朝、大阪なんば。
通信制高校「大阪みなみ学園高校」のキャンパス。
全日制高校とはちがって、通信制高校の朝は比較的静かだ。
というのも、生徒の登校時刻は、その生徒それぞれの持つ事情や症状によってまちまちだ。
午前8時30分が学校の最初の始業時刻だが、その時間に来る生徒もいれば、もっと遅い時刻、9時台や10時台に、あるいは昼近くにやって来る生徒もいる。
なので、午前8時台から来ている生徒の数はまだ多くない。
教室の中は10名もいないといった感じだ。
そんな時間、早くから来ている生徒たちのうちに入る三人。
舞彩亜、工、七海が会話していた。
「……で、舞彩亜ちゃんはやる曲、決まった?」
「うん。
まあいちおうね」
「なに?」
「えとね、Ela é Carioca、『彼女はカリオカ』って曲。
ボサノバのスタンダードで、まあ有名な曲、ってとこかな」
「へえ!
すごいね!
舞彩亜ちゃんといっしょにいると、知らない曲いろいろ教えてもらえそう!」
「そういう七海ちゃんは、なにやるん?
バンドでやるんやろ?」
「そう。
フフフ……それがなんとね……驚くなかれ!
イエスの『ラウンドアバウト』やることになったねん!」
その曲名もイエスというバンド名も知らない舞彩亜は、ぽかんとした顔で言った。
「……へ?
なに、その、ラウンドなんとか、って?」
七海がズッコケて、声を上げた。
「もおー、舞彩亜ちゃん、『ラウンドアバウト』知らんの!?
イエスっていう、UKのプログレバンドの名曲なんやねんて!」
「UKの、プログレ……?」
まだわけがわからずぽかんとしている舞彩亜に、工が思わず解説を入れた。
「舞彩亜さん、イエスってのはですね、イギリスのロックバンドです。
『プログレッシブロック』っていう、なんと言ったらええですかね、ロックの中にクラシック音楽やジャズとか、いろんな音楽の要素を取り入れた、1970年代ごろに流行ったロックの一ジャンルがあるんですけど、そのプログレロックの中でも有名なバンドですね。
で、『ラウンドアバウト』は、彼らの代表曲と言っていい、有名な曲です。
アニメのエンディングにも使われたから、そのあとの世代にもわりと知られてるんですよ」
舞彩亜は工の説明に納得した。
「……なるほど。
プログレッシブロックって、そういうジャンルがあるんやね。
なんてアニメで使われてるん?」
工が舞彩亜に、「ジョ……」とアニメの名前を言いかけると、横ですかさず七海が、
「そうそう!それ!」
と叫んだ。
舞彩亜は七海の勢いに圧倒されながら、工に顔を向けて言った。
「……ああ、そのアニメ、名前聞いたことある。
あたし、アニメあんまり観ないからな」
工は七海に尋ねた。
「でも七海さん、ほんとにこの曲やるんですか?
7分半くらいあるし、めっちゃむずかしい曲やないんですか?」
七海は不敵な笑みを浮かべると再び、フッフッフ、と低い笑い声を発して言った。
「それがな……できちゃうんよ。
われらが新入生バンドのメンバー全員がコピーしてる曲が、これだけやったんや!
……すごくね!?
超テクニシャンの集まりじゃね?
って、自分で言うのもなんやけど!」
そう言って七海はケタケタ笑った。
「曲が長いから、許可してもらえるかどうか、ってのはあるけど、まあだいじょうぶやろ。
逆に新入生でこんなのやるやつ、まずおらんやろし、先輩たちも聴きたいと思うやろ!
あははは!」
舞彩亜と工はひとりテンション高く盛り上がっている七海を横目にしながら、顔を見合わせた。
「……そんなに、むずかしい曲なん?」
「いや、ふつう高校生レベルでやれる曲ではないと思います。
スマホでもSpotifyで聴けるんで、舞彩亜さんにもあとで教えますよ。
一度聴いてみてください。
どんだけめちゃくちゃな曲か、わかると思うんで」
「そなんや。
……すごいな。
七海ちゃんもやけど、バンドの人たち全員も」
「でも、この大曲をどんなふうに演奏するのか、すごく楽しみですね」
「うん、そやな。
……バンドってかっこええし、ええなあ。
ほんま楽しみやわ」
工が、ちょっとはにかむように舞彩亜をあらためて見つめると言った。
「……楽しみなのは、舞彩亜さんもですよ」
「あ、あー……。
うん、楽しみにしてくれてうれしいわ。
『Ela é Carioca』はあたしも好きな曲やし、今回これをやるのも、なんていうか、特別な思いがあるからというか……」
工が首を傾げて訊いた。
「……特別な思い?」
舞彩亜はちょっと答えに窮して、教室の向こうに目をそらした。
そして、あわててこう言い添えた。
「……あー、まあ、この高校に入って初めて人前での演奏やし。
しかも、軽音部に入ってからの初舞台やし!
そやからいろいろ、特別ってこと!」
工は笑ってうなずいた。
「確かに、そうですね。
……楽しみにしてます!」
舞彩亜も笑顔で工に答えた。
「うん。
ありがと!」
二人のそばで、七海が両腕を上げながら叫んだ。
「……もうー、なに、二人だけでええ感じになって!
あたしを置いてけぼりにせんでー!」
***
ローザ先生のギター教室。
夕暮れ時。
きょうも、日に日に徐々に傾いてより斜めに差してくるようになった日射しが、やさしい明るさで教室の中を包み込んでいる。
そしてなにより、日が落ちるのが早くなった。
日中はまだまだ夏のような暑さだが、それでも少しずつ秋が近づいてきているのだということが、この陽の光から感じられる。
舞彩亜が『Ela é Carioca』をギターを弾き、歌い終わった。
聴いていたローザ先生は舞彩亜をやさしく眺めると、微笑みながら何度もうなずいて言った。
「うん。
ええよ、ええと思う!
これで本番、だいじょうぶやと思うよ!」
舞彩亜はまだ少し緊張した面持ちだったが、それでもローザ先生の言葉を聴いて、ほっとしたように笑顔になった。
「……ほんまですか?
よかった!」
ローザ先生は舞彩亜に顔を近づけると、声を低くして言った。
「……いまみたいな感じに弾き語りできれば、彼も舞彩亜ちゃんのことをとっても魅力的やと思うてくれるんやないかなあ!」
舞彩亜は、不意をつかれたようにびくっとして赤くなった。
「……んーもう!
先生、からかわんといてください!」
ローザ先生は微笑んだまま、
「からかってないよー。
てか、舞彩亜ちゃん、実際そう思うてほしいやろ?
