を新しいものに変える。水彩絵の具の箱は、角がすこし割れて、蓋が斜めに閉まる。斜めのまま、問題なく使える。
 透を描こう、と思った。透は、見えない。見えないものを描くには、どうすればいいのか。輪郭のないものに、輪郭を与えずに、存在を渡すやり方。
 紙に、清水を引く。平たい筆で、水だけを、四隅にひろげていく。水が紙に入っていくとき、紙は、濡れていることを誇らしげにはしない。静かに受け取るだけ。受け取ることができる紙は、強い。
 乾く前に、薄い灰色を、椅子の座面のあたりにだけ落とす。絵の具は、水をみつけて、そこにひろがる。ひろがる境目は、毛のようにほつれて、見えない呼吸を描く。
 背もたれの棒の影を、うんと薄く、指先で擦る。指は、消しゴムの代わりにならない。むしろ、紙の上に指の脂を残してしまう。それでも、指で触れた部分は、絵の具が少し鈍くひろがって、偶然を作る。偶然の形は、意図の形より、ずっと正直だ。
 窓からの光が、机の上に四角く落ちる。その四角の端に、くすんだ色を置く。そこだけ色を濃くすると、誰かがそこに座っていた気配が、紙の上に生まれる。気配は、目で見る前に、皮膚で読む。
「透」
 と呼んでみる。
「ここに、いる?」
 返事は、すぐにはない。返事がすぐにないことは、いなくなった証拠にはならない。いないことと、いなくなることは、ちがう。陽菜は、そのちがいを、まだはっきりは言葉にできない。
 紙の中央に、濡れの濃い輪が残る。水がゆっくり引いていくにつれて、輪郭がすこしずつ乾いて、あぶり出しの文字みたいに浮かび上がる。
 題名を、紙の下に小さく書く。
「椅子の跡」
 跡、という言葉は少し悲しい。でも、やさしい。まだ温度が残っている感じがするから。温度が残っているうちは、跡はただの過去ではない。

 夕方、母はソファで眠ってしまった。テレビは付いているのに、音は出ていない。動くだけの映像は、金魚鉢の水みたいに、部屋の空気を濡らす。
 陽菜は、窓の前に立った。窓ガラスに、自分が映る。輪郭は、外の光で縁どられて、顔はすこし薄い。薄い顔は、怖くない。怖くないのは、そこに、自分の目が確かにあるから。
 指で、ガラスの上に、輪を描く。指先の熱で、輪はすこし曇り、じきに消える。消える、というのは、無くなることではない。見えなくなること。見えなくなっても、指先には、輪を描いたときの筋肉の記憶が残る。
「透」
 陽菜は、ガラスに向かって言う。ガラスは、言葉を受け取らず、ただ映す。映すことしかできないものに、言葉を投げるのは、少しだけ勇気がいる。
「明日の私を、教えて」
 言った瞬間、部屋の空気が、一度だけうすく鳴った。返事かもしれないし、返事でないかもしれない。どちらでもいい。言えたことが、明日の半分だった。残りの半分は、明日、言うこと。
 窓の外の白い空は、夜の手前で、粉を払い落とされたように透明になった。空は軽くはならない。軽くなるのは、きっと陽菜の肩。肩が軽くなると、背中の骨の一本一本に、空気が入ってくる。空気が入った背中は、少しだけ、まっすぐになる。
 ベッドに横になると、まぶたの裏に、水のひろがる音が残った。水は、いつも通り、紙の繊維の間に入って、そこにしかできない地図をつくる。明日になったら、その地図の続きを、また描く。透がそこにいなくても、いるみたいに。いるみたいに描けたら、そのとき、透の名前は、輪郭を持たないまま、意味だけで残る。

 眠りに落ちる手前で、陽菜は思う。
 係を決めるときに挙げられなかった手は、明日、紙の上で挙げればいい。手を挙げるのは、教室の中だけの動作じゃない。紙の上で、色を置くことも、手を挙げることだ。
 窓ガラスに、さっき描いた輪はもう見えない。見えないけれど、指先のあたたかい記憶は、眠りの底で、丸い石になって沈む。沈んだ石は、朝、目を開けたとき、足の裏で触れる小石みたいに、歩きだすきっかけになる。
 明日の空が白でも、灰でも、青でも、陽菜の肩の重さは、一度ずつ量り直すことができる。量り直すたびに、軽くなる。軽くなるたびに、透の声に近づくわけではない。けれど、その必要が、少しずつ薄くなる。必要が薄くなるのは、さみしいことではない。残るものが、別の形を得るから。
 遠くで、電車の音がした。規則的な音は、線路の上でしか鳴らない。線路は、昨日も今日も明日も同じ場所にあるのに、乗る人はいつも違う。陽菜は、その当たり前に救われる。違う人が乗る。同じ線路。今日の自分と、明日の自分。違う人。同じ窓。
 目を閉じる。
 ふっと、耳の内側で、雨の前の気圧が、やさしく寄せた。返事に似た静けさが、枕の綿に吸い込まれていく。
 陽菜は眠る。眠りは、紙の白に似ている。何も描かれていないのに、たくさんの線が、薄く準備されている。

第2話 雨の日の約束

 転勤の内示は、母の口からではなく、冷蔵庫の横に貼られた付箋から先に知った。
 四角い黄色い紙に、丸い字で〈総務二→資材三 四月〉と書かれている。矢印は左から右へ、季節の流れと同じ向きに伸びていた。付箋の角が少しめくれて、そこだけ空気の層が厚い。
「春休みの前に、引っ越すことになると思う」
 帰りの買い物袋を台に置きながら、母はやっと言った。玉ねぎの網袋から、甘い匂いがこぼれる。
「遠いの?」
「電車で二つ。県は変わる」
 二つ、という小さな数の中に、知らない駅の数えきれない景色が折りたたまれていることを、陽菜は知っている。網袋の編み目に指を入れると、玉ねぎの丸さが、指の腹に押し返してきた。押し返してくるものに触れると、まだ大丈夫だと思える。
 母は謝らない。謝らないかわりに、豆腐のパックのフィルムをきっちり剥がして、指先で水を切った。水を切る音は、言い訳の代わりに台所に滲んだ。

 最後の図工は、卒業アルバム用の「自己紹介イラスト」。
 担任は黒板に〈じぶんの色で〉と書いた。白い粉が空中にほどけ、窓の光の中でしばらく漂う。
 陽菜は、背景に、雨上がりのアスファルトを選んだ。黒と灰の間に広がる、濡れた面の光。光は、粒になって、遠くの信号の赤や歩行者の靴の白を拾う。その拾いかたが好きだった。明るさは必ずしも空から来ない。地面からだって来る。
 平筆で水を引き、紙を先に濡らす。ぬるり、と音のない音が指に伝わって、心拍が半拍遅れる。
 絵の具は少しだけ。黒に藍を落として、にぶい青をつくる。濡れの上にのせると、色は勝手に広がる。勝手に広がることが、今日は許される。
「もっと明るいほうが、アルバムが華やかになるよ」
 担任が背中越しに言った。イスの脚が床を擦る音と同じトーンで、明るく、あっさり。
 陽菜は筆を止め、空の部分に青を置こうとした。それから、手を引っ込めた。
 代わりに、水。
 水だけを、やわらかく広げる。紙が飲み込むのを待つ。紙は賢いから、必要なぶんだけ受け取って、必要でないぶんは、表面に残す。
 耳の奥で、密度が変わる。
「濡れた路面の青は、空の借りもの」
 透の声が、雨の前触れみたいに落ちてくる。
「借りものでも、たぶん私の色」
「借りる色が選べるなら、それはもうちょっとあなたのもの」
 担任は何も言わずに離れていった。離れていくときの気配は、近づくときの気配よりやわらかい。やわらかいものに守られると、紙の白も少し強くなる。
 美月が、ふ、っと鼻先で笑った。隣の列の二つ前。
「濡れてるの、うまい」
「濡れてるの、うまいって、へん」
「褒めてる」
 美月は、声の端を濡らさない話し方をする。紙を濡らすのが上手い人は、言葉は乾かしておく。そういう気がした。

