狐面の契り――婚約破棄から始まる、男装令嬢とあやかし学園の夜

 夜明け前の鐘が三度、間を置いて鳴った。
 灯の輪は揺れをやめ、風鈴は高い音程を取り戻しつつある。吐く息が白むにはまだ早いのに、空気の粒子がひとつずつ、冷たい光に変わり始める気配があった。

 朔弥は結び目を指で確かめ、私の手首から朱の紐をいったん外し、別の結び方で戻した。ひと結び、もうひと結び、そして、ほどけにくい小さな留めを最後に足す。
 「さっきまでのは“仮”。今のは“契約”までは行かない、守りの結いだ」
 「仮より強い?」
「“俺がここにいる限り”の強さだ」

 言い切り方が、いつもより荒い。面の奥で呼吸が浅くなっているのに気づいた。薬で焼けた指先の痛みが、じわりと遅れて来ているのだろう。
 「手、見せて」
 差し出された掌には、薬が焦げたような赤みが走っていた。皮膚は破れてはいないが、爪の間が白く硬い。
 私は懐から小瓶を取り出す。凪から渡された“疼(うず)み止め”。狐にも効くかは分からないが、香りを落とせば毒気を鈍らせる。
 「冷たいけれど、我慢して」
 塗布した瞬間、彼は一度だけ短く息を呑んだ。
 「……効く」
 「良かった」
 「お前の声のほうが効く」
 冗談とも本音ともつかない調子で言うから、私の返事は遅れた。遅れた返事は、返事の形をやめて、手首の結びを軽く押し返す仕草になった。

 南庭の補修を終えると、祭の統括から「巡回を解いて持ち場へ戻れ」の合図が回った。形の上では危機は退いたのだ、と皆が理解し、緩んだ笑いがあちこちで零れた。
 けれど、狐面が消した言葉は耳の底に残っている。“返しに来る”“均衡はひとつじゃない”。
 書記局の“正しすぎる手”は誰なのか。上塗りの薬はどこから。局長は、ほんとうに自分の正しさだけで動いたのか。
 問いは灯の下で細く揺れ、答えを急がせない。

 「一口、何か飲む?」
 羽根の少年が飛び込むように近づいて、小さな湯呑を差し出した。生姜と薄荷の香りが湯気になって立つ。
 「助かる」
 湯気を鼻先で吸うと、頭の奥の冷えが少し引いた。
 少年はこっそりと私の手首を覗き、朱の結び目を見て目を丸くした。
 「会長、それ……」
 「監督の印だ。口外するな」
 「は、はい」
 少年は耳を伏せるように羽根を縮め、照れくさそうに笑って去った。
 視界の端で、いまの言葉の“温度”をまた測る。監督の印。実務上の線引き。だが、その線は今夜、一度、恋に似た熱でたわんでいる。

 日付が変わる頃より、灯篭祭の音は柔らかくなる。夜の盛りから、夜明け前の祈りの相へ。
 祈りは私の領分ではない、とあの白い残滓に言い返したけれど、いまは少しだけ分かる気がする。祈りに近いものが、人の手を互いに引き寄せることがある――その判で押したような均一さが嫌いでも。

 「更」
 朔弥が呼ぶ。「一巡、屋根に上がる。結界の“骨”を見る」
 「行く」
 渡り廊下の端から低い屋根へ、そこから高い屋根へ。足裏と掌が瓦の反りを覚え、身体が斜面の角度に合わせて自然に均衡を取る。
 屋根上の風は冷たく、匂いが薄いぶんだけ混じり気を拾いやすい。遠いところの火の匂い、どこかで乾いた墨、涙の塩、笑いの息。
 学舎の真上、灯の結節が網の目のように連なり、中心に大きな“骨”が通っているのが見えた。
 「見える?」
 「少し。線の太さが違うところが“骨”」
 「そう。骨は“約束の太さ”だ。人と妖、師と生徒、学院と王都、狐と人。太さが揃わないと、箍(たが)が外れる」
 「揃えられる?」
 「“いま”は、いまのぶんだけ」
 彼が答えたとき、遠くから鉄の打音が飛んできた。鐘楼の鐘とは違う、平打ちの合図――王都からの使いの来着。
 屋根の上の空気が、ほんのわずかに強張る。
 「早い」
 「“誰か”が呼んだのね」
 視線が自然と、学舎の西――書記局の棟に向く。
 朔弥は面の紐に触れ、風の向きを聞いた。
 「密勅が来る。祭の終わりと同時だ。――お前は俺のそばを離れるな」
 「離れない」
 「掟では、人の来客に半妖は顔を見せないのが礼だが」
 「なら、顔は隠す。耳も」
 「……助かる」

