0 案内
受付の女は、機械のように笑った。
「ようこそ〈友情パズル〉へ。ルールの再確認を」
透明のパネルに四行が浮かぶ。
プレイヤーAとBは、互いの記憶を“転写”できる(双方向)。
転写された記憶は受け手の“自己の体験”として定着する。
転写元の同一記憶は消去。
制限時間十五分。終了時、機械が“人生の完成度”を採点し、片方を保持、片方を空白処理とする。
「空白、って言い方ひどいよな」
和也が笑った。黒目がよく動く。
隣の真は肩をすくめた。
「賞金は一人分だしな。合理的だ」
机は円形、二人は左右に座る。タブレット状のヘッドセット。
受付の女は薄い冊子も差し出した。
「倫理説明文書です。わかりやすい言葉で書いてあります」
ページを開くと、わかりやすい言葉がぎっしり並び、わかりにくい数式が小さく添えてある。
最後に短い欄があった。「あなたの親友の定義」
真は、そこに名前を書いた。漢字をゆっくり。
和也は、そこに丸を描いてから、上から名前を書いた。
「では開始します。転写エンジン、起動」
青い文字が、静かに進捗を示す。
真は思った――この手の機械は、いつも静かだ。終始ていねいだ。ていねいだが、親切とは限らない。
1 最初の一分
〈スタート〉の音が、ガラス玉が皿に落ちるように鳴った。
最初に指を動かしたのは和也だ。
「小学校の林間学校。夜に抜け出して見た星からいく」
画面に星の点が広がり、線が引かれ、回想の窓が開く。
真の側のゲージが、わずかに増えた。
「……寒さまで来るな」
「細部も飛ぶらしい」
次は、受験日の朝の不安。次は、初任給で母に買ったストール。次は、最初の失恋。
和也はあっさりと渡し、真は眉をよせる。
「いいのか、そんなに」
「お前の中で生きるなら、思い出は死なない」
受付の女の声が、柔らかい。
「残り十二分です。転写負荷にご注意を」
和也のゲージが少しずつ薄くなる。真のゲージが太くなる。
画面の下に、小さな注意が点滅した。〈人格連続性:良好〉
真は一度、手を伸ばして引っ込めた。
「俺からも渡すか? 公平に」
「いや、俺がやる」
軽い調子。けれど、足先は固い。真は知っている。彼の軽さは、包装紙だ。
2 会社
途中で一度、係員が入ってきた。
「こちら、追加の同意です。転写後の記憶の著作権および人格権の取り扱いに関する――」
「記憶に著作権?」
「はい。受け手の脳内に固定された体験は受け手の所有となります。提供者は原体験の所有権を失います。訴訟防止のため、明確に」
和也は書類にサインした。
真は、つい口に出した。
「会社はどこまで親切なんだ」
「必要なだけです」
係員は笑い、出ていった。笑いは、どこにも届かない。
「残り十分快」
女の声が、優しい。
和也は、ベンチで肩を貸してくれた夕立の日を渡し、海辺で拾った青い瓶のきらめきを渡し、工場の匂いのする夜を渡した。
「名前、なんだっけ」
「お前の?」
「うん。あ、和也だ。大丈夫。続けよう」
真は、手を止めた。
「やめよう」
「なんで」
「お前が薄くなる」
「じゃあ太らせてくれ。お前の中で」
受付の女が、小さな咳払いをした。
「ご提案です。〈友情パック〉に切り替えると、空白処理の後のアフターケアが充実します。月額で、お安く」
真は笑った。
「どこまで親切なんだ」
「必要なだけです」
女は同じ言葉を言った。
3 倫理
残り七分で、白衣の中年がドアの隙間から覗いた。
「倫理オフィサーです。失礼。進行に問題は?」
真は尋ねた。
「最後に“消える”のは、人格のどこです」
「転写した分に対応する、連想束の主枝ですね。語彙・運動は温存。職能の一部は薄くなる可能性がある」
「……人間は、薄くなっても人間ですか」
