あの日を覚えていないのに、あの日の風だけは覚えている。金属を薄く削った匂い。川べりのフェンスが鳴らす、指をはじくような音。ポケットの中には、濡れた小石がひとつ、冷たく転がっていた。
事故は、曇り。そう言い切るひとが多かった。川霧が低く、アスファルトは暗く、誰もが「雨は降っていなかった」と断言した。
でも僕のスマホに残っていた天気アプリのスクリーンショットには、午後四時・降水量1mmの表示がある。表示の右下には、あの河川敷のピンが刺さっていた。
そして、凪は言う。「降ってなかったよ。俺、傘なんて持ってなかったし」
彼の口調はやわらかい。事故のあと、退院して部屋に戻ってからというもの、凪は日に一度は来てくれる。牛乳を買って来たり、宿題を写させてくれたり、先生の言い回しをまねて笑わせたり。
そして、空白を埋める。「あの日、二人で走ってて——おまえが転んだんだ。スニーカーが濡れてて。自転車のブレーキ、最近鳴いてたろ? フェンスに当たって、それから……救急車」
「僕は、誰かとぶつかったの?」
「ぶつかってない。誰もいなかった」
「じゃあ、僕はなにを避けたの」
「段差。小さなやつ。夕方、見えにくかった」
凪はいつも、大きな輪郭は迷いなく語るのに、細部になると急に曖昧になる。曖昧さは優しさのかたちにも見える。
でも、曖昧さが増えるたびに、僕の胸の中の小石は重くなる。小石は、あの日ポケットに入っていたそれに似ている。濡れて、冷えて、やがて忘れられるはずの重さ。忘れられないのは、どうしてだろう。
◇
医師は言った。「逆行性の記憶障害は珍しくないんですよ。事故の当日前後の数時間だけが抜けている人もいる」
僕はうなずいた。抜け落ちた数時間は、教科書の白紙ページのように、めくられるたびに音をたてて空気を押し返す。
「思い出そうとしすぎないこと。時間が補う場合もあるし、補わない場合もある」
補わない。簡単に言う。
その簡単さが、僕にはこわかった。
家に戻ると、母が味噌汁の味を少しだけ濃くしていた。父は黙って新聞を置き、僕の頭に手を乗せた。重さがあった。
夜になって、ドアが二回ノックされた。間隔は短く、音は薄い。凪のノックだ。
「入るよ」
彼は小さな紙袋を持っている。袋の中は、ミサンガだった。紺と白と薄い緑の糸が撚り合わさっている。
「作った。片方、おまえの。もう片方、俺」
「いまさら中学生みたいだね」
「いまさらでいいだろ」
ミサンガは、手首の骨の上で冷たく光った。糸の結び目は小さく、でも確かで、もしこれが切れる日が来たら、なにかが叶うのだろうか、と考えた。
「——ねえ」
「ん」
「凪は、なんでそんなに僕のこと、覚えていられるの」
「おまえの顔に、書いてあるから」
「なにが」
「忘れたくないって」
僕は笑って見せた。凪は、少しだけ目を細めた。その奥に、誰にも見せない色が通り過ぎた気がした。
◇
事故から二週間。体の痛みは薄れ、代わりに空白が濃くなった。
僕は部屋の引き出しから、古いスマホを取り出した。画面はひび割れ、電源はうまく入らない。ケーブルを挿し、しばらく待つと、片隅に小さく灯りがついた。
バックアップの一覧。日付の並び。事故の日付の前日まで、写真とメモがある。
その一つに、音声のアイコンがあった。再生を押す。雑音の向こうに、声。
『——練習、する?』
『やっとくか。言い淀むと怪しまれるって、先生言ってたし』
(笑い)
『じゃあ、もう一回。事故のとき、君たちはどこにいた?』
『河川敷。橋脚の近く』
『天気は?』
『曇り。降ってない』
『時間は?』
『四時すぎ。四時十七分』
『誰かと会った?』
『……会ってない』
『声が小さい。もう一回』
『会ってない』
音声はそこで途切れた。再生時間は短い。
僕は息を止める。今聞こえた二つの声は、僕と凪の声だった。
練習。何の。
証言の、練習。
天気は曇り、降っていない。時間は四時十七分。会っていない。
そして、スクリーンショットは降水量1mmを示す。
何が真実で、何が嘘か。
僕はスマホを伏せ、窓の外を見る。川に向かって伸びる道の先が、淡く濡れている。
◇
翌日、凪が来た。僕は古いスマホのことを言わないことにした。言う言葉が、まだ見つからなかった。
「駅前の新しいパン屋、うまかった」
「どんなの」
「丸いやつ。名前忘れた。硬い」
「それ、うまいのかな」
「うまいんだって。食ってみる?」
彼は袋を差し出した。パンの紙は指の脂で透明になっている。僕はひとかけらを齧った。驚くほど静かな味がした。
「さ、歩こう」
「どこへ」
「河川敷。ゆっくり」
川は、淡い色をしていた。水の表面に、細かな風が走っている。フェンスが時々鳴った。
橋脚の根元に、薄い落書きがあった。誰かが鍵のような形を描いている。
「昔から、あったっけ」
「どうだろ。気にしたことない」
「“気にしたことがない”って便利な言葉だね」
「便利な言葉、好きだな」
凪が笑う。
「便利なものは、壊れやすいのに」
「じゃあ、不便にしておく?」
「うん。不便にしよう」
僕は、橋脚に指を触れた。コンクリートは冷たい。指先に砂が残る。
そのとき、ポケットの小石が動いた。僕は立ち止まった。
「凪」
「なに」
「僕は、嘘をついた?」
凪の足が止まる。彼は顔を上げず、少しだけ顎を引いた。
「どうしてそう思う」
「わからない。わからないけど、手が覚えてる。誰かと——言い合わせた感じがする」
凪はフェンス越しに川面を見た。視線の焦点は、揺れる波のどこにも合っていない。
