電車のドアの上で、白い字がやわらかく光った。
 〈友情にも、備えを。裏切り時給付・再構築支援つき〉
 広告の下には、肩を組む二人の影と、小さな注意書き――〈一部免責あり。丁寧にお支払いします〉。

 吾妻は、その場で申し込んだ。
 スマホの画面は、驚くほど親切だった。質問は具体的で、答えやすい順番に並んでいる。

 相手の名前。佐伯圭。
 連絡頻度。週二回。
 金銭の貸し借り。小額あり(飲食代の立替)。
 共同体験。旅行×1、引っ越し手伝い×2、徹夜残業×多数。
 秘密の共有。あり(互いの家族の状況、短所の告白)。
 裏切りと認める事象。機密漏えい、悪質な嘘、置き去り、重大な借用未返却。
 免責。重病・不可抗力による行為は対象外。ただし「故意なき漏えい」は等級3で給付。

 最後に、**「あなたと相手の関係をひとことで言うと?」**と出た。
 吾妻は迷い、「にぎやかな静けさ」と書いた。
 入力を終えると、AIが素早く判定した。〈引受可/標準料率〉。保険料は思っていたより安い。
 特約の一覧に「信頼スコア連動増額」「再構築支援枠」「代位求償やさしさ宣言(任意)」などが並んでいる。吾妻は名前のやさしさに弱い。三つともチェックした。

 翌朝、礼儀正しい電話が鳴った。
「友情保険センターの小野寺と申します。ご加入ありがとうございます。確認のため……相手の方のお名前は“佐伯圭”様でお間違いないですね」
「はい」
「“にぎやかな静けさ”。すてきな表現です」
「そうですか」
「はい。当社はことばを大切にします」
 丁寧さは、いつも滑らかだ。滑らかさは、摩擦を消す。摩擦がないと、人は止まらない。

 その夜、圭からメッセージが来た。
『最近どう?』
『ぼちぼち』
『今夜、ラーメン行く?』
『行く』

 カウンターで湯気を見ている間は、保険のことを忘れられた。
 圭は昔と同じように、箸の持ち方だけ少し雑になっていた。
「仕事はどうだ」
「まあまあ」
「お前の“まあまあ”は、たいへんの手前だ」
 圭は笑い、メンマを一本寄越した。吾妻は受け取って、わざと落とした。床で小さな音がする。
 二人は同時に笑った。こういうとき、保険はいらない。笑いが免責条項だ。

 裏切りは、静かに起きた。
 吾妻が関わる企画の仕様書が、競合に流出した。社内調査は早かった。アクセスログに、圭の名前があった。
 上司は紙の端を揃えながら言った。
「偶然では済まないね」
 吾妻は、返事の代わりに椅子を引いた。

 圭に電話をかけると、すぐに出た。
「悪い」
「何が」
「事情がある」
「事情で漏れる仕様書なら、最初から事情だ」
「説明できない」
 短い言葉は、長い沈黙を呼ぶ。圭は電話を切った。

 吾妻は、スマホのアプリを開いた。友情保険は“裏切り等級2(機密漏えい)”として事件を自動検知していた。
 証拠をアップロードし、二段階認証を終える。数時間で結果が出る。
 給付金:百二十万円。
 再構築支援枠:十万円。
 青い画面は、たいへん丁寧だった。〈心の穴を、現実で埋めます〉と書いてある。

 受け取ってしまえば、現実は簡単だ。
 吾妻は通帳を見て、しばらく動かなかった。
 圭の番号を押して、やめた。押さずに済む番号もある。押すしかない番号もある。

 夜、圭の母から電話が来た。
「急にすみません。吾妻くん?」
「はい」
「圭が倒れて、病院で……手術の前に、保証金が必要だそうで」
 声は落ち着いていたが、言葉の隙間に水音がある。
「どうして僕に」
「圭が、あなたなら、と」

 吾妻は財布とカードを掴んだ。タクシーは信号のたびに止まり、少しずつ進んだ。
 病院の受付は冷たく、書類は整然としていて、必要な金額は大きかった。
 医師は、簡潔だった。
「腫瘍です。急ぎではないが、早いほうがよい」
「保証金が必要と」
「はい。手術に入る状態を整えるために」