 放課後、公園のベンチに座る。背もたれの鉄は、冬の名残りを指に渡してくる。
「転校しても」
 と言いかけて、言い直す。
「中学生になっても、いっしょにいて」
 透は、すぐには答えない。遅いのではなく、深さを選んでいる。
「約束は、鍵じゃない」
「鍵じゃない?」
「開けたり閉めたりするための形じゃない。ただ、そこにある」
 ただ、そこにある。
 陽菜は、ベンチの下に覗く。支柱の根元に、錆びたボルトがひとつ。雨で赤茶色に膨らんで、表面が花みたいに割れている。
「じゃあ、合図にしよう」
 ボルトにそっと触れる。冷たい。冷たいものは、手の熱と交わるのをためらわない。
「雨の日は、必ず思い出す。そういう合図」
 陽菜の指の先に、目に見えない針が生まれて、世界に小さな穴を開ける。そこから、思い出すべきときにだけ雨が落ちてくる。
 透も、ボルトに触れた気配を置いた。見えないけれど、金属の冷たさが、指の内側で増える。
「合図は、ここに」
「うん」
 錆の粉が、爪の間に薄く乗った。舌で触れてもしょっぱくないだろうなと思う。味は、知らないままにしておくほうが、きれいなこともある。

 家は、段ボールで生まれ変わろうとしていた。
 段ボールには、字。〈食器〉〈本〉〈衣類〉〈こまごま〉。こまごま、という字は便利で、やさしい。入れるときに迷った物たちを、まとめて守ってくれる。
 祖父の画材箱は、押し入れの奥から出てきた。金具の開閉に、長い年月の音が混ざる。
 底に、小さなスケッチが挟まっていた。
 眠っている幼い陽菜の横顔。薄い線で描かれた耳と、呼吸の位置を示すように置かれた影。ベッドの脇には、空席の椅子の輪郭だけがある。
 裏に、鉛筆で走り書き。
〈君の友達は、君を通して見える〉
 祖父の字は、急ぐときも、止まるところが綺麗だ。
 透が、耳の奥で少しだけ笑う。
「見えてるのかな、私」
「見えたことがある人がいた、ということ」
 母が覗き込んで、「お父さんは、よく分からない人だった」と言い、蓋をそっと閉じた。
 “お父さん”という言葉の手触りを、陽菜はまだ知らない。知っているのは、閉じる音だけ。箱が閉じる音は、音としては小さいのに、部屋の空気の密度を変える。
 スケッチは、ランドセルの奥に隠した。隠す、という動作は、自分に向けての保留の合図だ。あとでちゃんと見る、という約束を、自分の手に預けておく。

 学校の空気は、別れの言葉を覚えていない人たちの気配でいっぱいだった。
 いつも通り、掃除当番。いつも通り、算数のプリント。遠足の写真を配る先生の声は少しだけ高く、笑い声はすぐに消える。
 美月だけが、近くに来る。
「それ、雨の匂いがするね」
 美月が陽菜のスケッチブックに目を落としながら言った。
「匂いは描けないよ」
 陽菜が返すと、美月は、鼻先をすん、と鳴らした。
「でも、する」
 匂いは、記憶の形に似ている。人によって濃度が違う。濃度が違うものを、そのままにしておける人は、少ない。美月は、少ないほうの人だと思う。

 引っ越し前夜、雨が本気を出した。
 段ボールの山が、夜の光を吸って、茶色い崖みたいに見える。部屋の隅に置いたスタンドライトは、山肌の一部だけを明るくし、残りを影に渡す。
「新しい町でも、私を見てて」
 陽菜は、布団の上に座って言った。布団の皺の一本一本が、見えない川の流れの地図みたいだ。
「見るよ」
 透の答えは、雨の音に溶けて、重さを持たない。
「でも、全部は見ない」
「どうして」
「全部見たら、あなたが見る場所がなくなる」
 陽菜は、こみ上げる笑いと泣きの間で、うなずいた。
「ズルい」
「ズルい合図は、役に立つ」
 窓に近づき、人差し指で、小さな輪を描く。曇りが指に追いついてきて、輪はすぐに曇りで満たされる。その上から、雨粒が落ちてきて、輪の中に当たって、形が崩れた。崩れるのは、消えるとは違う。輪のあった場所の温度だけは残る。
「転ぶのは、前にいるからだよ」
 透が、ふっと置くように言う。
「後ろにいると、転ばない」
「転びたくない」
「転ばないように歩くと、歩く場所が狭くなる」
 言葉の端がやわらかいと、残酷なことも、骨まで届かない。骨まで届かない残酷さは、筋肉にだけ残って、明日の動き方を少し変える。

 布団に潜る。雨の音が、屋根からベランダ、ベランダから排水口、排水口から下の庭へと、順番に落ちていく。音は、順番を知っている。順番を知っている音は、眠りを崩さない。
 瞼が重くなる直前、陽菜は、ボルトの冷たさを思い出す。合図が体の内側にあるかぎり、雨が降らない日だって、思い出すことはできる。降らない日にも、湿度はある。湿度は、透明だ。
 夢の中で、透が傘を差さずに立っていた。
 濡れ方が、美しい。
 髪が額に貼りつくのではなく、一本一本が身体の線に沿って、すうっと滑る。透は、濡れることを怖がっていない。濡れるという現象に対して、身体がやわらかく広がっている。
「風邪ひくよ」
 夢の中で言ってみる。
「ひかないよ」
「どうして」
「ここは、あなたの体温で温かい場所だから」
 夢の中の声は、現実より簡単に届く。届くから、嘘みたいに正直だ。
 透は、傘のない手で、空気を撫でた。撫でられた空気が、猫みたいに喉を鳴らす。
「約束は鍵じゃないって、ほんとう?」
「ほんとう」
「じゃあ、どうして持ってると安心するの」
「鍵じゃないけど、ポケットの形を覚えさせてくれる」
「ポケット?」
「何かを入れる前に、そこに入るものの形を練習できる場所」
 理解は、後から追いかけてくる。今は、言葉の温度だけをもらっておく。
 透はすこし笑って、空を見た。空は夢でも重たく、雨は夢でも濡れる。濡れるから、目が覚めても、皮膚に湿り気が残る。
「またね」
「またね」
 別れの挨拶は、夢では軽い。軽いから、起きたときに、重くなる。重さは、胸の真ん中で、丸い石に変わって落ち着く。触れば冷たいけれど、なくては困る冷たさ。

 朝、雨は上がっていた。
 窓ガラスの輪は消え、代わりに細かい筋が残っている。筋は、風の方向の記録みたいに、斜めへ斜めへと流れている。
 段ボールには、昨夜のうちに新しい字が増えた。〈未定〉。
 未定の箱は、空気が軽い。開けても閉めても、何も正しくなくならないから。
 駅までの道で、陽菜はポケットに右手を入れた。ポケットの布の内側の縫い目が、指に触れる。縫い目は、表から見えないのに、服をまとめている。見えないものの仕事は、たいてい、表の形を左右する。
 学校の門の手前で、美月が待っていた。
「今日、帰りに、公園寄れる?」
「うん」
「合図を教えてほしい」
 合図。
 陽菜は、頷いた。ボルトの場所。錆びの花。冷たさ。
 そして、その横に、もうひとつ。窓ガラスに描く輪。
 輪は、すぐに消える。消えるけれど、指の筋肉は覚える。覚えた動きを共有することは、秘密を半分にすること。秘密が半分になると、残りの半分は、少しだけ透明度を増す。
 教室で、担任は黒板に〈引っ越しの準備〉と書いた。
 陽菜は、机の中の消しゴムを出して、角を一つ使った。角は減る。角が減ると、消しゴムは丸くなる。丸くなると、紙の上でやさしく転がる。
 やさしく転がるほうが、字は綺麗に消えない。綺麗に消えない字は、紙の上に薄い跡を残す。跡は、悪いものではない。
 午後、図工室に寄ると、昨日のイラストが乾いていた。濡れた路面の青は、乾いても青のままではなく、紙の繊維の色と混ざって、少しだけ灰に寄っていた。借りものの色は、返すとき、借りたときよりやさしくなる。
 陽菜は、そのやさしさを、指先でなぞった。なぞると、指が静かになる。指が静かになると、心臓が半歩遅れる。半歩遅れると、声が、喉の奥まで来る。
 来るけれど、今日は出さない。
 声は、雨の日のために取っておく。
 約束は鍵じゃないから、開けなくていい。
 ただ、そこにある。
 そこにあると知っているだけで、ポケットの形が、少しずつ自分の手に馴染む。
 手に馴染んだ形で、いつか何かを持つ。その何かが、雨の日にしか見えないものだったとしても。

