契り堂を出た夜の空気は、まるで冷たい水に顔を沈めたようだった。
 灯篭祭の余韻はすでに尽き、静けさが学院全体を覆っている。だがその静けさは休息ではなく、嵐の前の息詰まるような沈黙だった。

 隣を歩く朔弥は、面の下から息を細く吐く。
 「更、震えてるな」
 「……少し」
 正直に答えるしかなかった。副局長・朝倉に「楔」と呼ばれた言葉が、まだ胸を刺していた。
 「怖がるなとは言わない。だが、飲み込まれるな」
 「うん」
 私は自分の指先を強く握りしめた。握った痛みが、私がまだ“楔”ではなく“人”である証になる。

 生徒会室に戻ると、幹部たちが集まっていた。誰も眠気を纏っていない。皆の目が、夜の光を飲み込んだままぎらついていた。

 「王都からの使者が再び来るのは三日後。それまでに学院としての“牙”を整える」
 朔弥が告げると、沈黙の中に硬い頷きがいくつも重なった。

 「牙……?」
 副会長の真朱が問い返す。
 「学院はこれまで、均衡を盾にして外圧をいなしてきた。だが、今回はそれだけでは足りない。王都は“学院内部に裏切りがある”と見ている」
 「裏切り者は……書記局の?」
 「可能性は高い。だが確証はない。確証のないまま王都と争えば、学院ごと呑み込まれる」

 重い沈黙。誰もが言葉を選べずにいるとき、私は口を開いた。
 「じゃあ――その確証を、探すんだね」
 皆の視線が一斉に私に向かう。
 「……私が“楔”にされた理由は、曖昧だから。曖昧さは隠れ蓑になる。だからこそ、その裏に隠れている“手”を炙り出す」

 言い切ったとき、自分の声が思ったより強いことに驚いた。
 怖いのは変わらない。けれど、怖さを押し殺して立つことはできる。

 「更」
 朔弥が低く名を呼ぶ。その声音には、面越しでも分かる熱が宿っていた。
 「……お前が動くなら、俺が守る」
 「約束したからね」
 「守りの片割れは、まだ返してもらってない」
 そう言って、彼は面の奥で笑ったように見えた。

群像パート ― 学院の牙を研ぐ

 夜明けまでの数時間、生徒会は三つの行動方針を決めた。

 一、内部の裏切り者を探り出す。
 筆跡、行動記録、契り堂の出入り。すべて洗い直す。

 二、学院独自の「契り」を準備する。
 王都に従属するだけでなく、学院の自治を示す新しい形式を整える。

 三、牙としての力を鍛える。
 結界、術、そして――名。学院が持つ「名の力」を一斉に磨き上げる。

 「三日でそこまでできるのか?」
 誰かが呟いた。
 「やるしかない」
 朔弥は即答した。その声音に、一同は反論できなかった。

 ◇

 私は「裏切り者を探る」任を一部託された。
 書記局に残された文書のうち、上塗りされたもの、二重に記されたものを洗い直す作業だ。
 副局長・朝倉が正しすぎる筆を使うなら、その正しさの中にこそ歪みがある。

 机に並べられた数十枚の文。
 朱印の位置が揃いすぎている。線が寸分違わない。
 「……きれいすぎる」
 私は呟いた。
 文字の世界において、“美”はときに“偽り”を隠す。筆跡の揺れや滲みがない文は、人が書いたものというより、写し板のようだ。

 「更」
 背後から声がした。振り返ると、羽根の少年が立っていた。
 「……これ、僕が見てもいい?」
 「構わない」
 彼は羽根で風を起こし、文の端をめくった。
 その瞬間、隠れていた墨が光を帯びる。
 「やっぱり。これ、“影墨”だよ」
 「影墨?」
 「書いた本人じゃないと完全には読めない。でも、書記局の奥でしか作れない墨」
 「……つまり、内部の手」
 「うん」

 少年は顔を上げ、真剣な目を私に向けた。
 「更さん、危ないことになるよ。正しい人ほど、自分の正しさを守るために何でもするから」
 「分かってる」
 けれど、分かっていても進まなければならない。

恋愛・絆パート ― 守る契りの強さ

 夜更け、生徒会室に戻ると、朔弥が一人で書類を読んでいた。
 面を外し、額に汗を滲ませている。
 「……大丈夫?」
 私が声をかけると、彼は顔を上げ、苦笑を浮かべた。
 「お前に“守る”って言ったのに、俺のほうが疲れてるな」
 「守られてるから、私が立ててる」
 「言い負けた」
 彼はそう呟き、手を伸ばして私の手首に触れた。

 朱の紐。
 まだ解かれていない結び目が、脈を刻んでいる。
 「……熱いね」
 「お前のせいだ」
 「私?」
 「お前が“楔”じゃなく“人”として立ってるから。俺の片割れが、それに応えようとしてる」

 その言葉は、刃のように鋭く、同時に火のように温かかった。
 私は何も返せず、ただ結び目の上に自分の手を重ねた。