 吾妻はスマホを出した。入金されたばかりの友情保険の給付金が、きれいに表示された。桁は、ここに合わせてあるのかと思うほど、ぴったりだった。
 窓口の職員はていねいに書類を差し出した。
「ご関係は」
「友人です」
「ご家族の方は」
「今は、僕が払います」
 整っている紙は、人を安心させる。安心は、物語を要らなくする。

 夜が深くなってから、圭が一度目を開けた。
「……吾妻?」
「うん」
「ごめん」
「何に」
「全部」
 吾妻は椅子に座り直し、窓の外を見た。駐車場の端で、自販機の光だけが元気だった。
「仕様書、売ったのか」
「売ってない」圭は首を振った。「担保にした。すぐ戻すつもりだった。相手が変で、逃げられた。バカだよな」
「どうしてそんなことを」
「母さんが、倒れて。でも、それだけじゃない」
 圭は呼吸を整えた。
「俺も、ちょっと悪くて。検査の頭金が必要だった。会社に言えなくて。お前にも言えなくて。言えないことが増えると、言わないって決めるのが癖になる」
 癖は、便利で危険だ。便利なものには、見落としがつきものだ。

 吾妻は、スマホの画面を圭に見せた。
「保険、降りた」
「どの」
「友情保険」
 圭は目を瞬かせ、すぐ笑った。
「お前らしい」
「お前のためじゃない。自分のためだ」
「だな」
 二人は少し笑った。
「で、その金で、お前の保証金を払った」
 圭は目を閉じたまま、唇だけで笑った。
「……不正利用じゃないのか」
「再構築支援枠という項目がある。給付金に使途の制限はない。保険はていねいだ。ていねいさは、抜け道の形をしてる」
「ありがとう」
「礼を言われる筋合いはない。損得だ。損得で始めた」

 翌日、保険会社から電話が来た。
「給付金はお受け取り済みですね。再構築支援枠のご使用先をお伺いできますか」
「病院の保証金に」
「制度の想定内でございます。素晴らしいご判断です」
「素晴らしい、という言葉は軽いですね」
「失礼しました。丁寧と申し上げます」
 丁寧さは、冷たさの別名だ。だが、冬の毛布にはなる。

 社内の調査は続いていた。
 吾妻は事情聴取を受け、短い文で答えた。
 上司は紙の角を揃え、最後に言った。
「君の給付は、会社としては口を出せない。ただし、代位求償の連絡が来るかもしれない。保険会社は、支払った後、原因者に穏やかに請求する」
「“やさしさ宣言”の特約を付けました」
「やさしい請求は、請求だ」
 正しい言葉ほど、重い。

 圭の手術は、うまくいった。
 病室で、圭は言った。
「働く」
「働け」
「返す」
「返せ」
 言葉の往復は短いほど、よく届く。
 退院の日、圭は階段を一段飛ばしで降り、看護師に叱られた。
 吾妻は笑い、階段を普通に降りた。普通は、強い。

 数週間後、保険会社のアジャスターが訪ねてきた。
 背広は新しく、靴はよく磨かれていた。
「確認に参りました。給付の原因および再構築支援の使途について」
「病院に払いました」
「レシートを拝見してもよろしいですか」
 吾妻は封筒を渡した。アジャスターは丁寧に受け取り、丁寧に読み、丁寧にうなずいた。
「素晴らしい――ではなく、制度趣旨に合致しています」
「こちらも学習します」
「ありがとうございます。最後に一点、感情の回復状況はいかがですか」
「普通に戻りました。少し、静かです」
「それは何より」
 アジャスターは帰り際、玄関で一礼し、靴の先で小さく何かを踏んだ。落ちていたメンマだった。
「失礼しました」
「気にしないでください」
 丁寧さは、時々、笑いを連れてくる。

 同じ頃、ネットには「友情に保険は冷たい」という意見と「合理だ」という意見が交錯していた。
 保険会社は、広告の文言を少しだけ変えた。
 〈給付金は、あなたの判断を尊重します〉
 吾妻は画面を見て、小さく笑った。ていねいだ。ていねいさは、誰の味方もしない。そのかわり、誰の敵にもならない。

 圭は、働き始めた。
 朝はゆっくり、昼は普通、夜は短く。
 治る途中には、途中の顔がある。
 吾妻は、時々、一緒に歩いた。歩幅を揃えるだけで、何も言わないことを言える。