あたしも、自分が好きな人には、あたしを魅力的な人って感じてほしいと思うしな。
……あたしのダンナにだってそう感じてほしいって、いつも思ってるよ。
まあ、ダンナのほうがいま、あたしのことをどう思うてくれてるか、知らんけどな」
そう言って、あははっ、と笑った。
その先生のまじめとも冗談ともつかぬ様子を見ていたら、舞彩亜もちょっとおかしくなって思わず笑った。
「……ほんとは、まだすごい緊張してるんです。
本番でうまくできるかな、って。
もちろん、いままでにも発表会とかで、何十人かの人たちの前で弾き語りしたことは何度もあるし、ストリートでも何度も弾き語りしてるわけですけど、今回は新しい高校の中で、しかも軽音部っていう、初めて自分がやってる音楽ができる部活、いろんなタイプの音楽をやってる人たちがたくさんいて、その人たちの前で演奏するんや、っていう意味でも初めての舞台やし。
それに、工くん……あ、お話しした彼のことですけど、彼の前でもストリート以外では初めて演奏することになるし、なにもかも初めてづくしなんで……」
舞彩亜は、早口で一気に話して頬が紅潮していた。
ローザ先生は、その舞彩亜の右肩にやさしく手を置くと、力づけるように言った。
「だいじょうぶ。
舞彩亜ちゃんは本番強いから。
いままで発表会でもそうやったやん。
前日まであたふたして、どうしよう、って言ってても、本番でバッチリやれてたやん、いつも。
……それに、ストリートも何度もやってきたのやろ?
偉いことやと思うよ、舞彩亜ちゃんの歳でストリートをやり続けてきたこと自体」
舞彩亜は恥ずかしそうに、ローザ先生から目をそらしてつぶやいた。
「先生にストリートやってたことが、バレバレやったなんて……。
隠せないもんですね。
やっぱり悪いことはできんなあ……」
「ストリートライブは悪いことやないよ。
むしろ、どんどんやったほうがええと思う!
……あたしもブラジルにいたとき、やってたし」
舞彩亜が声を上げた。
「え!
先生もストリートやってたんですか?」
「やってたよ。
舞彩亜ちゃんと同じぐらいの歳、16歳のころから、完全にプロ活動になってライブハウスだけで活動できるようになるまで、20歳過ぎぐらいまでやってたかなあ。
サンパウロの街でね。
でもね、ブラジルで街なかでストリートライブやるのって、日本とちがって危険が伴うのよ。
強盗に襲われてお金取られたりとか、あり得るしね。
あたしの友だちの男の子で、同じようにストリートやってた子は、夜に路上で演奏してるときに実際、強盗に襲われてお金取られたことがあった。
そやからね、そういう音楽友だちの間でね、おたがいに情報交換しながらやってたの。
あのエリアは、何時から何時くらいの間なら安全や、とかね、えへへっ」
舞彩亜はふるえ上がった。
「マジですか?
怖過ぎる……」
「そ。
そうやって安全な場所と時間帯でやるようにしてたから、幸いあたしは襲われたことはなかったけどね。
それよりも、ストリートでやってたとき、いろんな人たちがあたしの演奏を聴いてくれて、喜んで拍手してくれて、うれしかった。
楽しかったなあ、あのときは。
もちろん、ライブハウスでレギュラーでできるようになってからは、安全にプレイできるようになってすごくうれしかったけど、ストリートにもストリートでしか味わえないよさがあるよね!」
ローザ先生は、窓の外を見つめるように遠くに目をやって話していた。
やがて、また目を舞彩亜に戻すと言った。
「……舞彩亜ちゃんもそんなふうに楽しめるよ、絶対。
今回は学校の中やから、絶対安全よね!
そやから、安心して音楽に集中して。
で、リラックスして。
楽しんで。
これがいちばん大切。
音楽を楽しむこと。
それを忘れないでやれば、絶対だいじょうぶ!」
舞彩亜は人懐っこい笑顔を浮かべて、こくん、とうなずいた。
「ありがとうございます。
先生の言葉で、勇気もらった気がします」
「その、新歓演奏会、やっけ?
舞彩亜ちゃんのほかに出演する人たちは、どんな感じ?」
ローザ先生がそう尋ねてきたので、舞彩亜は、うーん、と考えるしぐさをした。
「……あたしみたいに、ひとりでアコギの弾き語りの人もいますし、ピアノと歌のデュオとか、エレキギターとベースのコンビとか……。
あ、そうそう、七海ちゃんっていうあたしの友だちがいて、いっしょに入部したんですけど、彼女は新入部員を集めてバンド作っちゃったんですよ!
しかも、やる曲がイエスっていうバンドの『ラウンドアバウト』っていう曲で。
あたしもオリジナルレコーディング聴いたんですけど、超むずかしそうな曲で……」
「え、『Roundabout』!
ほんまに!」
ローザ先生は、曲のタイトルを流暢な英語の発音で叫んだ。
おそらく、ブラジルにいた時期から知った曲なのだろう。
「先生、ご存じなんですか?」
ローザ先生は舞彩亜の問いかけに、ふふっ、と笑って、
「知ってるもなにも。
サンパウロにおったとき、あたしのまわりの音楽仲間でバンドやってる人たちの間で、コピーの人気曲やったよ。
腕試しにもちょうどいい曲やからね。
あたしはやったことないけど、そういう人の演奏聴いてたから、すごくテクニックが必要な曲や、ってことはよう知っとるよ。
それをお友だちが、バンドでやるのや!」
舞彩亜は、この曲が新歓演奏会の曲目として通るかどうか、最初は議論の的になったのだという、七海から聞いた話をローザ先生に伝えた。
「8分近くもある長い曲なんですよね。
そやから、七海ちゃんが部に申請出したときも、部長さんたちが最初、うーん、ちょっと長いな……って言って悩んでたらしいんですけど、先輩たちの間で、
『いままで新入生で、出だしからこんなチャレンジングな曲やろう、ってやつ、おらんわ!
おもろそうやん、やらせてあげようや!』
って意見が多数を占めて、それでOK出たんだそうです」
「……その、お友だちの、七海ちゃん?
すごいね、ほかのメンバーも。
それに、勇気あるね!