 風を背に屋根を降りると、灯の海が自然と道を作った。踏むべき場所に灯が寄り、踏んではいけない場所から灯が引く。
 私たちはその道筋に従い、正門へ出た。薄い光が東の方へ積もり始めている。
 門の前では、学院の伝令が二人、緊張した顔で並び立っていた。ひとりは人、もうひとりは角の小さな鬼種だ。
 「使いの馬車が丘を上っています」
 「受け所は“影廊下”だ。外の礼式で迎え、中で学院の式に切り替える」
 朔弥の指示は短く、動線には迷いがない。
 私は心臓の強さを数えた。三、二、一。落ちる前に数え終える。
 狐面の陰にいた“観客”が口上を省略するなら、王都の使いは逆に手続きを重ねるだろう。儀礼の厚みは、時に刃より強い。

 影廊下――外から内へ滑らかに移行するための細長い回廊。
 足音が二つ、三つ、回廊の暗い板を打ち、使者の影が灯の端に立った。
 外套の裏は朝の冷えを含んでいる。先頭は若い騎士、その後ろに文官。文官の腕には黒漆の箱。印璽の“正”を意味する意匠。
 「朧学院、生徒会長、東雲朔弥殿」
 「拝命」
 文官が箱を持ち上げる仕草の角度で、私は“密”の重さを知った。重い。
 「王都よりの言上。桂木更紗拘束の件」
 灯が一瞬、吸い込むように沈んだ。
 朔弥の面は動かない。声も。
 「……続けろ」
 「王家の縁戚、将シュヴァルト殿の起案を端とし、契り堂管理の規則に照らして、契り破りの疑義あり――」
 「“疑義”?」
 自分の声が自分から少し遅れて出た気がした。
 文官は私をまっすぐに見た。その目は、事務の光をしている。
 「学院へ潜入の上、祭礼に関わる印の扱いに接近。女であることを隠して男子寮区に出入り。これら複合の疑義により、王都行きを命ずる。明朝、正式に」
 「いまが明朝だ」
 朔弥の声は、礼式の温度を保ちながら低い。
 文官は胸の前で指を揃え、形式通りに言った。
 「学院の礼式を尊重し、祭の終わりを待ち、朝の挨拶を交わしてから――ただし、拘束は拘束。出立の準備を願う」
 言葉は角が取れている。だが角を落とすほど刃は厚くなる。

 「更は学院の監督下にある」
 朔弥が一歩、前へ出た。
 文官の視線が、その一歩の距離を測る。
 「監督の責は会長に及ぶ。学院は王都の下にあり、王家は上にある。上位の契りが優先する」
 「契りは上下だけでは決まらない」
 「文に記されているものが契りです」
 「文に記し得ないものも契りだ」
 静かに、しかしはっきりと、空気の温度が変わった。
 影廊下の柱の影から、生徒たちの気配が動く。
 朔弥は面の口を少し上に向け、私へわずかに顎をしゃくった。
 「更、下がるな」
 「下がらない」
 私の返事に被さるように、文官が言う。
 「桂木更紗殿。自ら従えば、連行ではない。同行だ」
 言い回しを柔らかくするのが仕事のように、彼の舌は滑らかだ。
 私は一歩、踏み出した。
 「ひとつ、伺っていい?」
 「どうぞ」
 「何の疑義で、私は王都に行くの?」
 「“名の破り”。婚約破棄の夜からの挙動に不審あり」
 「婚約破棄は、向こうが言い出したことよ」
 文官の目は揺れない。
 「桂木家の内規と王城の応接規の間で解釈の差があり、疑義となっています」
 「その解釈の差の上塗りに、誰の正しさが混ざっているのか、あなたは知らない?」
 彼の目に、わずかな皺が寄った。
 「私は文を運ぶ手。書くのは別の手です」
 “正しすぎる手”。
 書記局の匂いと、王都の文言は、細い糸でつながっている。

