街第一章 風の欠片(現在・前夜)
風が吹いていた。
山の上からまっすぐ降りてくる、乾いた風だった。薄い砂埃が道の端を滑り、外された看板の金具が鳴る。バスの扉が閉じる音が背中で切れて、私は一度だけ深呼吸をした。
町が水に入る前の、最後の夕方。
私はここに戻ってきた。名乗るためであり、返すためでもある。
町役場の仮設庁舎は、元の商店街の突き当たりに仮置きされた。鉄骨の通路を渡って受付に行くと、若い職員が立ち上がる。名札には「神津 杏」とあった。
「町史編纂室の神津です。お約束の、聞き取り……相馬泰生さん、でよろしいですか」
私は首を横に振った。
「相馬泰生ではありません」
杏の表情が、薄く固まる。ペン先が紙の上で止まる音がした。
「……ええと」
「私の戸籍にも、保険証にも、相馬泰生と書いてある。だが、私は神津光男だ」
私は小さな布袋を差し出した。中で硬いものが触れ合う。真鍮の軽い音。杏は慎重に口を開けて、掌に出した。煤けた円形の札。刻印の数字、裏に名前。
「入坑札ですか」
「通行札とも言った。坑口の板に掛けるやつだ」
杏は札を見続けた。指の腹で縁の傷をなぞる。
「どうして、今……」
「この町は、明日から地図から消える。沈む前に、名前だけは地上に置いていきたい」
杏はうなずき、面談室のドアを閉めた。記録用のレコーダーを置き、スイッチを入れる。
「では、時系列でお願いします。昭和三十三年の事故から」
「わかった」
私は風の音を背に、半世紀分の息を整えた。
第二章 崩落(過去・昭和三十三年)
冬だった。凍みる朝。
ランプ室にはカーバイドの匂いが満ちていた。火口の小さな音、濡れた床に白い粉。通行札の板には、当直の名前が既にいくつか掛けられている。私は自分の札を探し、癖で舌で前歯を触った。欠けた角が冷たかった。
相馬泰生と私は同い年だった。春から坑内に入るようになり、夏には互いの手の皮が似た匂いを持つようになった。明け方に飯を掻き込む音、終わりに混ざる石の粉の味。
「光男、今朝の風、強いな」
「昼には落ちる」
相馬はランプの火をつけ、顔にかけたタオルを首に落とす。
「母ちゃんがな、昨日、俺の通学服をほどいたよ」
「何の話だ」
「親父の喪に合わせるんだと。黒い布は、何にでも化ける」
出坑札の板に相馬の札が上がっていく。私は自分の札を——探した。
見当たらなかった。
当直の若い書記が、「昨日の回し、戻し忘れがあったかもしれません」と言い、予備札の箱を出した。
「予備に名前を書いて、今日はそれで」
私は鉛筆で「神津」となぞり、紐が短いことに気づき結び直した。相馬が横から覗き込む。
「字が汚い」
「うるさい」
坑口の風は冷たかった。
午前十時を少し回った頃、一本手前の支柱が鳴いた。嫌な音だった。続いて土の匂いが濃くなる。
「退がれ!」
誰かが叫んだ。私と相馬は、反射的に別の坑道へ走った。支柱が折れ、風管が千切れ、明かりが一瞬弱くなった。石の粉が雨のように落ちた。視界が白くなり、咳と、笛の音と、誰かの名前が混ざる音。
崩れが止まった時、私たちは狭い空隙に押し込められていた。ランプは生きている。
「生きてるか」
「ああ」
相馬が顔をこちらに向ける。頬に赤い線がついている。
「出口側は潰れてる」
「風は来てる」
風の向きで、坑内のどちらが生きているかを測ることは、春の頃に覚えた。向きは悪くない。救助は来る。
私たちは二人で救命笛を鳴らした。三短、三長、三短。金属が口の中に触って、血の味がした。
時間の感覚は崩れた。
相馬が、ふいに笑った。
「光男。もし、もしどちらかしか出られないならさ」
「——出られる」
「そうだけど。もしも、の話だ」