 帰り道、公園に寄った。
 ボルトは昨日と同じ場所にいて、昨日より少しだけ赤かった。
 陽菜と美月は、並んでしゃがむ。触れると、冷たさは共有される。共有された冷たさは、二人分。増えたのではなく、分けた。
「合図、覚えた」
 美月が言う。
「忘れないよ」
「忘れても、雨が思い出させる」
「うん」
 空は、夕方の手前で、粉が払われたみたいに明るい。
 滑り台の階段を、誰かが登る音。金属は、踏まれるのが好きだ。踏まれた音が、体の中で小さく響く。
 陽菜は、ランドセルのベルトを外側の穴にひとつずらした。肩が軽くなる。
 軽くなった肩で、明日、段ボールに〈たいせつ〉と書く。
 たいせつ、という字は、箱の中身のことではなく、持ち方のことを書いている。持ちかたを間違えなければ、中身はだいたい無事に着く。
 無事に着く、という予感だけで、今日は眠れる。
 眠る前に、窓に輪を描く。
 輪は、やがて消える。
 でも、指先は、輪のために必要な筋肉の、ちいさな記憶を残す。
 その記憶が、明日の陽菜の、目に見えない支柱になる。
 支柱は、たいてい、見えないほうが強い。
 雨の日の約束は、見えない支柱の上に立っている。
 倒れないように立つのではなく、風が吹くたび、少し揺れながら、立っている。
 揺れるたびに、輪は新しく描き直される。
 描き直されるたびに、指は上手になる。
 上手になるたびに、透の声は、少し遠くても、ちゃんと届く。
 届くことより、届くと知っていることのほうが、いつか、陽菜を助ける。
 そのことを、今はまだ、言葉にしてしまわないでおく。
 言葉にしない余白が、胸の真ん中に丸い石として沈み、夜の水底で、静かに光る。

第3話 消える輪郭

 新しい駅は、県境の地図の端にピンで留められたみたいに小さかった。
 改札を出ると、切符を呑み込む口がひとつだけ。朝の匂いは、前の町よりも少し乾いていて、線路の鉄と、まだ濡れている土がうすく混ざっている。ベンチの木目が、冬の爪あとをそのまま残していた。
 四月の風は、色が薄い。透明な紙を一枚、空に重ねたみたいに、すべての輪郭を少し遠ざける。陽菜の靴底のゴムが、学校の廊下の床に最初の音を置いたとき、その音だけがよそよそしかった。新しい制服の袖口は、腕の長さにまだ戸惑っていて、手首の骨に布の影ができた。

 自己紹介は、思っていたより短い。
 名前、好きなもの、最近のこと。短いというのは、助けになるはずなのに、声が震えると、短さはむしろ鋭くなる。背筋を伸ばしているつもりなのに、言葉は机の角にぶつかって、角ばった音を立てる。
 何人かが笑った。笑いは悪意じゃない。なのに、温度を読み損ねる。温度を読み損ねた皮膚の上に、汗がひとつぶ乗っただけで、全身の体温がひとまわり低くなる。
 席替え、係の割り当て、ノートの取り方。黒板の字が、前の学校とほとんど同じ形をしているのに、違う。違うのは、字そのものじゃなくて、字の周りの空気なのだと分かるまで、すこし時間がかかる。
 耳を澄ますほど、静けさが増した。
 透、と呼びたい衝動は、喉の手前でまるくなる。呼べば来る、の神話は、うす紙の束だったのかもしれない。新しい教室の空気は、紙の重なりを一枚ずつ指でめくる余裕を与えてくれない。
 窓の外の桜は、花びらの枚数よりも、幹の黒さのほうが濃く、見慣れない。幹の黒は、まるで言葉の裏側に残っている消し跡みたいだった。

 昼休み、校庭の隅に座って、スケッチブックをひらく。
 雲の輪郭は、鉛筆でなぞると硬くなる。硬くしたくないので、鉛筆の先を紙から半歩浮かせて、空をなぞる。紙に触れない線は、誰にも見えない。それでも、手の筋肉には線が残る。残った線に、あとで薄い色を乗せることができる。
 風がページをめくりそうになるので、左手の親指で押さえる。親指の腹に、紙の繊維のささくれが少し刺さる。刺さる感覚は、私がここにいる、の印鑑みたいだった。
「上手」
 女の子の声。
「暗い」
 別の女の子の声。
 二人は、陽菜の背中越しにそれぞれ違う感想を置いていく。上手に対して、ありがとう、と言うタイミングを探している間に、暗い、に対する笑いの形を用意しなければならない。両方に届かない笑みが、頬の皮の上で迷子になる。
 去っていく足音は軽い。軽いから、責めることができない。責める場所がない感覚は、責められているときより、長く残る。

 下校時刻、商店街のスピーカーが防犯放送を流す。
「新入生のみなさん、気をつけて」
 気をつける先が多すぎると、人は、どこにも注意を向けられなくなる。
 どの角で振り返ればいいのか、どの信号でどれくらい走ればいいのか。陽菜は、注意の向け方が分からなくなって、歩幅が半歩ずつずれていく。
 駅へ向かう途中、古い写真館のショーウィンドウに、白いドレスの女の子の写真が飾られている。ドレスの輪郭は、光で溶けていて、境界が見えない。見えない境界は、安心なのか、不安なのか。陽菜は、その判断を保留する。

 家に着くと、台所の時計の音が、前より大きい。
 母は、新しい部署の話を、箇条書きで読み上げるみたいに続けた。
「締切がね、週に二回あるの。数字は上から降ってくるんじゃなくて、横から来る感じ。あと、課長の口癖が『ま、いっか』で、それが実は大事でね……」
 陽菜は、頷く。頷くと、相槌の種類が足りないことに気づく。うん、そうなんだ、そうだね、たいへんだね——の四つだけで、母の一日の密度を受け止められない。
 言葉の隙間に、透の名を探す。
 呼べば来る。
 その古い合図は、ノイズの向こう側に置き去られているような気がした。
 テレビの天気予報の音楽、冷蔵庫のモーター音、湯が沸く音。音が日常の表面を滑っていく。滑っていく音に混ざって、透の気配が見つからない。気配を見つけられないことと、気配がないことは違う。それは分かる。分かるけれど、指先が、どこに触れていいか分からない。
 夕食のスプーンは、口までうまく運べるのに、言葉のスプーンは、うまくすくえない。

 夜、祖父のスケッチを机にひらく。
 空席の輪郭を指でなぞる。
 紙は、触れても音を立てない。音を立てないものを撫でるとき、人は、自分の内部の音に耳を澄ます。心臓の規則性。呼吸の浅さ。まばたきの湿り気。
 輪郭は、目で見えているのに、指先には何も触れない。触れない、と分かることが、かえって輪郭の確かさを増すことがある。
 鉛筆を取って、空席を描き直してみる。祖父の線の上に、自分の線を重ねることへのためらいを、一度だけ通り過ぎる。重ねる。線の濃さが競い合う。勝つ線と、負ける線。勝ち負けのない場所に、どうやって線を置けばいいのか、分からない。透なら、たぶん、ここで「濃さじゃなくて、呼吸の間隔」と言っただろう。
 しかし、その声は来ない。
 来ない声の輪郭は、頭の中でいくらでも作れてしまう。作れてしまうものを追いかけると、紙の白が嘘になる気がした。