「定義次第です」
オフィサーは、丁寧に礼をして去った。
丁寧さは、いつも機械の側にある。
「残り六分です」
和也は、少し息を切らしながら笑った。
「最後に、いちばん大事なやつを渡す」
「なんだ」
「工場の音。古いプレス機の、リズム。俺、あれが好きだった」
真の胸のどこか、深いところに金属の規則正しい鼓動が宿る。
それは、もう、自分の思い出だ。
「残り五分」
和也の目は、すこし曇る。
「ここ、どこ」
「ゲームの部屋だ」
「ゲーム……楽しいな」
真は、ヘッドセットに手をかけた。
「終わりだ」
「どうして」
「これ以上、やれない」
「残り四分」
受付の女が、丁寧な声で言った。
「途中終了も可能です。その場合、採点は現在値で」
真は、和也の画面を見る。薄い灰。
自分の画面は、過去が増えて重く、うっすらと眩しい。
「残り三分」
女の声は、親切だ。親切は、よく切れるナイフに似ている。
4 保険
扉が開き、スーツの男が頭を下げた。
「保険の担当です。すぐ済みます。空白側の生活保護の適用可否に関する――」
「適用されるのか」
「条件がございます。親族が引き取る場合、保護は縮小。第三者が引き取る場合、審査。有償監護料の支給は――」
男は話し終える前に、真の視線に気づいて黙った。
視線は、簡単な言葉よりよく刺さる。
「残り二分」
和也は指を持ち上げた。
「最後に、もう一つ。お前と河原で見た、逆さの星」
「やめろ」
「どうして」
「もう、充分だ」
「残り一分」
受付の女は、優しく言った。
「お二人とも、すばらしい被験――参加者です」
“すばらしい”の後に、機械のような少しの間があった。
真は、和也の手からヘッドセットを外した。
和也は、ぽかんと笑った。
「君はだれ」
「真。友達だ」
「友達……いいね」
5 判定
結果は、白い紙のように静かに出た。
〈判定:B=“完成度高”/A=空白〉
女が手を叩いた。
「おめでとうございます。B様には賞金と“人生の保持”を。A様は、記憶の大半が消去されます。副作用により人格の連続性は――」
「待て」
真が遮った。
「空白は、どこまで」
「転写回数ぶん。氏名と簡単な言語機能は残存します」
和也は、ぬるい目で部屋を見回した。
「ここ、どこ」
「ゲームの部屋だ」
「ゲーム、楽しい」
受付の女が書類を差し出す。
「A様のアフターケア。公的扶助・医療・監護。引き取り人が必要です」
真は、ペンを取った。
「俺が引き取る」
「親族では?」
「違う。友達だ」
「第三者引き取りには審査が――」
「事前登録してある。代理同意も。貴社のフォームは、きちんと読めば隙だらけだ」
女は、初めてほんの少し人間のように笑った。
「さすが“B様”。頭もよろしい」
6 出口
廊下で、白衣の倫理オフィサーがまた会釈した。
「立派でした」
「どこが」
「形式上、です」
礼は深く、意味は軽い。
エレベーターの横で、掃除ロボットが静かに床を磨く。床はどこまでも清潔で、そこに落ちたものはすぐ消える。
外に出ると、夕方で、工場の音が遠くに響いていた。
「聞こえるか」
「なにが?」
「プレス機の、リズム」
真は耳をすませた。胸の奥で、金属が規則正しく息をしている。――それはたしかに、自分の思い出だった。
「おなか、すいた」
和也が言った。
「じゃあ、飯だ。からあげでいいか」
「なんで?」
「お前の好物だから」
「ぼくの?」
「うん。なんとなく」
信号が青に変わる。二人は渡った。
7 手続き
翌朝、会社からメールが来た。件名は親切だが、本分は固い。
〈アフターケア設定完了/監護者:B〉
添付のPDFには、監護義務と事故時の免責が整然と並ぶ。
最後に「友情ポイント」というよくわからない加点制度があり、真は笑って閉じた。