相馬は胸元から何かを引き抜いた。紐に通した札だった。
「俺の札、持っとけ」
「何を言ってる」
「どっちが出たかわからなくなった時、母ちゃんが安心する方にしてやってくれ」
ばかばかしい、と喉の手前で言葉が引っかかった。
事故の時、名札の順番は、生き死により早く伝わる。板に残った札は、坑内にいるという印。回った札は、上にいる印。
「予備札を使ってる。区別がつかない」
「だからだよ。会社は、都合のいい方に合わせるさ」
相馬は札を私の手に押しつけた。真鍮は体温でぬるかった。
「母ちゃんに、仏壇の線香を絶やすなって、言ってくれ」
「何を——縁起でもない」
相馬は笑った。
「なあ、光男。大人は、名前のほうを見る。顔より先に、字を見るんだ」
救助の音が近づいてきた。風が変わった。
私たちは再び笛を鳴らし、声を張った。
板が外され、手が伸び、私の腕が掴まれた。
引き上げられる瞬間、相馬の指が私の袖を掴み、すぐに離れた。
地上の光は薄かった。雪が舞っていた。私は吐いた。白い息に黒いものが混じった。
「相馬——!」
誰かの声が私を呼ぶ。私は顔を上げかけて、やめた。喉の奥に、名前がひとつ、重たく落ちた。
第三章 救出と記録(過去→現在)
救護所は慌ただしかった。名前と体温と血圧が並び、役場の人間と会社の人間が紙を回した。
「相馬泰生」
誰かが言った。私は反射的に手を上げた。
名前と時刻が記録された。帳面の字は素早く、綺麗だった。
その日の夕方、崩落が一部で続き、坑内の確認は遅れた。生存者の名簿と、行方不明の名簿が別々に貼られた。掲示板の前で、母親たちが泣いた。
私は相馬の札を、掌の中で握りつぶすようにしていた。そこに付着した煤が、爪の間に入り込んで取れなかった。
翌日。
会社の会議室で、私は柏原に呼ばれた。彼は当時、若い坑内監督だった。
「名前は、相馬泰生で統一する」
「……どういう意味です」
「入坑記録がそうだ。救出時の呼びかけも、そうだった。このままにする」
柏原の視線は窓の外を向いていた。雪は止んでいた。
「神津は……」
「行方不明だ。崩落の箇所から、退路が——」
言い切らない頑丈な言葉が、彼の口には多かった。
「補償は、規定通りだ。葬祭費、遺族年金。相馬家への支援は、会社としても考える」
私は口の中が乾くのを感じた。
「違う。相馬は——」
柏原は私の顔を一度だけ見た。年上の男の目は、灰色に濁っていた。
「君は生きている。それが事実だ。紙の上の名は、会社と町を回すための歯車だ」
言い方は穏やかだった。だが、歯車は人を潰すものでもあった。
葬儀は三日後に行われた。行方不明者は殉職として扱われ、祠の宮司が風の向きに紙垂を立て、笛が鳴った。
私は列の最後尾で帽子を脱いだ。相馬の母親は、遺影の前で笑っていた。泣き疲れた人間が一瞬だけ見せる微笑。
私は祭壇の脇にそっと立ち寄り、小さな菓子折を置いた。誰も見ていなかった。
——その日から、私の舌は自分の名を離れた。
杏がレコーダーのスイッチを一度見た。
「会社は、入れ替わりを知っていた、という理解でいいですか」
「知っていた。だが、誰も口にしなかった。口にすると、損をする方が増えるからだ」
「損、とは」
「遺族年金、補償、責任者の処分。家が一つ、二つ、立ち行かなくなる」
杏はペン先で紙を突くように押さえ、宙に浮いた言葉を紙に貼りつけた。
「あなたは、なぜ沈黙を選んだのですか」
「私が弱かったからだ」
私は答えた。できるだけ短く、正確に。
「それ以外の言葉は、全部、言い訳になる」
第四章 沈黙の半世紀(現在)
半世紀は、驚くほど早かった。
私は相馬泰生として働き、相馬泰生として結婚し、相馬泰生として離婚した。息子はひとり、娘は生まれなかった。