「嘘って、どこからが嘘なんだろうな」
「“曇りで、降ってない”」
「——それは、そう言ったほうが、話が短いから」
話が短い。
短さは優しさに似る。長い話は根を張り、人を縛る。
凪は僕の手首のミサンガを、親指と人差し指で挟んだ。
「これ、似合ってる」
「切れたら、なにが叶うんだっけ」
「好きなほうを、叶えられる」
「好きなほう」
「——忘れていたいほう、か、覚えていたいほう、か」
◇
その夜、父が言った。「明日、病院に一緒に行こう。先生が、新しい心理士を紹介してくれる」
母は、僕の皿に魚を一切れ多くのせた。
僕は部屋でスマホを開く。古い音声データの一覧をもう一度見た。練習は一つだけじゃなかった。
『もう一回。事故のとき、君たちはどこにいた?』
『河川敷。自転車は押していた』
『天気は?』
『降ってない』
『時間は?』
『四時十七分』
『誰かと会った?』
『橋の上で、二人見た——嘘。会ってない』
(沈黙)
『……もう一回』
再生ボタンを止める。胸の中で、何かが擦れている。
橋の上で、二人見た。嘘。
嘘を、練習している。
誰のために。
僕のために? それとも——。
スマホの電源が落ちる。画面は暗くなり、僕の顔が薄く映る。見慣れない顔だ。
僕は机の引き出しから、未使用のノートを取り出した。表紙には学校名。中学のときにもらって、使わないままだった。
一ページ目に線を引く。濃い鉛筆で、まっすぐ。
四時十七分
降水量1mm
会っていない(練習)
橋の上で二人見た(嘘→練習)
書いた文字は、僕の字に見えない。
字は、いつから僕のものだっただろう。
◇
心理士は、優しい声で質問をした。
「“あの日”について、思い出そうとすると、からだのどこに力が入りますか」
「喉と、こめかみです。目の後ろが痛い」
「匂いは?」
「金属。削った匂い。雨上がりの匂いにも似ている」
「音は?」
「フェンスの音。指ではじくような」
「触覚は?」
「ポケットの中の小石」
「小石?」
「ええ。濡れていて。なぜか左のポケットに」
心理士はメモをとりながらうなずく。
「左は利き手ではないですね」
「はい。利き手は右」
「誰かに入れられた可能性は?」
僕は答えなかった。答えたくなかった。
心理士は次のページをめくる。
「“嘘”という言葉が、あなたの口からよく出ます」
「僕が嘘をついたのか、嘘をつかれたのか、それとも嘘を持ち寄ったのか、分からないから」
「持ち寄る?」
「ええ。嘘を、割り勘みたいに」
心理士のペンが止まった。
「“嘘の割り勘”。いい表現ですね」
◇
〔拡張①:病院面談(父と医師)〕
診察のあと、父が医師に声をかけた。「少し、時間をもらえますか」
別室。金属椅子の脚が床を擦る音が冷たく響く。
父は慣れないスーツを着ていた。襟が少し曲がっている。
「先生、息子は、長い話をしたがっているようです。でも私は……短い話で、済ませたい」
医師は首をかしげた。
「“短い話”とは?」
「『転んだ。怪我した。もう大丈夫』。それで終わりにしたい。新聞の隅に載るような話に」
医師は手を組み、しばらく黙った。
「短い話は、時に救いです。けれど、結び目が見えなくなるという欠点もある」
「結び目」
「はい。靴紐のように。急いでいるときは固く結ぶ。あとで解けなくなる」
父は視線を落とした。
「私は、あの子を守りたいだけです」
「守るとは、肩に手を置くことですか? それとも、話を代わりに終わらせることですか?」
父は返事ができなかった。
医師は僕のファイルを閉じた。
「彼は、長い話を選ぼうとしている。終わりを人に預けないために。お父さんの役目は、話が長くなっても席を立たないことかもしれません」
父は、ほんのわずかに笑った。
「立ちません。立ちませんとも。椅子が冷たくても」
「では、コーヒーを置きましょう。冷めても飲めるように」
帰り道、父は歩幅を合わせてくれた。
「長い話は疲れるな」
「うん」
「でも、**途中でうたた寝しても許してくれ」
「許すよ」
父は、僕の肩に手を置いた。重さは軽くなっていた。
◇
帰り道、凪からメッセージが届いた。
《寄る。七時》
短い文。短いほうが、安心する。
七時、彼は小さな封筒を持って来た。古い茶色の封筒で、開口部は何度も開け閉めされた跡がある。
「預かってた。おまえの、古いスマホのSIM」
「なんで、凪が」
「事故のあと、俺が拾った。川べりに落ちてて。おまえの母さんに渡そうとしたけど、——やめた」
「どうして」
「……たぶん、俺が守れるふりをしたかったから」
守れるふり。
ふりは、善意の衣装だ。
僕は封筒を受け取り、テーブルに置いた。
「僕の古いスマホに、録音が残ってた」
凪は、うなずいた。
「知ってた」
「知ってた?」
「一緒に録ったから」
「“降ってない”って練習した」
「うん」
「“会ってない”も」
「うん」
「橋の上で二人見た——嘘」
「……うん」
しばらく、二人とも黙った。
沈黙は、言葉の形を崩さずに心の形だけを変えていく。
凪が口を開いた。「俺、あの日、嘘をつこうって言った。いや、正確には——**嘘を“続けよう”**って言った。最初の嘘は、おまえのほうから出た」
「僕が」
「おまえは、誰かを守りたかった」
「誰を」
「それを、いま聞くのは、ずるい」
◇
〔拡張②:録音ファイルの完全反訳〕
僕は古いスマホのSIMを差し替え、残っていた音声を全部テキストに起こした。ノート数ページにわたり、練習のやり取りが並ぶ。
〔00:00〕
僕:——確認。まず、どこ?