おもしろそう。
あたしも聴いてみたいもんやなあ、その人たちも、舞彩亜ちゃんの本番も!」
舞彩亜も、くすっ、と笑って肩をそびやかすと言った。
「あたしには、七海ちゃんのようなことはできないです、いろんな意味で。
あんなすごい勇気もないし、ああいう音楽も、すごいなって思うけど、あたしにはできないな、って」
ローザ先生はふたたび舞彩亜の肩に手を置いた。
「舞彩亜ちゃんには、舞彩亜ちゃんにしかできないものがある。
それをやればええよ。
きっと、それが舞彩亜ちゃんにとって最高なものになると思う」
舞彩亜は、心を打たれたようにローザ先生をまっすぐ見つめると、もう一度うなずいた。
「ありがとうございます、先生」
ローザ先生もうなずくと、思い出したように明るい顔で続けた。
「それに、舞彩亜ちゃんのストリートライブも、一度見て聴いてみたいな、あたしも。
ストリートは日本のほうがはるかにやりやすいよね!
日本はブラジルよりずっと安全やし、街はきれいやし。
それに、ストリートでライブを重ねることは、すっごく勉強になる。
舞彩亜ちゃんなら、もうわかってると思うけど。
そやから、もし時間があって、場所とか条件とかクリアできるようやったら、ぜひまたやってみいへん?
そしたら、あたしも聴きに行くよ!」
舞彩亜は、ぱあっ、と明るい表情になって声を上げた。
「ほんまですか!
あたし、ぜひまたやりたいと思ってるんです。
……あの、いま梅田のショッピングモールがラジオ局とコラボしてやってる公認ストリートライブみたいなのがあって、施設内の広場でストリートライブができる時間帯があるんです。
で、実は、そのライブに参加するミュージシャンを募集中、っていう話があって……」
***
数日後、高校キャンパス内の午前11時前。
休み時間で、次の科目を受けるために、教室間を移動する生徒たちが多い。
工も移動のため廊下を歩いていた。
次の時間は一年生向けの授業のため、舞彩亜と別れて授業を受けることになる。
それで工は、舞彩亜に、じゃ、また昼にね、とあいさつされてメインの教室を出た。
廊下の片側には大きな窓が続いて並んでいる。
少し薄曇りの天気になっていて、窓から入ってくる日の光は弱めだ。
「寺崎くん!」
工は廊下で呼び止められた。
振り向くと、角野雫だった。
紺色のブレザー、胸に赤いリボン、グレー地にブルーと白のチェック柄のスカート。
いつものように、制服を模範的に着こなしている。
その姿はあいかわらず、清楚できれいだ。
笑顔で工に手を振っていた。
雫は、工や舞彩亜の選んでいる「週5日通学 スタンダードコース」でなく、始めから大学進学を希望している生徒のための「週5日通学 大学進学コース」に所属している。
そのため、クラスが別でいつもいる教室も別。
なのでふだん工と会う機会は、部活以外にはそれほど多くない。
「ああ、角野さん」
工も笑って手を振った。
「これからPC基礎の時間。
パソコンルームに移動なの」
「そうなんだ。
ぼくも、次は基礎数学で第3ルームに行くところ」
「おたがい、移動だね」
「うん」
「金曜日は部活、来る?」
雫が人なつっこい笑顔を浮かべて訊いてきた。
その日は新歓演奏会だ。
工は一瞬迷ったが、結局正直に言うことにした。
「あー、その日は軽音部の新歓演奏会に行こうと思ってて……。
知り合いの先輩が入っててね、誘われたんで」
「あ、そうなんだ……」
先輩、ってどんな人?とか、雫が突っ込んで訊いてきたら、どう答えよう……。
そう思っていたが、雫はそれ以上詮索してこなかった。
ただ、こう続けただけだった。
「じゃ、今週はもう寺崎くんに会えないのかあ。
さみしいけど、しょうがないね……」
雫は本当にさみしそうな表情だったが、それでも作り笑いのような笑顔を見せた。
工はあわてて雫に言った。
「……ごめんね」
「ううん。
ぜんぜんだいじょうぶやから、気にしないで」
「柄山さんは来るかな」
「来ると思うよ。
ぼくは部活はかならず毎回来ます、って言ってたから」
そう言って、雫は、ふふっ、と笑った。
工は少し安心した。
「それならよかった。
来週はちゃんと顔出すよ」
「うん。
……じゃ、またね!」
雫は、きれいに作られた笑顔のまま、元気を出すように強く手を振った。
工も手を振って、二人はそこで別れた。
歩きながら、工は考えていた。
なんなら、新歓演奏会にいっしょに行かないか、と雫を誘ってもよかったはずだ。
でも、工にはそうすることができなかった。
したくなかった。
どうしてだろう。
ごめん、角野さん……。
工はひとり、心の中で雫に謝った。
***
なんば駅近くのレンタルスタジオ。
七海たちのバンドが、新歓演奏会本番に向けて練習していた。
これが2回目のスタジオ入り。
1回目ですでに全員手応えを感じていたが、演奏はまだあちこちに危ないところがある。
スタジオ代も節約したいので、この2回目で完成させたい。
七海たちはそう考えていた。
今回一度目の、全曲とおしての演奏。
曲が終わると、みんな感心したような笑みを浮かべておたがいに顔を見合った。
1回目のあと反省ををふまえて各自が個人練習を重ねた成果が、明らかに現れていた。
七海が感動した表情で、つぶやくように言った。
「……これは、なかなかええわ……。
もうちょっとで、イケる!」
みちるの、クリス・スクワイアばりにゴリゴリな音にセッティングされたベース。
元の、ビル・ブルーフォード本人かと思ってしまうような完コピなドラム。
一子の完璧なテクニックのキーボード。(一子は、自分のNORDのシンセをここに持ってくるために、家から運転手付きの車でやってきた)
そして唯花の、まさに女版ジョン・アンダーソンと言っていいヴォーカル。
みんなすばらしい。
みちるが口をはさんだ。
「でもさ、1度目の歌の「...in and out the valley...」から頭に戻るところのブレイクの直後。
まだ、みんなずれるよね。
ここ、最重点で練習しようよ!」
元も同意した。
「そう。
ここ合わんと、めっちゃカッコ悪いし!」
唯花、一子とも、そうそう、と言うふうにうなずいた。
七海は全員を順々に見回すと、自分もうなずいて言った。
「よし。
もう一度とおしてやってみよう!」
一子がシンセで、静寂からだんだん強まっていく効果音のような音を鳴らした。
(イエスのオリジナルレコーディングでは、スティーヴ・ハウによるアコースティックギターの演奏を先に録音し、そのテープを逆回転で再生してその最後の音のところでキーボードのリック・ウェイクマンがピアノのコードを、ジャーン!と鳴らして録音し、それをまた正常に再生してあの音を実現したという)
一子は、非常に近いニュアンスのプリセット音を用意してきてくれた。
そして、リックとそっくりに演奏してくれた。
それだけでも、みんなテンションが上がるというものだ。
そのピアノ音がどんどん強くなり、上がりきった頂点。
そこに合わせて、七海が愛機のギター、IbanezのGRG320FA-TRB、ボディカラーがトランスペアレント・レッド・バーストのモデルで、ハーモニクスのコード音を鳴らす。
七海は、本当はオリジナルと同じように、このイントロをアコースティックギターで鳴らし、エレキと持ち替えで演奏したかった。
だが、オリジナルレコーディングは多重録音でアコギとエレキを巧みにつないでいる。
オリジナルと同じようにアコースティックギターとエレキギターを実際に持ち替えて、音の入れ替えをするのは困難だ。
そのため、結局すべてエレキ1本でやることにした。
1972年のイエス自身によるライブ演奏でも、スティーヴ・ハウがエレキ1本だけで演奏していたのをYouTubeで観たから、ということもある。
あの演奏を参考にしよう、と七海は考えていた。
イントロのギターのフレーズが早まり、そこで元のドラム、みちるのベースが一気になだれこみ、アップテンポに変わる。
七海のギターはまたハーモニクスでコードを奏で、彼らをバックで支える。
「ラウンドアバウト」という壮大な旅の、始まりだ。
みちるのベースが、高音域を上げたトーンでギターと張り合うようにうなる。
そして、元の正確無比なドラミングとからみながら推進力を上げていく。
この始まりは完璧だ。
しかし、さっきみちるが指摘した、2回目の歌に入る直前、唯花のヴォーカルが1回目の「...the valley...」を歌った直後、元のフィルが入ったところで、やはりみんなが合わず、ずれてしまった。
「あー、何度やっても合わん!