相馬の母親は、二十年目の夏に倒れた。私は葬儀の費用を出し、位牌に「泰生」の名が刻まれるのを、黙って見た。骨壺を抱いたのは、私ではない。親戚の若い男だった。私はその背に金を渡した。
月々の仕送りは、町の郵便局に記録が残っているだろう。金額は多くはない。だが、絶えなかった。
言い訳に聞こえるだろう。
贖罪も、自慢も、どちらもしたくない。事実だけを言う。
私は毎年、相馬の命日の前に帰郷した。祠に線香を上げ、風の向きを確認し、笛を一度だけ吹いた。音は短く、弱かった。笛の内側の煤は、唇に移った。
杏は、静かに訊いた。
「あなたの本当の家族——神津家は」
「父親は早くに死んだ。母は私を探した。手紙が一度来た。役場の人間が親切で、私の住所を伝えたのだろう。だが私は返事を書かなかった。神津家に行く補償は……行ったはずだ」
杏はノートをめくった。
「行きました。祖母は、その年から粗末な豆腐をやめて、少し良い油を使うようになったと聞いています」
「祖母?」
「私は、神津家の孫です」
杏は微笑んだ。薄い笑いだった。
「うちの祖母は、行方不明の兄がいると言っていました。兄は真面目で、笛が上手だった、と」
私は、首筋が強張るのを感じた。
「君の祖母は、何と言う名だ」
「神津ふさ。兄は光男」
「——そうか」
私はうなずいた。
「あなたは、私の伯父ですか、と訊かないのか」
「記録を残すのが仕事です。血縁の確認は、役場の窓口の仕事です」
杏は丁寧に頭を下げた。
「けれど、個人的には、伯父でもいいと思っています」
私は窓の外を見た。風が強くなってきた。ダムの締切に合わせるように、空は乾いていた。
第五章 ダムの底(現在)
役場からの帰り、私は杏に案内されて旧商店街を歩いた。シャッターに赤い線が引かれ、そこまでが水位計の予定だと説明された。
「この線の下は、明朝から湖になります」
「湖、という言い方は、いくらか優しい」
「そうですね」
杏は笑った。
「地図の表現は、いつも優しい。人の心を傷つけない言葉を選ぶ」
共同浴場は閉まっていた。扉に貼られた紙には、長い挨拶と短い数字。湯の温度、掃除当番、最終日。
坑口は封鎖されていた。板の上にボルト。風が当たるたびに金属の乾いた鳴りがする。私は板の端に手を添えた。冷たかった。
「柏原は——元監督は、どこにいる」
「介護施設です。山の下の」
「会えるか」
「はい。連絡はしてあります」
施設の玄関は暖房がきいていて、空気がやわらかかった。柏原は車椅子に座り、薄い毛布を膝にかけていた。目は濁っていたが、私を見ると焦点が合った。
「相馬……泰生、か」
「神津光男だ」
柏原の口元がわずかに上がった。
「ようやく、言ったな」
「遅すぎた」
「遅すぎた、という言い方も、便利だな」
柏原は咳をした。
「会社は、あの時、わかっていた。入坑札の紐の結び方が違った。予備札の鉛筆の筆圧が違った」
私はうなずいた。
「なぜ、黙った」
「事故の件数を増やしたくなかった。遺族を二軒にしたくなかった。——と、私は言ってきた。しかし本当は、私が楽をしたかったのだ」
柏原の声は、薄く笑っていた。
「責任は、薄く分けると軽くなる。だが、軽くした責任は、肩にいつまでも残る」
彼は私の手を見た。煤はもうない。
「君は、これからどうする」
「名を返す。笛も、札も」
「誰に返す」
「風に」
柏原は目を閉じた。
「いいだろう。風なら、文句を言わない」
施設を出ると、夕暮れが濃くなっていた。杏が隣で歩調を合わせる。
「あなたは、罰されたいのですか」
「罰を望んでいるなら、もっと早く警察に行った。私は、自己紹介をしに戻ってきただけだ」