凪:河川敷。橋脚の近く。
僕:天気。
凪:曇り。降ってない。
僕:時間。
凪:四時十七分。
僕:誰かと会った?
凪:(間)会ってない。
僕:声が小さい。
凪:会ってない。
〔02:11〕
僕:自転車は?
凪:押してた。
僕:なんで押してた?
凪:……ブレーキ、鳴いてたから。
僕:鳴き方は?
凪:キュッ。鳥みたいな。
僕:フェンスの音は?
凪:ビン、って。——これ、要る?
僕:要る。音は記憶に残る。
〔05:43〕
僕:橋の上。
凪:うん。
僕:二人、見た?
凪:……見た気がした。
僕:見たか、見ないか。
凪:……見てない。
僕:どうして「見た気がした」と言った?
凪:雨。
僕:降ってない。
凪:降ってない。
僕:(小声)——練習。
凪:(小声)練習。
〔08:02〕
僕:最後に。合図。
凪:うなずく。
僕:言葉が合わないときは?
凪:うなずく。
僕:うなずけないときは?
凪:……うなずく。
僕:(笑い)
凪:(笑い)
二人:練習おわり。
読み返すごとに、胸が縮む。
僕たちは、うなずきを共通言語にして、真実と嘘の境界を曖昧にしていた。合図は小さく、確実だった。
◇
僕は、あの日の夕方を再構成する。
ノートに線を引きながら、僕自身を尋問する。
四時十七分。雨1mm。橋脚。鍵の落書き。フェンスの音。
声。二つ。練習。
そして、もうひとつの声が、遠くからにじむ。
「——やめろ」
誰の声だ。
僕はペンを置き、耳を押さえる。
濡れた小石が、左のポケットで動く。
僕は立ち上がり、クローゼットの奥から昔のジャージを引っ張り出した。事故の前日、部活で着ていたやつだ。左のポケットをさぐる。
指先に、砂。
底に、薄い銀色の欠片。
フェンスの針金の、切断された端——のように見える。
僕は、欠片を光にかざした。
刃物のような鋭さはない。銀は鈍く、端は丸い。
フェンスの針金が折れ、誰かがそこをくぐって川の方へ降りた。
その誰かが、僕?
それとも——。
◇
〔拡張③:橋上の目撃者を探す〕
欄外の小さな記事に**“橋上で若い二人を見た”**という一文があった。記者名が小さく載っている。僕は電話をかけた。
「すみません、○月○日の河川敷の件で——」
記者は驚いた声を出した。「あれを覚えてる人がいるとは。目撃者は近所の老夫婦でした。連絡先、聞いても?」
僕はうなずいた。凪も横でうなずいた。
週末、僕と凪は小さな平屋を訪ねた。庭には金木犀。甘い匂いがして、秋が深いことを思い出す。
老夫婦は座布団をすすめ、湯飲みを置いた。
「橋の上で、二人、見ましたか」
老婆は目を細めた。「見たような、見てないような。雨が細く降っててね。傘は差すほどじゃないけど、肩に、点々と」
「その二人は、こちらを見ましたか」
「見なかった。私らも遠くて。若いのは、風の中で形が変わる」
老人が口を開く。「ただ、一人は赤い紐を手首にしていた気がする。いや、紐じゃなくて——細い糸のような」
僕と凪は顔を見合わせた。僕の手首には、切れたミサンガの代わりに、細い赤い糸。
「その頃からしていたのかもしれない」と凪がつぶやいた。
老婆は続ける。「川は穏やかでね。フェンスが、ひゅうと鳴いた。あの音はよう覚えとる」
老人は首を振った。「音は、記憶に残る。形より残る」
僕は、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。長い話に、付き合ってくれて」
帰り道、凪が言う。「“見たような、見てないような”。——採用する?」
「採用する。曖昧なまま」
「曖昧の採用」
「うん。曖昧の採用」
◇
学校では、僕と凪が並んでいるのを見て、誰かが囁く。
「仲いいよな」
「事故、やばかったらしいよ」
やばかった、は便利な言葉だ。あらゆる詳細を塗りつぶす。
僕は、嘘の割り勘から記憶の割り勘へ移る手続きを、日々進めた。
心理士は「よい進捗です」と言い、父は「椅子に根が生えた」と笑い、母は味噌汁を通常通りの濃さに戻した。
短い話は、台所の中でだけ許される。それでいいと、思えるようになった。
◇
秋のはじめ、ミサンガが切れた。
風呂に入る前、手首を洗っていて、結び目がふっとほどけた。
凪にメッセージを送る。
《切れた》
返事は早かった。
《叶う番だ》
《なにが》
《好きなほう》
僕は、左のポケットから小石を出した。乾いて、軽くなっている。
机の引き出しに、封筒がある。中には、フェンスの欠片。
僕は封筒に小石を入れ、二つを指で転がした。
どちらも、もう冷たくない。
夜、凪が来た。
「決めた?」
「——うん」
「どっち」
「覚えていたいほう」
凪はうなずいた。
「じゃあ、長い話だな」
「長い話にしよう」
◇
〔拡張④:最終対話ロング版(河川敷)〕
夕暮れ。河川敷は薄いオレンジに塗られ、フェンスの影が長い五線譜のように地面を横切る。
僕と凪は、橋脚の前に立った。鍵の落書きは、誰かが上からハートで囲ったせいで、鍵穴が笑っているようにも見える。
「まず、順番を決めよう」
「順番?」
「うなずく順番。前は、全部同時にうなずいてしまった。同時は、危ない」
「じゃあ、交互に」
「うん。最初は——僕」
「四時十七分」