 「――学院は、受け取らない」
 朔弥が言った。
 文官の背後で、若い騎士の喉仏がわずかに動く。
 「誰の決定です?」
 「学院の決定。狐王家の一端としての決定。そして俺個人の決定」
 文官は視線を低く落とし、箱の意匠を撫でた。
 「では、こういたしましょう。日中の間に、学院側から答弁書を。夜の鐘までに返答がなければ、王都の護送に移ります」
 「答弁は出す。その間、更は俺の監督下にある」
 「王都は“監督の裏切り”を想定しています。ご自覚を」
 「裏切るなら、もっと美しくやる」
 文官の口元が、少しだけ緩んだ。
 「美は、文には載りません」
 「灯が載せる」
 短い応酬の余白に、小さな鳥が一羽、屋根の端を掠めて飛んだ。夜と朝の境目に、羽音が薄く溶ける。

 使者が下がると、影廊下の空気が一斉に息を吐いた。
 私は壁に掌を当て、指の震えが収まるのを待った。
 「怖い?」
 朔弥が尋ねる。
「ちょっと」
 「ちょうどいい」
 「そればっかり」
 「それが俺の掟だ」
 面の下の声が笑い、すぐ真面目に戻る。
 「――仮契りを一段、上げる」
 「上げる?」
 「王都が“監督の裏切り”を想定しているうちは、俺たちが裏切らないことを“契り”で見せるのが早い」
 「どうするの」
 彼は私の手首の朱の結びをほどき、掌を自分の胸に当てた。
 「狐の“影の印”を、お前の“名の切り口”に寄り合わせる」
 「痛い?」
 「少し。――お前が名前を呼ぶほうが痛くない」
 息を吸い、吐く。
 屋根の上よりも高いところから落ちないように、地に膝を置くみたいに静かに呼吸を置く。
 私は、私の名を、切り口の角度で呼んだ。
 ――更。
 返事はすぐ胸の裏から戻る。それに重なるように、朔弥の声が、同じ角度で私の名を呼んだ。
 ――更。
 朱の紐が、二度、音もなく締まり、小さな痛みが、熱に変わる。
 痛みは、ここにいるという証拠になる。
 「終わり」
 彼が囁いた。
 手首の脈拍は早いが、乱れていない。
 「これで、王都の契りを押し返せる?」
 「押し返しはしない。並べる。並べて、選べるようにする」
 「選ぶのは、誰」
 「お前」
 即答だった。

 灯篭祭の締めが始まった。
 中庭の中心に置かれた大灯が、最後の灯をすくい上げ、輪々を空に返す儀。
 生徒会は所作を整え、私は“監督の印”として端に連なって見届けた。
 儀が終わると、灯はゆっくりと薄れ、空の色が水面のごとく変わっていく。
 顔を上げると、東の端に、細い白が滲んでいた。夜明け。
 「礼は、朝に」
 思わず口をついた言葉に、朔弥は面をわずかに傾けた。
 「礼は、まだ受け取らない」
 「どうして」
「借りを返してもらっていない」
 「借り?」
「“俺の守り”の片割れ」
 「すぐ返せない」
 「朝の間だけ、預けておく」
 無茶を言う。けれど、朝の間だけなら、と頷く自分がいた。
 朝は短い。だからこそ、契りの持続を測るのに向いている。

 片付けが始まり、皆が笑いと眠気の間でよろめいている頃、書記局の上級生がこちらへ歩いてきた。
 「答弁書の式」
 彼女は穏やかな声で言った。
 「正しい書式で出さないと、王都は受理を遅らせます。時間との勝負」
 「手を貸すの?」
 「整えるだけ」
 皮肉を言う余裕が少しだけ戻った私は、「整えは助かる」とだけ答えた。
 上級生は満足げに頷き、机と紙と墨の準備に取り掛かった。
 彼女が整え、私が書き、朔弥が文言の骨を決める。
 “桂木更紗は学院の監督下にあること。祭礼における行動は学院の規律に拠ること。祭の最中に起きた一連の事象の是正と報告のため、日中は学院内に留め置く必要があること”
 文は冷たい。それでも、ところどころに灯を混ぜた。
 “名は力であり、学院は名を守る場である”
 “均衡のための上塗りは行わない”
 書き終えると、上級生は紙の隅を指で弾き、金の粉をごく僅か落とした。
 「狐王家の目印。文としての質は上がりませんが、通りは良くなる」
 「あなたは、どっちの側?」
 私がまた、余計な質問をする。
 彼女は少し笑い、もう一度だけ答えた。
 「正しい側。でも――正しさが人を捨て始めたら、私は灯の側に付く」
 それは、昨夜よりも柔らかい正しさだった。