 ある日、圭が言った。
「お前の会社に、頭を下げに行く」
「それから」
「仕様書は戻った。相手は捕まった。俺は、まだ捕まっていない」
「捕まらないように、働け」
「働く」
 短い言葉は、長い力になる。

 夜。ラーメン屋のカウンターで、二人はメンマを一本ずつ交換した。今度は落とさない。
 圭が言った。
「お前、保険、解約するのか」
「どうするかな」
「お守りだろ」
「お守りを守るのは、だれだ」
「お守りに守られるやつ」
 吾妻は、スマホを見て、画面を閉じた。
「じゃあ、もう少し持ってる」

 支払いを終えて店を出ると、春の風があった。
 信号が赤で、しばらく立ち止まる。
 圭が言った。
「俺たち、損したのかな」
「どうだろうな」
 吾妻は、重たいほうの言葉を選んだ。
「最初は損得で始めた」
「そうだな」
「でも今は、計算の外側にいる気がする」
「外側」
「損得で始まった友情が、損得を超えた。」
 信号が青に変わった。二人は渡った。歩幅は、だいたい同じだった。

 その翌週、保険会社から封書が届いた。
 〈ご契約の状況について(等級据置のご案内)〉
 丁寧な紙には、こう書いてある。
 ――今回の給付は等級影響なし。再構築支援枠の健全な使用を確認。契約更新時に**「共同努力割」**を適用予定。
 最後に、ひとつだけ短い行。
 〈いつでも、解約できます。〉
 吾妻は、紙を丁寧に折り、引き出しにしまった。
 いつでも、は、今ではない。

 ある日、代位求償の担当者から電話が来た。
「佐伯様に、やさしい請求書を送付しました」
「やさしい?」
「分割と猶予の相談に乗る、という意味です」
「ありがとうございます」
「いえ、制度です」
 制度は、よくできている。よくできている制度は、時々、やさしい顔をする。

 圭は、月々の返済を始めた。
「少しずつ、返す」
「少しずつ、働く」
「少しずつ、食べる」
 ラーメンは、麺を少なめにした。メンマは、普通にした。

 夏前、保険会社からアンケートが届いた。
〈給付後の心の回復スピードは?〉
 吾妻は「静か」と書いた。
〈再構築支援は、役に立ちましたか〉
「はい」
〈保険は、あなたの友情の敵になりましたか、味方になりましたか、どちらでもないですか〉
 吾妻は、少し迷って、「味方でも敵でもない」に丸をつけた。
 送信すると、画面に短い言葉が出た。
〈丁寧にありがとうございました〉
 吾妻は笑った。やはり、ていねいだ。

 秋。
 吾妻と圭は、小さな公園のベンチに座り、缶コーヒーを飲んだ。
 空が高いと、話題は低くなる。
「今度の健康診断、どうだった」
「まあまあ」
「お前の“まあまあ”は、たいへんの手前だ」
 二人は笑った。笑いは、保険に収まらない。収まらないものは、大事にしたい。

 冬。
 駅のホームで、電車を待つ。ドアの上の広告が入れ替わっていた。
 〈友情にも、備えを〉の文字はそのままだったが、小さく**“返礼の仕方”**という新しいリンクが見える。
 押すと、画面に短い指南が出た。
 ――小さく速く謝る。大きくゆっくり返す。
 吾妻は、それを圭に送った。
 圭から、スタンプが返ってきた。
 泣いて笑っている顔の、にぎやかな静けさのやつ。

 年が明けて、吾妻は保険の更新画面を開いた。
 「解約」ボタンと「更新」ボタンが並んでいる。
 どちらも、親切に大きい。
 吾妻は、画面を閉じた。
 保険は、いつでも解約できる。
 いつでもは、今ではない。

 春。
 ふたりは、またラーメンを食べた。
 圭はメンマを一本寄越し、吾妻は受け取って、今度は落とさなかった。
 店を出ると、風がやさしかった。
 信号が赤に変わり、立ち止まる。
 圭が言った。
「なあ、吾妻」
「なんだ」
「俺たち、長いな」
「短く続けた結果だ」
「短く?」
「小さく速く謝る。大きくゆっくり返す。」
「保険か」
「人生のほう」
 信号が青になった。
 二人は渡った。
 歩幅は、だいたい同じだった。
 計算がいらないほうの足が、半歩だけ前に出た。

(了)