「自己紹介」
「そう。半世紀ぶりの、だ」
杏はうなずいた。
「記録します。町史の末尾に『風葬の町』という章を作ります」
私は首を振った。
「それはやめたほうがいい」
「なぜ」
「町は、ただ沈むだけだ。飾りを増やすと、沈み方を誤る」
杏は少しだけ笑い、ポケットから紙を出した。
「これは、祖母の回想の抜粋です。——『風の強い日は、笛の音が山に返ってくる。兄の息が帰ってきたみたいに思える』」
私は紙を受け取り、折り目を指でなぞった。
第六章 風葬(現在・夜)
夜になって、風はさらに強くなった。
水神社の祠は、いつもより白く見えた。紙垂が千切れそうに揺れている。宮司は痩せた男で、声が低かった。
「この町の人たちは、明日の朝を『締切』と呼ぶ」
「締め切る、のか」
「水を。扉を閉めるんです」
宮司は短くうなずき、紙垂を新しいものに取り替えた。
「風に放つものは、ありますか」
私は布袋を取り出した。救命笛と、通行札。
笛は黒く、札は鈍い金色だった。
「これを、風に」
「重いですね」
「重さは、私の手が覚えている」
宮司は祭詞を短く唱え、手を合わせた。私は笛を唇に当てた。指が自然に穴の位置を探す。肺に細い空気が入り、音が出た。短く、長く、短く。
山が返した。遠くで似た音が、遅れて鳴いたように感じた。気のせいかもしれない。気のせいでいい。
私は札の紐を解き、風上に向けて手を伸ばした。真鍮は思ったよりも重かった。指を離す直前、私は札の裏の名前を目で確かめた。
——神津光男。
それを確かめてから、私は手を開いた。
札は風にあおられ、祠の横の杉の幹に当たり、低い音を残して転がった。宮司が拾い上げようとしたが、私は首を振った。
「そのままで」
風葬という言葉の意味を、私は長いこと間違えて覚えていた。空に任せることだと思っていた。正しくは——土地に返すことだ。
風は運び、土が受け取る。音は、山が保管する。
杏は少し離れた場所で、手帳を閉じていた。
「記録は、ここで終わりにします」
「ありがとう」
「祖母に、何か伝言は」
「伝える言葉は、もう全部使った。残っているのは、沈黙だけだ」
「沈黙は、記録できません」
「だから、明日の朝がある」
私はそう言って、祠に一礼した。
終章 夜明け
翌朝、風は止んでいた。
締切のサイレンは鳴らなかった。遠くで機械の音がして、鋼の扉がゆっくりと降りているのが見えた。水の色は、思ったよりも浅かった。
役場の仮設通路の上で、私は杏と並んで立った。
「名前は、どうしますか」
「戻す」
私は答えた。
「今日から、神津光男だ。誰も呼ばなくても、そうだ」
「戸籍は——」
「時間がある。私にはまだ、時間がある」
杏は手帳に何かを書き、閉じた。
「あなたの自己紹介は、ここに残ります」
「記録のタイトルは、どうする」
杏は少し考えた。
「『風葬の町』」
私はうなずいた。
「大げさだ」
「大げさにしないと、忘れられますから」
水は、静かに広がっていく。
屋根の端が線になり、庭の柿の木の先端が、最後にひとつ揺れて沈んだ。
私はポケットの中の笛を握った。もう鳴らさない。唇の黒い煤は、とうに落ちた。
名前が私の舌に戻ってきた感覚は、不思議に薄かった。だが、軽かった。
友情を埋めたのは、国でも、神でもない。
私だ。
それでも、風が残した音は、どこにも行っていないと思う。
私は杏に会釈し、バス停に向かった。
彼女は手帳を胸に抱え、風のない朝の空に向かって立っていた。
町は水に入り、地図は書き換えられる。
それでも、名前は口の中で何度でも発音できる。
——神津光男。
冷たい空気の中で、その音は小さく、しかし確かに、私のものだった。