 太陽が盤の裏で一度息を吸い、学舎の屋根に白い縁取りを与えた時刻、伝令が走った。
 「使者、再来!」
 早い。
 影廊下に整列すると、文官が現れ、答弁書を受け取った。
 墨の乾き具合、紙の目、封の仕方――彼は一息で全てを確かめ、うなずいた。
 「では、夜の鐘までに王都より返答を。――その間、桂木更紗殿は学院の監督下とする。行動は学院の式に従い、王都への出頭準備を整えること」
 「出頭準備?」
 「必ず、とは言いません。想定として、です」
 文官の目に、ほんのわずかな疲れが差した。
 「今夜は短い。あなたがたも」
 それだけ言って、彼は去った。
 狐面の舞台よりも、王都の手続きのほうが、ときに人間の温度を残すのだ、と不思議な納得が喉の奥に残った。

 昼が来るまでの間に、私にはやることが二つあった。
 ひとつは、局長に湯と粥を運ぶこと。
 もうひとつは、白い残滓に向かって心の中で礼を言うこと。
 祈らないと言った私が礼を言うのは、少しだけ矛盾している。けれど、皿の底で眠っている“モノヱ”に、今はもう怨嗟の響きはなかった。

 薄い昼の光を背に、私は生徒会室の扉を叩いた。
 「入れ」
 朔弥は面を机に置き、書類の束に朱の印を捺していた。耳は出ていない。いつもの彼。
 「眠れた?」
 「少し」
 「あなたの“守り”、まだ借りてる」
 「返す期限は、夜だ」
 「夜までに、返せる?」
 「返してみろ」
 言葉は挑発に似て、祈りに似て、契りに似ていた。

 夕刻。
 王都の返答を待つ間、学院は不自然に静かだった。喋るべき時に皆が黙り、黙るべき時に何かを言いかけてやめる。
 影が伸び、灯がまたひとつずつ灯る。
 夜の鐘が二つ目を打つ少し前、影廊下に文官が現れた。
 彼の手には、今朝よりも小さな箱。
 「王都よりの返答」
 呼吸が、廊下のあちこちで止まる。
 箱の蓋が開く。
 中にあったのは、二枚の札。
 ひとつは、王都の儀礼に則った“呼出状”。
 もうひとつは、淡い金を刷いた“猶予状”。
 「学院の整えに敬意を表し、桂木更紗殿の王都出頭を三日、猶予する。猶予中、学院は“監督”を続け、契りの見直しに関する文案を提出のこと」
 文官はゆっくり顔を上げ、こちらを見た。
 「三日。短いですが、動ける」
 短い。けれど、ゼロではない。
 私の指先で、朱の結び目が、ひとつ、小さく鳴った。
 朔弥は短く頷き、私ではないほう――文官へ、礼をした。
 「感謝する」
 文官は首を横にも縦にも振らなかった。
 ただ、去り際、ほんの少しだけ振り向いた。
 「均衡は、紙の上では決まりません」
 それは、彼にしては大きな告白だった。

 夜が戻る。
 三日。
 白い残滓の祈りとは違う、私たちの手順で、均衡を塗り替えるための時間。
 私は朔弥を見た。
 彼は面を外さず、ゆっくりと耳の根を指で押さえた。
 「三日で、上塗りを引き剝がす」
 「“正しすぎる手”を」
 「“舞台”を」
 交わす言葉の密度が、少しだけ熱を帯びる。
 「更」
 呼ばれるたび、返事の位置が近くなる。
 ――私は、私だ。
 その確かさを、私は誰かの式ではなく、自分の線で、証明しに行く。

 灯が一斉に低くなり、風鈴が夜の高さを取り戻した。
 契りは結び直された。
 仮ではない、守りの結い。
 君を守る契り。
 それは、均衡の上でぎりぎりに立ちながら、ほんの少し、夜明けのほうへ傾いている。

(つづく)