凪がうなずく。
「雨、1mm」
凪がうなずく。
「橋の上に、二人」
凪は少し間を置いて、うなずく。
「見たかもしれない」
今度は凪が言う。僕がうなずく。
「降ってない、と言った」
僕がうなずく。
「会ってない、と言った」
僕がうなずく。
「——二人で、言った」
同時にうなずきそうになって、僕らは笑った。
「俺は、怖かった」
凪が言う。
「何が」
「誰もいなかったことが。おまえが呼んだ名前が、どこにも引っかからなかったことが。だから、“会ってない”を守り札にした」
「守り札」
「うん。トランプのジョーカーみたいな。なんでも隠せる札」
「でも、隠すほど、札はよれていく」
「そう。だから、交換したい。守り札を、透かし札に」
「透かし札?」
「逆光で透けて見える札。中身は見えるけど、輪郭は残る。曖昧の採用にぴったりだろ」
僕は笑った。
「名付け、うまいね」
「名前があると、怖さは少し弱る」
「じゃあ、もう一枚」
「なに」
「『ふり割り』」
「ふり割り?」
「ふりを割る。覚えてないふり、強いふり、優しいふり、守れるふり。全部、真ん中で割って、二人で半分ずつ持つ」
「重さが分散する」
「そう。誰か一人のポケットが重くならないように」
凪は、フェンスの切れ目に目をやった。草が揺れる。
「ここで、二人とも倒れた」
「うん」
「俺は、おまえの腕を掴んだ」
「うん」
「おまえは、誰かの名前を呼んだ」
「——たぶん」
「名前は、言わなくていい。言わない採用もある」
風が、少し強くなった。フェンスが、短く鳴った。
僕は、胸の奥で、長く息を吐いた。
「俺、ずっと、覚えていないふりをしていた」
「知ってる」
「なんで」
「うなずき方が、**“前に練習したうなずき”**だったから」
「バレてたか」
「うん。でも、バレてるふりもしてた」
「ややこしい」
「友情は、だいたいややこしい」
僕はポケットから封筒を出した。中には、小石とフェンスの欠片。
凪は、封筒の口を開けた。
「水、流す?」
「いや」
「残す?」
「残す。更新札として」
僕は封筒の外側に、新しいメモを貼った。
〈更新:
四時十七分。雨量1mm。
橋の上に二人(目撃小)。
会っていない(当初の説明)。
会っていたかもしれない(現在の採用)。
嘘:二人で持った。
記憶:二人で持つ。
うなずき:交互。
札:守り札→透かし札。ふり割り採用。〉
凪は、読み終えてうなずいた。
「長い話の、途中経過って感じがいい」
「途中でいい。終わらせない選択を、選び続けたい」
「終わらない物語は、負担だぞ」
「じゃあ、読みやすくしよう。小見出しをつけて、章を短くして」
「それ、俺らの会話のことか」
「うん。小見出し:休憩、て書いておく」
二人で笑った。笑いは軽かった。
風がまた鳴り、フェンスが一声返した。
その音を、僕は覚えておく。採用する。
◇
僕たちは、長い話を始めた。
学校の先生に、心理士に、両親に、少しずつ、“会っていたかもしれない”ことを話した。
警察に改めて連絡を取り、記録の修正が可能かどうかを尋ねた。
「難しいでしょうが——」と、担当者は言った。「当事者の記憶の“更新”は、珍しくはありません」
更新。
記憶を、更新する。
更新された記憶は、古い嘘を上書きするのか、別のレイヤーに重ねられるのか。
答えは出なかったが、僕は重ね書きを選ぶことにした。前の行を消さず、その上に細い字で追記する。読み返せるように。いつでも、途中に戻れるように。
学校の友人の一人が、僕に聞いた。
「なんで、わざわざ、そんなこと」
「たぶん、これが**“俺たちの友情”だから」
「友情?」
「うん。割り勘だよ。嘘の。——でも、いまは記憶の割り勘**に変えたい」
友人は首をかしげた。「難しいこと言う」
難しいよ、と僕は思った。
難しいほうを選ぶのは、楽ではない。
でも、選ばないと、誰かが一人で払い続ける。
◇
季節が進む。
川べりの風は、金属の匂いをやめて、枯れ葉の匂いに変わった。
フェンスはあまり鳴らない。
橋脚の落書きは、ハートの輪郭が少し剥がれて鍵の線がのぞく。
安っぽい。でも、嫌いじゃない。二つの絵が、同じ場所で共存しているのが、今の僕らにちょうどよかった。
凪と並んで歩く。
ミサンガの代わりに、細い赤い糸を手首に巻いた。切れやすいやつ。切れやすいものを身に着ける練習として。
「なあ」
「ん」
「もし、また、忘れたら」
「うん」
「また、割ろう。嘘も、記憶も、季節も」
凪は笑った。
「季節は割れないよ」
「じゃあ、時間を」
「時間も割れないよ」
「じゃあ、沈黙を」
「それは、割れるかもしれない」
僕は笑った。
風が、少し強くなった。
フェンスが、遠くでひと声だけ鳴った。
その音を、僕は覚えておく。
採用する。
(了)
事故は、曇り。そう言い切るひとが多かった。川霧が低く、アスファルトは暗く、誰もが「雨は降っていなかった」と断言した。
でも僕のスマホに残っていた天気アプリのスクリーンショットには、午後四時・降水量1mmの表示がある。表示の右下には、あの河川敷のピンが刺さっていた。
そして、凪は言う。「降ってなかったよ。俺、傘なんて持ってなかったし」
