装置に名前を付けるのは好きではない。
 機械が人間ぶると、誰かが安心し、誰かが許されないことを許すからだ。

 それでも、研究費を出す連中は、呼びやすい名前を欲しがった。私が出した候補は“観測機一号”で、企画会議の場はしーんとした。あとで所長に呼ばれ、もっと柔らかい語感にせよと言われた。柔らかさは、説明を滑らかにする。滑らかさは、摩擦を消す。摩擦がないと、人は止まらない。

 私は折れて、白い筐体の隅に小さなラベルを貼った。
 〈Rewinder/友情過程逆再生装置〉。
 “友情”の二文字は私が勝手に入れた。責任の住所がほしかったのだ。

 仕組みは単純だ。単純に見えるように、骨を削って作った。
 互いの関係に残った“痕跡”――メッセージ本文、送った時刻、既読までの遅延、写真の画角、位置情報の重なり、出入りした店のレシート、心拍の同期。街頭カメラのフレームに二人が同時に写っていた時間。笑い声の音域の近さ。
 それらを時系列の逆順に束ね、関係の“強度”として可視化する。
 画面には色の帯が現れ、最近の日は熱い色、古い日は薄い色になる。巻き戻すほどに色が退く。壊れた瞬間に近づくと、色は急峻に割れる。
 映像は出ない。映画のようにはならない。
 ただ、強さの曲線が逆流し、原因と呼べそうな起伏が浮く。

 依頼第一号は、三十代の男性だった。名札には「羽田」とあった。
「親友と絶交しました」
 彼は椅子に浅く腰かけ、指を組んだ。
「どちらが悪いのか、何が悪かったのか、よくわからない。わからないままは、落ち着かない」
「観測は観測です」私はいつもの文句を言った。「介入はできません。戻しますが、触りません」

 羽田は、うなずき、署名した。紙は整っている。整っている紙は、人を安心させる。裏のことは、裏のままにできる。

 装置を起動すると、スクリーンに帯が流れた。
 最新の日の端に、赤い裂け目がある。絶交の当日だ。そこから色は黄になり、灰になって薄くなってゆく。
 音声ログが重なった。
『お前、いつもそうだ』『そっちこそ』
 短く、固い語尾。言い終わる前に切られる通話。
 さらに巻き戻す。
 貸し借りの記録。小さな出納の偏り。返却の遅延。埋め合わせの順番を誤った日付。
 さらに。
 二人で写る写真。料理が相手側に少し寄って盛られている。分け合う癖の名残。
 さらに。
 最初の旅行。深夜のカラオケ。共通の笑いのスタンプが生まれた日。
 さらに。
 最初のメッセージ。
『――はじめまして。○○の同僚の××です』

「ここまでは、思い当たるところがいくつか」羽田が言った。声の高さが、少しだけ軽くなっている。
 私は頷いた。
「不公平の累積。貸した側の“恩”と、借りた側の“負い目”。どちらも声に出さないと、増幅器になります」

 帯をさらに巻き戻すと、強度の曲線がふいに滑った。
 スクリーン上の点が一瞬だけ消え、すぐ戻る。
「今の、何です?」
「記録の穴です。データがないのか、私たちが見落としたのか」
 穴は珍しくない。人の生活は、網目からこぼれる時間でできている。

 巻き戻しは続く。
 二人の同じフレームの時間は減り、別々の場所、別々の時間が画面を占める。
 やがて、出会いの手前が見えてくる。
 帯の端で、店名と座席配置が浮かんだ。歓迎会。グラス。乾杯の音。
 ここで、彼らは初めて、同じ笑い声の周波数を持った。

 私は、指の力を少し抜いた。
 そのとき、羽田が眉をしかめた。
「変な感じがします」
「どんな」
「頭のどこかが、急に軽くなった。名前をど忘れする前の、手が空を掴むみたいな感じ」
 私は彼の手首に貼ったセンサーを見た。α波が浅くなっている。
 観測は観測で、介入ではない――そう説明してきた。
 しかし、“友情の過程”を逆にたどることは、現在の世界の“参照順”を入れ替えるのかもしれない。
 参照順が変わるだけなら、上書きではない。
 上書きでないなら、倫理審査を通る。
 倫理審査を通れば、装置は稼働する。
 装置が稼働すると、スポンサーは満足する。
 満足したスポンサーは、もっとやれと言う。

