暗闇だった。
 温度も、匂いも、音もない。まるで何も存在しない虚無。

 俺は――死んだのだ。

 交通事故か、心臓発作か、あるいはただの寿命か。最後の記憶は、灰色にくすんだ天井と、積み上がったコンビニ弁当の空き容器だった。三十四年の人生。誇れるものはひとつもなく、積み上げたのは失敗と後悔ばかり。

「……これが、俺の最期か」

 そう思った瞬間、虚無に“声”が差し込んだ。

『お前の魂を確認した。――結果は無能だ』

 低く、無機質で、それでいて全てを見下ろすような響き。

「……は?」

『前世で何一つ成し遂げず、努力も怠り、他人を恨むだけで生を終えた。ゆえに来世に与えるべき加護はない』

 胸を突き刺すような断定。

 誰だ、こいつは。神か? 本当に?

『ただし規則により、最低限のスキルは付与する。お前に与えるのは――“影潜り”』

「影……潜り?」

『影に潜るだけだ。攻撃力も回復力もない。誰も欲しがらぬ最低のスキルだ』

 冷笑を含んだ声とともに、視界が白く染まった。

 ――次の瞬間。

 俺は石畳の上に転がっていた。

 夕暮れの街。建物は石造り、馬車が通り、異様な装飾の看板が並ぶ。人々の服は中世ヨーロッパ風。間違いない、異世界だ。

「は……本当に転生したってのか……」

 よろめいて立ち上がる。だが周囲の視線は冷たい。

「また無能が一人、流れ込んできたな」
「スキルは? 影潜り? はっ、乞食向けだな」

 笑い声と侮蔑。
 どうやらこの世界では、神から授かったスキルが“価値”を決めるらしい。

 俺に与えられたのは最低スキル。つまり、俺は最下層の存在だ。

 日が落ち、腹が鳴る。金も食料もない。
 裏路地にうずくまり、石壁の影に手を伸ばしてみた。

「……影潜り、か」

 意識を集中すると、手がずぶりと影に沈んだ。まるで黒い水面に触れたみたいに。

「お、おお……!」

 拳を入れ、腕を入れ、全身が影に吸い込まれる。気づけば俺の身体は路地の影の中に潜み、外からは見えない。

 心臓が高鳴った。
 確かに“潜れる”。それだけ。でも……使い方次第では?

 その夜。

 通りを荒らす盗賊団が、酔った声で騒いでいた。
 小柄な少女の腕を掴み、袋に押し込もうとしている。

「や、やめてっ!」

 ――俺は飛び出した。いや、“潜り込んだ”。

 影から影へ。石畳の陰を移動し、盗賊の背後に現れる。
 拳を振り抜く。

「ぐはっ!」

 盗賊が崩れ落ちる。残りが慌てて剣を抜くが、俺は再び影に沈んだ。

「な、なんだ!? 消えたぞ!」
「上か!? 後ろか!?」

 混乱。恐怖。
 影から飛び出し、足を払う。
 もう一度沈み、今度は袋を引き裂き、少女を救い出す。

「だ、大丈夫か!」

 涙ぐむ少女が頷く。

 盗賊どもは影に怯え、武器を放り出して逃げていった。

 荒い息を吐きながら、俺は思った。

 ――これはただの“最低スキル”じゃない。

 敵から見えない位置に潜み、奇襲し、守るべき者を救える。
 神は「無能」と言ったが……俺は初めて、胸の奥が熱くなるのを感じた。

「俺は……無能なんかじゃない」

 影が俺の背中に寄り添う。
 冷たいはずの闇が、なぜか温かかった。

第1話ここまで