(了)
風が吹いていた。
山の上からまっすぐ降りてくる、乾いた風だった。薄い砂埃が道の端を滑り、外された看板の金具が鳴る。バスの扉が閉じる音が背中で切れて、私は一度だけ深呼吸をした。
町が水に入る前の、最後の夕方。
私はここに戻ってきた。名乗るためであり、返すためでもある。
町役場の仮設庁舎は、元の商店街の突き当たりに仮置きされた。鉄骨の通路を渡って受付に行くと、若い職員が立ち上がる。名札には「神津 杏」とあった。
「町史編纂室の神津です。お約束の、聞き取り……相馬泰生さん、でよろしいですか」
私は首を横に振った。
「相馬泰生ではありません」
杏の表情が、薄く固まる。ペン先が紙の上で止まる音がした。
「……ええと」
「私の戸籍にも、保険証にも、相馬泰生と書いてある。だが、私は神津光男だ」
私は小さな布袋を差し出した。中で硬いものが触れ合う。真鍮の軽い音。杏は慎重に口を開けて、掌に出した。煤けた円形の札。刻印の数字、裏に名前。
「入坑札ですか」
「通行札とも言った。坑口の板に掛けるやつだ」
杏は札を見続けた。指の腹で縁の傷をなぞる。
「どうして、今……」
「この町は、明日から地図から消える。沈む前に、名前だけは地上に置いていきたい」
杏はうなずき、面談室のドアを閉めた。記録用のレコーダーを置き、スイッチを入れる。
「では、時系列でお願いします。昭和三十三年の事故から」
「わかった」
私は風の音を背に、半世紀分の息を整えた。
第二章 崩落(過去・昭和三十三年)
冬だった。凍みる朝。
ランプ室にはカーバイドの匂いが満ちていた。火口の小さな音、濡れた床に白い粉。通行札の板には、当直の名前が既にいくつか掛けられている。私は自分の札を探し、癖で舌で前歯を触った。欠けた角が冷たかった。
相馬泰生と私は同い年だった。春から坑内に入るようになり、夏には互いの手の皮が似た匂いを持つようになった。明け方に飯を掻き込む音、終わりに混ざる石の粉の味。
「光男、今朝の風、強いな」
「昼には落ちる」
相馬はランプの火をつけ、顔にかけたタオルを首に落とす。
「母ちゃんがな、昨日、俺の通学服をほどいたよ」
「何の話だ」
「親父の喪に合わせるんだと。黒い布は、何にでも化ける」
出坑札の板に相馬の札が上がっていく。私は自分の札を——探した。
見当たらなかった。
当直の若い書記が、「昨日の回し、戻し忘れがあったかもしれません」と言い、予備札の箱を出した。
「予備に名前を書いて、今日はそれで」
私は鉛筆で「神津」となぞり、紐が短いことに気づき結び直した。相馬が横から覗き込む。
「字が汚い」
「うるさい」
坑口の風は冷たかった。
午前十時を少し回った頃、一本手前の支柱が鳴いた。嫌な音だった。続いて土の匂いが濃くなる。
「退がれ!」
誰かが叫んだ。私と相馬は、反射的に別の坑道へ走った。支柱が折れ、風管が千切れ、明かりが一瞬弱くなった。石の粉が雨のように落ちた。視界が白くなり、咳と、笛の音と、誰かの名前が混ざる音。
崩れが止まった時、私たちは狭い空隙に押し込められていた。ランプは生きている。
「生きてるか」
「ああ」
相馬が顔をこちらに向ける。頬に赤い線がついている。
「出口側は潰れてる」
「風は来てる」
風の向きで、坑内のどちらが生きているかを測ることは、春の頃に覚えた。向きは悪くない。救助は来る。
私たちは二人で救命笛を鳴らした。三短、三長、三短。金属が口の中に触って、血の味がした。
時間の感覚は崩れた。
相馬が、ふいに笑った。
「光男。もし、もしどちらかしか出られないならさ」
「——出られる」
「そうだけど。もしも、の話だ」