 週末、美術館にひとりで行く。
 駅から少し歩く。歩道橋の上で、風が横から抜け、髪の束の重さが片方だけ変わる。美術館の建物は、白い箱にガラスを貼ったような簡単な形で、見た目ほど中身は広くない。
 企画展は「光の記録」。
 写真と絵画が、同じ壁に並ぶ。写真は、時間が正確すぎて、陽菜の呼吸を早くする。絵画は、時間が曖昧すぎて、陽菜の呼吸を遅くする。その合間に立っていると、呼吸の速度が、自分のものではなくなる。
 キャプションに、こう書いてあった。
 ——不在は、もっとも強い主題。
 陽菜は立ち尽くす。胸の真ん中の空白に、名前を与える勇気がまだないと知る。名前を与えたら、空白はただの「空いた場所」になってしまうのではないか。空いた場所は、埋めなければならない気がする。埋められないなら、持ち歩かなければならない気がする。どちらの気もしないままで、立っていた。
 出口のガラスの向こうで、雨が降り出した。
 傘は持っていない。
 庇の下に立って、袖口を指でつまむ。布の端は、雨に弱い。弱いところを先に濡らすと、全体が落ち着く。
 隣に、同じ制服の女子が立つ。
 目が合った。
 会釈。
 名乗らない距離は、安全だった。安全でいるとき、人は少しだけ弱くなる。弱くなった部分に、雨の音がやさしく入り込む。
 数分ののち、雨脚が弱まる。女子は先に出て、階段を降りるとき、踵で水たまりの縁を軽く蹴った。水面に、空の白がほどける。陽菜は、彼女が振り返らないことに安堵し、振り返らない自分に少しだけ失望した。

 帰宅して、鏡の前に椅子を置く。
 空席を描く練習を繰り返す。
 紙の上の白が、紙から浮かんでこない。白は、目の前にあるのに、手の中で重さを持たない。
 影の濃度を決められない。濃くすると、簡単に悲しみになってしまい、薄くすると、簡単に嘘になる。簡単に、が怖い。
 苛立ちの先で、ふと、筆圧を弱める。
 弱めると、線が呼吸する。
 線が呼吸すると、紙の白が、白であることを主張し始める。
 ——白は、塗らないことでしか残らない。
 その事実が、胸のどこかを鳴らす。どこか、としか言えない。心臓でもなく、喉でもなく、肋骨の隙間の、触れない場所。そこが、一瞬だけ、薄く震えた。
 透の声は、返ってこない。
 返ってこない、ということが、夜の静けさの“主題”になろうとする。主題に名前を与える勇気が、まだない。
 窓を開けると、街灯の円が二つ三つ、路面に落ちている。
 その小さな円たちの中へ、蛾が入っては出ていく。蛾の羽は、光の上では重さを持たない。重さを持たないものは、簡単に輪郭を消す。輪郭を消すたびに、また現れる。現れるときのほうが、くっきりして見える。
 ——消える輪郭は、見えるために消える。
 頭に浮かんだ言葉が、誰のものか分からない。
 透かもしれないし、陽菜かもしれないし、通り過ぎた誰かの独り言かもしれない。
 いずれにせよ、今は、確信しないでおく。確信しない余白が、今日を終わらせるための毛布になる。
 電車の遠い音が、夜の端で水平に引かれる。線路の音は、いつだって、昨日と明日を同じ音でつないでくれる。
 ベッドに入る。
 目を閉じる直前、陽菜は、ベンチの下の錆びたボルトを思い出す。指先に、冷たさは戻ってこない。戻ってこないのに、冷たさの形だけが、指の内側に残っている。形だけが残ることが、ときどき救いになる。
 明日の自己紹介は、ない。
 明日の笑いも、たぶん、ない。
 ない、の列の中に、小さなある、を置く練習をする。
 ある、は、紙の白だ。
 塗らないことでしか、残らない。
 塗らないで残した白の上に、いつか、名前を置く。誰のでもない名ではなく、自分の名で。
 そのとき、透の声が遠くても、世界はたぶん、聞こえるようにできている。
 聞こえるようにできている世界の中で、陽菜は眠る。
 眠りは、今日も、紙の白に似ている。
 何も描かれていないわけではないのに、何も描かれていないように見える。
 目を閉じる。
 消える輪郭が、見えるために一度だけ消える、その一瞬の手前で。

第4話 名前を呼ぶ日

 観察日記、という課題は、見えたものを日にちと時間とともに残しなさい、というシンプルな指示だった。植物でも、雲でも、人の動きでも、なんでもよい。
 なんでもよい、と言われると、世界は急に広すぎる。広すぎる世界の端に指をかけるには、入口の形を自分で決めなくてはいけない。陽菜は、ノートの一枚目の上に、小さな四角を描いた。四角の中に文字を書く。「濡れた地面の光」。入口は、これにする。
 写真ではなく、スケッチで記録しようと思った。レンズは世界を正確に写すけれど、正確すぎて、こちらの呼吸の乱れが入り込む場所がない。鉛筆は、手の震えをそのまま線にする。震えは、うそではない。

 放課後、校舎裏の入口は、いつも風が回って、小さな渦をつくる。落ち葉は渦の形を少しだけ真似して、すぐに飽きる。陰になっているコンクリートには、昼間の湿りがまだ残っている。そこに落ちた光は薄く、けれど消えない。
 陽菜は、地面に膝をつかない距離でしゃがみ、スケッチブックを縦に持って、鉛筆の先を紙から半歩浮かせる。影の縁に触れずに、影を描く方法を、体に思い出させる。
「それ、雨の匂いの絵だよね」
 声がして、顔を上げた。
 美術館の出口で、庇の下、同じ雨を眺めたあの女子が立っている。近くで見ると、黒目が丸い。髪は肩の少し下で、結び直したばかりの跡が、耳の後ろにやわらかい曲線を残していた。
「……匂いは、描けないよ」
 陽菜が言うと、彼女は鼻先をすん、と鳴らした。
「でも、する」
 それから、陽菜のスケッチブックに手を伸ばしかけ、寸前で止める。触れない。指先が空気をなぞる。
「ここ」
 空中で、小さな輪郭を描く。「ここに、踏まれた跡がある感じ」
 陽菜は驚いた。自分以外の誰かが、見えない“踏まれた跡”を言語の前に指で掴めること。言語の前に共有できること。
「誰かと描いてる?」
 彼女が訊く。
 透を説明する語彙は、まだ持っていない。持っていない語のかわりに、のどが一度、空気を飲む。
「ときどき、教えてくれる人がいるの」
 彼女は頷いた。
「うちにもいるよ、そういうの」
「名前は?」
「まだない」
 名前がないものの気配は、衣服のタグみたいに、首筋をときどきくすぐる。くすぐられたままにすることに、彼女は慣れている顔だった。
「私、美月」
 名乗って、指を胸に寄せる。
「同じクラスだよね。席、遠いけど」
「……陽菜」
 自分の名を、相手の前で言うとき、声は少し硬くなる。名前は、世界に針を刺す行為だ。刺したところに固定点ができる。固定点ができた場所は、逃げると痛む。痛みを持つ場所は、同時に、動ける場所でもある。

 二人は、美術室で放課後を過ごすようになった。
 顧問の先生は、誰かの声を遮るより、窓を開けることのほうが上手いひとで、いつも高い位置から光を入れておいて、他はあまり口を出さない。「片づけて、鍵、閉めてね」だけ言い、たいてい先に帰る。
 美月は油彩の匂いが好きだった。蓋を開けたばかりのチューブから出てくる、まだ空気を知らない色の匂い。乾きかけのキャンバスの上で立ち上がる、亜麻仁油の甘さ。油彩の匂いは、時間を遅くする。遅くなった時間は、反射を少し鈍くして、思い直す余裕をくれる。
 陽菜は、水彩の水が紙を渡る音が好きだった。音、と呼ぶには小さすぎるけれど、筆の毛が水を含んで紙に触れた瞬間、耳の内側で、ごく短い音がする。紙は、水を拒まない。拒まない紙に、水は自分の形を渡す。渡した形が、乾いて残る。
 互いの好きが混ざる時間は、部屋の空気に厚みをつくった。厚みのある空気の中では、透の不在は、薄い紙のように感じられる。紙はたしかにここにあるのに、破っても、音が小さい。
「沈黙って、苦手?」
 油を布で拭き取りながら、美月が言う。
「ううん。ひとりで持つ沈黙は、ちょっと重いけど」
「二人だと?」
「怖くない」
 答えると、自分の声が、紙に水を置いたときの小さな音に似ていた。美月は微笑んで、「うん」とだけ言った。沈黙のとり方を知っている人は、言葉を必要以上に増やさない。増やさない沈黙は、呼吸の邪魔をしない。