昼、保険会社の査定AIがビデオ通話を開いた。
「B様。A様の生活評価は“軽”。支給額は規定の七割」
「残り三割は」
「友情で補ってください」
AIの声は滑らかで、滑らかさは冷たい。
夕方、倫理委員会のアンケートが届いた。
〈今回の体験はあなたの人生にプラスでしたか〉
真は、選択肢のどれにも指を置けず、窓を閉じた。
和也は、ソファでテレビを見ていた。
「これ、おもしろい」
笑うポイントはずれている。だが、ずれは、やさしい。
リモコンのボタンの押し方は、覚えている。
からあげには、レモンをかけない。
夜、工場の音の動画を流すと、和也は静かになった。
「これ、すき」
「そうだろ」
「どうして」
「お前の思い出だから。……俺のでもあるけど」
8 所有権
三日後、会社から再びメール。
〈B様が保有する“記憶資産”の二次利用について〉
記憶資産、という言葉は新品の靴のように硬かった。
〈広告最適化のための匿名化利用に同意して頂くと、監護ポイントが加算〉
真は、笑う気にもなれず削除した。
その日の午後、玄関のチャイムが鳴った。
年配の男が立っていた。よく磨かれた靴。
「私はA様の父です」
言葉は丁寧で、目は固い。
「引き取りに来ました。血縁ですので」
真は、ドアの内側で深く息を吸った。
「本人の意思を聞いてください」
男は眉を動かした。
「意思?」
「はい。空白処理後でも、意思はある。少なくとも、今日の昼飯に何を食べたいかくらいは自分で言える」
男は黙って、ソファの和也を見た。
「君は、来るか。家へ」
和也は、首をかしげた。
「ここは、家」
男の磨かれた靴が、ほんの少し止まった。
「……そうか」
帰り際、男は名刺を置いた。
「困ったときは連絡を。金は、少しある」
真は受け取り、深く頭を下げた。
礼には、内容が宿ることもある。
9 片付け
一週間が過ぎ、街はいつもの速度に戻った。
会社からは時々、親切なメールが届いた。
〈モニター特典/A様の“新生トレーニング”体験会〉
内容は、基礎の反復練習を有料で提供するものだ。
親切は、有料である。
夜、真はキッチンで、青い瓶を棚の奥に置き直した。
これは、海辺で二人で拾った瓶――のはずの瓶だ。
真の中にある光景は鮮やかで、指の感触と潮の匂いまである。
だが、写真に写っているのは、和也の笑顔だ。
写真は、嘘をつかない。記憶は、少し嘘をつく。
ふと和也が来て、棚を見上げた。
「それ、きれい」
「だろ」
「どこで拾った?」
「海」
「海、すき」
「覚えてるか?」
「なんとなく」
なんとなく、という言葉は、穴の形をした鍵だ。
10 監査
月末、会社の監査チームがやって来た。
「データ確認です。A様の“空白率”が高すぎるとの指摘が」
「高すぎる?」
「はい。規約では、転写回数の上限は設けていませんが、暗黙の上限は存在します」
「暗黙の上限?」
「皆様、空気を読みますので」
監査の男は、空気のように笑った。
「B様の“完成度”は素晴らしい。参考までに、いくつかの記憶を語っていただけますか。品質評価のため」
「語る必要があるのか」
「任意です」
任意は、たいてい強制に似ている。
真は、ゆっくり語った。星、受験日の朝、ストール、失恋、夕立、青い瓶、工場の音――。
監査の男は、満足げに頷いた。
「良質です。広告用のモデルケースに」
「やめてくれ」
「任意です」
男は、また笑った。
11 穴
夜、和也が、ノートを広げていた。
そこに、小さな丸がいくつも描かれている。
「なにしてる」
「考えごと」
「考えごと?」
「うん。ここに穴がある」
丸は、穴を意味していた。
「どうしたら、埋まる?」
真は、少し考えてから言った。