テンポがいったん、徐々に遅くなってからの戻りだから、どうしても合わせづらいのはしょうがないけど……」
みちるがくやしそうに声を上げた。
七海もギターの上で腕を組んで考え込んだ。
「なんかいいやりかた、ないかな……」
元が提案した。
「それならさ、おれがフィル入れる前にスティックで合図鳴らそうか?
こんな感じ。
カッ、カッ、ドタッタタッ!
……どうかな?」
七海の顔が、ぱぁっ、と明るくなった。
「ええねえ!
みちるちゃん、どう?」
みちるも暗く長いトンネルを行くうちに見えてきた出口を示す日の光、とでもいうように笑顔を見せた。
「あたしもええと思う!
それで一回、やってみようよ!」
「みんなもええよね?」
メンバーみんなもうなずいた。
「おし!
じゃ、もう一度、最初からね!」
七海はそう叫ぶと、真顔にもどって集中するために数秒間沈黙した。
そしておもむろに、イントロのハーモニクスを奏でた。
ドラム、ベースが入り、七海のハーモニクスとともに1度目のAメロを紡ぐ。
いい感じだ。
問題の箇所。
唯花がよくとおる声で、
「...in and out the valley...」とAメロの終わりを伸ばすとともに、ドラム、ベース、ギターがともに次第にテンポを落としていく。
そして唯花の声がまだ伸びているその最後のところで元が、
「カッ、カッ!」
とスティック2本を叩いて合図を鳴らす。
そして、ドラムのフィルを
「ダダッタタッ!」
と入れると、みちる、七海、元の音がぴったりと合った。
「やったあ!」
みちるがピックを持った右手を上げて喜んだ。
七海も、
「合った!やった!
元くん、グッジョブ!!」
と叫ぶと、元がドラムセットの向こうで親指をぐっ、と立てて笑顔を見せた。
「これなら、かっこ悪くなく、しかもわかりやすく入れるね。
……これで行こう!」
七海はメンバー全員を順々に見つめ、こう言った。
「じゃ、もう一度最初からとおして合わせましょか!」
全体とおして、演奏が終わった。
うまくいった。
もちろん細かいことを言えば粗があちこちにあるが、いまの練習時間を考えれば驚異的に完成度が高い、といっていい。
七海がお辞儀をして、みんなに語りかけた。
「では、これで本番前の準備は完了、ということで。
……いやあ、正直、いまやから言うけど、この曲をバンドでできる日がこんなに早く来ようとは、思ってもいなかったですわ。
みちるちゃん、元くん、唯花ちゃん、一子ちゃん、みんなのおかげです!
ありがとう!!」
メンバーたちみんなが拍手した。
七海は思わず、感極まった表情になった。
「七海ちゃん、泣くのはまだ早い!」
みちるがからかうように言って笑った。
「まだ泣いとらんわ!」
七海も笑いながら返すと、ピックを持った手を高々と上げて声を上げた。
「ほな、みなさん、本番よろしくお願いします!」
「おー!!」
七海の気持ちは高揚していた。
軽音部の先輩がたも、ほかのみんなも、おどろかせたるわ……!!
***
新歓演奏会の開催される日。
朝、舞彩亜はいつもどおりの時刻に起きた。
よく眠れたし、前の晩もリラックスして過ごすことができた。
でも、やはり当日になってみると、適度な緊張と、アガった気分、そしていくらかの落ち着かなさが、心の中でないまぜになっていた。
舞彩亜は自分の部屋の中で、ギターの入ったギグバッグをちょっと開け、中のギターにそっと話しかけた。
「……きょうは、あたしといっしょに、全力出してがんばろうな……」
そして、ギターに微笑みかけると、バッグのファスナーを閉めた。
ギグバッグと、教材など荷物の入ったショルダーバッグを抱えて、舞彩亜は部屋を出てきた。
いつもは制服で学校に行っている舞彩亜だが、きょうは演奏のしやすさを考えてTシャツ、その上にフリース、そしてライトブルーのジーンズという私服にした。
リビングに来ると、朝食を運ぶ母親と、テーブルに座ってテレビを観ていた父親がいっしょに、
「おはよう」
と声をかけてきた。
舞彩亜も明るい調子で両親に、
「おはよう」
と返事した。
朝食の間じゅう、父親も母親も新歓演奏会のことはなにも話さなかった。
おそらく舞彩亜を緊張させないように気を遣っているのだろう。
やがて学校に行く時間になり、舞彩亜が荷物を背負って玄関に行くと、父親が言った。
「舞彩亜」
「うん?」
「楽しんでおいで」
父親はやさしい笑顔だった。
母親も舞彩亜のそばに来て、舞彩亜の頭を撫でた。
「お父さんの言うとおり、楽しんできてね。
もう舞彩亜にはあたしらが言わんでも、じゅうぶんわかってると思うけど」
舞彩亜はうれしそうにうなずいた。
「うん!
楽しんでくる!!」
舞彩亜はギターのバッグを背負い、ショルダーバッグを肩にかけると、ドアを開けた。
そこは未来、これから始まる新しい世界の、期待に満ちた未来に通じるドアだ。
……よーし。
全力で、やるぞー!