 ある日、美月が、パレットナイフの先を布で拭いながら訊いた。
「あなたの“その人”、名前は何て言うの」
 その人。
 陽菜は、躊躇した。
 名前を口に出すと、たいてい、なにかが固まる。固まったものは、動きにくくなる。動きにくくなったものは、落として割りやすい。割れたら、拾い集めるのに時間が要る。
 それでも、言葉は、言われるために待っている。待っている時間が長すぎると、言葉は薄くなってしまう。
「……透」
 ゆっくりと発音した直後、部屋の空気がひとつ、澄んだ。
 美月が目を細めて、笑う。
「いい名前」
 そして、陽菜のスケッチブックの端へ、鉛筆で小さな点を打った。紙を破らないぎりぎりの力で、点。
「ここ、透が座ってた感じ」
 陽菜は、その点の上に、濡らした綿棒をのせた。かすかに滲む。滲みは輪になって、輪は、すぐに薄くなる。薄くなりながら、紙に残る。
 名前は世界に針を刺す、という最初の恐れは、輪の内側に移動した。針が刺さっているのではなく、小さなリングが置かれているだけ。持ち上げれば手に入るし、置いていけば、そこにある。
「透、か」
 美月は、窓の外の雲を見た。
「うちのは、まだ呼べない。名前をつけると、居場所を決めちゃう気がして」
「居場所」
「居場所があるのはいいことだけど、名前のせいで狭くなることもあるから」
 陽菜は頷いた。名前によって、世界が急に平面になる瞬間がある。縫い目が外側から見えるようになる瞬間。
「でも、呼びたいときは、呼んでいいよ」
 美月が言う。
「誰の前で?」
「私の前で」
 胸の奥の、あの丸い石が、すこしだけ動いた。動いた場所に、あたらしい筋肉の芽が触れる感触。体の奥で、見えない準備が始まる。

 下校途中、雨が降り始めた。
 空は灰色の手をひとつ広げて、指の間から水をこぼすみたいに降る。二人は一つの傘に入る。骨が八本。八本の骨の下に、肩が二つ。
 歩幅を合わせる練習をする。左、右。右、左。歩幅の違いは、体の大きさのせいだけではない。性格の速さ、視線の位置、靴底の厚さ、今日の眠気、いま考えていること。たくさんの要素が、半歩の差をつくる。
「約束って好き?」
 美月が訊く。
 好き、と言える種類と、怖い、と言いたくなる種類がある。陽菜は、間を置かずに答えた。
「怖い。守れなかったらどうしようって」
「守れない約束は、交換できるよ」
「交換?」
「べつの約束に。『こうする』が難しければ、『こうしなかったら合図を出す』に変えるとか」
 合図、という言葉に、ベンチの下の錆びたボルトの冷たさがよみがえる。指先の内側に残っている形の記憶。
「約束は鍵じゃない」
 陽菜が言うと、美月は「うん」と頷いた。
「鍵じゃないけど、ポケットの形を覚えさせてくれる」
「それ、いいな」
「どこかで聞いた」
「だれから」
「……私」
 二人で笑う。笑い方の速度が合うと、傘の布の上の雨音も、少しだけ揃う。揃った音が、聞こえやすいメロディになる。
 信号が青に変わり、横断歩道の白い帯の上だけ、雨が明るくなる。白の上の雨は、透明ではなくなる。透明ではない雨の粒は、眼で数えられる。数えられるものは、怖くない。
 校門のそばで傘を閉じ、二人は走らずに歩いた。走らない速度は、考え事のために空けてある。互いの考え事がぶつからないように、半歩ずつずらしながら。

 翌日、美術室の窓辺で、陽菜は初めて、透の名を、自分以外の人の前で呼んだ。
「透」
 顧問の先生はもう帰っていて、部屋には陽菜と美月しかいない。光は高い窓から落ちて、机の上で四角になっていた。
 応答はない。
 応答がないことは、いないことと同じではない。
 名前を空気に置くと、置いた場所の空気が、いっときだけ張る。張った空気は、数秒後、やわらいで、部屋の他の空気と混ざる。混ざったあとの部屋は、混ざる前よりも澄んでいる。
 恐れは、ゼロにならない。ゼロにならないかわりに、恐れのための筋肉が生まれる。新しい筋肉は、最初は細く、すぐ疲れる。けれど、疲れながら育つ。
「次は、空席じゃなくて“座る人”を描こう」
 美月が提案する。
「座る人?」
「椅子に、その人の重さを置く。重さの置き方を描くの」
 重さ。
 陽菜は、紙の白をひとつ、あえて残すことにした。椅子の座面の中央に、小さな楕円の白。そこに、鉛筆で、ごく微かな影を置く。影は、光の裏にあるのではなく、座る重さの裏にできる。
 美月が、隣で油を練る。色と色のあいだに空気が混ざり、練っているうちに、時間が巻き込まれていく。
 陽菜は、水を含ませた筆を、白の縁にだけ当てた。白の縁が、極細の線で濡れる。濡れただけで、色は置かない。置かないのに、白が、白であることを強く主張し始める。
 そこに“座る人”がいる。顔や服や髪が見えるわけではないのに、紙の上の重さが、白を支えている。
「うん」
 美月が、小さく頷いた。
「そこにいる」
「透、が?」
「――いまは、陽菜」
 驚いて、笑ってしまう。笑うと、肩の骨のあいだに空気が入る。
 紙の端に、小さな点を打つ。昨日と同じ力で。点は、輪になる準備をしている。輪は、誰かの名前を、やさしく囲むためのかたち。
 陽菜は、にじむ前の点へ、指で息を吹きかけた。ほんのすこしだけ、滲む。滲みの円の内側で、静かに「透」ともう一度呼ぶ。
 応答は、やはりない。
 でも、その不在を怖がらない体の部位が、確かに増えている。肋骨の横、みぞおちの下、指の第二関節。場所を点で覚えるように、不安の薄い場所が増える。
 窓の外で、風が旗を一度だけ強く鳴らした。音は、空気の弦の振動みたいに、まっすぐ伸びて消えた。
 消えた音は、記録されない。記録されないけれど、二人の耳の中には、同じ長さで残る。
 その長さを共有できたことが、今日のすべてだった。

 片づけの時間。筆を洗い、パレットを拭き、椅子を上げる。
 上げられた椅子の足の先に、わずかな水が残る。水は落ちずに、表面張力で止まる。止まっているあいだにも、重力はかかり続けるのに、落ちない。
 落ちない一瞬は、長い。長い一瞬は、物語の余白に似ている。落ちたあとより、前のほうが、なぜか静かだ。
「明日も、ここ?」
 美月がカーテンの紐をくるくるしながら言う。
「うん」
「じゃあ、明日は“座る人”をもう少し増やそう。空席も、すこし残して」
「空席を残すの?」
「うん。全部の席に座らなくていい。座らない席があると、座った席の重さが確かになるから」
 残すこと。
 塗らないこと。
 呼ばないこと。
 どれも、ゼロではない。やめる、ではなく、置いておく。置いておくことを、今日、学んだ。

 下駄箱の前で外靴に履き替えるとき、陽菜は、靴のかかとの内側に、泥が少しついているのに気づいた。どこかの濡れた地面を踏んだ証拠。泥は、落とせば落ちる。落とさなければ、家の床に少しだけ残る。残っても、拭けばいい。拭いたあと、床は、拭く前よりも光る。
 外は、夕方の白に薄く朱が混ざるころ。風の温度は、朝とちがって、少しだけ人の体温に寄っている。
 傘はいらない。
 陽菜は、ポケットに手を入れた。指先が、縫い目に触れる。縫い目は、服がほどけないように、見えないところで世界をつないでくれる。つながれたまま、動ける。動けるまま、ほどけない。
 歩きながら、心の中でもう一度、名前を呼ぶ。
 透。
 今度は、返事の代わりに、胸の真ん中の丸い石が、静かに温かくなる。
 名前は、世界に針を刺す行為。
 でも、今日の針は、傷をつけなかった。
 刺したところに、小さな輪だけが残る。
 その輪は、いずれ、指に馴染む。「透明でない私」を描くための、目に見えない取っ手のように。
 取っ手があると、扉は、いつでも、静かに開けられる。
 開けるかどうかは、私が決めればいい。
 雨の匂いの残る道を、陽菜は家まで歩いた。
 足元の光は、写真にはならないけれど、今日のページに、薄い線で記録された。
 観察日記の見開きの左に、日付と時刻。右に、短い言葉。
〈名前を呼んだ。部屋が澄んだ〉
 それだけ書いて、ノートを閉じた。
 閉じた紙の重さは、手のひらにちょうどよく、持ちやすい。
 持ちやすいものは、たぶん、長く持てる。
 長く持てるもののそばで、人は少しずつ育つ。
 育つ速度は、いつも静かだ。
 静かさの中で、陽菜は、明日の白を思い描く。
 白は、塗らないことでしか残らない。
 その白の真ん中に、座る人の重さを、少しだけ置く。
 置いた重さと同じぶんだけ、世界の輪郭が、やさしく濃くなる。
 その濃さを、今日の終わりに、胸の中の輪に通しておく。
 落ち着いた輪は、目に見えない支柱として、静かに立つ。
 支柱があると、沈黙は怖くない。
 沈黙が怖くないと、名前は、もっとやさしく呼べる。
 呼ぶたびに、部屋が澄む。
 澄んだ部屋で、陽菜は、明日の私へ向けて、指を一本、そっと伸ばした。

