契り堂の蝋燭が、ふっと揺れた。
 揺れたのは風のせいではない。副局長の吐いた息が、部屋の空気を少し変えただけで、蝋燭の芯はその気配に怯えたように震えた。

 「桂木更紗」
 名前を呼ぶ声音は、感情を剥ぎ取った硝子のようだった。
 「君は“均衡”を乱す」

 私は返す言葉を探したが、喉に絡まった。
 副局長――名を朝倉といった。学院でもっとも整った筆を持つと評される人物。授業で見せる文字はまるで彫刻のようで、誰もが「正しい書の手本」として倣ってきた。
 その手が、私の名を紙に落としたのだとしたら。

 「……どうして、私の名を」
 やっと搾り出した声は、蝋燭よりも弱い火だった。

 「理由を聞くか?」
 朝倉は紙束を抱えたまま、朱の上塗りの前に立つ。
 「君の名は、境目に適していた。桂木家の縁、女でありながら男子寮区に潜った不均衡、その曖昧さが“均衡を支える楔”になる」

 「私を……楔に?」

 「そうだ。誰かを楔にしなければ、学院は保たれない。狐王家の半妖が会長を務めている時点で、均衡は歪んでいる。だから、別の歪みで均衡を取り戻す必要がある」
 朝倉の言葉はあまりに滑らかで、まるで墨を紙に落とすように、抵抗を許さなかった。

 「楔にされた人は?」
 「沈む」
 即答だった。
 「だが、沈むことで、他の者は浮かぶ」

 その合理さに、胸の奥が冷えきっていく。
 ――祖母の言葉が蘇る。「上塗りは怠惰だ。人を守るための理が、人を捨てるために使われる」

 「正しいことをしているつもりなのね」
 私の声は自然と震えていた。
 「正しいよ」
 朝倉の目は曇らなかった。
 「均衡を守るのが、書記局の責務だ。君のように“個”を前に出す者は、均衡を崩す。だから、君を正しく配置する。それだけだ」

 私は言葉を失い、ただ朱の上塗りを見つめた。
 そこに刻まれた名は、私自身の名。けれど、朝倉の目にはただの“部品”でしかない。

 そのとき、扉が強く叩かれた。
 「更!」
 朔弥の声。
 振り返る間もなく、扉が開かれ、狐面が差し込む。
 面の下の眼差しは、夜より鋭く光っていた。

 「会長」
 朝倉が微かに眉を動かす。
 「ここは書記局の管轄です」
 「契り堂は学院全体の管轄だ。――お前こそ、ここで何をしている」

 ふたりの間に、張り詰めた糸が生まれた。
 私はその糸の上に立たされているのだと直感した。

 「更」
 朔弥は短く呼ぶ。
 「下がれ」
 「でも……」
 「下がれ」
 命令の調子に逆らえず、私は朱の文書から半歩退いた。

 朔弥は面越しに朝倉を見据え、低く告げる。
 「“正しすぎる手”――それが、お前か」

 沈黙が一瞬、堂を満たした。
 蝋燭の火がまた揺れる。
 朝倉の口元に、淡い笑みが浮かんだ。

 「正しさに罪はない」
 「罪は“人を捨てる正しさ”にある」
 朔弥の返答は即座だった。

 その言葉の熱を、私は心臓で受け取った。
 均衡という言葉の重さに押し潰されそうになっていた胸が、少しだけ呼吸を取り戻す。
 “私は、ただの楔じゃない”。そう思えるだけで、立っていられる。

 けれど――三日の猶予は刻一刻と削られていく。
 学院の牙は、まだ研ぎ終わっていない。