通信制高校「大阪みなみ学園高校」のキャンパス。
全日制高校とはちがって、通信制高校の朝は比較的静かだ。
というのも、生徒の登校時刻は、その生徒それぞれの持つ事情や症状によってまちまちだ。
午前8時30分が学校の最初の始業時刻だが、その時間に来る生徒もいれば、もっと遅い時刻、9時台や10時台に、あるいは昼近くにやって来る生徒もいる。
なので、午前8時台から来ている生徒の数はまだ多くない。
教室の中は10名もいないといった感じだ。
そんな時間、早くから来ている生徒たちのうちに入る三人。
舞彩亜、工、七海が会話していた。
「……で、舞彩亜ちゃんはやる曲、決まった?」
「うん。
まあいちおうね」
「なに?」
「えとね、Ela é Carioca、『彼女はカリオカ』って曲。
ボサノバのスタンダードで、まあ有名な曲、ってとこかな」
「へえ!
すごいね!
舞彩亜ちゃんといっしょにいると、知らない曲いろいろ教えてもらえそう!」
「そういう七海ちゃんは、なにやるん?
バンドでやるんやろ?」
「そう。
フフフ……それがなんとね……驚くなかれ!
イエスの『ラウンドアバウト』やることになったねん!」
その曲名もイエスというバンド名も知らない舞彩亜は、ぽかんとした顔で言った。
「……へ?
なに、その、ラウンドなんとか、って?」
七海がズッコケて、声を上げた。
「もおー、舞彩亜ちゃん、『ラウンドアバウト』知らんの!?
イエスっていう、UKのプログレバンドの名曲なんやねんて!」
「UKの、プログレ……?」
まだわけがわからずぽかんとしている舞彩亜に、工が思わず解説を入れた。
「舞彩亜さん、イエスってのはですね、イギリスのロックバンドです。
『プログレッシブロック』っていう、なんと言ったらええですかね、ロックの中にクラシック音楽やジャズとか、いろんな音楽の要素を取り入れた、1970年代ごろに流行ったロックの一ジャンルがあるんですけど、そのプログレロックの中でも有名なバンドですね。
で、『ラウンドアバウト』は、彼らの代表曲と言っていい、有名な曲です。
アニメのエンディングにも使われたから、そのあとの世代にもわりと知られてるんですよ」
舞彩亜は工の説明に納得した。
「……なるほど。
プログレッシブロックって、そういうジャンルがあるんやね。
なんてアニメで使われてるん?」
工が舞彩亜に、「ジョ……」とアニメの名前を言いかけると、横ですかさず七海が、
「そうそう!それ!」
と叫んだ。
舞彩亜は七海の勢いに圧倒されながら、工に顔を向けて言った。
「……ああ、そのアニメ、名前聞いたことある。
あたし、アニメあんまり観ないからな」
工は七海に尋ねた。
「でも七海さん、ほんとにこの曲やるんですか?
7分半くらいあるし、めっちゃむずかしい曲やないんですか?」
七海は不敵な笑みを浮かべると再び、フッフッフ、と低い笑い声を発して言った。
「それがな……できちゃうんよ。
われらが新入生バンドのメンバー全員がコピーしてる曲が、これだけやったんや!
……すごくね!?
超テクニシャンの集まりじゃね?
って、自分で言うのもなんやけど!」
そう言って七海はケタケタ笑った。
「曲が長いから、許可してもらえるかどうか、ってのはあるけど、まあだいじょうぶやろ。
逆に新入生でこんなのやるやつ、まずおらんやろし、先輩たちも聴きたいと思うやろ!
あははは!」
舞彩亜と工はひとりテンション高く盛り上がっている七海を横目にしながら、顔を見合わせた。
「……そんなに、むずかしい曲なん?」
「いや、ふつう高校生レベルでやれる曲ではないと思います。
スマホでもSpotifyで聴けるんで、舞彩亜さんにもあとで教えますよ。
一度聴いてみてください。
どんだけめちゃくちゃな曲か、わかると思うんで」
「そなんや。
……すごいな。
七海ちゃんもやけど、バンドの人たち全員も」
「でも、この大曲をどんなふうに演奏するのか、すごく楽しみですね」
「うん、そやな。
……バンドってかっこええし、ええなあ。
ほんま楽しみやわ」
工が、ちょっとはにかむように舞彩亜をあらためて見つめると言った。
「……楽しみなのは、舞彩亜さんもですよ」
「あ、あー……。
うん、楽しみにしてくれてうれしいわ。
『Ela é Carioca』はあたしも好きな曲やし、今回これをやるのも、なんていうか、特別な思いがあるからというか……」
工が首を傾げて訊いた。
「……特別な思い?」
舞彩亜はちょっと答えに窮して、教室の向こうに目をそらした。
そして、あわててこう言い添えた。
「……あー、まあ、この高校に入って初めて人前での演奏やし。
しかも、軽音部に入ってからの初舞台やし!
そやからいろいろ、特別ってこと!」
工は笑ってうなずいた。
「確かに、そうですね。
……楽しみにしてます!」
舞彩亜も笑顔で工に答えた。
「うん。
ありがと!」
二人のそばで、七海が両腕を上げながら叫んだ。
「……もうー、なに、二人だけでええ感じになって!
あたしを置いてけぼりにせんでー!」
***
ローザ先生のギター教室。
夕暮れ時。
きょうも、日に日に徐々に傾いてより斜めに差してくるようになった日射しが、やさしい明るさで教室の中を包み込んでいる。
そしてなにより、日が落ちるのが早くなった。
日中はまだまだ夏のような暑さだが、それでも少しずつ秋が近づいてきているのだということが、この陽の光から感じられる。
舞彩亜が『Ela é Carioca』をギターを弾き、歌い終わった。
聴いていたローザ先生は舞彩亜をやさしく眺めると、微笑みながら何度もうなずいて言った。
「うん。
ええよ、ええと思う!
これで本番、だいじょうぶやと思うよ!」
舞彩亜はまだ少し緊張した面持ちだったが、それでもローザ先生の言葉を聴いて、ほっとしたように笑顔になった。
「……ほんまですか?
よかった!」
ローザ先生は舞彩亜に顔を近づけると、声を低くして言った。
「……いまみたいな感じに弾き語りできれば、彼も舞彩亜ちゃんのことをとっても魅力的やと思うてくれるんやないかなあ!」
舞彩亜は、不意をつかれたようにびくっとして赤くなった。
「……んーもう!
先生、からかわんといてください!」
ローザ先生は微笑んだまま、
「からかってないよー。
てか、舞彩亜ちゃん、実際そう思うてほしいやろ?