彼の口調はやわらかい。事故のあと、退院して部屋に戻ってからというもの、凪は日に一度は来てくれる。牛乳を買って来たり、宿題を写させてくれたり、先生の言い回しをまねて笑わせたり。
そして、空白を埋める。「あの日、二人で走ってて——おまえが転んだんだ。スニーカーが濡れてて。自転車のブレーキ、最近鳴いてたろ? フェンスに当たって、それから……救急車」
「僕は、誰かとぶつかったの?」
「ぶつかってない。誰もいなかった」
「じゃあ、僕はなにを避けたの」
「段差。小さなやつ。夕方、見えにくかった」
凪はいつも、大きな輪郭は迷いなく語るのに、細部になると急に曖昧になる。曖昧さは優しさのかたちにも見える。
でも、曖昧さが増えるたびに、僕の胸の中の小石は重くなる。小石は、あの日ポケットに入っていたそれに似ている。濡れて、冷えて、やがて忘れられるはずの重さ。忘れられないのは、どうしてだろう。
◇
医師は言った。「逆行性の記憶障害は珍しくないんですよ。事故の当日前後の数時間だけが抜けている人もいる」
僕はうなずいた。抜け落ちた数時間は、教科書の白紙ページのように、めくられるたびに音をたてて空気を押し返す。
「思い出そうとしすぎないこと。時間が補う場合もあるし、補わない場合もある」
補わない。簡単に言う。
その簡単さが、僕にはこわかった。
家に戻ると、母が味噌汁の味を少しだけ濃くしていた。父は黙って新聞を置き、僕の頭に手を乗せた。重さがあった。
夜になって、ドアが二回ノックされた。間隔は短く、音は薄い。凪のノックだ。
「入るよ」
彼は小さな紙袋を持っている。袋の中は、ミサンガだった。紺と白と薄い緑の糸が撚り合わさっている。
「作った。片方、おまえの。もう片方、俺」
「いまさら中学生みたいだね」
「いまさらでいいだろ」
ミサンガは、手首の骨の上で冷たく光った。糸の結び目は小さく、でも確かで、もしこれが切れる日が来たら、なにかが叶うのだろうか、と考えた。
「——ねえ」
「ん」
「凪は、なんでそんなに僕のこと、覚えていられるの」
「おまえの顔に、書いてあるから」
「なにが」
「忘れたくないって」
僕は笑って見せた。凪は、少しだけ目を細めた。その奥に、誰にも見せない色が通り過ぎた気がした。
◇
事故から二週間。体の痛みは薄れ、代わりに空白が濃くなった。
僕は部屋の引き出しから、古いスマホを取り出した。画面はひび割れ、電源はうまく入らない。ケーブルを挿し、しばらく待つと、片隅に小さく灯りがついた。
バックアップの一覧。日付の並び。事故の日付の前日まで、写真とメモがある。
その一つに、音声のアイコンがあった。再生を押す。雑音の向こうに、声。
『——練習、する?』
『やっとくか。言い淀むと怪しまれるって、先生言ってたし』
(笑い)
『じゃあ、もう一回。事故のとき、君たちはどこにいた?』
『河川敷。橋脚の近く』
『天気は?』
『曇り。降ってない』
『時間は?』
『四時すぎ。四時十七分』
『誰かと会った?』
『……会ってない』
『声が小さい。もう一回』
『会ってない』
音声はそこで途切れた。再生時間は短い。
僕は息を止める。今聞こえた二つの声は、僕と凪の声だった。
練習。何の。
証言の、練習。
天気は曇り、降っていない。時間は四時十七分。会っていない。
そして、スクリーンショットは降水量1mmを示す。
何が真実で、何が嘘か。
僕はスマホを伏せ、窓の外を見る。川に向かって伸びる道の先が、淡く濡れている。
◇
翌日、凪が来た。僕は古いスマホのことを言わないことにした。言う言葉が、まだ見つからなかった。
「駅前の新しいパン屋、うまかった」
「どんなの」
「丸いやつ。名前忘れた。硬い」
「それ、うまいのかな」
「うまいんだって。食ってみる?」
彼は袋を差し出した。パンの紙は指の脂で透明になっている。僕はひとかけらを齧った。驚くほど静かな味がした。
「さ、歩こう」
「どこへ」
「河川敷。ゆっくり」
川は、淡い色をしていた。水の表面に、細かな風が走っている。フェンスが時々鳴った。
橋脚の根元に、薄い落書きがあった。誰かが鍵のような形を描いている。
「昔から、あったっけ」
「どうだろ。気にしたことない」
「“気にしたことがない”って便利な言葉だね」
「便利な言葉、好きだな」
凪が笑う。
「便利なものは、壊れやすいのに」
「じゃあ、不便にしておく?」
「うん。不便にしよう」
僕は、橋脚に指を触れた。コンクリートは冷たい。指先に砂が残る。
そのとき、ポケットの小石が動いた。僕は立ち止まった。
「凪」
「なに」
「僕は、嘘をついた?」
凪の足が止まる。彼は顔を上げず、少しだけ顎を引いた。
「どうしてそう思う」
「わからない。わからないけど、手が覚えてる。誰かと——言い合わせた感じがする」
凪はフェンス越しに川面を見た。視線の焦点は、揺れる波のどこにも合っていない。
「嘘って、どこからが嘘なんだろうな」
「“曇りで、降ってない”」
「——それは、そう言ったほうが、話が短いから」
話が短い。
短さは優しさに似る。長い話は根を張り、人を縛る。
凪は僕の手首のミサンガを、親指と人差し指で挟んだ。
「これ、似合ってる」
「切れたら、なにが叶うんだっけ」