相馬は胸元から何かを引き抜いた。紐に通した札だった。
「俺の札、持っとけ」
「何を言ってる」
「どっちが出たかわからなくなった時、母ちゃんが安心する方にしてやってくれ」
ばかばかしい、と喉の手前で言葉が引っかかった。
事故の時、名札の順番は、生き死により早く伝わる。板に残った札は、坑内にいるという印。回った札は、上にいる印。
「予備札を使ってる。区別がつかない」
「だからだよ。会社は、都合のいい方に合わせるさ」
相馬は札を私の手に押しつけた。真鍮は体温でぬるかった。
「母ちゃんに、仏壇の線香を絶やすなって、言ってくれ」
「何を——縁起でもない」
相馬は笑った。
「なあ、光男。大人は、名前のほうを見る。顔より先に、字を見るんだ」
救助の音が近づいてきた。風が変わった。
私たちは再び笛を鳴らし、声を張った。
板が外され、手が伸び、私の腕が掴まれた。
引き上げられる瞬間、相馬の指が私の袖を掴み、すぐに離れた。
地上の光は薄かった。雪が舞っていた。私は吐いた。白い息に黒いものが混じった。
「相馬——!」
誰かの声が私を呼ぶ。私は顔を上げかけて、やめた。喉の奥に、名前がひとつ、重たく落ちた。
第三章 救出と記録(過去→現在)
救護所は慌ただしかった。名前と体温と血圧が並び、役場の人間と会社の人間が紙を回した。
「相馬泰生」
誰かが言った。私は反射的に手を上げた。
名前と時刻が記録された。帳面の字は素早く、綺麗だった。
その日の夕方、崩落が一部で続き、坑内の確認は遅れた。生存者の名簿と、行方不明の名簿が別々に貼られた。掲示板の前で、母親たちが泣いた。
私は相馬の札を、掌の中で握りつぶすようにしていた。そこに付着した煤が、爪の間に入り込んで取れなかった。
翌日。
会社の会議室で、私は柏原に呼ばれた。彼は当時、若い坑内監督だった。
「名前は、相馬泰生で統一する」
「……どういう意味です」
「入坑記録がそうだ。救出時の呼びかけも、そうだった。このままにする」
柏原の視線は窓の外を向いていた。雪は止んでいた。
「神津は……」
「行方不明だ。崩落の箇所から、退路が——」
言い切らない頑丈な言葉が、彼の口には多かった。
「補償は、規定通りだ。葬祭費、遺族年金。相馬家への支援は、会社としても考える」
私は口の中が乾くのを感じた。
「違う。相馬は——」
柏原は私の顔を一度だけ見た。年上の男の目は、灰色に濁っていた。
「君は生きている。それが事実だ。紙の上の名は、会社と町を回すための歯車だ」
言い方は穏やかだった。だが、歯車は人を潰すものでもあった。
葬儀は三日後に行われた。行方不明者は殉職として扱われ、祠の宮司が風の向きに紙垂を立て、笛が鳴った。
私は列の最後尾で帽子を脱いだ。相馬の母親は、遺影の前で笑っていた。泣き疲れた人間が一瞬だけ見せる微笑。
私は祭壇の脇にそっと立ち寄り、小さな菓子折を置いた。誰も見ていなかった。
——その日から、私の舌は自分の名を離れた。
杏がレコーダーのスイッチを一度見た。
「会社は、入れ替わりを知っていた、という理解でいいですか」
「知っていた。だが、誰も口にしなかった。口にすると、損をする方が増えるからだ」
「損、とは」
「遺族年金、補償、責任者の処分。家が一つ、二つ、立ち行かなくなる」
杏はペン先で紙を突くように押さえ、宙に浮いた言葉を紙に貼りつけた。
「あなたは、なぜ沈黙を選んだのですか」
「私が弱かったからだ」
私は答えた。できるだけ短く、正確に。
「それ以外の言葉は、全部、言い訳になる」
第四章 沈黙の半世紀(現在)
半世紀は、驚くほど早かった。
私は相馬泰生として働き、相馬泰生として結婚し、相馬泰生として離婚した。息子はひとり、娘は生まれなかった。