あたしも、自分が好きな人には、あたしを魅力的な人って感じてほしいと思うしな。
……あたしのダンナにだってそう感じてほしいって、いつも思ってるよ。
まあ、ダンナのほうがいま、あたしのことをどう思うてくれてるか、知らんけどな」
そう言って、あははっ、と笑った。
その先生のまじめとも冗談ともつかぬ様子を見ていたら、舞彩亜もちょっとおかしくなって思わず笑った。
「……ほんとは、まだすごい緊張してるんです。
本番でうまくできるかな、って。
もちろん、いままでにも発表会とかで、何十人かの人たちの前で弾き語りしたことは何度もあるし、ストリートでも何度も弾き語りしてるわけですけど、今回は新しい高校の中で、しかも軽音部っていう、初めて自分がやってる音楽ができる部活、いろんなタイプの音楽をやってる人たちがたくさんいて、その人たちの前で演奏するんや、っていう意味でも初めての舞台やし。
それに、工くん……あ、お話しした彼のことですけど、彼の前でもストリート以外では初めて演奏することになるし、なにもかも初めてづくしなんで……」
舞彩亜は、早口で一気に話して頬が紅潮していた。
ローザ先生は、その舞彩亜の右肩にやさしく手を置くと、力づけるように言った。
「だいじょうぶ。
舞彩亜ちゃんは本番強いから。
いままで発表会でもそうやったやん。
前日まであたふたして、どうしよう、って言ってても、本番でバッチリやれてたやん、いつも。
……それに、ストリートも何度もやってきたのやろ?
偉いことやと思うよ、舞彩亜ちゃんの歳でストリートをやり続けてきたこと自体」
舞彩亜は恥ずかしそうに、ローザ先生から目をそらしてつぶやいた。
「先生にストリートやってたことが、バレバレやったなんて……。
隠せないもんですね。
やっぱり悪いことはできんなあ……」
「ストリートライブは悪いことやないよ。
むしろ、どんどんやったほうがええと思う!
……あたしもブラジルにいたとき、やってたし」
舞彩亜が声を上げた。
「え!
先生もストリートやってたんですか?」
「やってたよ。
舞彩亜ちゃんと同じぐらいの歳、16歳のころから、完全にプロ活動になってライブハウスだけで活動できるようになるまで、20歳過ぎぐらいまでやってたかなあ。
サンパウロの街でね。
でもね、ブラジルで街なかでストリートライブやるのって、日本とちがって危険が伴うのよ。
強盗に襲われてお金取られたりとか、あり得るしね。
あたしの友だちの男の子で、同じようにストリートやってた子は、夜に路上で演奏してるときに実際、強盗に襲われてお金取られたことがあった。
そやからね、そういう音楽友だちの間でね、おたがいに情報交換しながらやってたの。
あのエリアは、何時から何時くらいの間なら安全や、とかね、えへへっ」
舞彩亜はふるえ上がった。
「マジですか?
怖過ぎる……」
「そ。
そうやって安全な場所と時間帯でやるようにしてたから、幸いあたしは襲われたことはなかったけどね。
それよりも、ストリートでやってたとき、いろんな人たちがあたしの演奏を聴いてくれて、喜んで拍手してくれて、うれしかった。
楽しかったなあ、あのときは。
もちろん、ライブハウスでレギュラーでできるようになってからは、安全にプレイできるようになってすごくうれしかったけど、ストリートにもストリートでしか味わえないよさがあるよね!」
ローザ先生は、窓の外を見つめるように遠くに目をやって話していた。
やがて、また目を舞彩亜に戻すと言った。
「……舞彩亜ちゃんもそんなふうに楽しめるよ、絶対。
今回は学校の中やから、絶対安全よね!
そやから、安心して音楽に集中して。
で、リラックスして。
楽しんで。
これがいちばん大切。
音楽を楽しむこと。
それを忘れないでやれば、絶対だいじょうぶ!」
舞彩亜は人懐っこい笑顔を浮かべて、こくん、とうなずいた。
「ありがとうございます。
先生の言葉で、勇気もらった気がします」
「その、新歓演奏会、やっけ?
舞彩亜ちゃんのほかに出演する人たちは、どんな感じ?」
ローザ先生がそう尋ねてきたので、舞彩亜は、うーん、と考えるしぐさをした。
「……あたしみたいに、ひとりでアコギの弾き語りの人もいますし、ピアノと歌のデュオとか、エレキギターとベースのコンビとか……。
あ、そうそう、七海ちゃんっていうあたしの友だちがいて、いっしょに入部したんですけど、彼女は新入部員を集めてバンド作っちゃったんですよ!
しかも、やる曲がイエスっていうバンドの『ラウンドアバウト』っていう曲で。
あたしもオリジナルレコーディング聴いたんですけど、超むずかしそうな曲で……」
「え、『Roundabout』!
ほんまに!」
ローザ先生は、曲のタイトルを流暢な英語の発音で叫んだ。
おそらく、ブラジルにいた時期から知った曲なのだろう。
「先生、ご存じなんですか?」
ローザ先生は舞彩亜の問いかけに、ふふっ、と笑って、
「知ってるもなにも。
サンパウロにおったとき、あたしのまわりの音楽仲間でバンドやってる人たちの間で、コピーの人気曲やったよ。
腕試しにもちょうどいい曲やからね。
あたしはやったことないけど、そういう人の演奏聴いてたから、すごくテクニックが必要な曲や、ってことはよう知っとるよ。
それをお友だちが、バンドでやるのや!」
舞彩亜は、この曲が新歓演奏会の曲目として通るかどうか、最初は議論の的になったのだという、七海から聞いた話をローザ先生に伝えた。
「8分近くもある長い曲なんですよね。
そやから、七海ちゃんが部に申請出したときも、部長さんたちが最初、うーん、ちょっと長いな……って言って悩んでたらしいんですけど、先輩たちの間で、
『いままで新入生で、出だしからこんなチャレンジングな曲やろう、ってやつ、おらんわ!
おもろそうやん、やらせてあげようや!』
って意見が多数を占めて、それでOK出たんだそうです」
「……その、お友だちの、七海ちゃん?
すごいね、ほかのメンバーも。
それに、勇気あるね!