「好きなほうを、叶えられる」
「好きなほう」
「——忘れていたいほう、か、覚えていたいほう、か」
◇
その夜、父が言った。「明日、病院に一緒に行こう。先生が、新しい心理士を紹介してくれる」
母は、僕の皿に魚を一切れ多くのせた。
僕は部屋でスマホを開く。古い音声データの一覧をもう一度見た。練習は一つだけじゃなかった。
『もう一回。事故のとき、君たちはどこにいた?』
『河川敷。自転車は押していた』
『天気は?』
『降ってない』
『時間は?』
『四時十七分』
『誰かと会った?』
『橋の上で、二人見た——嘘。会ってない』
(沈黙)
『……もう一回』
再生ボタンを止める。胸の中で、何かが擦れている。
橋の上で、二人見た。嘘。
嘘を、練習している。
誰のために。
僕のために? それとも——。
スマホの電源が落ちる。画面は暗くなり、僕の顔が薄く映る。見慣れない顔だ。
僕は机の引き出しから、未使用のノートを取り出した。表紙には学校名。中学のときにもらって、使わないままだった。
一ページ目に線を引く。濃い鉛筆で、まっすぐ。
四時十七分
降水量1mm
会っていない(練習)
橋の上で二人見た(嘘→練習)
書いた文字は、僕の字に見えない。
字は、いつから僕のものだっただろう。
◇
心理士は、優しい声で質問をした。
「“あの日”について、思い出そうとすると、からだのどこに力が入りますか」
「喉と、こめかみです。目の後ろが痛い」
「匂いは?」
「金属。削った匂い。雨上がりの匂いにも似ている」
「音は?」
「フェンスの音。指ではじくような」
「触覚は?」
「ポケットの中の小石」
「小石?」
「ええ。濡れていて。なぜか左のポケットに」
心理士はメモをとりながらうなずく。
「左は利き手ではないですね」
「はい。利き手は右」
「誰かに入れられた可能性は?」
僕は答えなかった。答えたくなかった。
心理士は次のページをめくる。
「“嘘”という言葉が、あなたの口からよく出ます」
「僕が嘘をついたのか、嘘をつかれたのか、それとも嘘を持ち寄ったのか、分からないから」
「持ち寄る?」
「ええ。嘘を、割り勘みたいに」
心理士のペンが止まった。
「“嘘の割り勘”。いい表現ですね」
◇
〔拡張①:病院面談(父と医師)〕
診察のあと、父が医師に声をかけた。「少し、時間をもらえますか」
別室。金属椅子の脚が床を擦る音が冷たく響く。
父は慣れないスーツを着ていた。襟が少し曲がっている。
「先生、息子は、長い話をしたがっているようです。でも私は……短い話で、済ませたい」
医師は首をかしげた。
「“短い話”とは?」
「『転んだ。怪我した。もう大丈夫』。それで終わりにしたい。新聞の隅に載るような話に」
医師は手を組み、しばらく黙った。
「短い話は、時に救いです。けれど、結び目が見えなくなるという欠点もある」
「結び目」
「はい。靴紐のように。急いでいるときは固く結ぶ。あとで解けなくなる」
父は視線を落とした。
「私は、あの子を守りたいだけです」
「守るとは、肩に手を置くことですか? それとも、話を代わりに終わらせることですか?」
父は返事ができなかった。
医師は僕のファイルを閉じた。
「彼は、長い話を選ぼうとしている。終わりを人に預けないために。お父さんの役目は、話が長くなっても席を立たないことかもしれません」
父は、ほんのわずかに笑った。
「立ちません。立ちませんとも。椅子が冷たくても」
「では、コーヒーを置きましょう。冷めても飲めるように」
帰り道、父は歩幅を合わせてくれた。
「長い話は疲れるな」
「うん」
「でも、**途中でうたた寝しても許してくれ」
「許すよ」
父は、僕の肩に手を置いた。重さは軽くなっていた。
◇
帰り道、凪からメッセージが届いた。
《寄る。七時》
短い文。短いほうが、安心する。
七時、彼は小さな封筒を持って来た。古い茶色の封筒で、開口部は何度も開け閉めされた跡がある。
「預かってた。おまえの、古いスマホのSIM」
「なんで、凪が」
「事故のあと、俺が拾った。川べりに落ちてて。おまえの母さんに渡そうとしたけど、——やめた」
「どうして」
「……たぶん、俺が守れるふりをしたかったから」
守れるふり。
ふりは、善意の衣装だ。
僕は封筒を受け取り、テーブルに置いた。
「僕の古いスマホに、録音が残ってた」
凪は、うなずいた。
「知ってた」
「知ってた?」
「一緒に録ったから」
「“降ってない”って練習した」
「うん」
「“会ってない”も」
「うん」
「橋の上で二人見た——嘘」
「……うん」
しばらく、二人とも黙った。
沈黙は、言葉の形を崩さずに心の形だけを変えていく。
凪が口を開いた。「俺、あの日、嘘をつこうって言った。いや、正確には——**嘘を“続けよう”**って言った。最初の嘘は、おまえのほうから出た」
「僕が」
「おまえは、誰かを守りたかった」
「誰を」
「それを、いま聞くのは、ずるい」
◇
〔拡張②:録音ファイルの完全反訳〕
僕は古いスマホのSIMを差し替え、残っていた音声を全部テキストに起こした。ノート数ページにわたり、練習のやり取りが並ぶ。
〔00:00〕
僕:——確認。まず、どこ?