 私の端末にメッセージが点滅した。スポンサーの簡潔な文面。
〈そのまま。根本原因を〉
 続けて、倫理担当の定型文が届く。
〈観測は観測にとどめよ〉
 どちらも正しい。だから、役に立たない。

 私は帯を進めた。
 最初の出会い――店のドアが開く寒気――に触れる直前、羽田がこちらを見た。
「すみません、あの、あなたは、どちら様でしたっけ」
 私は名札を指で押さえた。
「研究所の者です。さきほどご説明を」
「そうでしたか。失礼しました」
 礼儀は崩れない。崩れない礼儀の上で、どこかが剥がれてゆく。

 私は止めることにした。
 指でつまみを押さえ、帯の端で静止させる。
 画面には、グラスとグラスが触れる寸前の光がとどまった。
 ここで止めれば、過去はここまでにしか薄くならない。
 この先に進めば、“出会う前”が露わになる。
 “出会う前”は無に似ている。無は、何にも似ていない。

「ここで止めます」私は言った。
 端末が震える。スポンサーの短い問い。
〈なぜ〉
「これ以上戻したら、もう出会えなくなる」

 羽田は黙って画面を見、ゆっくり息を吐いた。
「――静かだ」
「静か?」
「胸の奥が。落ち着きました」
 彼はポケットからスマホを取り出し、連絡先の一覧を眺めた。
 そこにあるはずの名前の一つが、少しだけ色あせて見える。見えなさは、消失とは違う。
「会いに行きます」
 彼は立ち上がり、丁寧に一礼した。
「原因が見えた気がする。今のうちに、短く謝ります」

 私は頷いた。
「短く、早く。帳尻は、今後の行動で。結論は急がないでください」
「はい」

 羽田を見送った後、モニタに残る帯を私はしばらく眺めた。
 白い箱は静かだ。静かさは、親切に似ている。親切は、よく切れる。

 夜、所長から連絡が入った。
「スポンサーが不満だ。なぜ止めた」
「出会いは保護したほうがいい」
「保護?」
「海でも森でも、入り口のところに柵があるでしょう。あれです」
「詩人の返答は、報告書にならない」
 私は報告書を書いた。
 観測の範囲、被験者の反応、α波の変化、倫理上の留意点。
 最後に一文を付けた。
――“出会い”は、観測対象ではあっても、観測資源ではない。
 所長は赤を入れ、語尾を「〜と考えられる」にした。

 翌日、見学会があった。資金提供先の役員と、その家族。私は白い箱の前に立ち、マイクで説明した。
「ここに見える帯の濃淡が、二人の関係の強度を示します。巻き戻すほどに薄くなり、原因に近づく」
 役員の少年が手を挙げた。
「全部、透明にしたらどうなるんですか」
 私は少し笑って、マイクを口から離した。
「透明は、何色にもなれるということです」
 少年は納得したふりをした。ふりは、子どものほうが上手だ。

 見学会のあと、私は装置のラベルを指でなぞった。
 Rewinder。
 名前は、ものの性格を歪める。
 それでも、名前は要る。話を始めるために。

 数日して、羽田から短いメッセージが届いた。
『会えました。静かでした。ありがとうございました』
 句読点の置き方が、最初のメッセージの頃に似ていた。
 私は返事をしない。返事をするべき相手は、彼のほうにいる。

 その日の午後、別の依頼が入った。
 女性で、年齢は二十代後半。
「大学の同期と疎遠になりました」
 彼女は、言葉を選ぶように話した。
「昔は何時間でも話せたのに、最近はすぐ疲れてしまう。理由が思い出せない。思い出せないのは、嫌です」
「観測は観測です」私は繰り返した。「介入はできません」