「埋めなくていい。穴は、穴のままでいい」
「どうして」
「そこに風が通るから」
和也は、穴のひとつに小さな点を打った。
「風の点」
「いい名前だ」
12 見学
会社から、礼儀正しく案内が来た。
〈ご参加者向け見学会/新型エンジン公開〉
真は、断ろうとした。
しかし、和也が行きたいと言った。
「ゲーム、たのしい」
たのしい、か。
真は、溜息を飲み込んだ。
「行こう」
会場では、受付の女がまた機械のように笑った。
「ご参加ありがとうございます。今回は“友情拡張”の実装です。三人以上の共同戦略が可能に」
「三人以上?」
「はい。AからBへ、BからCへ、CからAへ。循環転写で、空白を薄く均等化できます」
女は優しく言った。
「親切でしょう?」
親切は、よく切れるナイフである。
説明の最後に、倫理オフィサーが短く挨拶した。
「人間は、配分を好みます。痛みを分け合い、利益を分け合い、責任を薄め合うのが得意です」
拍手は、小さく均等だった。
13 質問
質疑応答で、真は手を挙げた。
「“人生の完成度”は、何で決まる」
女は笑顔で答えた。
「総点です。幸福、貢献、経験、連続性、社会適合」
「誰が決めた」
「機械です」
「機械の点は、誰が決めた」
「それは、会社です」
丁寧だ。丁寧なほど、輪郭が曖昧になる。
帰り道、和也が言った。
「完成度って、どこまで?」
「知らない」
「じゃあ、ぼくのはなに?」
「お前は、お前だ」
それは、答えの形をした祈りだった。
14 雨
週末、雨が降った。
真は、和也と傘をわけた。
「濡れる」
「すぐ乾く」
「雨の匂い」
「覚えてるか」
「ううん。今の匂い」
今の匂いは、記憶より強い。
喫茶店の窓に、雨粒が斜めに走る。
店員が持ってきた水のコップに、青い瓶の影が宿った気がした。
気のせいだ。
気のせいは、救いだ。
15 再訪
数日後、監査の男からまた連絡が来た。
「B様。何件か、苦情が来ています」
「苦情?」
「SNSに、“友情パズルで友を空白にした男”というタグが」
「タグは、いつも親切だな」
「拡散は、たいてい短い文を好みます」
男は、それでも丁寧に言った。
「お気になさいますな」
心配しないで、の丁寧な言い方は、心配を呼ぶ。
真はスマホを置いた。
和也は、ソファで穴のノートに小さな点を増やしていた。
「風の点、ふえた」
「いいことだ」
「どうして」
「風がよく通る」
16 ふたり
夜。
真は、和也の寝息を聞きながら、静かに目を閉じた。
星、受験日の朝、ストール、失恋、夕立、青い瓶、工場の音――。
すべてが自分の中にある。
すべてが同時に、少し痛む。
痛みは、輪郭である。
輪郭があると、人は立てる。
朝。
和也は、卵焼きに砂糖を入れすぎた。
「甘い」
「甘いのも、うまい」
真は、笑って食べた。
笑いは、穴の縁をやさしく丸くする。
17 最終
月が変わる頃、会社から封書が届いた。
表紙だけ柔らかい紙。
中は、いつも通り固い。
〈最終判定通知〉
B=保持。A=空白。
監護状況=良。
“友情ポイント”=加算。
次回参加割引=適用。
最後に、薄い紙切れが入っていた。
青いインクで、短い線が引かれている。
線は、穴を囲む枠の形に見えた。
会社は、どこまで親切なのだろう。
必要なだけ。必要は、尽きない。
18 オチ
夕暮れ。
工場の音が、遠くで規則正しく呼吸している。
和也が、いつものように言う。
「これ、すき」
「そうだろ」
「どうして」
真は、窓の外の色を一つ一つ確かめるように見てから、ゆっくり答えた。
「君の中に全部あるなら、それでいいや」
和也は、少し考えて、笑った。
「うん。なんとなく」
パズルは完成していた。
欠けたピースの形で。
(了)