凪:河川敷。橋脚の近く。
僕:天気。
凪:曇り。降ってない。
僕:時間。
凪:四時十七分。
僕:誰かと会った?
凪:(間)会ってない。
僕:声が小さい。
凪:会ってない。
〔02:11〕
僕:自転車は?
凪:押してた。
僕:なんで押してた?
凪:……ブレーキ、鳴いてたから。
僕:鳴き方は?
凪:キュッ。鳥みたいな。
僕:フェンスの音は?
凪:ビン、って。——これ、要る?
僕:要る。音は記憶に残る。
〔05:43〕
僕:橋の上。
凪:うん。
僕:二人、見た?
凪:……見た気がした。
僕:見たか、見ないか。
凪:……見てない。
僕:どうして「見た気がした」と言った?
凪:雨。
僕:降ってない。
凪:降ってない。
僕:(小声)——練習。
凪:(小声)練習。
〔08:02〕
僕:最後に。合図。
凪:うなずく。
僕:言葉が合わないときは?
凪:うなずく。
僕:うなずけないときは?
凪:……うなずく。
僕:(笑い)
凪:(笑い)
二人:練習おわり。
読み返すごとに、胸が縮む。
僕たちは、うなずきを共通言語にして、真実と嘘の境界を曖昧にしていた。合図は小さく、確実だった。
◇
僕は、あの日の夕方を再構成する。
ノートに線を引きながら、僕自身を尋問する。
四時十七分。雨1mm。橋脚。鍵の落書き。フェンスの音。
声。二つ。練習。
そして、もうひとつの声が、遠くからにじむ。
「——やめろ」
誰の声だ。
僕はペンを置き、耳を押さえる。
濡れた小石が、左のポケットで動く。
僕は立ち上がり、クローゼットの奥から昔のジャージを引っ張り出した。事故の前日、部活で着ていたやつだ。左のポケットをさぐる。
指先に、砂。
底に、薄い銀色の欠片。
フェンスの針金の、切断された端——のように見える。
僕は、欠片を光にかざした。
刃物のような鋭さはない。銀は鈍く、端は丸い。
フェンスの針金が折れ、誰かがそこをくぐって川の方へ降りた。
その誰かが、僕?
それとも——。
◇
〔拡張③:橋上の目撃者を探す〕
欄外の小さな記事に**“橋上で若い二人を見た”**という一文があった。記者名が小さく載っている。僕は電話をかけた。
「すみません、○月○日の河川敷の件で——」
記者は驚いた声を出した。「あれを覚えてる人がいるとは。目撃者は近所の老夫婦でした。連絡先、聞いても?」
僕はうなずいた。凪も横でうなずいた。
週末、僕と凪は小さな平屋を訪ねた。庭には金木犀。甘い匂いがして、秋が深いことを思い出す。
老夫婦は座布団をすすめ、湯飲みを置いた。
「橋の上で、二人、見ましたか」
老婆は目を細めた。「見たような、見てないような。雨が細く降っててね。傘は差すほどじゃないけど、肩に、点々と」
「その二人は、こちらを見ましたか」
「見なかった。私らも遠くて。若いのは、風の中で形が変わる」
老人が口を開く。「ただ、一人は赤い紐を手首にしていた気がする。いや、紐じゃなくて——細い糸のような」
僕と凪は顔を見合わせた。僕の手首には、切れたミサンガの代わりに、細い赤い糸。
「その頃からしていたのかもしれない」と凪がつぶやいた。
老婆は続ける。「川は穏やかでね。フェンスが、ひゅうと鳴いた。あの音はよう覚えとる」
老人は首を振った。「音は、記憶に残る。形より残る」
僕は、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。長い話に、付き合ってくれて」
帰り道、凪が言う。「“見たような、見てないような”。——採用する?」
「採用する。曖昧なまま」
「曖昧の採用」
「うん。曖昧の採用」
◇
学校では、僕と凪が並んでいるのを見て、誰かが囁く。
「仲いいよな」
「事故、やばかったらしいよ」
やばかった、は便利な言葉だ。あらゆる詳細を塗りつぶす。
僕は、嘘の割り勘から記憶の割り勘へ移る手続きを、日々進めた。
心理士は「よい進捗です」と言い、父は「椅子に根が生えた」と笑い、母は味噌汁を通常通りの濃さに戻した。
短い話は、台所の中でだけ許される。それでいいと、思えるようになった。
◇
秋のはじめ、ミサンガが切れた。
風呂に入る前、手首を洗っていて、結び目がふっとほどけた。
凪にメッセージを送る。
《切れた》
返事は早かった。
《叶う番だ》
《なにが》
《好きなほう》
僕は、左のポケットから小石を出した。乾いて、軽くなっている。
机の引き出しに、封筒がある。中には、フェンスの欠片。
僕は封筒に小石を入れ、二つを指で転がした。
どちらも、もう冷たくない。
夜、凪が来た。
「決めた?」
「——うん」
「どっち」
「覚えていたいほう」
凪はうなずいた。
「じゃあ、長い話だな」
「長い話にしよう」
◇
〔拡張④:最終対話ロング版(河川敷)〕
夕暮れ。河川敷は薄いオレンジに塗られ、フェンスの影が長い五線譜のように地面を横切る。
僕と凪は、橋脚の前に立った。鍵の落書きは、誰かが上からハートで囲ったせいで、鍵穴が笑っているようにも見える。