第5話 さよなら、透

 夜の体温は、昼の体温とちがう。
 布団の中で、陽菜は額の皮膚がうすく光るのを感じていた。額の下で、熱は丸くなり、丸いままゆっくりと大きさを変える。喉の奥が乾いて、呼吸の出口が一瞬ずつ狭くなる。狭くなるたび、耳の裏で、なにかが空気を撫でた。
 期末前の夜。机には、開きかけのワークと、閉じかけのノート。ページの白さは、昼間には頼もしかったのに、熱を持った目には、少し冷たすぎた。
 枕の綿は、熱を吸い、吸った熱のかたちを覚える。覚えたあいだだけ、眠りの深さは浅くなる。浅い眠りと深い眠りが交互に来て、境目のところで、夢は始まった。

 夢のなかの公園は、かつての町の公園だった。
 滑り台の下の空気が、現実より少し低い温度で保たれている。金属の柱は雨の雫を抱えていて、ひとつ落ちるたび、雫の重さぶんだけ空気が軽くなる。雨の匂いが濃い。濃さは、湿度の数字では測れない。記憶の密度で決まる。
 透がいた。
 以前と同じ距離、同じ透明。
 いる、としか言いようのない存在の輪郭は、目ではなく、皮膚と耳で受け取る。耳の奥が軽く詰まる。雨の前の気圧のように。
「いなくならないで」
 陽菜は、ためらいなく言った。熱の中では、言葉はまっすぐ出ていく。
「いなくなることは、いないことと違う」
 すぐに返ってくる。透の声は、水の表面に落ちた針のように、静かに半径を広げる。
 意味を掴もうとして、掴みそうになって、指がすべっていく。
「いなくなる、は、今ここから離れること」
 透は続けた。
「いない、は、あなたの中に残らないこと」
 陽菜は、滑り台の下の砂を指で押した。押した跡が、すぐに湿り気で丸まっていく。
「あなたは、もう自分の影を信じられる。私は、その影が生まれるまでの、濡れた地面だった」
 濡れた地面。
 言葉が胸に入ってくるとき、熱は少しだけ形を変える。丸かったものの縁が、卵の殻みたいに薄くなる。
「影は、光があるからできる?」
「うん。光があるから、そして、あなたが立っているから」
「立ってる?」
「座っていても。横になっていても。あなたの重さが、世界に触れているから」
 世界に触れている。触れているのは、皮膚だけではない。名前の端、笑いの端、沈黙の端。
 陽菜はうなずいた。うなずくたび、額の汗が生え際へゆっくりと流れる。流れたあとに残る冷たさが、ひとつずつ、現実の小石のように重くなった。

 夢は、思い出の編集を進めた。
 祖父のスケッチ。空席の輪郭。紙が触れられても音を立てないこと。
 母の忙しさ。台所の時計。コップを重ねる音がいつもより高く鳴る夜。
 転校。小さな駅。新しい制服。笑いの温度を読み損ねた昼。
 生まれつきの不器用さ。角にぶつかって欠けてしまう言葉。
 そのすべての間を、透という細い糸が通っていた。糸は、結び目をつくらず、ただ通る。通ったあとに、世界は少しだけ強くなる。
「私は、壁じゃなかった」
 透が言う。
「孤独から守る壁じゃなくて、孤独の輪郭を、安全な形で学ぶための“仮の友達”」
「仮」
「仮は、嘘じゃない。仮は、稽古。稽古で覚えた筋肉は、本番でも使える」
 陽菜は、滑り台の下の匂いを吸い込んだ。濡れた鉄と、砂と、泥。鼻の奥が少し痛む。痛みは、起きてからも残る種類の痛みだと分かる。
「仮、があるから、私、いま、平気だったのかな」
「うん。仮があったから、あなたは、あなたの影を怖がらない練習ができた」
 練習。
 練習だったのだ。雨の日の合図。ベンチの下の錆びたボルト。指先の冷たさ。
 それらの一つずつが、今日のこの夢へ、細い道をつなげていた。

 夢の終盤、透はベンチのボルトに触れない。
 あの冷たさを共有する儀式は、ここでは行われなかった。代わりに、透は、陽菜の手をとった。
 驚くほど、あたたかい。
 見えない手の温度は、見える手よりもやわらかく伝わる。温度は、皮膚の外側から内側へ、内側からさらに内側へと進み、心臓の手前で、ひとつ、うすく輪を描いた。
「名前を残していくよ」
 透が言う。
「呼べば思い出すために」
 陽菜は、泣いて頷いた。頷いた拍子に、涙は唇の端に触れ、味を置いた。塩と、体温の味。
「ありがとう」
 その言葉は、世界に向けて、初めて正確に投げられた気がした。これまでのありがとうは、礼儀や、場の温度を整えるための薄い膜だった。今のありがとうは、重さを持って、相手に届く途中でいったん落ち、落ちた地面で跳ね、もう一度、届いた。
 透は、目に見えない線で、画面の縁を示した。
「ここから外へ」
 画面外。
 夢のカメラの見ていない場所に、透は陽菜を導く。見えない場所でも、歩くことはできる。歩幅は、現実と変わらない。
 滑り台の下の風が、一瞬だけ弱くなった。弱くなった風の向こうで、朝の気配がし始めていた。

 目が覚めると、枕が濡れていた。
 額の汗、頬の涙、髪の水分。混ざり合った湿り気は、もう夢のものではない。
 窓の外には朝の光。朝の光は、夜の熱を薄く剥がす力を持っている。雨は上がり、空気は軽い。軽さは、肩の筋肉に先に届き、次に背骨に届き、最後にまぶたを持ち上げた。
 熱は、少し下がっていた。体温計の数字は静かで、静けさの中にほんの少し光っている。
 台所から、湯の沸く音。母の足音は、仕事の日より半歩ゆっくり。
 学校に行く支度の手は、いつもより確かだった。袖を通す。ボタンを留める。髪を結ぶ。結び目は、きつくもゆるくもない。必要なだけ締める。必要なだけ、残す。
 鏡の前で、息を整えた。鏡は、いつも通り、こちらの体温に無関心だ。無関心なものの前に立つとき、人は自分の温度を確かめられる。

 美術室へ。
 美月は、いつもの席でパレットを整えていた。絵の具は蓋を開けたばかりで、色に空気が混じる前の匂いがする。
「昨日、夢で別れた」
 陽菜が言うと、美月は、パレットナイフを止めた。
「誰と」
「透と」
 数秒の間。
「お葬式、する?」
 真顔で訊かれて、陽菜は笑い泣きのなかで首を振った。笑いと泣きが同じ高さにあるとき、声はうまく出ない。
「ありがとうを言ったから、平気」
「うん」
 二人は、机の上に小さな白い紙片を置いた。名刺より小さい、手帳の端を切り取ったような、白。
 中央に、点を打つ。
 鉛筆の先で、紙を破らないぎりぎりの力。
 打たれた点は、まるで小さな鐘のように、目に見えない音を鳴らした。
 一分間だけ、筆を持たずに座る。
 黙祷の代わりに。
 時刻のわからない時間が、部屋を通り過ぎる。風はないのに、カーテンがわずかに動いた気がした。空気は、誰もいない椅子の背を撫でた。
 一分の終わりは、合図しないでも、同じ場所に来た。
「ありがとう」
 誰もいない空席に向けて、美月が小さく言い、陽菜は頷いた。頷きが、胸の中の丸い石に触れる。石は、冷たいままで、でも、重さの端が滑らかになっている。