 装置は静かに動き始めた。
 帯は薄まり、共通の画角が減ってゆく。
 彼女は目を閉じ、肩から力を抜いた。
「軽いです」
「重いものを持ち上げる前に、位置を確かめるのは良いことです」

 画面の端に、路上ピアノの録音が浮かんだ。二人で鍵盤を叩き、笑っている。
 そこから少し先で、強度が揺れている。
 “特別視”の設計ミス。期待値の誤差。それを埋める沈黙の習慣。
 私は帯を緩め、出会いの手前に触れない程度で止めた。
「ここまで」
 彼女は目を開け、少し考えた。
「“友だちだった私たち”から、“知人としてやり直す”のは、いけませんか」
「いけませんとは言えません」
 彼女は微笑した。
「ゼロではない道があるなら、それでいい」

 観測は続く。
 ある日には、依頼人が観測中に私の名前を忘れ、また思い出した。
 ある日には、出会いの場所が画面に映り、私はそこから指を離した。
 ある日には、スポンサーが“出会いより前へ”のボタンを提案してきて、私は笑って答えなかった。
 笑いは、答えの代わりに使える。答えは、笑いの代わりにはならない。

 夜、廊下を歩いていると、清掃ロボットが静かに床を磨いていた。床はつるりとして、足音が吸われる。
 丁寧だ。
 丁寧さは、冷たさの別名だ。
 私は自分でつぶやき、少し笑って、研究室に戻った。

 ある午後、装置の前に、痩せた男が立った。
「すみません、予約はしていません。ただ、見せてほしくて」
「見学会は来週です」
「今じゃないと、気持ちが動かない気がする」
 彼は帽子を取って頭を下げた。髪に白いものが混じっている。
「息子の友達と、うまくいかない。やさしい言い方が、できなくなっている」
 私は少し考え、白衣のポケットから“来客用”の説明書を渡した。
「これは二人のための装置です。二人の合意が要ります」
「でしょうね」
 男は書類を見て、ため息の代わりに紙を折った。
「合意がいちばん難しい」
「いちばん簡単なときもあります」
 男は笑い、頭を下げて帰った。
 合意は、誰のものでもない。だから、持ち運びがむずかしい。

 装置の評判は、静かに広がった。
 派手な広告は打たなかった。派手さは、誤解と同音だからだ。
 代わりに、所長は私に寄稿を頼んだ。
「『観測の倫理』と題して、千二百字」
 私は、八百字で書いた。
――観測は、祈りに似ている。
――祈りは、押しつけに似やすい。
――似ているが、同じではない。
 所長は残り四百字を「具体例」で埋めた。具体例は、読む人を安心させる。安心させすぎると、足が浮く。

 遅い夕方、私は白い箱の前に一人で立った。
 ラベルを指で押さえ、声に出して読んだ。
「Rewinder」
 名前は、呼ぶためにある。
 呼んだ先に、誰もいないのが、いちばんいい。

 そのとき、端末が震えた。
 スポンサーからの短い招待。
〈分断の逆再生プロジェクトの打診〉
 私は、端末を裏返して置いた。
 人の争いを巻き戻して原因に触れる――それは甘い響きがある。
 甘い響きは、喉にひっかかる。
 私は台所に行き、水を飲んで息を整えた。

 数週間後、羽田がふらりと研究室に現れた。
「差し入れです」
 紙袋には焼き菓子と、小さな青い瓶が入っていた。
「海で拾ったやつです。二人で拾ったような気がしていたけど、たぶん昔の友達と拾った。本当は」
「本当は」
「でも、今は私のものだし、今はあなたに渡してもいい」
 羽田は笑った。
「最近、言い訳が短くなりました」
「良い傾向です」

 彼が帰ったあと、私は瓶を窓辺に置いた。
 夕陽が当たり、内側の気泡が光った。
 過去のものは、今の光で光る。
 過去の音は、今の耳で鳴る。
 私は窓を少し開け、風を入れた。ラベルがはためく。