受付の女は、機械のように笑った。
「ようこそ〈友情パズル〉へ。ルールの再確認を」
透明のパネルに四行が浮かぶ。
プレイヤーAとBは、互いの記憶を“転写”できる(双方向)。
転写された記憶は受け手の“自己の体験”として定着する。
転写元の同一記憶は消去。
制限時間十五分。終了時、機械が“人生の完成度”を採点し、片方を保持、片方を空白処理とする。
「空白、って言い方ひどいよな」
和也が笑った。黒目がよく動く。
隣の真は肩をすくめた。
「賞金は一人分だしな。合理的だ」
机は円形、二人は左右に座る。タブレット状のヘッドセット。
受付の女は薄い冊子も差し出した。
「倫理説明文書です。わかりやすい言葉で書いてあります」
ページを開くと、わかりやすい言葉がぎっしり並び、わかりにくい数式が小さく添えてある。
最後に短い欄があった。「あなたの親友の定義」
真は、そこに名前を書いた。漢字をゆっくり。
和也は、そこに丸を描いてから、上から名前を書いた。
「では開始します。転写エンジン、起動」
青い文字が、静かに進捗を示す。
真は思った――この手の機械は、いつも静かだ。終始ていねいだ。ていねいだが、親切とは限らない。
1 最初の一分
〈スタート〉の音が、ガラス玉が皿に落ちるように鳴った。
最初に指を動かしたのは和也だ。
「小学校の林間学校。夜に抜け出して見た星からいく」
画面に星の点が広がり、線が引かれ、回想の窓が開く。
真の側のゲージが、わずかに増えた。
「……寒さまで来るな」
「細部も飛ぶらしい」
次は、受験日の朝の不安。次は、初任給で母に買ったストール。次は、最初の失恋。
和也はあっさりと渡し、真は眉をよせる。
「いいのか、そんなに」
「お前の中で生きるなら、思い出は死なない」
受付の女の声が、柔らかい。
「残り十二分です。転写負荷にご注意を」
和也のゲージが少しずつ薄くなる。真のゲージが太くなる。
画面の下に、小さな注意が点滅した。〈人格連続性:良好〉
真は一度、手を伸ばして引っ込めた。
「俺からも渡すか? 公平に」
「いや、俺がやる」
軽い調子。けれど、足先は固い。真は知っている。彼の軽さは、包装紙だ。
2 会社
途中で一度、係員が入ってきた。
「こちら、追加の同意です。転写後の記憶の著作権および人格権の取り扱いに関する――」
「記憶に著作権?」
「はい。受け手の脳内に固定された体験は受け手の所有となります。提供者は原体験の所有権を失います。訴訟防止のため、明確に」
和也は書類にサインした。
真は、つい口に出した。
「会社はどこまで親切なんだ」
「必要なだけです」
係員は笑い、出ていった。笑いは、どこにも届かない。
「残り十分快」
女の声が、優しい。
和也は、ベンチで肩を貸してくれた夕立の日を渡し、海辺で拾った青い瓶のきらめきを渡し、工場の匂いのする夜を渡した。
「名前、なんだっけ」
「お前の?」
「うん。あ、和也だ。大丈夫。続けよう」
真は、手を止めた。
「やめよう」
「なんで」
「お前が薄くなる」
「じゃあ太らせてくれ。お前の中で」
受付の女が、小さな咳払いをした。
「ご提案です。〈友情パック〉に切り替えると、空白処理の後のアフターケアが充実します。月額で、お安く」
真は笑った。
「どこまで親切なんだ」
「必要なだけです」
女は同じ言葉を言った。
3 倫理
残り七分で、白衣の中年がドアの隙間から覗いた。
「倫理オフィサーです。失礼。進行に問題は?」
真は尋ねた。
「最後に“消える”のは、人格のどこです」
「転写した分に対応する、連想束の主枝ですね。語彙・運動は温存。職能の一部は薄くなる可能性がある」
「……人間は、薄くなっても人間ですか」
「定義次第です」