 授業後、陽菜は初めて「自画像」を描いた。
 正面ではなく、斜め後ろからの視線。
 正面をさけたのは、逃げではない。いまの自分を、いまの自分の目で見ると、目が仕事をしすぎる。仕事をしすぎる目は、光を拾い過ぎる。拾い過ぎた光は、影の柔らかさを奪う。
 斜め後ろからなら、光は私を選ばず、私に触れる。触れる光の量が、自然に決まる。
 髪の束の重さ。一本一本の線が、首筋に落ちる。髪は軽いのに、束になると、肩の斜面を変える。
 耳たぶの小ささ。耳たぶという言葉の柔らかさが、紙に移る。鉛筆の腹で、輪郭をほぐす。
 肩の斜面。布の厚み。縫い目。縫い目の上で光が途切れ、影が生まれる。生まれた影に、薄い水を置く。
 紙の白は、もう怖くない。
 白は、塗らないことでしか残らない。
 陰は塗るもので、光は残すもの。
 残した光と、塗った陰が、同じ強さで立ち上がる場所を探す。探す作業は、計算に似ている。正解がひとつではない計算。
 描き終えたとき、陽菜は、紙の下に自分の名前を小さく書いた。
 名前を書くのは、世界に針を刺す行為。
 今度は、透ではなく、自分の名で。
 刺した場所は痛まない。痛まない代わりに、そこに、薄い輪が残る。輪は、指で触れられない。触れられないのに、確かに持てる。

 帰宅すると、母が珍しく早く帰っていた。
 テーブルには、コンビニではない夕飯。湯気が、天井の明るさに溶ける。味噌汁の匂いは、家の匂いとすぐに混ざる。
「仕事、慣れてきた」
 母が言い、言いかけてやめた。言葉の角が、台所の光で丸く見える。
「……あんた、強くなったね」
 陽菜は、否定しなかった。否定しないことが、肯定ではないことも知っている。それでも、肯定に近い沈黙は、悪くない。
「友達ができた」
 それだけ言うと、母は驚いて、笑った。驚きと笑いが同時に顔に出ると、目尻の皺が少しだけ増える。
「名前は?」
「美月」
「いい名前」
 母は、鍋の火を弱め、味をみた。ちいさく頷く。食卓の上に、いつもより多い数の皿。多い皿は、会話の皿でもある。
 透の名は、語らない。語らないままで、心のなかの輪に、もう一度「ありがとう」を置く。輪は音を立てない。音を立てない感謝は、長く残る。

 夜。
 陽菜は、窓に指で輪を描いた。
 ガラスは冷たい。指の温度で、輪は曇り、息で、すこし濃くなる。
 今度は、消えないように、紙に写し取る。
 新しいスケッチブックの端に、ガラス越しの輪の位置を合わせ、鉛筆で、ほとんど見えないほどの力でなぞる。鉛筆の芯が紙を撫でる音は、耳の内側でしか聞こえない。
 輪の内側に、薄く影を置く。
 影は重さの裏。
 重さの裏には、必ず何かがいる。
「さよなら」
 声に出す。
 窓の向こうの夜は、返事を持っていない。返事のない場所に言葉を置くと、言葉は輪になって、自分に戻る。戻った言葉は、前よりも小さく、前よりも重い。
「ありがとう」
 もう一度。
 輪の真ん中に、点を打つ。
 点は、小さな鐘。鐘は、音を鳴らすだけが仕事ではない。沈黙を支える形でもある。
 紙を閉じる。
 閉じた紙の重さは、手のひらにとってちょうどいい。ちょうどいい重さは、落としにくい。落としにくいものは、持ち運びやすい。
 ベッドに横になり、天井を見上げる。
 今日は、熱の丸さが小さい。小さくなった丸の縁は、朝の予感で薄くなる。
 目を閉じると、滑り台の下のにおいが、もう遠くにあった。遠くにあるものは、簡単に呼べない。簡単に呼べないもののほうが、長く残る。
 透。
 心の中で、一度だけ呼ぶ。
 応答はない。
 ないことに、痛みはついてこない。
 代わりに、静けさが来る。
 静けさの上に、今日の輪をそっと置く。
 輪は、明日の指に馴染むために、夜のあいだ、形を休める。
 休むもののそばで、人は眠る。
 眠りは、紙の白に似ている。
 描かれる前の白。
 描き始める前に、そこにあるだけで支えてくれる白。
 陽菜は、その白の真ん中に、やっと「私」を置く準備ができた。
 準備は、約束ではない。
 鍵でもない。
 ただ、そこにある。
 そこにあるものが、明日をひらく。
 ひらかれた明日の端で、陽菜は、もう一度だけ、輪の形を指に覚えさせた。
 指は、おだやかに動く。
 さよならの手は、振らない。
 輪をつくるだけ。
 輪の中に、残るものと、去るものが、同じ温度で並ぶ。
 その並びを見届けることが、今夜のすべてだった。
 そして、やさしい睡りへ。

第6話 透明でない私

 放課後の美術室は、音の骨組みだけが残る場所だ。
 机を拭く布の繊維が、わずかに木目に引っかかる擦過音。流し台の蛇口の金属が、前時限の水の名残を指先に戻してくる冷たさ。カーテンの裾が窓の桟をなぞるとき、布の重さが空気の端を引く、かすかな音。
 陽菜は、キャンバスに立っていた。制服のブレザーは椅子の背に掛けて、シャツの袖をひと折りする。腕の肌に、絵具の匂いが薄く沈む。
 テーマは「残像」。
 彼女は、過去の空席を描かない。そこに「座る人」を描く。
 ただし、顔の中央には、白を残す。紙で覚えた「塗らないことでしか残らない白」を、布に移す。見る人が、それぞれの“透”を重ねられる余白。
 輪郭は決めない。重さだけを置いていく。膝の角度、腰の沈み、椅子の座面に伝わる体温。重さが作る影は、光の裏ではなく、存在の裏。
 筆は、硬い毛と柔らかい毛を使い分ける。硬いときは決意を、柔らかいときは躊躇を。
 美月は、別の教室で写真の現像をしている。廊下の向こうから、赤色灯の部屋に入る前の、薬品の微かな甘さが届く。写真は時間を閉じる。絵は時間を開く。二人は別々の道具で、同じ静けさを耕している。

 顧問が扉をノックした。
「コンクール、案内きたよ」
 封筒の口は、丁寧に切られていて、紙の繊維がささくれない。手渡された要項は、どの年度とも変わらない文面で、しかし今年の余白だけが新しい。
 陽菜は、連作の計画を立てる。
 ——「椅子の跡」「雨の匂い」「窓の輪」「点の葬式」「残像」。
 タイトルは、過去の記憶の索引になっていく。索引は本文ではないけれど、ページへ指を導くためにある。
 制作の合間、陽菜はノートに文章を書く。
 “不在は、もっとも強い主題”
 かつて、美術館のキャプションで読んだ一文。
 彼女はそれを、自分の言葉に置き換える。
 “不在は、私を透明にしないための輪郭”
 透明に「なる」ことと、透明に「される」ことは違う。透明にされる時、人は速度を奪われる。透明にならずに、透明さを扱うために、輪郭はいる。輪郭は、やわらかくてもいい。やわらかい輪郭は、触れるために残る。

 夕方。
 現像室から、美月が写真を持ってくる。暗室の赤い光の余韻が、彼女の髪についたまま揺れている。
「見て」
 差し出された半切の紙に、雨の日の校庭がある。水たまりに映った、二人分の影。身体はないが、輪郭は確かだ。影は、私たちを“写して”いない。私たちが“触れた”光を、記録している。
「これ、あなたの絵の相棒にして」
 美月は言った。
 陽菜は頷く。写真の隣に、キャンバスの下隅に、小さな丸い点を描き込む。
「合図ね」
 紙の上で何度も打った点は、布の上でも、小さな鐘の仕事を忘れない。目に見えない音で、呼吸を揃える。
「タイトルは?」
「『残像』」
「いいと思う。残っているのに見えないもの、じゃなくて、見えるために残ったもの、って感じ」
「うん。消えるために来て、残るために去る、のその先」
 美月は、うれしそうに鼻先をすん、と鳴らした。
「じゃあ、私はラストの薬を抜いてくる。仕上げたら持ってくるね」
「うん。ありがとう」
 言いながら、陽菜は、ありがとうの重さを測る。重さは以前より軽く、しかし空気に埋もれない。手に載せて、渡せる重さ。