おもしろそう。
あたしも聴いてみたいもんやなあ、その人たちも、舞彩亜ちゃんの本番も!」
舞彩亜も、くすっ、と笑って肩をそびやかすと言った。
「あたしには、七海ちゃんのようなことはできないです、いろんな意味で。
あんなすごい勇気もないし、ああいう音楽も、すごいなって思うけど、あたしにはできないな、って」
ローザ先生はふたたび舞彩亜の肩に手を置いた。
「舞彩亜ちゃんには、舞彩亜ちゃんにしかできないものがある。
それをやればええよ。
きっと、それが舞彩亜ちゃんにとって最高なものになると思う」
舞彩亜は、心を打たれたようにローザ先生をまっすぐ見つめると、もう一度うなずいた。
「ありがとうございます、先生」
ローザ先生もうなずくと、思い出したように明るい顔で続けた。
「それに、舞彩亜ちゃんのストリートライブも、一度見て聴いてみたいな、あたしも。
ストリートは日本のほうがはるかにやりやすいよね!
日本はブラジルよりずっと安全やし、街はきれいやし。
それに、ストリートでライブを重ねることは、すっごく勉強になる。
舞彩亜ちゃんなら、もうわかってると思うけど。
そやから、もし時間があって、場所とか条件とかクリアできるようやったら、ぜひまたやってみいへん?
そしたら、あたしも聴きに行くよ!」
舞彩亜は、ぱあっ、と明るい表情になって声を上げた。
「ほんまですか!
あたし、ぜひまたやりたいと思ってるんです。
……あの、いま梅田のショッピングモールがラジオ局とコラボしてやってる公認ストリートライブみたいなのがあって、施設内の広場でストリートライブができる時間帯があるんです。
で、実は、そのライブに参加するミュージシャンを募集中、っていう話があって……」
***
数日後、高校キャンパス内の午前11時前。
休み時間で、次の科目を受けるために、教室間を移動する生徒たちが多い。
工も移動のため廊下を歩いていた。
次の時間は一年生向けの授業のため、舞彩亜と別れて授業を受けることになる。
それで工は、舞彩亜に、じゃ、また昼にね、とあいさつされてメインの教室を出た。
廊下の片側には大きな窓が続いて並んでいる。
少し薄曇りの天気になっていて、窓から入ってくる日の光は弱めだ。
「寺崎くん!」
工は廊下で呼び止められた。
振り向くと、角野雫だった。
紺色のブレザー、胸に赤いリボン、グレー地にブルーと白のチェック柄のスカート。
いつものように、制服を模範的に着こなしている。
その姿はあいかわらず、清楚できれいだ。
笑顔で工に手を振っていた。
雫は、工や舞彩亜の選んでいる「週5日通学 スタンダードコース」でなく、始めから大学進学を希望している生徒のための「週5日通学 大学進学コース」に所属している。
そのため、クラスが別でいつもいる教室も別。
なのでふだん工と会う機会は、部活以外にはそれほど多くない。
「ああ、角野さん」
工も笑って手を振った。
「これからPC基礎の時間。
パソコンルームに移動なの」
「そうなんだ。
ぼくも、次は基礎数学で第3ルームに行くところ」
「おたがい、移動だね」
「うん」
「金曜日は部活、来る?」
雫が人なつっこい笑顔を浮かべて訊いてきた。
その日は新歓演奏会だ。
工は一瞬迷ったが、結局正直に言うことにした。
「あー、その日は軽音部の新歓演奏会に行こうと思ってて……。
知り合いの先輩が入っててね、誘われたんで」
「あ、そうなんだ……」
先輩、ってどんな人?とか、雫が突っ込んで訊いてきたら、どう答えよう……。
そう思っていたが、雫はそれ以上詮索してこなかった。
ただ、こう続けただけだった。
「じゃ、今週はもう寺崎くんに会えないのかあ。
さみしいけど、しょうがないね……」
雫は本当にさみしそうな表情だったが、それでも作り笑いのような笑顔を見せた。
工はあわてて雫に言った。
「……ごめんね」
「ううん。
ぜんぜんだいじょうぶやから、気にしないで」
「柄山さんは来るかな」
「来ると思うよ。
ぼくは部活はかならず毎回来ます、って言ってたから」
そう言って、雫は、ふふっ、と笑った。
工は少し安心した。
「それならよかった。
来週はちゃんと顔出すよ」
「うん。
……じゃ、またね!」
雫は、きれいに作られた笑顔のまま、元気を出すように強く手を振った。
工も手を振って、二人はそこで別れた。
歩きながら、工は考えていた。
なんなら、新歓演奏会にいっしょに行かないか、と雫を誘ってもよかったはずだ。
でも、工にはそうすることができなかった。
したくなかった。
どうしてだろう。
ごめん、角野さん……。
工はひとり、心の中で雫に謝った。
***
なんば駅近くのレンタルスタジオ。
七海たちのバンドが、新歓演奏会本番に向けて練習していた。
これが2回目のスタジオ入り。
1回目ですでに全員手応えを感じていたが、演奏はまだあちこちに危ないところがある。
スタジオ代も節約したいので、この2回目で完成させたい。
七海たちはそう考えていた。
今回一度目の、全曲とおしての演奏。
曲が終わると、みんな感心したような笑みを浮かべておたがいに顔を見合った。
1回目のあと反省ををふまえて各自が個人練習を重ねた成果が、明らかに現れていた。
七海が感動した表情で、つぶやくように言った。
「……これは、なかなかええわ……。
もうちょっとで、イケる!」
みちるの、クリス・スクワイアばりにゴリゴリな音にセッティングされたベース。
元の、ビル・ブルーフォード本人かと思ってしまうような完コピなドラム。
一子の完璧なテクニックのキーボード。(一子は、自分のNORDのシンセをここに持ってくるために、家から運転手付きの車でやってきた)
そして唯花の、まさに女版ジョン・アンダーソンと言っていいヴォーカル。
みんなすばらしい。
みちるが口をはさんだ。
「でもさ、1度目の歌の「...in and out the valley...」から頭に戻るところのブレイクの直後。
まだ、みんなずれるよね。
ここ、最重点で練習しようよ!」
元も同意した。
「そう。
ここ合わんと、めっちゃカッコ悪いし!」
唯花、一子とも、そうそう、と言うふうにうなずいた。
七海は全員を順々に見回すと、自分もうなずいて言った。
「よし。
もう一度とおしてやってみよう!」
一子がシンセで、静寂からだんだん強まっていく効果音のような音を鳴らした。
(イエスのオリジナルレコーディングでは、スティーヴ・ハウによるアコースティックギターの演奏を先に録音し、そのテープを逆回転で再生してその最後の音のところでキーボードのリック・ウェイクマンがピアノのコードを、ジャーン!と鳴らして録音し、それをまた正常に再生してあの音を実現したという)
一子は、非常に近いニュアンスのプリセット音を用意してきてくれた。
そして、リックとそっくりに演奏してくれた。
それだけでも、みんなテンションが上がるというものだ。
そのピアノ音がどんどん強くなり、上がりきった頂点。
そこに合わせて、七海が愛機のギター、IbanezのGRG320FA-TRB、ボディカラーがトランスペアレント・レッド・バーストのモデルで、ハーモニクスのコード音を鳴らす。
七海は、本当はオリジナルと同じように、このイントロをアコースティックギターで鳴らし、エレキと持ち替えで演奏したかった。
だが、オリジナルレコーディングは多重録音でアコギとエレキを巧みにつないでいる。
オリジナルと同じようにアコースティックギターとエレキギターを実際に持ち替えて、音の入れ替えをするのは困難だ。
そのため、結局すべてエレキ1本でやることにした。
1972年のイエス自身によるライブ演奏でも、スティーヴ・ハウがエレキ1本だけで演奏していたのをYouTubeで観たから、ということもある。
あの演奏を参考にしよう、と七海は考えていた。
イントロのギターのフレーズが早まり、そこで元のドラム、みちるのベースが一気になだれこみ、アップテンポに変わる。
七海のギターはまたハーモニクスでコードを奏で、彼らをバックで支える。
「ラウンドアバウト」という壮大な旅の、始まりだ。
みちるのベースが、高音域を上げたトーンでギターと張り合うようにうなる。
そして、元の正確無比なドラミングとからみながら推進力を上げていく。
この始まりは完璧だ。
しかし、さっきみちるが指摘した、2回目の歌に入る直前、唯花のヴォーカルが1回目の「...the valley...」を歌った直後、元のフィルが入ったところで、やはりみんなが合わず、ずれてしまった。
「あー、何度やっても合わん!