オフィサーは、丁寧に礼をして去った。
丁寧さは、いつも機械の側にある。
「残り六分です」
和也は、少し息を切らしながら笑った。
「最後に、いちばん大事なやつを渡す」
「なんだ」
「工場の音。古いプレス機の、リズム。俺、あれが好きだった」
真の胸のどこか、深いところに金属の規則正しい鼓動が宿る。
それは、もう、自分の思い出だ。
「残り五分」
和也の目は、すこし曇る。
「ここ、どこ」
「ゲームの部屋だ」
「ゲーム……楽しいな」
真は、ヘッドセットに手をかけた。
「終わりだ」
「どうして」
「これ以上、やれない」
「残り四分」
受付の女が、丁寧な声で言った。
「途中終了も可能です。その場合、採点は現在値で」
真は、和也の画面を見る。薄い灰。
自分の画面は、過去が増えて重く、うっすらと眩しい。
「残り三分」
女の声は、親切だ。親切は、よく切れるナイフに似ている。
4 保険
扉が開き、スーツの男が頭を下げた。
「保険の担当です。すぐ済みます。空白側の生活保護の適用可否に関する――」
「適用されるのか」
「条件がございます。親族が引き取る場合、保護は縮小。第三者が引き取る場合、審査。有償監護料の支給は――」
男は話し終える前に、真の視線に気づいて黙った。
視線は、簡単な言葉よりよく刺さる。
「残り二分」
和也は指を持ち上げた。
「最後に、もう一つ。お前と河原で見た、逆さの星」
「やめろ」
「どうして」
「もう、充分だ」
「残り一分」
受付の女は、優しく言った。
「お二人とも、すばらしい被験――参加者です」
“すばらしい”の後に、機械のような少しの間があった。
真は、和也の手からヘッドセットを外した。
和也は、ぽかんと笑った。
「君はだれ」
「真。友達だ」
「友達……いいね」
5 判定
結果は、白い紙のように静かに出た。
〈判定:B=“完成度高”/A=空白〉
女が手を叩いた。
「おめでとうございます。B様には賞金と“人生の保持”を。A様は、記憶の大半が消去されます。副作用により人格の連続性は――」
「待て」
真が遮った。
「空白は、どこまで」
「転写回数ぶん。氏名と簡単な言語機能は残存します」
和也は、ぬるい目で部屋を見回した。
「ここ、どこ」
「ゲームの部屋だ」
「ゲーム、楽しい」
受付の女が書類を差し出す。
「A様のアフターケア。公的扶助・医療・監護。引き取り人が必要です」
真は、ペンを取った。
「俺が引き取る」
「親族では?」
「違う。友達だ」
「第三者引き取りには審査が――」
「事前登録してある。代理同意も。貴社のフォームは、きちんと読めば隙だらけだ」
女は、初めてほんの少し人間のように笑った。
「さすが“B様”。頭もよろしい」
6 出口
廊下で、白衣の倫理オフィサーがまた会釈した。
「立派でした」
「どこが」
「形式上、です」
礼は深く、意味は軽い。
エレベーターの横で、掃除ロボットが静かに床を磨く。床はどこまでも清潔で、そこに落ちたものはすぐ消える。
外に出ると、夕方で、工場の音が遠くに響いていた。
「聞こえるか」
「なにが?」
「プレス機の、リズム」
真は耳をすませた。胸の奥で、金属が規則正しく息をしている。――それはたしかに、自分の思い出だった。
「おなか、すいた」
和也が言った。
「じゃあ、飯だ。からあげでいいか」
「なんで?」
「お前の好物だから」
「ぼくの?」
「うん。なんとなく」
信号が青に変わる。二人は渡った。
7 手続き
翌朝、会社からメールが来た。件名は親切だが、本分は固い。
〈アフターケア設定完了/監護者:B〉
添付のPDFには、監護義務と事故時の免責が整然と並ぶ。
最後に「友情ポイント」というよくわからない加点制度があり、真は笑って閉じた。