相馬の母親は、二十年目の夏に倒れた。私は葬儀の費用を出し、位牌に「泰生」の名が刻まれるのを、黙って見た。骨壺を抱いたのは、私ではない。親戚の若い男だった。私はその背に金を渡した。
月々の仕送りは、町の郵便局に記録が残っているだろう。金額は多くはない。だが、絶えなかった。
言い訳に聞こえるだろう。
贖罪も、自慢も、どちらもしたくない。事実だけを言う。
私は毎年、相馬の命日の前に帰郷した。祠に線香を上げ、風の向きを確認し、笛を一度だけ吹いた。音は短く、弱かった。笛の内側の煤は、唇に移った。
杏は、静かに訊いた。
「あなたの本当の家族——神津家は」
「父親は早くに死んだ。母は私を探した。手紙が一度来た。役場の人間が親切で、私の住所を伝えたのだろう。だが私は返事を書かなかった。神津家に行く補償は……行ったはずだ」
杏はノートをめくった。
「行きました。祖母は、その年から粗末な豆腐をやめて、少し良い油を使うようになったと聞いています」
「祖母?」
「私は、神津家の孫です」
杏は微笑んだ。薄い笑いだった。
「うちの祖母は、行方不明の兄がいると言っていました。兄は真面目で、笛が上手だった、と」
私は、首筋が強張るのを感じた。
「君の祖母は、何と言う名だ」
「神津ふさ。兄は光男」
「——そうか」
私はうなずいた。
「あなたは、私の伯父ですか、と訊かないのか」
「記録を残すのが仕事です。血縁の確認は、役場の窓口の仕事です」
杏は丁寧に頭を下げた。
「けれど、個人的には、伯父でもいいと思っています」
私は窓の外を見た。風が強くなってきた。ダムの締切に合わせるように、空は乾いていた。
第五章 ダムの底(現在)
役場からの帰り、私は杏に案内されて旧商店街を歩いた。シャッターに赤い線が引かれ、そこまでが水位計の予定だと説明された。
「この線の下は、明朝から湖になります」
「湖、という言い方は、いくらか優しい」
「そうですね」
杏は笑った。
「地図の表現は、いつも優しい。人の心を傷つけない言葉を選ぶ」
共同浴場は閉まっていた。扉に貼られた紙には、長い挨拶と短い数字。湯の温度、掃除当番、最終日。
坑口は封鎖されていた。板の上にボルト。風が当たるたびに金属の乾いた鳴りがする。私は板の端に手を添えた。冷たかった。
「柏原は——元監督は、どこにいる」
「介護施設です。山の下の」
「会えるか」
「はい。連絡はしてあります」
施設の玄関は暖房がきいていて、空気がやわらかかった。柏原は車椅子に座り、薄い毛布を膝にかけていた。目は濁っていたが、私を見ると焦点が合った。
「相馬……泰生、か」
「神津光男だ」
柏原の口元がわずかに上がった。
「ようやく、言ったな」
「遅すぎた」
「遅すぎた、という言い方も、便利だな」
柏原は咳をした。
「会社は、あの時、わかっていた。入坑札の紐の結び方が違った。予備札の鉛筆の筆圧が違った」
私はうなずいた。
「なぜ、黙った」
「事故の件数を増やしたくなかった。遺族を二軒にしたくなかった。——と、私は言ってきた。しかし本当は、私が楽をしたかったのだ」
柏原の声は、薄く笑っていた。
「責任は、薄く分けると軽くなる。だが、軽くした責任は、肩にいつまでも残る」
彼は私の手を見た。煤はもうない。
「君は、これからどうする」
「名を返す。笛も、札も」
「誰に返す」
「風に」
柏原は目を閉じた。
「いいだろう。風なら、文句を言わない」
施設を出ると、夕暮れが濃くなっていた。杏が隣で歩調を合わせる。
「あなたは、罰されたいのですか」
「罰を望んでいるなら、もっと早く警察に行った。私は、自己紹介をしに戻ってきただけだ」