 ある朝、若い研究員が私の机に来た。
「主任、質問があります。“最初の出会い”の手前で止めるのは、科学じゃなくて、気分じゃないですか」
 彼はまっすぐだった。まっすぐさは、ありがたい。まがり角に気づくから。
「気分かもしれない」私は素直に言った。「だから、書いておく。気分だ、とな」
「倫理レビューがうるさいです」
「うるささは、必要です」
 若い彼は首をかしげ、また頭を下げた。
 私は、止めるという行為に、私の年齢ぶんの重さが乗っていることを知っている。
 年齢の重さは、合理では説明できない。
 合理で説明できないものは、軽んじられやすい。
 軽んじられやすいもののほうが、よく効くときがある。

 夜、白い箱の前に立ち、私は薄く笑った。
 この装置に人格が宿ることを、私はいちばん恐れていた。
 だが、装置は何も言わない。
 代わりに、私は時々、装置に向かって言葉を置く。
「これ以上戻したら、もう出会えなくなる」
 装置は返事をしない。
 返事がないのは、礼儀に似ている。
 礼儀は、沈黙の形をしている。

 冬になった。
 外気は張りつめ、窓の縁が白く曇る。
 装置はいつも通り静かで、廊下の清掃ロボットはいつも通り床を磨く。
 私は湯気の立つ紙コップを手に、白い箱の前で立ち止まった。
 たとえば、今この瞬間、私がつまみを回して、自分と誰かの関係を巻き戻すなら。
 薄くなる帯の向こうに、研究室の扉が開く瞬間が現れ、誰かが入ってくるだろう。
『あ、どうぞ』『いえいえ』
 礼儀正しい、ありふれた会話。
 そこから、長い線が描かれる。
 その線の上で、私たちは何度もすれ違い、時々ぶつかり、ときおり笑う。
 線は、出会いから始まる。
 出会いの前に線はない。
 線のない場所は、地図には描けない。
 描けないから、保護するしかない。

 私は紙コップを捨て、照明を落とした。
 装置のラベルは暗がりで読めない。ただ、指先は覚えている。
 Rewinder。
 名前を呼ぶとき、人は自分の声を聞く。
 その声が、誰かの声に似ているかどうかを、確かめる。
 似ていなければ、よい。
 似ていても、よい。
 どちらでも、よい。

 廊下を歩くと、誰かの靴音が重なった。
 すれ違いざまに、軽く会釈する。
 礼儀は、出会いの一番小さな形だ。
 その小ささで、十分な夜もある。
 私は、出会いに名前を付けないことにしている。
 名前を付けると、安心して、動きすぎるからだ。

 翌朝、所長からメールが届いた。
〈“出会い保護”の一文、削除されたくなければ、別の案も出せ〉
 私は別の案を出さなかった。
 代わりに、いつも通り、装置の前で指を止めた。
 観測は、観測だ。
 介入は、しない。
 止めることは、選ぶことだ。
 選ぶことは、責任だ。
 責任は、名前のある場所に置く。
 私は、ラベルの“友情”という二文字を指で押さえた。

 ドアが開き、朝の冷たい空気が流れ込む。
 今日も誰かが来る。
 誰かは、理由を探しに来る。
 理由は、帯の中にあることも、ないこともある。
 ないとき、私は小さく肩をすくめる。
 あるとき、私は小さく指を離す。
 どちらのときにも、最後にひとことを言う。
「これ以上戻したら、もう出会えなくなる」

 言いながら、私は知っている。
 人は時々、戻りたいのではなく、止まりたいのだ。
 止まりたいとき、装置よりも先に、言葉が必要だ。
 その言葉が、たまたま私の口に宿っているあいだは、私はここに立つ。

 白い箱の中で、ファンが静かに回っている。
 静けさは、親切に似ている。
 親切は、よく切れる。
 切れるものは、よく研がねばならない。
 私は、今日も研ぐ。
 観測の刃を、止めるために。
 出会いの手前で、指を止めるために。

(了)