昼、保険会社の査定AIがビデオ通話を開いた。
「B様。A様の生活評価は“軽”。支給額は規定の七割」
「残り三割は」
「友情で補ってください」
AIの声は滑らかで、滑らかさは冷たい。
夕方、倫理委員会のアンケートが届いた。
〈今回の体験はあなたの人生にプラスでしたか〉
真は、選択肢のどれにも指を置けず、窓を閉じた。
和也は、ソファでテレビを見ていた。
「これ、おもしろい」
笑うポイントはずれている。だが、ずれは、やさしい。
リモコンのボタンの押し方は、覚えている。
からあげには、レモンをかけない。
夜、工場の音の動画を流すと、和也は静かになった。
「これ、すき」
「そうだろ」
「どうして」
「お前の思い出だから。……俺のでもあるけど」
8 所有権
三日後、会社から再びメール。
〈B様が保有する“記憶資産”の二次利用について〉
記憶資産、という言葉は新品の靴のように硬かった。
〈広告最適化のための匿名化利用に同意して頂くと、監護ポイントが加算〉
真は、笑う気にもなれず削除した。
その日の午後、玄関のチャイムが鳴った。
年配の男が立っていた。よく磨かれた靴。
「私はA様の父です」
言葉は丁寧で、目は固い。
「引き取りに来ました。血縁ですので」
真は、ドアの内側で深く息を吸った。
「本人の意思を聞いてください」
男は眉を動かした。
「意思?」
「はい。空白処理後でも、意思はある。少なくとも、今日の昼飯に何を食べたいかくらいは自分で言える」
男は黙って、ソファの和也を見た。
「君は、来るか。家へ」
和也は、首をかしげた。
「ここは、家」
男の磨かれた靴が、ほんの少し止まった。
「……そうか」
帰り際、男は名刺を置いた。
「困ったときは連絡を。金は、少しある」
真は受け取り、深く頭を下げた。
礼には、内容が宿ることもある。
9 片付け
一週間が過ぎ、街はいつもの速度に戻った。
会社からは時々、親切なメールが届いた。
〈モニター特典/A様の“新生トレーニング”体験会〉
内容は、基礎の反復練習を有料で提供するものだ。
親切は、有料である。
夜、真はキッチンで、青い瓶を棚の奥に置き直した。
これは、海辺で二人で拾った瓶――のはずの瓶だ。
真の中にある光景は鮮やかで、指の感触と潮の匂いまである。
だが、写真に写っているのは、和也の笑顔だ。
写真は、嘘をつかない。記憶は、少し嘘をつく。
ふと和也が来て、棚を見上げた。
「それ、きれい」
「だろ」
「どこで拾った?」
「海」
「海、すき」
「覚えてるか?」
「なんとなく」
なんとなく、という言葉は、穴の形をした鍵だ。
10 監査
月末、会社の監査チームがやって来た。
「データ確認です。A様の“空白率”が高すぎるとの指摘が」
「高すぎる?」
「はい。規約では、転写回数の上限は設けていませんが、暗黙の上限は存在します」
「暗黙の上限?」
「皆様、空気を読みますので」
監査の男は、空気のように笑った。
「B様の“完成度”は素晴らしい。参考までに、いくつかの記憶を語っていただけますか。品質評価のため」
「語る必要があるのか」
「任意です」
任意は、たいてい強制に似ている。
真は、ゆっくり語った。星、受験日の朝、ストール、失恋、夕立、青い瓶、工場の音――。
監査の男は、満足げに頷いた。
「良質です。広告用のモデルケースに」
「やめてくれ」
「任意です」
男は、また笑った。
11 穴
夜、和也が、ノートを広げていた。
そこに、小さな丸がいくつも描かれている。
「なにしてる」
「考えごと」
「考えごと?」
「うん。ここに穴がある」
丸は、穴を意味していた。
「どうしたら、埋まる?」
真は、少し考えてから言った。