 夜。
 家の台所で、母がコップに氷を落とす。氷がガラスの内側で小さな鐘になり、水面に短い円を置く。
「日曜、空いてる?」
 母がエプロンを外しながら訊いた。
「うん」
「美術館、行かない?」
 誘う声の速度が、昔よりゆっくりだ。相手の返事が入る隙間が、あらかじめ空けてある。
 二人で出かける。休日の美術館は、家族連れと、静かな一人客と、宿題に追われる学生で適度に満ちている。
 企画展の端に、小ぶりの抽象画がかかっていた。色の層が薄く重なり、向こうの白がところどころ呼吸をしている。母は立ち止まり、作品名を読み上げる。「輪郭の持ち方」
 帰り道、喫茶店に入る。
 母は、コップの水を一口飲んで、ぽつりと言った。
「お父さんは、君が生まれる前にいなくなったから、私は“不在”の扱いが下手だった」
 氷が、スプーンの先で静かに回る。
「不在の形は、ひとによって違うね」
 陽菜が言うと、母は笑って、頷いた。笑いの端が、少しだけ照れている。
「でも、君は自分の形を見つけた」
 その言葉は、褒め言葉というより、安堵に近かった。安堵の重みは、袋の底にやさしく置かれた果物の重さに似る。
 親子の会話は、やっと同じ速度になっている。
 速度が合うと、沈黙に段差ができない。段差がない沈黙は、つまずかせない。

 翌週から、陽菜は連作のラフをいちどに並べる癖をつけた。
 「椅子の跡」では、もう誰の不在も描かない。かつて誰かが座っていたという温度だけを、紙の白に残す。白は、塗らないことでしか残らない。残った白が「在る」ことを、影が保証する。
 「雨の匂い」では、色よりも粒を描く。光の粒、音の粒、匂いの粒。粒の一つひとつに、名前をつけない。つけないことで、粒は粒であり続ける。
 「窓の輪」では、曇りの輪郭を手の筋肉の記憶で写す。輪は、くっきり描かない。曖昧な輪ほど、指が覚える。
 「点の葬式」では、小さな白い紙片に点を打ち、その周囲の空白に均等ではない時間を置く。黙祷は時間ではなく、密度だ。
 そして「残像」。
 座る人の重さを中心に、顔の中央に白を残す。見る人が、自分の“透”を重ねられるように。
 美月は、写真の中で、私たちの影を育てている。現像薬を抜いたあと、水洗の水が写真の表面を滑る音を、陽菜は壁越しに想像する。耳の奥で、その音は、紙が水を受け取る音と重なる。別々の道具で、同じ静けさを耕す——繰り返し、確かめる。

 コンクール応募前夜。
 アトリエの窓を開けると、夜の湿気が、部屋の角に丸く溜まった空気をいっせいに撫でる。遠くで雷の音。線ではなく、面で鳴る音。
 机の上には、祖父のスケッチ。幼い自分の横顔。空席の椅子の輪郭。あの鉛筆の走り書きは、もう暗記している。
〈君の友達は、君を通して見える〉
 白い紙片に残した小さな輪を取り出す。
 筆先を湿らせ、その輪を、丁寧になぞる。輪の内側に、薄い影を足す。
 影は、もう誰かの不在ではない。
 自分がそこに「いる」ための礎だ。
 礎という漢字の硬さが、輪の柔らかさに吸い込まれて、意味だけが残る。
 そのとき、窓ガラスに雨粒が一つ、音もなく落ちた。
 陽菜は目を閉じる。
 呼ばないのに、胸の奥で「透」という音が、静かに揺れる。
 呼ぶ必要のない名前として。
 名前は、世界に針を刺す行為だった。けれど、今夜のその音は、何も刺さない。輪が、そこにあるだけ。ある、は、十分だ。

 翌日。
 応募票の作品タイトル欄に、陽菜は、躊躇なく書いた。
 ——「透明でない私」
 副題に、小さく、「—残る友達—」。
 書いた瞬間、紙の白の上に、うすい輪がひとつ増えた気がした。輪は、見えない。だが、手は覚える。
 会場の白壁に、連作は静かに掛けられた。
 「椅子の跡」は、座った温度の名残を、観る人の足裏に移す。「雨の匂い」は、目で嗅ぐ仕組みを用意している。「窓の輪」は、曇りを思い出す指のための記憶装置。「点の葬式」は、沈黙の密度を数えるための目盛り。
 そして「残像」は——
 座る人の重さと、顔の中央の白とが、同じ強さで立っていた。
 美月の写真は、近くの壁に寄り添い、同じ高さで並ぶ。水たまりの影の二人は、絵の中の白を見ているようにも、会場の誰かを見ているようにも、見えた。

 観客の一人が囁く。
「ここ、誰か座ってたみたい」
 陽菜は振り向かない。
 誰かが同じ余白を見つめたという事実だけで、世界は少しだけ軽くなる。
 軽さは、肩に先に届く。肩が軽くなると、背骨の一本ずつに空気が入る。空気の入った背骨は、まっすぐではなく、しなやかに立つ。
 顧問が、パンフレットを手に、ぽん、と陽菜の背を軽く叩いた。
「よく残したね」
 褒め言葉を受け取るときの体の角度を、私はもう知っている。まっすぐ受け取らず、少しだけ斜めに。斜めに受けると、重さは肩から降り、土踏まずへ整う。整った重さで、前に進める。

 展示の端で、美月が目を細めて微笑んだ。
「残像、の“像”、さ。像って、像るって書くの、知ってる?」
「象る?」
「うん。形にする、ってこと。残像は、ただ残った影じゃなくて、残すために像った形」
「像った、か」
 口の中で転がすと、舌先の少し手前に、薄い温度が生まれた。
「私たちの影、ちゃんと立ってるね」
「うん。座ってるけど、立ってる」
 二人で笑う。笑いは短く、でも、長さ以上の意味を持つ。意味の長さは、時刻では測れない。

 会場を出ると、外の光は昼の真ん中にいた。
 空は、透明ではない。
 薄い雲の層が、光を柔らかく砕いて、街の輪郭に配っている。
 配られた光の上を、私たちは歩く。
 歩幅は、かつて練習したときより、自然に合う。
「ねえ」
 美月が言う。
「『透明でない私』、好き」
「ありがとう」
「透、いま、どこにいると思う?」
 陽菜は、ポケットに手を入れ、縫い目を確かめた。
「輪の内側。呼ばなくていい場所」
「うん。呼ばない場所に、いてほしいね」
 同意の仕方にも、同じ速度が宿っている。速度が合うと、言葉は先回りしない。

 夜、家で、陽菜はスケッチブックを開く。
 白いページの端に、小さな輪を描く。
 輪は、すぐに消えない。紙の繊維が、今日の湿度を覚えているのか、指でなぞると、ほんの少しだけ、ざらりと返事をする。
 輪の中央に、点を打たない。今日は、点のかわりに、短い線を一本。
 線は針ではない。
 線は、歩幅だ。
 歩幅は、私のものだ。
 透明でない色で、これからも描いていくために。
 輪郭は、やわらかいままでいい。
 やわらかい輪郭は、触れることを許す。触れられる輪郭は、壊れにくい。
 窓の外で、風が旗をいちどだけ強く鳴らし、遠くの電車が水平に走った。線は、今日と明日をつなぐ音を持っている。
 陽菜は、筆を洗い、乾いた布で水気を拭う。
 拭き取られた水が布の中にしみ、しみは、見えないところで冷たさを保つ。
 その冷たさを思い出しながら、明日の準備をする。
 準備は、約束ではない。
 鍵でもない。
 ただ、そこにある。
 そこにあるものが、私を透明にしない。
 私は、透明でない私として、立つ。
 友情は、消えるために来て、残るために去る。
 去ったあとに残ったものの色は、透明ではない。
 それを、私は選ぶ。
 選ぶたびに、世界の重さは、手のひらにちょうどよく乗る。
 その重さを持って、前を向く。
 そして、描く。
 ——透明でない色で。