「まず、順番を決めよう」
「順番?」
「うなずく順番。前は、全部同時にうなずいてしまった。同時は、危ない」
「じゃあ、交互に」
「うん。最初は——僕」
「四時十七分」
凪がうなずく。
「雨、1mm」
凪がうなずく。
「橋の上に、二人」
凪は少し間を置いて、うなずく。
「見たかもしれない」
今度は凪が言う。僕がうなずく。
「降ってない、と言った」
僕がうなずく。
「会ってない、と言った」
僕がうなずく。
「——二人で、言った」
同時にうなずきそうになって、僕らは笑った。
「俺は、怖かった」
凪が言う。
「何が」
「誰もいなかったことが。おまえが呼んだ名前が、どこにも引っかからなかったことが。だから、“会ってない”を守り札にした」
「守り札」
「うん。トランプのジョーカーみたいな。なんでも隠せる札」
「でも、隠すほど、札はよれていく」
「そう。だから、交換したい。守り札を、透かし札に」
「透かし札?」
「逆光で透けて見える札。中身は見えるけど、輪郭は残る。曖昧の採用にぴったりだろ」
僕は笑った。
「名付け、うまいね」
「名前があると、怖さは少し弱る」
「じゃあ、もう一枚」
「なに」
「『ふり割り』」
「ふり割り?」
「ふりを割る。覚えてないふり、強いふり、優しいふり、守れるふり。全部、真ん中で割って、二人で半分ずつ持つ」
「重さが分散する」
「そう。誰か一人のポケットが重くならないように」
凪は、フェンスの切れ目に目をやった。草が揺れる。
「ここで、二人とも倒れた」
「うん」
「俺は、おまえの腕を掴んだ」
「うん」
「おまえは、誰かの名前を呼んだ」
「——たぶん」
「名前は、言わなくていい。言わない採用もある」
風が、少し強くなった。フェンスが、短く鳴った。
僕は、胸の奥で、長く息を吐いた。
「俺、ずっと、覚えていないふりをしていた」
「知ってる」
「なんで」
「うなずき方が、**“前に練習したうなずき”**だったから」
「バレてたか」
「うん。でも、バレてるふりもしてた」
「ややこしい」
「友情は、だいたいややこしい」
僕はポケットから封筒を出した。中には、小石とフェンスの欠片。
凪は、封筒の口を開けた。
「水、流す?」
「いや」
「残す?」
「残す。更新札として」
僕は封筒の外側に、新しいメモを貼った。
〈更新:
四時十七分。雨量1mm。
橋の上に二人(目撃小)。
会っていない(当初の説明)。
会っていたかもしれない(現在の採用)。
嘘:二人で持った。
記憶:二人で持つ。
うなずき:交互。
札:守り札→透かし札。ふり割り採用。〉
凪は、読み終えてうなずいた。
「長い話の、途中経過って感じがいい」
「途中でいい。終わらせない選択を、選び続けたい」
「終わらない物語は、負担だぞ」
「じゃあ、読みやすくしよう。小見出しをつけて、章を短くして」
「それ、俺らの会話のことか」
「うん。小見出し:休憩、て書いておく」
二人で笑った。笑いは軽かった。
風がまた鳴り、フェンスが一声返した。
その音を、僕は覚えておく。採用する。
◇
僕たちは、長い話を始めた。
学校の先生に、心理士に、両親に、少しずつ、“会っていたかもしれない”ことを話した。
警察に改めて連絡を取り、記録の修正が可能かどうかを尋ねた。
「難しいでしょうが——」と、担当者は言った。「当事者の記憶の“更新”は、珍しくはありません」
更新。
記憶を、更新する。
更新された記憶は、古い嘘を上書きするのか、別のレイヤーに重ねられるのか。
答えは出なかったが、僕は重ね書きを選ぶことにした。前の行を消さず、その上に細い字で追記する。読み返せるように。いつでも、途中に戻れるように。
学校の友人の一人が、僕に聞いた。
「なんで、わざわざ、そんなこと」
「たぶん、これが**“俺たちの友情”だから」
「友情?」
「うん。割り勘だよ。嘘の。——でも、いまは記憶の割り勘**に変えたい」
友人は首をかしげた。「難しいこと言う」
難しいよ、と僕は思った。
難しいほうを選ぶのは、楽ではない。
でも、選ばないと、誰かが一人で払い続ける。
◇
季節が進む。
川べりの風は、金属の匂いをやめて、枯れ葉の匂いに変わった。
フェンスはあまり鳴らない。
橋脚の落書きは、ハートの輪郭が少し剥がれて鍵の線がのぞく。
安っぽい。でも、嫌いじゃない。二つの絵が、同じ場所で共存しているのが、今の僕らにちょうどよかった。
凪と並んで歩く。
ミサンガの代わりに、細い赤い糸を手首に巻いた。切れやすいやつ。切れやすいものを身に着ける練習として。
「なあ」
「ん」
「もし、また、忘れたら」
「うん」
「また、割ろう。嘘も、記憶も、季節も」
凪は笑った。
「季節は割れないよ」
「じゃあ、時間を」
「時間も割れないよ」
「じゃあ、沈黙を」
「それは、割れるかもしれない」
僕は笑った。
風が、少し強くなった。
フェンスが、遠くでひと声だけ鳴った。
その音を、僕は覚えておく。
採用する。
(了)