「埋めなくていい。穴は、穴のままでいい」
「どうして」
「そこに風が通るから」
和也は、穴のひとつに小さな点を打った。
「風の点」
「いい名前だ」
12 見学
会社から、礼儀正しく案内が来た。
〈ご参加者向け見学会/新型エンジン公開〉
真は、断ろうとした。
しかし、和也が行きたいと言った。
「ゲーム、たのしい」
たのしい、か。
真は、溜息を飲み込んだ。
「行こう」
会場では、受付の女がまた機械のように笑った。
「ご参加ありがとうございます。今回は“友情拡張”の実装です。三人以上の共同戦略が可能に」
「三人以上?」
「はい。AからBへ、BからCへ、CからAへ。循環転写で、空白を薄く均等化できます」
女は優しく言った。
「親切でしょう?」
親切は、よく切れるナイフである。
説明の最後に、倫理オフィサーが短く挨拶した。
「人間は、配分を好みます。痛みを分け合い、利益を分け合い、責任を薄め合うのが得意です」
拍手は、小さく均等だった。
13 質問
質疑応答で、真は手を挙げた。
「“人生の完成度”は、何で決まる」
女は笑顔で答えた。
「総点です。幸福、貢献、経験、連続性、社会適合」
「誰が決めた」
「機械です」
「機械の点は、誰が決めた」
「それは、会社です」
丁寧だ。丁寧なほど、輪郭が曖昧になる。
帰り道、和也が言った。
「完成度って、どこまで?」
「知らない」
「じゃあ、ぼくのはなに?」
「お前は、お前だ」
それは、答えの形をした祈りだった。
14 雨
週末、雨が降った。
真は、和也と傘をわけた。
「濡れる」
「すぐ乾く」
「雨の匂い」
「覚えてるか」
「ううん。今の匂い」
今の匂いは、記憶より強い。
喫茶店の窓に、雨粒が斜めに走る。
店員が持ってきた水のコップに、青い瓶の影が宿った気がした。
気のせいだ。
気のせいは、救いだ。
15 再訪
数日後、監査の男からまた連絡が来た。
「B様。何件か、苦情が来ています」
「苦情?」
「SNSに、“友情パズルで友を空白にした男”というタグが」
「タグは、いつも親切だな」
「拡散は、たいてい短い文を好みます」
男は、それでも丁寧に言った。
「お気になさいますな」
心配しないで、の丁寧な言い方は、心配を呼ぶ。
真はスマホを置いた。
和也は、ソファで穴のノートに小さな点を増やしていた。
「風の点、ふえた」
「いいことだ」
「どうして」
「風がよく通る」
16 ふたり
夜。
真は、和也の寝息を聞きながら、静かに目を閉じた。
星、受験日の朝、ストール、失恋、夕立、青い瓶、工場の音――。
すべてが自分の中にある。
すべてが同時に、少し痛む。
痛みは、輪郭である。
輪郭があると、人は立てる。
朝。
和也は、卵焼きに砂糖を入れすぎた。
「甘い」
「甘いのも、うまい」
真は、笑って食べた。
笑いは、穴の縁をやさしく丸くする。
17 最終
月が変わる頃、会社から封書が届いた。
表紙だけ柔らかい紙。
中は、いつも通り固い。
〈最終判定通知〉
B=保持。A=空白。
監護状況=良。
“友情ポイント”=加算。
次回参加割引=適用。
最後に、薄い紙切れが入っていた。
青いインクで、短い線が引かれている。
線は、穴を囲む枠の形に見えた。
会社は、どこまで親切なのだろう。
必要なだけ。必要は、尽きない。
18 オチ
夕暮れ。
工場の音が、遠くで規則正しく呼吸している。
和也が、いつものように言う。
「これ、すき」
「そうだろ」
「どうして」
真は、窓の外の色を一つ一つ確かめるように見てから、ゆっくり答えた。
「君の中に全部あるなら、それでいいや」
和也は、少し考えて、笑った。
「うん。なんとなく」
パズルは完成していた。
欠けたピースの形で。
(了)



