山道を越え、森を抜けてさらに二日。
 王都から遠ざかるほど、道は荒れ、通行人の影も薄くなった。昼には土埃、夜には冷え切った空気が襲いかかる。護衛の兵たちは疲弊し、口数を減らしていた。

 リディアは荷台の隅で膝を抱え、胸元の小袋を握り締める。祖母のコンパスは冷たいが、その重みが彼女の心を支えていた。
 追放という現実は、今なお胸を締めつける。それでも、ここで止まるわけにはいかない。

 その日の夕刻。
 丘陵を越えた先に、ひっそりと沈む集落が見えた。

 石積みの塀は崩れ、木造の屋根は半ば朽ち果てている。家屋の扉は開け放たれ、風が吹くたびに軋んだ音を立てた。
 兵の一人が鼻を鳴らす。

「ここが……“開拓地”ってやつか。笑わせるな。廃墟じゃねぇか」

 リディアは馬車を降り、ゆっくりと足を踏み入れる。
 かつては畑だったであろう土地は荒れ放題で、雑草が膝丈まで伸びている。井戸はひび割れ、桶は苔に覆われていた。
 人の気配は、どこにもなかった。

 護衛は互いに顔を見合わせると、荷物を投げ出した。

「俺たちの任務はここまでだ。あとは好きに生きろ」

 短くそう言い残し、彼らは馬を返して去っていった。
 残されたのは、夕闇に沈むリディア一人。荷物は最低限、屋根は朽ち果て、食糧はわずか。

 リディアは冷たい風を受け止めながら、深く息を吐いた。

「……いいわ。ここから始める」

 まず向かったのは井戸だった。
 覗き込むと、底にわずかな水の光が見える。しかし桶を下ろすと、途中で引っかかり、底に届かない。ロープはすでに擦り切れていた。

 リディアは胸元のコンパスを取り出す。指先で紋をなぞり、小声で呪句を紡ぐ。
 空気が震え、石組みの間からひんやりとした風が立ちのぼる。
 井戸の底に眠っていた水脈が応えるように動き、少しずつ湧き出してきた。

「……使える」

 冷たい水を両手ですくい、喉を潤す。身体の芯にまで染みわたり、全身が目覚めるようだった。

 次に向かったのは畑の跡地。
 土は乾ききり、石と雑草に覆われている。だがリディアは祖母の言葉を思い出す。――土を崩しすぎず、水を導き、風を通す。

 枝を使って草を払い、地面を掘る。指先はすぐに土と血で汚れたが、気にしていられない。
 小袋から取り出したのは、マリアンヌがこっそり渡してくれた薬草の種だった。
 土に埋め、手をかざす。呪句を囁くと、土の中から微かな芽の気配が伝わってきた。

 夜空には星がまたたき始めていた。
 リディアは立ち上がり、崩れかけた家の中へ入る。埃の匂いが鼻をつくが、屋根はまだ一部残っている。
 壁に背を預けると、疲労がどっと押し寄せた。

 だが、目を閉じる前に呟く。

「私は……負けない。ここで生きてみせる」

 翌朝、鳥の声で目を覚ました。
 畑に向かうと、土の上に小さな緑の芽が顔を覗かせていた。夜露に濡れ、光を反射している。
 その瞬間、リディアの胸の奥に、確かな希望が芽生えた。

 追放も、婚約破棄も、全ては彼女を潰すための罠だった。
 だが、この小さな芽が示す。――自分は、まだ始まったばかりなのだと。

 リディアは微笑み、朝の光を浴びながら、廃村に向かって声を落とした。

「ここを……私の居場所にする」

 風が頷くように吹き抜けた。