「自己紹介」
「そう。半世紀ぶりの、だ」
杏はうなずいた。
「記録します。町史の末尾に『風葬の町』という章を作ります」
私は首を振った。
「それはやめたほうがいい」
「なぜ」
「町は、ただ沈むだけだ。飾りを増やすと、沈み方を誤る」
杏は少しだけ笑い、ポケットから紙を出した。
「これは、祖母の回想の抜粋です。——『風の強い日は、笛の音が山に返ってくる。兄の息が帰ってきたみたいに思える』」
私は紙を受け取り、折り目を指でなぞった。
第六章 風葬(現在・夜)
夜になって、風はさらに強くなった。
水神社の祠は、いつもより白く見えた。紙垂が千切れそうに揺れている。宮司は痩せた男で、声が低かった。
「この町の人たちは、明日の朝を『締切』と呼ぶ」
「締め切る、のか」
「水を。扉を閉めるんです」
宮司は短くうなずき、紙垂を新しいものに取り替えた。
「風に放つものは、ありますか」
私は布袋を取り出した。救命笛と、通行札。
笛は黒く、札は鈍い金色だった。
「これを、風に」
「重いですね」
「重さは、私の手が覚えている」
宮司は祭詞を短く唱え、手を合わせた。私は笛を唇に当てた。指が自然に穴の位置を探す。肺に細い空気が入り、音が出た。短く、長く、短く。
山が返した。遠くで似た音が、遅れて鳴いたように感じた。気のせいかもしれない。気のせいでいい。
私は札の紐を解き、風上に向けて手を伸ばした。真鍮は思ったよりも重かった。指を離す直前、私は札の裏の名前を目で確かめた。
——神津光男。
それを確かめてから、私は手を開いた。
札は風にあおられ、祠の横の杉の幹に当たり、低い音を残して転がった。宮司が拾い上げようとしたが、私は首を振った。
「そのままで」
風葬という言葉の意味を、私は長いこと間違えて覚えていた。空に任せることだと思っていた。正しくは——土地に返すことだ。
風は運び、土が受け取る。音は、山が保管する。
杏は少し離れた場所で、手帳を閉じていた。
「記録は、ここで終わりにします」
「ありがとう」
「祖母に、何か伝言は」
「伝える言葉は、もう全部使った。残っているのは、沈黙だけだ」
「沈黙は、記録できません」
「だから、明日の朝がある」
私はそう言って、祠に一礼した。
終章 夜明け
翌朝、風は止んでいた。
締切のサイレンは鳴らなかった。遠くで機械の音がして、鋼の扉がゆっくりと降りているのが見えた。水の色は、思ったよりも浅かった。
役場の仮設通路の上で、私は杏と並んで立った。
「名前は、どうしますか」
「戻す」
私は答えた。
「今日から、神津光男だ。誰も呼ばなくても、そうだ」
「戸籍は——」
「時間がある。私にはまだ、時間がある」
杏は手帳に何かを書き、閉じた。
「あなたの自己紹介は、ここに残ります」
「記録のタイトルは、どうする」
杏は少し考えた。
「『風葬の町』」
私はうなずいた。
「大げさだ」
「大げさにしないと、忘れられますから」
水は、静かに広がっていく。
屋根の端が線になり、庭の柿の木の先端が、最後にひとつ揺れて沈んだ。
私はポケットの中の笛を握った。もう鳴らさない。唇の黒い煤は、とうに落ちた。
名前が私の舌に戻ってきた感覚は、不思議に薄かった。だが、軽かった。
友情を埋めたのは、国でも、神でもない。
私だ。
それでも、風が残した音は、どこにも行っていないと思う。
私は杏に会釈し、バス停に向かった。
彼女は手帳を胸に抱え、風のない朝の空に向かって立っていた。
町は水に入り、地図は書き換えられる。
それでも、名前は口の中で何度でも発音できる。
——神津光男。
冷たい空気の中で、その音は小さく、しかし確かに、私のものだった。
(了)