テンポがいったん、徐々に遅くなってからの戻りだから、どうしても合わせづらいのはしょうがないけど……」
みちるがくやしそうに声を上げた。
七海もギターの上で腕を組んで考え込んだ。
「なんかいいやりかた、ないかな……」
元が提案した。
「それならさ、おれがフィル入れる前にスティックで合図鳴らそうか?
こんな感じ。
カッ、カッ、ドタッタタッ!
……どうかな?」
七海の顔が、ぱぁっ、と明るくなった。
「ええねえ!
みちるちゃん、どう?」
みちるも暗く長いトンネルを行くうちに見えてきた出口を示す日の光、とでもいうように笑顔を見せた。
「あたしもええと思う!
それで一回、やってみようよ!」
「みんなもええよね?」
メンバーみんなもうなずいた。
「おし!
じゃ、もう一度、最初からね!」
七海はそう叫ぶと、真顔にもどって集中するために数秒間沈黙した。
そしておもむろに、イントロのハーモニクスを奏でた。
ドラム、ベースが入り、七海のハーモニクスとともに1度目のAメロを紡ぐ。
いい感じだ。
問題の箇所。
唯花がよくとおる声で、
「...in and out the valley...」とAメロの終わりを伸ばすとともに、ドラム、ベース、ギターがともに次第にテンポを落としていく。
そして唯花の声がまだ伸びているその最後のところで元が、
「カッ、カッ!」
とスティック2本を叩いて合図を鳴らす。
そして、ドラムのフィルを
「ダダッタタッ!」
と入れると、みちる、七海、元の音がぴったりと合った。
「やったあ!」
みちるがピックを持った右手を上げて喜んだ。
七海も、
「合った!やった!
元くん、グッジョブ!!」
と叫ぶと、元がドラムセットの向こうで親指をぐっ、と立てて笑顔を見せた。
「これなら、かっこ悪くなく、しかもわかりやすく入れるね。
……これで行こう!」
七海はメンバー全員を順々に見つめ、こう言った。
「じゃ、もう一度最初からとおして合わせましょか!」
全体とおして、演奏が終わった。
うまくいった。
もちろん細かいことを言えば粗があちこちにあるが、いまの練習時間を考えれば驚異的に完成度が高い、といっていい。
七海がお辞儀をして、みんなに語りかけた。
「では、これで本番前の準備は完了、ということで。
……いやあ、正直、いまやから言うけど、この曲をバンドでできる日がこんなに早く来ようとは、思ってもいなかったですわ。
みちるちゃん、元くん、唯花ちゃん、一子ちゃん、みんなのおかげです!
ありがとう!!」
メンバーたちみんなが拍手した。
七海は思わず、感極まった表情になった。
「七海ちゃん、泣くのはまだ早い!」
みちるがからかうように言って笑った。
「まだ泣いとらんわ!」
七海も笑いながら返すと、ピックを持った手を高々と上げて声を上げた。
「ほな、みなさん、本番よろしくお願いします!」
「おー!!」
七海の気持ちは高揚していた。
軽音部の先輩がたも、ほかのみんなも、おどろかせたるわ……!!
***
新歓演奏会の開催される日。
朝、舞彩亜はいつもどおりの時刻に起きた。
よく眠れたし、前の晩もリラックスして過ごすことができた。
でも、やはり当日になってみると、適度な緊張と、アガった気分、そしていくらかの落ち着かなさが、心の中でないまぜになっていた。
舞彩亜は自分の部屋の中で、ギターの入ったギグバッグをちょっと開け、中のギターにそっと話しかけた。
「……きょうは、あたしといっしょに、全力出してがんばろうな……」
そして、ギターに微笑みかけると、バッグのファスナーを閉めた。
ギグバッグと、教材など荷物の入ったショルダーバッグを抱えて、舞彩亜は部屋を出てきた。
いつもは制服で学校に行っている舞彩亜だが、きょうは演奏のしやすさを考えてTシャツ、その上にフリース、そしてライトブルーのジーンズという私服にした。
リビングに来ると、朝食を運ぶ母親と、テーブルに座ってテレビを観ていた父親がいっしょに、
「おはよう」
と声をかけてきた。
舞彩亜も明るい調子で両親に、
「おはよう」
と返事した。
朝食の間じゅう、父親も母親も新歓演奏会のことはなにも話さなかった。
おそらく舞彩亜を緊張させないように気を遣っているのだろう。
やがて学校に行く時間になり、舞彩亜が荷物を背負って玄関に行くと、父親が言った。
「舞彩亜」
「うん?」
「楽しんでおいで」
父親はやさしい笑顔だった。
母親も舞彩亜のそばに来て、舞彩亜の頭を撫でた。
「お父さんの言うとおり、楽しんできてね。
もう舞彩亜にはあたしらが言わんでも、じゅうぶんわかってると思うけど」
舞彩亜はうれしそうにうなずいた。
「うん!
楽しんでくる!!」
舞彩亜はギターのバッグを背負い、ショルダーバッグを肩にかけると、ドアを開けた。
そこは未来、これから始まる新しい世界の、期待に満ちた未来に通じるドアだ。
……よーし。
全力で、やるぞー!


