夢を見ていた。雨の音、冷たい風、誰かが泣いていた気がする。名前の思い出せない誰か。



 目を覚ますと、昨日とまったく同じ朝だった。目覚ましのアラームが6時ちょうどに鳴り、スマホの通知にはミオからのおはようが届いていた。



 ああ、またか。



 もう何度目だろう。わからない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。

 この日を繰り返すたびに、僕はミオとの記憶を一つずつ失っていく。



 最初にこの力に気づいたのは、一ヶ月前。彼女が事故に遭った日だった。

 何も考えず、ただ「戻れ」と願った。



 次の瞬間、時間は巻き戻り、事故の前日に戻っていた。彼女は生きていた。僕は救えた。



 でも、その代わりに、彼女との最初のデートの記憶が抜け落ちていた。



 代償は記憶。

 時間を巻き戻すたび、大切な記憶が一つだけ消えていく。



 最初はそれでも構わないと思った。彼女が生きていてくれるなら、それだけで十分だと。



 だけど。



「ユウ、どうしたの?今日の服、似合ってる?」



 笑いかけてくるミオの顔を見て、胸が痛くなる。

 彼女の好きだった服の色を、僕はもう思い出せない。たぶん、何か意味があったはずなのに。



 僕は笑って、何もなかったように「うん、似合ってるよ」と答える。

 けれどその言葉さえ、何度目なのか、もうわからなかった。



 今日、彼女に伝えようと思う。

 全部話す。時間のことも、記憶のことも、そして⋯⋯このループが今夜で終わることも。



 彼女を救う最後の一日。

 僕の中には、もう彼女の名前しか残っていない。




午後三時、いつもの喫茶店。

 ミオはキャラメルラテに舌をやけどして、また「なんで毎回忘れるんだろう」と笑った。



「学ばないよね、私って」



「……うん、そうかもな」



 僕は笑えなかった。

 この光景を何度見たのか、わからない。けれど、そのたびに彼女は同じように笑ってくれる。それが、痛かった。



 今日こそ、話すべきだ。

 でも、どこからどう切り出せばいいのかわからなかった。信じてもらえるかもわからない。

 それでも、黙って終わるわけにはいかない。彼女の全部を、僕だけが忘れていくなんて、あんまりだ。



「ねえ、ミオ」



「ん?」



「もし、明日が来ないとしたら⋯⋯何がしたい?」



 ミオは一瞬だけ目を見開いて、それから窓の外を見た。



「そうだなあ……ユウと、ちゃんと話したいかな。今までのこととか、思い出とか、未来のことも」



 その言葉に、胸が軋んだ。

 未来のことを話せる僕じゃ、もうないのに。



 

 夜になった。



 河川敷の、誰もいないベンチ。

 寒さに震えるミオの肩に、そっとブランケットをかけながら、僕はようやく言葉を探した。



「……ミオ。もし僕が、君との思い出を全部忘れていくとしたら、どうする?」



「え?」



「一緒にいた時間も、笑った顔も、誕生日も……君の好きな歌も、全部」



 ミオは黙って僕の顔を見つめていた。



 そして、ゆっくりと、首を横に振った。



「それでも私は、あなたを好きでいると思うよ……ユウが忘れても、私は覚えてるから」



 涙がこぼれた。



 それがどんなに残酷なことか、ミオはきっとわかってない。

 いや、わかっていても、そう言ってくれたんだ。

 その優しさが、いちばん苦しかった。



 だから僕は、最後に嘘をついた。



「ミオ、もう大丈夫。明日も、ちゃんと来るよ」



 そう言って微笑んだあと、彼女にキスをした。

 触れた唇があたたかくて、怖いほど幸せだった。



 



 そして僕は⋯⋯。



 ひとり、時間を巻き戻す。最後の力を使って。



 



 明日、ミオは生きている。

 僕のことをきっと覚えている。



 でも、僕はもう、彼女を知らない。



 ⋯⋯僕は君に別れを告げていた。



 それでも心のどこかで、きっと願ってる。



 たとえ記憶がなくなっても、もう一度、君に恋をすると。




春が来た。

 暖かくて、少しだけ眠たくなる陽気。桜が風に揺れて、ベンチの隣に座る誰かの髪に、ひとひら舞い落ちた。



「……あ、ごめんなさい」



 その人は、笑って言った。明るくて、どこか懐かしい声だった。

 けれど僕は、なぜかうまく笑い返せなかった。



 心臓が少しだけ速くなったのは、春のせいか、それとも。



「前に……どこかで会いましたっけ?」



 そう訊ねられて、僕は少しだけ考えて、首を横に振った。



「いや……たぶん、初めてだと思います」



 彼女は「そっか」と言って笑った。

 その笑顔を見た瞬間、なぜか胸の奥が、静かに震えた。



 理由もわからず、でもなぜか目が離せなかった。



「じゃあ、これから会うのが最初ってことだね」



 その言葉に、僕はようやく笑った。



「……そうですね」




 記憶がなくても、心は忘れていなかった。

 何度別れても、また出会える気がしていた。



 だからきっと、これが始まりなんだ。



 僕はまた、君に恋をしていた。